マシュマロ’sエンディングノート

~At the end of a marshmallow-like life~

母が極度の貧血で入院した話

2019-11-30 | 母のこと
母が倒れて、入院しました。

救急車を呼ぶまで
午前中、体調が悪かった母はずっと寝ていました。
朝食も、置いてあったパンを1つ食べただけの様子。

私は、10時前に遅めの朝食を食べ終えて、食器を洗っていましたところ、母が起き出してきました。
母の部屋は、ダイニングキッチンの隣です。
ダイニングを通り過ぎてすぐの場所に、トイレがあります。
母は、トイレに行きたくて起き出してきました。

ダイニングに到達した途端、唸りながら立ち止まったので、サポートするために手を取り、一緒にトイレに向かうと、トイレに着く手前で、沈むようにへたり込んで、そのまま後ろ向きにゆっくり倒れました。
そのとき私は、母が身体を床に打ち付けたり、頭を打ったりしないように、支えるのに必死でした。
母は、誰が見ても“デブ体形”です(苦笑)
支えるのも、かなりの体力と腕力が必要です。
私に腕力が全くなかったら、一緒に倒れて、どこか打ち付けていたかも。

でもまあ、何とかどこも打たずに床に横たわらせて、母に呼びかけました。

母は、数秒のけいれんを起こし、一瞬でしたが意識を失っていました。
これはマズい!と判断し、救急車を呼ぶことになりました。

救急搬送されてから
救急に運ばれてから、しばらくして処置室へ案内されました。
看護師の方か、医師の方かわからないのですが、血液を検査していて結果がわかるまでに時間がかかるので、それまで待ってくれと言われました。

当の母は、処置室のベッドで寝ています。
もし、一時的な体調不良であったら、点滴で回復したりするのですが(過去、点滴で体調が回復した時は、その日のうちに帰ることができました)、今回はずっと寝ていて、自宅に帰るのはムリそうです。
担当医師も「この状態では帰すことができないので入院です」と。

そうこうしているうちに、血液検査の結果が出ました。
結果は、

 極度の貧血

でした。

母は、そのまま救急病棟へ入院することに。
救急病棟は、重篤ではないけれど、様態が急変するかもしれなかったり、看護師のケアが常に必要な患者が入る病棟で、診療科の区分ができない病状の患者も入っています。
ここで検査を受けたり、様子を見ることで、最終的な診療科が決定するようです。
母の場合は、経過観察と言ったところでしょうか。

病棟に移動した直後、入院に必要な書類に記入している間、母はまだ寝ていました。
自宅から近い救急病院へ搬送してもらったので、私は母が寝ている間に帰宅し、当面の間必要な荷物を調えて、再度病院へ。
病室に戻り、看護師の方に常用している薬の説明と、帯状疱疹の塗り薬を渡し、すぐ使うモノを取り出して、母に声を掛けたところ、ゆっくり目を開けて目を覚ましました。

母に、今いる場所がわかるか聞きましたところ、病院にいるということはわかっていましたが、なぜ運ばれたのかは、わかっていませんでしたので、ことの経緯を伝えました。

目覚めた母は、点滴が効いていたのか、いつもの調子を戻しつつあり、お昼時に搬送されたために、昼食を摂っていなかったのですが、おなかが空いたと何度も言っていました(笑)
担当医の確認を取り、コンビニでおにぎりを買ってきましたよ。

これからの予定
担当医によると、極度の貧血は一体何が原因なのかを、週明けに調べるとのことです。
考えられるのは、消化器官のどこかから出血している場所があり、それが原因かもしれないということ。
内視鏡で、胃と腸を調べるそうです。

昨年に入院したときは、同じように貧血という診断で、内視鏡で調べた際に大腸ポリープが見つかりました。
原因として特定されたわけではありませんでしたが、ポリープのサイズが7ミリをこえていたため、切除する手術をしました。
そのときは、結局ポリープが原因だったかは最後まで分からず、数値も戻ったので退院した経緯があります。

今回の検査では、どのような結果が出るのかわかりませんが、もし前回と同じように原因が特定できない場合、いちばん困るのは私です(苦笑)
できることなら、原因をはっきりさせたいのですが、果たして検査で判明するのかどうか...

今までの不調はすべて貧血?
今回の入院以前から、母が調子の悪い日は、大体立ち上がって数歩、歩き始めたときに、全身の倦怠感や意識が少しもうろうとする感じでした。
見た目だけだと、糖尿病による血糖値の低下なのか、貧血なのか、頭痛なのか、判断がつきません。
ただ、今回の極度の貧血という診断に、今までの調子の悪さは、すべて貧血が原因だったのか、と思えてきました。

先日、脳神経外科で、脳の血管が細すぎるという診断結果を知らされましたが、それももしかしたら貧血が原因の可能性があります。
貧血になると、血液の循環がうまくいかずに心臓にも影響が出て、心臓から脳へ運ばれる血液や酸素が少ないと、脳の血管が細くなる場合もある、という説明もありました(うろ覚えなので、医師が言った言葉そのままではありません)

いろいろな診察結果を総合すると、母の体調は貧血さえ解決できたら、ある程度は元気になるのでは?と思い始めています。
もし、内視鏡検査でも原因がわからないとなった場合は、セカンドオピニオンも視野に入れておかなくてはならないかもしれませんね。

とにかく、今回の検査で貧血の原因がはっきりしてほしいと、切に願っています。

入院セットを準備しておこう
家族の入院というのは、バタバタしますね。
何度も経験してはいますが、手続きや揃えるモノを覚えているつもりでも、何か忘れています。
母の年齢になると、いつどうなるかわからないため、昨年の入院以来、母の入院セットを準備して、クローゼットへ入れておきました。
備えあれば憂いなし(笑)
今回の入院準備は、すこし楽でした。

災害避難セットも大事ですが、高齢の方と同居していらっしゃる方は、入院セットを備えておくこともお勧めします。
私が用意しておいた入院セットは、以下のような感じです。

 ・パジャマ上下 1セット
 ・下着 3枚
 ・フェイスタオル 4枚
 ・大人用紙おむつ
 ・プラスチックコップ(飲用)
 ・割りばし、プラスチックのスプーンとフォーク
 ・ビニール袋

これらのモノを、1泊できるくらいのボストンバッグへ入れて、クローゼットに入れておきました。
大人用おむつですが、必要ないと思っている方でも、治療の過程でトイレに行けなくなる場合がありますので、準備しておいた方がいいです。
フェイスタオルが、少し多いように感じますが、バスタオルを入れるとスペースを占領してしまうためと、洗濯が大変なので、フェイスタオルを数枚使うことで、バスタオルを使わずに済むようにしています。

本格的に入院が決まった際に改めて用意するのは、以下のモノです。

 ・入れ歯クリーナーと入れ歯ケース(入れ歯ではない人は歯磨きセット)
 ・シャンプー、コンディショナー、ボディーソープ、洗顔ソープ
 ・ウェットティッシュ
 ・ティッシュ
 ・クシやブラシ
 ・眼鏡など
 ・服用中の薬

これらのモノは、消費期限が気になるモノや、長期間使用していないと品質が変化しがちなモノ、そして日常的に使用していて、備えておけないモノです。
入れ歯やメガネは、入院セットへ入れてしまったら、普段の生活が不自由になってしまうので(笑)
クシやブラシもそうです。
入院セットに、いつものモノとは違うモノを入れていてもいいですが、使い慣れたモノの方が入院中は安心感があると思いますので、なるべく日常的に使用しているモノを、入院中も使ってもらうため、セットへは入れていません。

家族が健康なのに、入院に備えておくなんて、そんな失礼なことできない、とお思いの方は、避難セットの内容を少し変更したらいいと思います。
紙おむつ以外は、避難セットに少し似ていますから。
非常食や水は必要ありませんから、それらと紙おむつを入れ替えて病院へ持っていけば、準備が簡単です。
また、衛生用品(キズ用塗り薬や絆創膏など)も、入院には不要ですね。
だって、病院に入院するのですから、手を切ったりしたら看護師さんに頼めば解決です(笑)

ただし、ソロキャンプ並みの避難セットを用意している方は、減らすモノがかなりあるかもしれませんので、いま一度中身のご確認をお願いします(笑)


今回の母の入院ですが、命に別条がなくて何よりでした。
まだ検査があるので、安心はできませんが、結果が出るまでは気楽に過ごそうと思います。

クリスマス・チャリティの話

2019-11-29 | 日々の暮らし
11月も、あと1日で終わります。
巷では、クリスマス商戦が始まり、お歳暮コーナーも設置されました。
ハロウィンが終わると、途端に年末感が増しますね。

クリスマス・チャリティ
12月になると、クリスマスに関連した行事が各地で開催されます。
同時に、大体のクリスマス関連イベント会場では、募金活動や売り上げを寄付するグッズ販売が行われます。

クリスマスに限らず、募金活動に遭遇したら、なるべく募金をするようにはしていますが、最近では街頭募金をあまり見かけなくなり、かわりに店舗や企業が行う、売り上げの一部を寄付するグッズ販売が増えてきたように感じます。
地元のデパートでは、毎年クリスマス・チャリティとして、ピンバッヂを1個500円で販売しており、ピンバッヂの収益はすべて寄付されます。

