本日は、このニュースについて思うところがあったので、そのことについて綴ります。
健康と身体の仕組みと気候の関連性をもっと学んで
私は、医者でもなければスポーツトレーナーでもありませんから、専門的なことはニュースやネットや雑誌、本などでざっくりとした表面的な部分しか知識として持っていません。
しかしながら、体育の授業でマスクをしたまま持久走をしたら、持病などがなくても健康を害するだろうことは、予測ができます。
この児童に悲劇が起きた日の気温が何度だったのかはわかりませんが、もしかしたら気温も高かった可能性がありますし、今の時期は少し運動をすればすぐに汗をかくことはなんとなくわかっているので、スポーツや運動をする際は体調や気温に気を付けて、体調を崩さないように対策をする必要があります。
記事によると、体育の授業中はマスクを外してもいいが、新型ウイルス感染を不安に思うのであればマスクをしてもよしとする指導をしていたようですが、たかだか10歳前後の児童に、その判断を委ねてしまった大人(この場合教員になるでしょうか)は、最優先すべきことをもっと考えるべきだったのではないだろうか、と感じました。
たしかに、ウイルス感染は大人も子どもも怖いです。
しかし、だからといってマスクをしたまま運動すれば、健康な人でさえ呼吸に異変が起きたり体調に変化があったりするのですから「不安に思うのならマスクをして授業を受けてもいい」ではなく「きちんと対策をしているので、運動中はマスクを外しましょう」と言える体制で授業を実施してほしかったというのが、私の気持ちです。
そうするためには、いろいろとやらなければならない学校教員の皆さまには、なかなか厳しいかもしれませんが、新型ウイルスの感染リスクを最小限に出来る方法、マスクをしたまま身体を動かしていることのリスクの大きさや健康状態の変化、そのどちらのリスクも最小限にできそうな体育の実施方法など、改めて学んだ上で授業に臨んでいただきたいと思いました。
それにしても、今回は「何故?」と思うことがいくつかあって、それのどれを取り上げても対策のしようがあったはずだと思うと、人ひとりの命が奪われる結果となってしまったことが残念で仕方がないし、ご家族のお気持ちを考えると胸が痛みます。
持久走は今の時期にする必要がありましたか?
今、5月ですよね。
時期的には、学校で体力測定をしている時期かもしれないですね。
本当は4月あたりにしたいところだったかと思いますが、新型ウイルス感染拡大の影響で休校や新学期開始日が遅れた地域もあったでしょうから、このタイミングでの体力測定はなんとなく想像できます。
5月と言えば、50代の私が小学生のころは気候もいい季節で、運動会やスポーツをするのに適した時期でしたが、正直言って今の5月は暑すぎます。
ここ数年、5月に真夏日を観測する日も増えてきています。
そのような気候の中、持久走ってする必要があったのかな、と思いました。
カリキュラム上、どうしてもする必要があるというのであれば、もう少し涼しい時期、呼吸のしやすい時期に実施できなかったのでしょうか?
少し話はずれますが、昨年、近所の小学校では真冬に毎朝持久走をしていたのですが、正直持久走である必要ってあるのかな、と思いながら見ていました(私のマンションの部屋から小学校が見えます)
体力をつける目的なのは理解できますが、飛沫感染を避けるという視点で考えると、持久走ではなくウォーキングではダメなのだろうか、と思いながら眺めていました。
しかし、今回持久走が実施された目的が体力測定だったとしたら、中止とは言いませんからせめて時期をずらす選択は必要だったのではないかな、と感じました。
カリキュラム優先、学習指導要領優先
いい意味でも悪い意味でも、学習指導要領に素直に従う先生や学校があります。
もちろん、授業を実施する場合に指導要領に沿って学習を進めていく必要はあるのですが、あくまでもそれぞれの地域や学校の特性や性質に合わせて、柔軟に実施していいという性質も持っているはずです。
しかし、その中に記載されていることに対して、柔軟に受け止めることができない教員や学校があることも確かです。
何が言いたいかというと、おそらくこの学校では今の時期に持久走を実施するようなカリキュラムを組んでいて、それは学習指導要領に則って組まれたのだから、確実に実施しなければ今後のカリキュラムに影響が出てしまう、授業内容を変更すると学習指導要領どおりの学習を修得できない、という思考が強かったのではないか、ということです。
ここまで綴って、まあ、私への反論はきっとあるかと思いますが、今私が言いたいことは、
「人命や健康よりも大事な学習指導要領ってありますか?」
ということです。
そもそも、学習指導要領の体育の内容には、基本的な体力をつけることやスポーツなどの技術を習得すると同時に、健康についての知識を与えることも目的としてあるはずなのですが、そこはあまり大事にされていないような気が、私が子どものころからあったような気がします。
知識としては教えてくれるけれど、体育の授業になると少しくらいの体調不良は根性でなんとかしろ、という非科学的というか、医学的な根拠が何もない根性論を出してくる先生が多かった記憶がありますが、今でもそういう教員がいるのだとしたら、問題ありだと思いますよね。
もっとも、今回のこのニュースで出てくる体育の授業をしていた教員はそんな教員ではなかったと思いますが、少なくとも児童にマスク着用の自己判断をさせてしまっている時点で、教員として心がけるべきことをはき違えてしまっていたように感じます。
学校全体の感染対策は?