このピンバッヂですが、クリスマスにちなんだデザインが3種類あり、毎年デザインが違います。
数年前から始まったので、コレクションとして購入している方もいらっしゃるかもしれませんね。
私も、一昨年くらいまでは3種類とも購入していたのですが、今年から購入するのをやめようかと思っています。
少し心苦しいですが、寄付や募金は違った形でやっていこうと思っています。

チャリティ販売を利用しない理由
チャリティ販売を利用しない理由は、最近のモノの処分事情にあります。

以前は、目に見えて不要なモノ、自分で持っていて負の感情が湧くモノを中心に、処分してきたのですが、最近はまだ気に入っていても活用していないモノや、もう十分楽しませてもらったモノであっても、処分するようになってきました。

昨日処分したモノの中にも、10年以上前に好きなアーティストのライブ会場で購入した小物インテリアがありました。
10年以上前に購入したので、当然10年以上自室に飾っていたわけですが、部屋のディスプレイを眺めているうちに、もう外しても(視界に入っていなくても)いいかな、と思い、保管はせずに処分することを選択しました。

ピンバッヂに関していうと、好きなアーティストや好きなスポーツ選手のグッズとして、最近までピンバッヂを集めていましたが、上記のように、処分する基準がこの数か月で変化してきたので、一部だけ残して処分が完了しています。
その中には、一昨年まで購入していた、デパートのチャリティピンバッヂも入っています。
(一部残しているのは、現在のディスプレイの関係で残しています)

ピンバッヂそのものは、ひとまとめにして収納してしまえば、さほど邪魔だとは思わないのですが、いざトートバッグや帽子や服に付けて楽しむと、割と面倒です(笑)
バッヂ同士が当たると、カチャカチャと音がしてうるさいし、ピンを止めているキャッチが何かのはずみで取れて、ピンの先がむき出しになり、危険な目に遭うこともあります。
(知らずに手を近づけて、刺さったことがあります)

クリスマス・チャリティのピンバッヂは、購入した年のクリスマス時期に、帽子やマフラーに付けて楽しんでいましたが、活用できる期間が短く、あまり楽しんでいないことに気が付きました。
それに、クリスマスの時期に身に付けて楽しんでいても、単なる自己満足に過ぎず、ある日我に返ったとたん、中途半端なクリスマスの楽しみ方だな、と思ってしまい、ピンバッヂは購入だけにとどまり、身に付けることをやめました。

となると、買い物をしただけで、買ったモノを使わないという、不要品が増える方程式に当てはまってしまいます。
もちろん、ピンバッヂを買う行為そのものが、募金や寄付に繋がっているわけですから、ムダな行為ではないのですが、自分の所有品が増えてしまうのは、何か違うと感じるようになりました。

チャリティで購入したモノであっても不要品に変わりはない
チャリティに参加すること自体は、積極的にしていい行為ですが、そこに“モノを購入し支払った金額が寄付される”のは、あきらかに不要品を増やしてしまう行為です。

たしかに、お金を寄付したり募金したりすることに対して、ハードルが高いと感じている人もいます。
そういう人が、購入という行為によって、気軽に何気なく寄付に参加できれば、最終的な寄付金額も増加するでしょうし、購入した人も、気負わずに寄付に参加できて、いい取り組みだとは思います。

しかし、世の中の、モノを処分して最低限のモノで暮らすことを目指している人にとって、チャリティ物販は果たして本当の意味でのチャリティになっているのか、疑問に感じるところだと思います。
なぜなら、チャリティで購入するモノのほとんどは、必需品ではなく、時が経てば不要品として処分しなくてはならないモノになってしまうからです。

購入した直後は、寄付に繋がったそのモノを大切にする気持ちもあります。
しかし、寄付という付加価値(?)が付いていることにより、なかなか処分できない気持ちを持つようになり、いざ処分しようとしたときに、せっかく購入して寄付をしたのに、処分してしまうと環境に対する影響が気になってしまいます。

最終的には、処分するわけですが、寄付によって困っている人を助けた結果、環境を汚すという行為に繋がってしまうのは、どう考えても、矛盾していますよね。
冷静に考えると、モノの販売とチャリティは、引き離して考えて、セットにしてはいけないような気がします。

食品や消耗品ならば参加できます
もし、チャリティ販売品が飲食料品だったり、日々必要な消耗品であれば、心おきなく参加できます。

ただし、やはり環境に配慮した容器を使うとか、土に戻りやすい素材を使った消耗品であったほうが、チャリティの意味も深まるかな、と思います。

デパートのチャリティも、ピンバッヂを買ってもらうのではなく、店内での買い物に対して、数パーセントの寄付を、この時期だけでも実施したらいいような気がします。
ブラックフライデーに乗っかってセールを促進するよりも、売り上げの一部を寄付にした方が、デパートの価値が上がるような気がします。
それこそ、クリスマスケーキの予約早割などありますが、チャリティケーキなども同時に売り出したら、かなりの寄付金額になったりしないでしょうか?

チャリティの方法も、少し視点を変えて実施してもらえればいいのかな、と思っています。

その気があれば寄付も募金も簡単です
結局のところ、寄付をしようと思うのならば、銀行の窓口へ行けばいいし、募金をするのならば、店頭に募金箱を置いているお店で、小銭をいくらか入れたら済む話です。
わざわざモノを買わないと、寄付や募金ができないことがおかしいですよね。

私がライブへ行くアーティストは、毎回チャリティグッズを販売します。
ツアーごとにグッズも変わり、1つ500円。
売り上げは、すべて寄付されます。
前回のツアーまでは、このグッズも毎回購入していたのですが、今年観に行ったライブでは、チャリティグッズはおろか、普通のライブグッズさえ購入しませんでした。
その後、購入しておけばよかった、とは一度も思わなかったし、ライブ自体は楽しかったので、それで十分でした。

ライブグッズを心の底から欲しいと思うファンは、たくさん購入していいと思いますし、買う行為そのものを批判する気持ちは全くありません。
あくまでも、私個人が、例えチャリティであっても、モノは購入しないと決めただけですから。

寄付のことに関していえば、それこそ自分がその気になれば、いつでもどこででもできるわけですから、募金箱に気が付いたら小銭を入れます。
また、例えば、スポーツ選手が試合会場で募金活動をすることがありますが、今年は観戦した会場で募金をしていたら、すべて参加してきました。
このチャリティの特典は、選手と握手できることかな(笑)
握手であれば、不要品が入ってくることはないけれど思い出が残るので、とてもステキなチャリティ特典です。


チャリティグッズについては、ずいぶん前から、モヤモヤしていました。
以前は、チャリティグッズを買って寄付につなげることが必要なことだと思い込んでいたのですが、それは違うと気が付いたので、今後も購入することはないでしょう。
最近では、フードドライブといって、家にある未開封の飲食料品(密閉されていて、保存期間が長いもの)を集めて、フードバンクへ寄付する活動もあります。
もし、お金を寄付することに、少しだけ抵抗を感じてしまう人は、チャリティグッズを買うのもいいですが、まずはフードドライブのようなイベントに参加してみてはいかがでしょうか。

母のマフラー、ストール、スカーフを処分

2019-11-28 | 終活(モノの整理、心の整理、社会的整理)
引き続き、母のモノを処分した話をします。

前回は、布類が多いという話をし、そのうちマフラー、ストール、スカーフが、大量に残っている状態で、処分活動が終わりました。
今回は、意外とあっさり処分に同意してくれた母のことも含め、処分する過程と、モノを処分した後の気持ちについて綴っていきます。

母の体調の良いときがチャンス
本日、母の調子がよさそうだったので、引き出し1段を埋め尽くしている、マフラー、ストール、スカーフを、どうにかしないか?と提案しました。

母は、体調が悪いと人の話を半分も聞いていない状態です。
まあ、母に限らず体調がすぐれないときは、誰しも人の話を聞く余裕はないのですが、母の場合は体調がよさそうなタイミングが少ないため、見計らっていろいろな提案をする必要があります。
今回が、そのチャンスでした。

最初に相談したのはチェストの処分について
雑談しながら、まず空になったハイチェスト2台をどうするか、を相談しました。
私としては、もう不要なので処分する、という話に持っていきたいわけですが、空にした話をしたら、入っていたモノはどうやって片付けたのか?と聞いてきました。

こういうときは、チェストを処分する話をしてもムダなので、中に入っていたモノをローチェストへ移した話から、マフラー、ストール、スカーフが山ほどあるよ、と処分させたいモノの話題へ切り替えます(笑)
とにかく、現在母が全く使っていないモノは、もうこの先も絶対に使わないので、処分したい気持ちでいっぱいです。
なので、話が本筋から逸れたときは、別のモノを処分する話へ持っていくことにしています。

話をしながら、実際に引き出しを開けて、マフラー、ストール、スカーフを見せ、この中で要らないモノは自分で捨ててくれ、と言ったところ、服と同じようにひとつずつ見せてくれたら、要不要が判断できると言います。

チャンス到来(笑)
もちろん、間髪を入れずに仕分け作業に入りましたよ。

たぶん全部要らないと思う
母は、冬に着用しているマフラーがいつもきまっていて、ストールに関しては使っているところを見たことがありません。
スカーフは、日差しの強い日に首元をガードするために使っているのを見たことがありますが、こちらも使うスカーフはいつも同じ。
となると、全く手を付けていないマフラー、ストール、スカーフは、全部処分することになるのでは?と予想していました。

さっそく、不要品の仕分け開始。
服の仕分けと同じように、私がひとつずつ手に取って、要不要を確認していきます。
すると、もう最初に手に取ったマフラーから「要らない」と(笑)

基本的に、毛糸で編んだ手編み風なマフラーを、母は好みません。
ですから、手に取るまでもなく、不要だろうとは思うのですが、一応母の気持ちにも一区切りつけてほしいので、ひとつずつ見せていきます。
続けて、次々とマフラー、ストール、スカーフを見せていきましたが、最後まで「それは使う」という言葉は出ず。
つまり、引き出しに収納していたモノは、すべて処分することになりました。

予想どおり(笑)

家庭ごみ回収に出します
今回は、マフラー、ストール、スカーフだけを対象に処分をしました。
これらは、リサイクルボックスへは入れられるモノの対象外となっているので、さっくりと捨てます。

私が、母にモノの処分をお願いするのは、いつも家庭ごみ回収日の前日か前々日です。
捗れば、翌日か翌々日にはスペースが空き、不要品を家から出すことができるからです。
すでに処分すると決めているモノは、いつまでも家に置いておかないように心がけています。
不思議なことに、今まで収納していたモノは邪魔だと感じることも少なかったのに、処分することを決めてひとまとめにしたとたん、物凄い邪魔なモノとして認識してしまいます(笑)

逆に、邪魔だと少しでも感じるモノは、実はもう不要品なのだな、と改めて考えました。
今週は、母のモノを中心に処分していましたが、その合間にも自分の持ち物で、邪魔だと感じたり、もう十分使った、十分楽しんだ、と思えるものは、ごみ袋の中に入っていきました。

処分しても大丈夫
モノが、部屋や家に溢れてしまう、一度手にするとなかなか捨てられないという人は、モノを処分しようとするときに、

 「勿体ない」
 「まだ使える」
 「いつか使う」
 「誰かが使う」

とにかく持っておくための理由を考えますが、本当は邪魔に感じていたり、気持ちが離れていたり、そもそも気に入っていなかったり、むしろ嫌いだったりするのですよね。

そういう負の気持ちに蓋をしてモノを持ち続けようとするのは、もしかしたら他人の目が気になっているからかも。
一番わかりやすいのは、プレゼントやお土産にいただいたモノ。
自分のことを思って、品物を選んでくれたと思うと、たとえそれが自分のセンスに合っていなくても、その気持ちにこたえるために、大事に飾ったり、使ったり、いつか使おうと保管したりしますよね。

でも、モノは気持ちを伝える媒体であって、くださった人の気持ちそのものではありません。
ましてや、くださった本人がいつもそばにいるわけではない(家族は別ですが)ので、居もしない人に気を遣って暮らすのは、有意義ではないです。
手元に入ってきた時点での所有者は自分で、それの処遇を決められるのは自分しかいませんし、所有物の価値は自分自身で決定していいのです。

買った時点で高額であったとしても、大好きだと感じて買ったとしても、誰かからの贈り物であっても、時が経てば市場価値は当然変化しますが、自分の中での価値も絶対に変化します。
肝心なのは、その価値を他人に決めさせないこと。
自分の価値観を信じて、手放して処分したら、後悔するかもしれないという不安も、ないわけではありませんが、なかなか処分できないでいたモノを、思い切って処分しても、意外と後悔はしないです。
むしろ、さっぱりすることの方が多かったりもしますから、モノは処分しても大丈夫なのです。

後悔しない理由
モノを処分しても後悔しない理由のひとつは、五感に訴える情報が減るからだと思います。
好きなアーティストや、好きな作家のポスターやグッズを、部屋いっぱいにディスプレイしている人は、結構多いと思いますが、好きな気持ちは変わらなくても、多すぎると自分の情報処理能力がついていかないことってありますよね。
眺めて、ステキだな、きれいだな、かっこいいな、と思うモノを部屋に飾っているのに、たくさん飾りすぎてモノ本来の魅力が薄れている状態なのでしょうね。

そういうときは、ディスプレイしているモノに順位をつけて、順位が高いものを1つか2つだけ残し、他は目に見えない場所へ隠して、数日間過ごしてみます。
すると、隠したモノのことを思い出すことは、ほとんどありませんでした。

この隠す行為を、思いきって処分する行為にシフトしても、一度手放してしまえば思い出すことはあまりありません。
たまに、思い出すこともありますが、モノを手放した後悔は感じたことがありません。
結局、自分が大事にしていたのは、モノを手に入れた経緯、背景、気持ち、体験なのだと思います。
これらの思い出があるなら、モノはたいして重要ではないのですね。

もうひとつは、今の時代、誰でも写真(画像)を撮って保存しています。
そして、それをSNSや自作のサイトで公開したりします。
その画像の中には、自分が手放したモノと同じモノが、必ずと言っていいほどあります。

よく、手放すのが心苦しく、思い入れのあるモノであれば、画像に残してから処分したらいいと、アドバイスしている方がいます。
その方法は、気持ちの踏ん切りをつけるのに、とても有効だとは思います。
しかし、モノに対して思いを入れやすい人は、どんなに小さなモノでも画像を撮影するでしょうし、モノが多すぎる人は、画像を撮るという行動だけで、とてつもない時間を費やしてしまいそうではないでしょうか。

実際、私もモノを処分し始めたころ、デジカメに収めてから処分していましたが、全く見返さないし、この先処分するモノすべてを撮影していたら、非効率的で片付けが全く進まないことに気が付きました。
そして、処分したモノの画像は、すべて削除しました。

処分した後、撮影していたモノが何だったのかは、まったく思い出しませんし、ふと何かのきっかけで思い出したとしても、ネット検索すれば、同じモノの画像がたくさん見つかります。
自分のために特別に作られられた何か、ではないのならば、必ず画像が見つかるのです。
であれば、私がわざわざ画像を残さなくても、知らない誰かが画像を残して保存してくれているのならば、それで十分ではないだろうか、という考えに至りました。
それ以降、モノを処分する際には、どれだけ気に入っていたモノだったとしても、画像は撮らないことにしました。
画像を撮らなくても思い出そのものは消えないので、後悔したことは一度もありません。

母はすでに忘れています
母は、自分が持っていたモノなど、処分した後は、すっかり忘れてしまっています。
おそらく、モノそれぞれには思い出も思い入れもなく、ただ買い物を楽しんでいただけだったため、覚えていないのだと思います。

今回処分した、マフラー、ストール、スカーフも、おそらく数日後には存在自体を忘れます。
これまでのことを思い返しても「アレは思い出が詰まったモノだった」などと言った試しが一度もありません(苦笑)
結局、モノはモノでしかなかったのだと思います。

そんな母でも、絶対に忘れないモノ。
それは、通帳、印鑑(登録印)、現金が入った財布、家の鍵です。
実用的で、絶対に必要なモノで、絶対に処分したらいけないモノばかり(笑)

結局、暮らす上で必要なモノは、数少ないってことですね。

少ないもので暮らすという価値観
極端な話ですが、お金と保険証、年金手帳と身分を証明できるモノ、そして銀行口座を持っていたら、今の日本ではきっと生活できます。
お金は、かなり必要になるので、稼げる職に就いているか、かなりの資産を持っていることが条件ではありますが、モノを持っていなくても、飲食店が豊富なので食事は心配ないし、ホテルやユースホステルなどに泊まれば、入浴も寝場所も確保できます。
服や靴などのアパレル商品は、今の時代レンタル品が充実していますから、受け取りを局留めや店頭受取にしておけば問題ないはず。
インターネットも、ネットカフェで十分だし、本が読みたければ図書館に行けばいい。
洗濯はコインランドリーがあるし、トイレもあらゆる場所にあります。
衛生用品は、ある程度持っておいた方がいいかもしれませんが、歯磨きセットと全身洗える石鹸と絆創膏があれば、あとは必要に応じた衛生用品を足すだけでいけると思います。

仕事を持っている場合は、スマホや携帯電話が必要かもしれませんが、筆記用具は会社に行けばありますし、フリーランスの方は、最低限必要な道具をレンタルスペースに預けて、レンタルオフィスやレンタルデスクなどで作業することもできます。
もっと大きな作業場が必要な方でも、賃貸物件を借りれば済みます。

このように考えれば考えるほど、絶対に所有しておくべき必要なモノというのは、少ないのだなと思います。
まあ、極論なので、私はそういった生活はできないのが現実ですけれど(苦笑)