ここは、気になるところでもありますよね。
対策って、私が想像するに
・こまめな手洗いと手指の消毒
・対面での会話は小声で最小限必要なことだけにする
・机や椅子、ドアの取っ手、トイレのドア、水栓カランなどの徹底消毒
・マスクの着用
・給食時の会話禁止
・人と人との距離を開ける
といったことですよね。
まあ、これは日常生活において我々大人でも最低限しておくべき対策でもあります。
しかし、学校という場所は社会全体の中でも少々特殊な場所でもあります。
言葉でいろいろと言ったとしても、なかなか徹底した対策をするのが難しい場面もあるでしょう。
今回は、体育の授業中で持久走をしていたわけですが、このような状況、はっきり言って一般社会で経験することって、マラソン大会に出場する人くらいですし、その方々ですら年に数回ですよね(マラソン選手は別ですが)
ですから、感染対策と言ってもどういった対策が100点満点の完璧な感染対策なのか、正直わからないと思います。
これさえしておけば、絶対に安全という対策って、思い付きません。
しいて言えば、走る人数を減らす、タイム測定は何回かに分けて実施、走っている最中の追い越しは2レーン以上離れた場所から追い越すなどでしょうか。
ただ、不安であればマスクをしてもいいとは、私なら指導しないと思います。
もし、学校近隣の住民からクレームが入ったとしても、そこは児童の命優先です。
例え、近隣の住民から「子どもの命はよくて、大人の命は無視するのか」などといったクレームが入ったところで、私は「ハイそうです。教員である以上、学校で児童を預かっている間は児童の命優先です」と言い切ると思います。
でもね、この「誰の命を守るのか」という部分、改めて学校全体、教育委員会全体で考えてほしいと思うのですよね。
私は、今教員をしていませんが、若かりし頃教員として働いていた頃に、あの時子どもの命や安全を優先して行動すべきだったと思うことがいくつかありました(幸い大事には至りませんでしたが)
その際、なぜ子ども自身のことを優先できなかったかというと、先輩からのアドバイスが私を迷わせたという面が大きいのですよね。
私の中では、それは違うのではないだろうかと思うようなことでも先輩教員から「こういう場合は、こうするのがbetterだ」と言われ、bestではないのかと思いながらも、経験値の高い先輩の言うことに従ったのですが、後々あれは先輩の言うことを聞くより自分の直感を信じるべきだったな、と後悔したことがいくつかありました。
話が逸れましたが、考えてみたら私にアドバイスをくれた先輩、あくまでもその先輩自身の判断を私に伝えただけで、何かあった場合の学校としての対応や教員全員の共通認識ではなかったことも、引っかかるところだったような気がします。
つまり、もっと学校全体として、また教員として究極に守るべきことは児童生徒の命や安全であり、そこを脅かすような授業や指導は、覚悟を持って中止するべきなのではないか、ということが言いたいのです。
そして、今それは新型ウイルスの感染防止対策であると同時に、何かを犠牲にすること(今回は持久走というカリキュラムを省くか延期するといったこと)なのだと思うのです。
学習はいつかどこかで帳尻合わせできるし、そうあるべき
教員の心配事って、児童生徒の安全や健康ももちろんですが、カリキュラムをきちんと終わらせることができるかどうか、もかなり重要な事項です。
特に、将来出世したいと考えていたり、研究論文の評価を得たい場合は、教員自身の成果と指導した児童生徒が得る成果がリンクしている必要があります。
気にしない教員ももちろんいますが、一部の教員はそういう野心というか、目標を持っています。
しかし、それはあくまでも教員側の事情であって、児童生徒にとっては「今、何をすべきか」を知りたいし、納得したいはずですよね。
そして、しなくても将来に大きな影響がないのであれば、本来すべき学習の延期や中止もあっていいはずで、もしそれで子どもたちが将来困ることになる、と少しでも考えるのであれば、将来子どもが少し成長したときに、学習の帳尻合わせができるように、学習内容を考えてあげることも必要なのではないでしょうか。
大人は、学習すべきことや覚えるべきことは、早ければ早いほどいいと思いがちですが、子どもは子どもなりに自然といろいろなことを学習しているし、身に付けていくことができる能力があります。
今、もし教えてあげられなくても、将来きちんと学習できる環境があれば、大人になってから困ることは案外少ないはず。
例としては、少々ちがうかもしれませんが、子どもが保育園や幼稚園に入ると、いつの間にか難しい言葉を覚えてきたり、今まで教えようとも思わなかったことができるようになっていたりしませんか?
しかも、保育士や幼稚園の先生も教えた覚えがないことだったりしませんか?
子どもって、親や先生の言うことや行動だけを見聞きしているわけではなく、道を歩けばすれ違った人のことも見ているし、電車やバスの中で会話している人の言葉を聞いていたりして、それを知識として吸収していることも結構多いのです。
つまり、極端なことを言えば、生きていさえすれば、今できないことや知ることができないことがあったとしても、将来経験したり知識を得ることができるのです。
それが、私が思う「帳尻合わせ」であり、大人たちは今の子どもたちが将来、知識や経験の帳尻合わせができるようにおぜん立てしておいてあげて、今すべきことに固執しなくてもいいのではないか、と思えるのです。
もちろん、今のうちにできることがあるのなら、それはしておくべきだと思いますが、命を削ってまでする必要、ないと思いますがどうでしょうか。
今回のことで命を落とした児童とそのご家族、そして直接指導していた教員の気持ちを考えると、とても苦しくなります。
教員も、おそらくbetterな判断(マスク着用を児童に委ねる)が精いっぱいで、bestな判断が思いつかなかったのだろうと思うと、今とても後悔しているでしょうし、これから先もずっとこのことに心が苛まれてしまうでしょう。
それを解決する方法を私は知りませんが、この教員には今後何を一番に優先すべきか、そのために犠牲にすべきことはなにかを、じっくり考えなおしてもらえるといいな、と思います。
亡くなった児童のご冥福を祈るとともに、ご家族には一日も早く悲しみが癒される日が訪れますように。