今回は、母のモノを処分した話と、処分した後の気持ちや、最終的には心持ちなども綴りましたが、現在の私は、まだ何も処分できていない状態です。
これまで、たくさん処分してきたのに、まだ部屋にはいろいろなモノがあり、ただ溢れてはいないというだけ。
何の役にも立たないモノも、まだたくさんあります。
そのひとつひとつに、区切りをつけて、なるべく早く処分できる日が来るように、頑張らないといけないな、と思います。

布類が多すぎる話

2019-11-27 | 終活(モノの整理、心の整理、社会的整理)
母の服が適正数になったので、ローチェストへひとまとめにすることにしました。
服は適正数ですが、服以外の布類は、まだ全然間引きができていません。

母所有の布類
母がムダに大量に持っている布類は、以下のとおりです。

 ・スカーフ、マフラー、ストール
 ・ハンカチ
 ・ハンドタオル(ハンカチタオルも含む)
 ・手ぬぐい
 ・風呂敷
 ・手袋(すでに処分済み)
 ・靴下(一部処分済み)

このほかに、家族共用のバスタオル、フェイスタオルがあります。
どれも、引き出し1段がいっぱいになるくらい、所有しています。

たくさん持っている理由を聞いてみた
毎回、なぜこんなにたくさん買っておいて使わずにしまい込んでいるのか、処分しないのか、つい聞いてしまいます。
返ってくる答えが、言い訳でしかないのはわかっているのですが、ついつい。

ちなみに、母の言い訳で一番多いのは、

 ・勿体ない(まだ使えるから)
 ・あんた(マシュマロ)が使うと思って取っておいた(あるいは買っておいた)
 ・使うつもりで買っていた
 ・何かの役に立つから取っておいた(使用目的は決まっていない)

以上の4つなのですが、今回は新たに2つ加わりました。

 ・お金があったから使いたかったのかもしれない(その結果モノが溜まったと言いたい)
 ・使い捨てで使うつもりで貯めていた

新たに加わった言い訳を聞いて、もう笑うしかなかったですね(苦笑)
特に、使い捨てるつもりだった布は、ひとつも実践されないまま、我が家にきれいな状態でスペースを占領しています(笑)

それぞれの理由に突っ込みを入れたい
まず、勿体ないから処分できない、という理由ですが、勿体ないという価値観からして、モノが溢れていた我が家には必要のない価値観なのですよね。
心の底から勿体ないと思っていたのなら、まずムダ遣いをしませんし、同じものを大量に持つこともしないはずですから。

次に、私に残したり、使わせるつもりで購入したモノを溜め込んでいる件ですが、まず買う前に私に意思決定させろ、と言いたいです。
私の気持ちは無視して私のモノを買われても、趣味も合わなければ、使い道もないです。
ある時期から、はっきりとそれを言ったため、それまでに私のために買いこんでいたモノは、隠すようになってしまったのかもしれません。
あるいは、そのころにはすでにモノが溢れすぎていて、私のために購入したモノを出すことができなくなっていたのかも。
服を処分する際に、私のために購入したという服は、私が貰ったことにして、即処分しました。
貰った時点で私の所有物になっているので、どうしようが自由ですよね(笑)

使うつもりで買っていた、何かの役に立つから取っておいた、という理由は、手に入れた時点では“備え”のつもりだったのでしょう。
“備え”とは、予備という意味で、もし無くなったら、もし壊れたり破けたりしたら、という場合の“備え”です。
けれど、備えてばかりいたら、備えたモノが溢れて適正数を超えます。
適正数を超えたら、備えではなくムダ使いですよね。
モノは使ってこそ意味があるのですから、手に入ったらさっさと使うべきだと、私は思っています。
使うのをケチるのならば、最初から数を減らしたらいいのに、なぜたくさん購入しては大切に取っておくのか、私には理解できません。

新たに加わった理由のうち、お金があるから使いたかった、というのは、気持ちがわからないわけではありません。
私も、お金があれば、したいことや購入したいモノがありますから。
ただ、買っても使い終わったり、使っている最中に破損したりすれば、即処分しますし、いつまでも収納したままにはしておきません。
そして、同じものを追加して買うこともしません。
母は、お金を使うだけ使って、買ったモノは完全放置状態。
使用したり処分したりすることは、予定に入っていなかったのでしょうね。
だったら、モノが残らないことにお金を使えばよかったのに、と心底思います。
ここ数年は、母も一人で買い物へは行けなくなったので、ムダ使いもしませんが、もし元気に歩ける状態だったら、今頃どうなっていたか。
考えただけでも、ウンザリします(苦笑)

最後の、使い捨てるつもりでいた、というのは、主にハンカチ、タオル類、手ぬぐいのことです。
これらについては、母が購入したモノは一部で、ほとんどが貰い物やおまけです。
ですから、使ったら(汚れたら)洗わずに捨てるつもりでいた、というのですが、母は自分のことがまったくわかっていないのだな、と思って、本気で笑ってしまいました。

母の性格
母は、どんなものでも使えるうちは何度でも使いますし、布類が汚れると、真っ白になるまで洗って、また使える状態にする性質です。
使い捨てにできる人では、ないのです。
もし、使い捨てを実行していたら、タオルもハンカチも手ぬぐいも、ほとんど残っていないはず。
なのに、私が片付けを始めたら、出てくるわ、出てくるわ(笑)
今まで、布類を使い捨てにしたことは、一度もないはずです。
できもしないことをしようとするよりは、増やすことをしないように気を付けてほしかったと思いますね。

母は、自分のそういう性格を把握しないまま、布類の使い道を決めて、結局実行できないでいました。
思うのですが、モノの処分ができない人は、まず自分がどういう人間なのか、どういった行動をする人間なのか、どういう性格なのか、を客観的に見つめる必要があると思います。
もし、自分がモノを大切に使う性格だったら、絶対に2つ目以降は買ったらいけません。
予備でもダメです。
ひとつのモノを大切に使い切ってから、新しいモノを買うべきです。

性格以外の要因
母の場合は、生まれ育った時代背景も、モノを溜め込んでしまう原因のひとつです。
戦争を経験していて、なおかつ新婚当初は贅沢ができない経済状態だったようなので、モノをむやみに捨てることができないのですね。
特に、ハンカチ、タオル、手ぬぐいなどは、もし災害などに遭ったときに、絶対必要だと思っています。
戦時中に、ケガをしたり身体が汚れたりした記憶が残っていた可能性は十分あります。
大量に所有していたって、それをすべて使うことはできないのですが、そこまで考えが及ばないのでしょうね。

それでも、私が幼かったころは、ご近所の方たちと物々交換などして、モノが溜まっていくことは少なかったですし、買った商品におまけがついていることも少なかったので、やたらとモノが増えることもありませんでした。
いつの間にか、何でも自由に手に入るようになり、ストックが必要なモノも、日々の消耗品だけになったのに、いつまでも何かに備えようという考えがやめられないために、結果大量にモノを溜め込んでいるのでしょうね。

今回処分出来た布類
結局、今回はハンカチの一部と風呂敷の一部、そして手ぬぐいの一部を処分しただけで、マフラー、スカーフ、ストールの類は、そのまま残っています。
母に聞いても、どれを残すか、全部処分していいのか、はっきりした答えを貰えなかったので、処分は保留です。

処分したモノのうち、手ぬぐいは適度な大きさに切って、ちょっとした汚れ落としとして使い捨てることにしました。
ハンカチと風呂敷は、拭き掃除には向いていないので、そのまま捨てます。

他にも、ちょっとした雑貨類が出てきましたが、母が使わないというので捨てることにしました。
あまり捨てるモノが出なかったような気がするのですが、ごみ袋は意外と埋まっています(笑)
不要品が見当たらなくなる日は、いつになるのでしょうね?(苦笑)


今回、母の服を移動し、不要なモノを一部処分したので、ハイチェストが1台、空になりました。
もう1台は、まだ使っているタオル類が入っていますので、出し入れしやすい場所へ移動させる予定です。
なんだかんだ、不満は出てきますが、着実にモノは減っているので、これからも少しずつ、理想の老後に近づいていきたいと思います。

土地相続登記の義務化が検討されている話

2019-11-26 | 終活(モノの整理、心の整理、社会的整理)
本日は、気になる記事を見つけたので、ご紹介がてら、私見など綴っていきます。

『 土地相続登記を義務化へ 罰則検討、手続きは簡素に 所有者不明土地対策で法制審原案』2019年11月26日(日本経済新聞WEB版)

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こちらの記事をざっくりと説明すると、長い間相続登記をしていなかったため所有者がわからなくなり、管理や処分ができない土地について、手続きを簡略化する代わりに、責任と管理の所在をはっきりしてもらうための法案のようです。
手続きには期限が設けられ、期限内に相続登記を行わなかった場合の罰則も設けるようです。

不動産の相続手続きは複雑で難しい
父が亡くなった際は、当然持ち家であるマンションの相続登記と関連する手続きをしました。
マンションの場合、土地の固定資産税に関してはそこまで高額ではありませんが、だからといって手続きが簡単になるわけではありません。

父は、母と結婚したときにはすでに両親(私の父方の祖父母)が他界していて、一人っ子だったので、相続の分割協議については非常に簡単でした。
相続の権利が、母と私にしか発生しませんでしたから、二人の間に同意があれば問題ありません。
ただ、取り寄せなければならない書類を揃えるのに、少々時間を要しました。

これが、もし父に兄弟姉妹がいて、さらにその兄弟姉妹がすでに他界している場合は、その子ども(すなわち姪っ子や甥っ子)にも相続の権利が発生するので、相続分割協議書に権利が発生している全員の署名と実印が必要です。
亡くなった人に兄弟姉妹がたくさんいて、さらに姪っ子甥っ子が多い場合は、協議するだけでも大変だと思います。
もめた場合は、協議書すら作成できません。
また、協議はうまくいったとしても、各々が遠方に住んでいたり海外に住んでいたりすると、署名と押印に時間と手間と費用がかかってしまいます。

普通は、このように複雑だったり、手続きそのものに時間と手間と費用が掛かってしまうため、弁護士に依頼して手続きを進める人も多いです。
確か、母の父親(私の母方の祖父)がなくなったときは、祖父の子どもが多かったため、相続の手続きには弁護士も加わって手続きをしていたような気がします。
まだ、私が子どもの頃の話なので、はっきりとは覚えていないのですが、たまに母の兄弟姉妹が揉めていた覚えがあります。

相続登記がもっと簡単になれば
相続人が少なかった我が家でも、手続きが非常に面倒だと感じたし、あちこちの窓口に行かされて、しかも離れた場所にある建物まで車で行かなくてはならなかったので、移動時間はかなり費やしたと思います。
せめて、徒歩5分圏内にすべての施設があったらよかったのに、と感じましたね。

確か、どこかの自治体が、家族が亡くなった場合の専用窓口を設けていて、すべての手続きが1つの窓口でできるように、サービスを改善したと、数年前にニュースでみました。
全国で、1つの窓口で一括して手続きできるシステムにしてほしいと、強く思います。

手続きそのものも複雑かつ煩雑で、各々の書類を揃えるために、あちこちの窓口に行かなければならないとなると、相続の権利がある人は、あまりにも面倒くさくて二の足を踏んでも仕方ないな、と思います。
ましてや、疎遠になっていた親戚や家族が所有していた不動産となると、よほどの財産が入らない限りは、手続きする気持ちには、なれないかもしれませんよね。

しかし、もし今回の法案が通ったら、相続人に当たる人は否が応でも手続きしなければなりません。
きちんと向き合わなければ、相続人に直接ペナルティ(罰則)を取るわけですから。

ただ、その罰則がどの程度になるのか。
あまり緩い罰則だと、わざと知らんぷりをしてしまう相続人も出てくるかもしれませんね。
手間と費用が掛かってしまうくらいなら、罰則の方がマシ、と考えてしまうかもしれません。

そこで、手続きのハードルを下げるために、手続きの簡略化というアイデアが生まれたわけですね。
まあ、対応が遅いな、とは思いますけれど(苦笑)

現在放置されている土地の合計面積
九州本土より広い面積の土地が、相続登記されず、名義変更されていないために放置されているとのこと。
家が建っている土地だけではなく、山地や田畑なども含まれているかもしれませんが、広すぎますよね。

この放置された土地、手続きを簡単にして、相続の権利を有する家族や親せきには、土地所有権の放棄もできるようにするようです。
放棄された場合は、国が一度引き取る形になり、その後自治体などが希望すれば、所有権を取得できるようにし、土地の有効活用を見込んでいるのだとか。
上手くいけば、地域で利用できる施設などに生まれかわる可能性がありますよね。
果たして、土地の有効活用はどこまでできるのか、気になるところです。


本日は、少し難しい話になってしまいましたが、思っている以上に身近な問題なので、機会があったらじっくり考えたいと思っています。
私の場合、今度は母からの相続をすることになる可能性が高いので、今から少しづつ勉強していかなくては。
ところで、手続きの簡略化って、どの程度までなのでしょうね?
そこは、かなり気になるポイントです。

45リットルのポリ袋がなくならない

2019-11-25 | 日々の暮らし
これまで、家の中の不要品を発掘し続け、片付けてきましたが、母が溜め込んでいたモノで、私には理解不能なモノが、45リットルのポリ袋です。

黒いポリ袋
45リットルのポリ袋のうち、黒で中身が見えないモノが大量にあります。
今、必死に消費している最中です。

この黒いポリ袋は、まだ世の中がごみの分別をしなくてもよく、指定ごみ袋の存在もなかったころに、ごみ袋として購入していたモノで、母がストックとして買ったモノでもあります。
その後、条例でごみは指定袋で出すようになり、ストックしていたポリ袋では出せなくなりました。

指定袋を買うようになり、ストックしていたポリ袋は消費されることがなくなり...と言いたいところですが、今住んでいる自治体では、ポリ袋を二重にしてもOKですし、内側に使うポリ袋が中身の見えない黒でも、特にペナルティはありません。
指定袋で出さなくてはならなくなったときでも、袋を二重にして消費していたら、今頃はすっかりなくなっていたはず。
なぜ、母がそういった使い方をしていなかったのか?

おそらく、目に見えていたポリ袋は、すべて消費していたのだと思います。
しかし、母は日用品のストックを大量に買う癖があったので、そのストック分が押し入れやどこかしらの引き出しに、分散して収納されていたのです。

魔窟だった押し入れを片付けたとき、引き出しいっぱいの黒いポリ袋を見つけたときは、割と絶望しました(苦笑)
現在は、すべてを一か所に集めて、私が必死になって消費している最中です。

透明もしくは半透明なポリ袋
数日前、母がいろいろな雑貨を収納している棚(隙間収納的な棚)の、いちばん収納容量が大きい引き出しを開けました。
そこには、大小さまざまな透明ポリ袋、もしくは半透明ポリ袋がしまってありました。

もちろん、絶望しました(苦笑)
いや、なんでこんなにポリ袋ばっかりあるの?

ストックとして購入したポリ袋もあれば、スーパーのサッカー台に設置されている小さいポリ袋もあり、統一性もないし、ぐちゃぐちゃに入っているので、どのサイズがどれだけあるのかもわかりません。

本当に、私の理解できる範囲を超えているのですが、そんなにポリ袋って必要でしょうか?

ポリ袋のストックが多い理由
母が大量にポリ袋を買っていたのは、ごみ袋としてだけではなく、実は収納したモノが汚れないように、ありとあらゆるモノをポリ袋へ入れて、押し入れやタンスに収納していたからなのです。

例えば、タオルケットや毛布。
専用の収納袋などは、以前は存在しなかったので、ポリ袋を大量に購入しておいて、ポリ袋が汚れたり破けたりしたら、新しいものに交換していましたね。
しかし、母は割とモノを丁寧に扱う人なので、ポリ袋が破けることなど、数年に一回程度。
そんな人が、大量のストックを持っておく意味があるのかどうか。

私の母は、自分の性格に合う暮らし方に、考えが及ばない人だったようです。
それが原因で、モノがムダに増え、その結果モノで溢れた家になり、ポリ袋のストックも、そのモノの山に埋もれて、使うどころか存在も忘れて、また新しいストックを買ってしまう、ということを繰り返していたのだと思います。

ポリ袋の大量ストックを見つけた母の反応

「なんで、そんなに(ポリ袋が)あるんだろう?私が買ったのよね?」

ええ、そうです。
あなたが、買いました!
即答ですよ(笑)

この母の反応からわかるのは、母本人はストックを使い切っていたと思い込んでいたのだろうな、ということです。
まったく、管理しきれないのなら、ストックそのものを持たなければいいのに、とさえ思わせる母の反応でしたが、いまさら文句を言っても仕方がありません。
黒のポリ袋同様、私がせっせと消費します。

それぞれの使い道
とにかく、今は黒いポリ袋を消費してしまいたいので、指定袋の内側にセットして使っています。
カン、ビン、ペットボトル、プラごみの各指定袋は、中身が見えるように出さないと、回収してくれませんので、家庭ごみ専用で使っています。

透明もしくは半透明のポリ袋は、ごみ袋にも使っていますが、レジャーで外出した際に、荷物入れで使い、その後ごみ袋としても再利用して、消費しています。
レジャーに出かけると、どうしても地面に直接荷物を置かなければいけない場合があります。
レジャーシートを使える場所でしたら、ポリ袋は必要ないのですが、レジャーシートが使えない場所では、ポリ袋に荷物を入れてから、地面に置いています。

これ、割と役に立ちます。
ほこりや雨避けにもなりますし、ポリ袋へ入れることで、自分の領域を確保する効果もあります。
また、もし何かしらの荷物が増えたときは、見た目は悪いですがマイバッグとしても使えますしね。

ポリ袋を溜め込む人は多いかもしれない
私自身は、必要最小限のポリ袋があればいいと思っているので、2つくらいのサイズで50~100枚入りを常備しておけばいいと思っています。
指定ごみ袋に関しては、ストックが残り1枚になってから購入します。
ごみの回収日は毎日ではないので、なんならストックが完全になくなってから購入する場合もあります。

ただ、私の性格上、各部屋に置いてあるごみ箱には、必ずポリ袋をセットしています。
ごみ箱そのものに汚れが付くことが、嫌いだからです。
ですから、ごみ箱の数だけポリ袋が必要ですが、ストックはあえて買わずに、スーパーで買い物した際にもらうポリ袋を数枚、ストックしている状況です。

私は、ストックを大量に持たない主義ですが、母のようにたくさんのポリ袋をストックしてしまう人は、きっと多いのでしょうね。
便利グッズや100円ショップに、ポリ袋専用の収納インテリアが売られていることからも、想像できます。

スーパーで食品を入れたポリ袋、何かのおまけで貰ったポリ袋、自分で買ったポリ袋など、意識を向けておかないと、集まってくるポリ袋はどんどん増えていくのでしょうね。
そして、最終的には大量のストックが溢れている状態になる。

この状態、自分自身で気が付いて、増やさないようにある程度の枚数になったら、後から入ってくるポリ袋は捨てる、などの自分ルールをつくらないと、改善は難しいですよね。
もし、ポリ袋を溜め込んでいる人は、1週間でいいから、ポリ袋のストックをやめてみたらいいかもしれません。
そして、1週間経ってもストックが余っていたら、それはストックの持ちすぎなのだと思いますから、数枚だけ残して、あとは処分したほうがいいよ、と言って差し上げたいです。


今回は、ポリ袋のストックについて綴りましたが、他にも溜め込んでしまいがちなモノの中に、クリアフォルダーがあると思います。
何かのイベントでは、必ずと言っていいほど、チラシやプログラムを挟んで配布しているので、捨てるのが勿体ないと思い、溜め込んでいる人は、一定数いるはず。
しかし、クリアフォルダーはポリ袋と同じで、モノを一時的に保管したり、保護したりする役目があるだけで、持っているだけでは存在意義がないでしょうね。
もし、クリアファイルを溜め込んでいる人がいたら、これだけは言いたい。

「クリアファイルは、2~3枚のストックでも多すぎだよ」

ということで、今回は締めます(笑)

母が認知症の可能性はないと診断された後の話

2019-11-24 | 母のこと
先週くらいだったでしょうか、母に認知症検査(MRI検査)を受けさせた結果の話を投稿したのですが、その後の母の様子など、少し綴っておきます。

これまでの経緯
上にリンクを貼っていますが、簡単に経緯をお話しします。

母のもの忘れ、特に直近に自分で経験したことを、すっかり忘れてしまうことが続いているので、私は認知症を疑いました。
今から2週間くらい前に、やたらと頭痛を訴えていたので(のちに帯状疱疹が原因と判明)、先月救急搬送された際に後頭部を打っていることもあり、それらの検査を受けるついでに、認知症の検査も受けさせました(本当は認知症検査がメイン)

検査結果は、いわゆるアルツハイマー型ではないと診断が下ります。
しかし、MRI検査前の問診では、認知症を思わせる答えを連発していました。
もの忘れに関しては、脳の血管が細いことによるかもしれない、と医師に言われましたが、結局物忘れの原因はわからずじまいで、経過観察のため一年後に再受診することになっています。

本当に認知症じゃないのかな?
その後も、結局母のもの忘れは続いています。
まあ、そうですよね。
病院で認知症の疑いはない、と言われたら、認知症ではないのでしょうから、何の治療も施しませんし、薬の処方もありませんから。

しかし、母のもの忘れっぷりは、どう考えても認知症の初期症状ではないのか?
という疑いがぬぐいきれないので、もしかしたら記憶障害を起こすような疾患が隠れているのかもしれない、と思うようになりました。

母の認知症を疑う要素を書き出すと、

 ・最近経験したことを忘れている(救急搬送のことも帯状疱疹のことも忘れています)
 ・食事をしたことも食事の内容も忘れている
 ・現在の時間、今日の日付と曜日がわからない
 ・薬を飲まなくてはいけないことを忘れている
 ・ときどき自分専用のピッチャーに何を入れていたか忘れている

しかし、認知症ではできなくなりそうな、次のことはできています。

 ・買い物に行く→支払いを済ませる→帰宅する の一連の流れは問題なくできる
 ・トイレ、食事、入浴、散歩、戸締り
 ・時計を見て行動する(私が〇時に出かけるよ、と言えばそれに合わせて支度します)
 ・着替え、服の着方、どこにしまうか、などは問題がない
 ・認知症が原因の迷子にはならない(ただし若いころから方向音痴)
 ・芸能人の顔と名前は憶えているし、家族の名前と存在も覚えている

ただし、買い物へ行って帰ってきたら、自分が買い物に行ったことも、何を買ったかも、覚えていません。
今のところ、支払いを忘れて店から持ち出してしまう(客観的に見て万引き)行為は、一度も起こしていませんが、正直なところ、私の方が不安になりますよね、いつかやらかすのではないか、と。

最近、一人で買い物へ行った際に体調が悪くなったので、一人で買い物へ行くことは禁じましたが、私と一緒に買い物へ出かける際も、特に問題になりそうな行動はしませんので、もしかしたら外の刺激がいい影響を与えているのかもしれません。

時間の感覚も、私が何度もしつこく予定を言った場合は、それを覚えていて、当日の朝に予定の時間を聞いてきます。
何度も言うことは、結構大事なことなのかもしれません。
そのかわり、予定の行動が終了したら、その行動したことを忘れます。
例えば、病院へ行かなくてはいけない日は憶えているけれど、病院へ行った後は、行ったこと自体を忘れている、といった感じです。

薬の服用に関しては、つべこべ言っている場合ではないので、毎日私が決まった時間に飲ませています。
いろいろと工夫はしてみたのですが、結局飲む薬が存在していることを忘れているため、もう改善するのはあきらめました。
母が飲んでいる薬は、飲み忘れが続くと命にかかわってくるので、本人任せにできないのです。

できることの中に、家事を入れていませんが、母の体力では家事をこなせないので、私が代わりにしているからです。
おそらくできないのは、洗濯機のスイッチの選択や、電子レンジの複雑な時間設定くらいです。
機械音痴ですね(笑)
ちなみに、温めるだけの電子レンジ操作は、問題なくできます。

「自分のピッチャーに何を入れていたかを忘れる」と書きましたが、母の疾患は常に水分を摂った方がよいので、数年前から専用のピッチャーにお湯(白湯)か水を入れて、常備しています。
これは、母が自分で始めたことなので、私は関わってはいません。
母の体調が悪いときに、お湯か水を足してあげる程度です。

2~3か月前くらいから、母が私に

「これ(ピッチャー)に、何を入れたらいいんだっけ?」

と聞いてくるようになりました。
聞いてこないことがほとんどですが、ごくたまに、かなり体調が悪いときは特に、ピッチャーに何を入れていたか、わからなくなるようなのです。
飲み物を入れる、ということはわかっているのですが、豆乳を入れようとしたり、ジュースを入れようとしたりすることがあります。
さすがにそれは違うよ、と注意しますが、冷蔵庫のお茶などは入れても問題ないので、基本的には好きな飲み物を入れるように言います。

気になるのは、入れるべき飲料が入っている容器がわからないのか、飲料の種類が思い出せないのか、という点です。
前者ならば、視力が悪化していることも考えられますが、後者ならば少し問題です。
なぜなら、我が家は豆乳、水、お茶の3種類しか、冷蔵庫に入れていないからです。
その選択肢なら、ピッチャーに入れるべき飲料は自ずと判断できると思うので、やはり認知症を疑ってしまいますよね。
ちなみに、白湯は電気湯沸かしポットから入れ、ポットの操作も問題なくできています。

ここまでを読み返すと、ますます母のもの忘れの正体がわからなくなってきた、というのが本音です。

ネットで調べてみた
あまりにも、母のもの忘れっぷりが酷いので、ネットで検索してみました。
すると「脳血管性認知症」という言葉が出てきました。

「脳血管性認知症」は、脳梗塞や脳出血が原因で発症する認知症のことらしいです。
詳細は、ネット検索してみてください。
この認知症だと、“できること”と“できないこと”がはっきり分かれているらしく、判断力や記憶力は保たれていることが多いそうですが、もしかして、これかしら?

とも思ったのですが、直近の記憶がなくなっているので、微妙な気はします。
ただ、脳の血管が細いと言われたので、目の付け所は、あながち間違ってはいないような気がします。
ただし、他の症状は母には当てはまりません。

実は、MRI検査の結果では、小さい範囲で脳梗塞を起こした形跡があると言われました。
しかし、認知機能に影響するほどのモノではなく、いつの間にか起こした脳梗塞かもしれないとのことで、そういったことは割とあるのだそうです。
ですから、認知症の診断を下す材料が、現段階で揃っていない状況なのかもしれませんね。


母のもの忘れについては、今後も気が付いたことを投稿していくつもりです。
毎回、何も解決しないままかもしれませんが、この先認知症へ進む可能性も含めて、老化という視点からも、母の状態を記録していくことは、今後、私が取るべき行動のヒントになるかもしれないので、なるべく詳細を綴っていこうと思っています。

部屋のディスプレイをマイナーチェンジ

2019-11-23 | 日々の暮らし
ここ数日間は、小さいこまごましたモノを、結構処分しました。
処分するモノを選別して仕分ける作業は、あまり続けると疲れてしまいますので、本日は一旦休んで壁や棚のディスプレイのマイナーチェンジをすることにしました。

壁のディスプレイ
昨日までに、壁にディスプレイしていたモノを、結構処分した結果、空間ができてスッキリした見た目には近づきました。
しかし、今はまだその状態をキープせず、今までディスプレイせずにしまい込んでいたモノを出して、一時的に配置し、成就させることにしました(笑)
また、他の場所にディスプレイしていたモノを移動させ、全体的なバランスをとることに。

現在目指している形は、自室の壁1面だけにディスプレイをして、他は何も飾らない状態。
今まで、自分の視界に入れておきたいモノがたくさんあり、自室の壁をいろいろなモノで埋めていました。
ポスター、ポストカード、フライヤー、気に入った写真や絵の切り抜き、サイン色紙、パネルといった、壁に直接掛けたり貼ったりするモノはもちろん、壁に簡易な棚を取り付けて、小物を置いたり。

四方にディスプレイしているため、結構移動が大変で、自分が目指す形になるまで、少し時間がかかりそうです。

棚のディスプレイ
現在、見た目がとてもごちゃごちゃしています。
いくつかモノを処分したので、収納という視点からも整理整頓して、見た目のバランスを取りたいと思っています。

手抜きと時短が好きなので、引き出しに収納したくない雑貨があります。
そういったモノは、いわゆる“見せる収納”にしたいのですが、私にはセンスがないので、結構ハードルが高いですね(笑)
また、収納したくないモノの形状が、割とディスプレイの邪魔をします。
見た目を重視すると、取りにくいし、利便性を優先すると見た目が悪い。
なにか解決方法がないか、と頭を悩ませています。

成就させるモノ
先ほど書いた、成就させるディスプレイとは、主にポストカードです。
専用のファイルに収納していたのですが、何枚か処分し、残ったカードを壁に貼っておくことにしました。

そもそも、ポストカードは使うために買うか、そこに描かれている絵や写真を気に入って買うので、前者の場合は使う当てがないのなら処分、後者はいつでも見られる状態にしておくことがベストですよね。
でも、大事にしたいあまりにファイルに収納していたら、ほとんど意味がありません。

結構前から、そのことには気が付いていたのですが、ポストカードをディスプレイする空間がなかったため、しばらく放置していました。
今回、やっと壁にディスプレイできる空間ができたので、ペタペタ張り付けて、もう十分楽しんだな、と感じたら処分するつもりです。

ディスプレイの変更や処分の方法
モノをディスプレイする場合は、部屋の景色に溶け込むようにして配置するのが普通です。
ですから、いざ不要なモノを処分しようというときに目に入りにくく、処分する対象からうっかり外れてしまいがちです。
そのうっかりを回避するために、私は定期的にディスプレイを見直すようにしています。

壁のディスプレイを眺めていると、そこに在るモノに対して、突然違和感を覚えることがあります。
その違和感の正体は、好みではなくなったり、興味が薄れてきたりしたからなのですが、そういったモノがひとつ目につくと、他のディスプレイも同様に感じてくるようになります。
自分の興味や好みが、時間の経過とともに変化しているわけですから、同じ時期にディスプレイしたモノすべてに、違和感を覚えるのでしょうね。

となると、結構な量のモノを取りはずすことになるため、他の片付けや整理整頓と一緒に取り組むことで、気持ちや感覚がブレてしまうのを避けるため、壁のディスプレイを見直す場合は、壁だけに集中して処分や変更をしていきます。

まず、違和感を覚えるモノを取り外してごみ袋へ入れていきます。
その際は、手に入れた経緯やそのときの思いやシチュエーションなどは、一切考えません。
ただ、今の自分がそれを好きでいるか、もう好きでなくなったか、で判断していきます。

違和感を覚えたモノを処分したら、今度は処分を迷ってしまうモノへフォーカスします。
まだ好きだけど、もう十分楽しませてもらったな、と思えたものは、気持ちの上で決着がついているので、処分します。
また、経年によるシミが付いたものも処分対象です。

厄介なのは、まだ好きでもう少し見ていたい、と思うモノです。
しかし、もう長い間ディスプレイしたままのモノは、ほこりも溜まるし見えない箇所に、汚れやシミが付いているかもしれません。
そういう場合は、とりあえず外して、目につかないところへ収納し、隠してしまいます。
隠している間に、その存在を少しでも忘れてしまう瞬間があれば、もうディスプレイしておく意味もなくなっているはずなので、気が付いたときに処分します。

この段階で、もう一度ディスプレイしたいモノがあれば、まだディスプレイせずにしまっておいたモノと一緒に、次のディスプレイ候補にしておきます。

処分が終わったら、壁や棚に空間が生まれますが、まだディスプレイしたいモノがあるので、すでにディスプレイされているモノを移動しつつ、新しいモノを追加していきます。
実は、このときが一番重要で、移動させたり追加したりしているうちに、やはりもうディスプレイする必要がないかもしれないな、と思えるモノが更に出てくるので、それは絶対にディスプレイせずに、処分します。

最初に処分するモノを選別する段階では、まだ残しておきたいと思っていても、ディスプレイを変更しているうちに、気持ちが変わってくることは結構あります。
また、新しくディスプレイしよう思っていたモノも、いざ取り掛かると他のモノとのバランスが悪かったり、しまっている間に気持ちが離れてしまっていたりするので、そういったモノも処分します。

最終的には、まだ壁が埋まっている状態ですが、ディスプレイするつもりでストックしていたモノは、確実に減ります。

これからの予定
今ディスプレイされているモノは、自分が決めたルールに従って、随時処分していきます。
本当は、思い切ってすべてを取り外して処分することがベストなのですが、ごみ袋の容量を考えると、何度かに分けて取り組む方が、体力的にも気持ち的にも楽です。
また、一度にやってしまうと、逆に未練が湧いてしまいそうなので、徐々に取り組んだ方が、自分の気持ちも整理ができて、確実に処分できます。

まだまだ、スッキリした見た目には程遠いのですが、必要なモノだけがある部屋になるまでは、頑張りたいと思います。


今回は、私の自室にディスプレイしているモノについて、綴りました。
私は、もともと収集癖が少しあるので、モノを処分するには、それを克服することが一番の近道です。
近頃やっと、ディスプレイするだけの雑貨や見た目だけが気に入ったモノは、買うことがなくなりました。
うっかり買ってしまいそうになるときもありますが、冷静に考える癖がついてきたので、ムダに買うことはないですね。
逆に、いろいろなモノがある自分の部屋が、とても居心地悪く感じるようになってきました。
この居心地の悪さは、さらにモノを減らして処分する時期が来ているのだと思って、これからもモノの処分に精を出そうと思います。

書籍を新本で買うということ

2019-11-22 | 日々の暮らし
私は、いろいろなジャンルの本(活字)を読むことが好きなのですが、特にじっくり時間をかけて読みたい書籍や、特別好きな作品は、必ず新本で買うようにしています。

この、新本を買うという行動は、必要最小限のモノで暮らすということとは逆のことのように感じます。
今のところ、ある程度増えたら古本屋に持ち込んでいますが、とあるSNSで見かけた言葉に、少し考えさせられました。

本の買い方と借り方
以前は、読みたい本はすべて新本で購入していました。

知人の中には、本を読むことは好きだけれど、図書館で借りて購入はしない、という人がいました。
また、購入はするけれど、すべて古本屋で購入する、という人もいました。
しかし、私は新本で買えない書籍(廃版だったり発行部数が少ないモノ)以外は、すべて新本で買っています。

もちろん、図書館で借りることもありますが、今の住まいは図書館から遠く、頻繁に通うことが難しい。
以前は、職場が図書館に近かったので、2週間ごとに数冊ずつ借りて読んでいた時期もありました。
しかし、それだと読む期限が決まっているため、自分が読みたいスピードで読めないことがあります。
ですから、図書館で借りる場合は、比較的さらっと読めそうな書籍を選んでいました。
私の場合、借りる本は試読するモノ、買う本は集中して読むモノ、という暗黙のルールがあるのです。

また、古本を買うときは、廃版になっているモノや再版されない雑誌などが欲しいときです。
以前から読みたいと思っていたシリーズを一度に揃えたい場合は、古本の方が手に入りやすかったりしますが、新本があれば、それを買いに本屋へ行くか、通販で購入してしまいます。

新本を買う理由
新本を買う理由ですが、新本の匂いが好きなことと、手あかや汚れが付いていない状態の本が好きだからです。
また、少し神経質に考えてしまうことがあるので、古本特有の汚れや折り目、しわ、ちぎれた跡などがあると、少しだけ不愉快になってしまいます。
本は、私にとっては大切にしたいモノのひとつなので、アンティークでもない限りは、きれいな状態で持っておきたいです。

他にも理由があります。
それは、古本屋へのアクセスが悪いこと(笑)
古本でも、新古書であれば状態はきれいですから、買っても問題ありません。
もし、家の近くや駅やバス停留所に近かったり、駐車場が充実していたりすれば、古本も頻繁に買うかもしれません。
ところが、なぜか古本屋というのは、不便な場所にあることが多いので、どうしても足が遠のいてしまいます。

本を買う側と販売する側の立場
本を買う側からすると、少しでも安く手に入るならば古本で十分だし、人から譲り受ける形で手に入るならば、そちらの方がいいですよね。
本に使うお金が勿体ないと思えば、ひたすら図書館で借りることも、ありだと思います。

しかし、売る側からすれば、借りるより買ってほしいと思いますよね。
世界中の人が、本を買わずに借りることしかしてくれなかったら、いずれ新刊を出版することができなくなってしまいます。
なぜなら、買ってもらわないと利益が上がらず、利益が上がらなければ、本を出版する資金もなくなってしまうから。
読む側も、さまざまな本を読みたいと思うなら、借りるばかりではなく、ときには購入することも必要です。

ただ、これはあくまでも新書を購入した場合のみのことです。
古本の購入は、古本屋の店主に利益が上がるだけで、出版社や作家の利益や収入にはつながりません。

なぜ、このようなことを考え始めたかというと、とある作家の方がSNSで仰っていたことが、ずっと気になっているからです。
その作家の方は、ファンの方から言われたそうです。

「自分(ファンの方)は古本を買う主義なので、新刊が古本屋に出たら、必ず買います」

作家の方は、その言葉を受けて、思ったそうです。
「古本が売れても、自分には1円も入ってこない」と。

そうなんですよね。
当たり前のことですが、原稿料とは別に、作家の方には1冊売れるごとに印税が入りますが、古本だと印税も入ってこないし、出版社の利益もありません。
そうなると、出版社にとっても作家にとっても、古本ばかり購入されてしまうと、死活問題になる可能性があるのです。
本当に、その作家の方が好きなのであれば、新書を購入することも応援の在り方です。

自分の経済状態に見合わない本は、借りたり古本を購入したりすることも致し方ないです。
反面、もし経済的に無理がないのならば、そして、その作品が高額ではないのならば、できるだけ新書を購入したほうが、作家の方を支援できますし、それが糧になり、さらに素晴らしい新作を創作してくださると思うのです。

自分は、そこまで考えて新書を買っていたわけではありませんが、これからはなるべく新書で買えるようにしたいと考えるようになりました。

身の丈に合った本の買い方を考える
とはいえ、好きな作品を片っ端から買うことは、物理的にも金銭的にもキツいですよね。
本好きの人で、家の壁一面に本を所有している方を、たまにお見掛けしますが、そういった方は、他のことに全くお金を使っていないか、経済的に裕福な人です。

日本で、平均的な収入を得ているような人は、新書での購入をあきらめて、古本販売されるまで購入を我慢したり、図書館で借りたりすることが、あって当たり前です。
また、本を置けるスペースは、どれだけ広い家でも限られているはず。
図書館や本屋ですら、置いておけるスペースには限界があるのですから、一般家庭で本を買い続けると、あっという間に増えて、収納が難しくなってきます。

私の場合は、家に置いておきたい作品を決めています。
以前は、少しでも好きな内容だったり、好きな作家の書籍であれば、必ず購入していましたが、あまりにも本が増えすぎたため、あるとき数冊を残して、すべてブックオフで買い取ってもらいました。

しかし、やはり本を読むことが好きなので、しばらくしてから、どうしても欲しいと思った本を、新しく買いました。
一度処分した本は、再度買うことはしませんでしたが、それまで買おうかどうしようか迷っていた本を買い、それ以外はテーマとジャンルを決めて、慎重に考えて買うようにしました。
そして、内容はとても興味があるけれど、特に紙の本で読む必要もないかもしれない、と判断した書籍は、すべて電子書籍で購入しています。

今のところ、所有している本は、たまに読み返したりするので、まだ手放すつもりはないのですが、いずれまたリサイクルに出すつもりです。
その際は、必要最小限のモノで暮らすことを優先して、新たに本を買わないようにしなければなりませんね。


今回は、本を買うことについて、思うところを綴りました。
もし、可能であるのならば、紙の本も電子書籍も、正規ルートで販売された新書で購入してくれる人が、増えてくれたらいいな、と思います。

工具の処分完了

2019-11-21 | 終活(モノの整理、心の整理、社会的整理)
予てより、父が残していた工具箱と工具類を処分したいと言っていたのですが、本日やっとすべて処分が終わりました。

工具箱の中身
工具箱なので、基本的な大工仕事ができるアイテムや、素人でもできるちょっとした修理に使えるアイテムが入っていました。
レンチの類が、大小さまざま出てきて、父は一体なにを修理するつもりだったのだろうか?と思いましたね(笑)

中にあったモノで、小型ののこぎり、箱屋槌、スクレイバーは、残すことにして、他は金属製アイテム、ドライバーやキリやナイフなど先が尖っているアイテム、金属ではないアイテムの3つに分類して、金属製アイテムは、リサイクルボックスへ、他はすべて家庭ごみで捨てることに。

ところが、1つだけ厄介なモノが出てきました。
それは、未開封の錆び取りスプレー。
中身を使い切ってから捨てなければいけませんが、現在我が家で錆を予防したり、錆びを取らなければならない箇所は、見当たりません。
結構な容量なので、さて、どうしましょう?(苦笑)

そういえば、以前キッチンのレンジフード掃除をしてくれた業者の人が、錆防止剤をレンジフードに塗っておくと、油汚れ防止になると言っていたような?
試してみる価値はありますね。
というか、なんでもいいから使わないと、いつまでも捨てられない(苦笑)

いままで処分しなかった理由
以前から処分したくて仕方がなかったはずなのに、本日までかかってしまった理由。
それは、父の思い出の品だから、ではありません(笑)

以前も記事中に書いたことがあるのですが、とにかく工具って重たいのですよ。
しかも、父は日曜大工や手作りが趣味だったため、アイテム数もやたらと多い。
重たくて、数が多く、しかもごみの分別も考えて仕分けなければいけないとなると、とにかく腰が重たくなるのです(苦笑)
保管してあった場所も、ベランダだったため、仕分けをするなら、暑くも寒くもない、ちょうどよい気候のときに取り組まないと、心が折れます。
そして、ベランダという場所にあるモノというのは、不要品であっても日ごろは視界に入ってこないため、家の中のモノを処分していると、つい忘れてしまうのです。

もう、今回は他モノの処分は一切考えず、工具の仕分けと処分に時間を割くことに決め、やっとすべて処分できた、というわけです。

小物金属をリサイクル回収ボックスへ
工具の中から抜き出した金属製のアイテムは、すでに処分をすることにしていた、金属製の水切りボウルや鍋などと一緒に、リサイクル回収ボックスを設置しているホームセンターへ持ち込みました。

持ち込む際は、入れてきた袋や箱から出す必要があるので、私の場合は毎回、丈夫なごみポリ袋へ入れて持っていき、その袋の中身を回収ボックスへ移しています。
どうしても手が汚れるので、軍手も持っていきます。

持ち込む時間帯にもよるのですが、多いときはフタが閉まらないくらい、たくさんの小物金属が入っています。
錆びついているモノもあれば、使い込んで塗装が剥がれたり、部分的に壊れていたりするモノもあります。
私のように、あまり使い込んでいない、まだまだ使えるモノを入れている人は、少ないようです。
持ち込むたびに、自分は勿体ないことをしているな、と思いながら入れています。

勿体ないけど処分します
今は、家の中のモノを減らすことにフォーカスしているので、まだ現役で使えるモノでも、不要ならば躊躇なく処分していますが、モノが必要最小限に近づいたら、そのとき使っているモノを、大切に最後まで使い切ろうと決めています。
今処分しているモノは、使う場面もなく、今後も使うシチュエーションを想像できないモノです。

最近、家事の簡略化を進めているのですが、実感していることがあります。
それは、家事の中で省いても問題ない手順を思い切ってやめてみると、不要品が増えていく、ということです。

最近、まな板を牛乳等の紙パックで代用し、使い捨てにしたことで、まな板を洗う手間を簡略化したわけですが、結果的に市販のまな板が不要になりました。
また、カット野菜や冷凍野菜を購入し始めて、大きめな野菜を洗っていたボウルが不要になりましたし、食器もワンプレートを基本にしたら、食器の必要数が減りました。
最近、鍋を処分し始めたのは、コーニングウェアを愛用していることもありますが、レパートリーを減らし、手順が複雑な料理は、作るのをやめたからです。

モノを減らすことで、返って手間が増えることもありますが、暮らす上で特にやらなくてもいいことをやめてみると、モノは確実に減ります。
考えてみれば、すごく当たり前なことですよね。
やらなければ、道具は要らない。
要らなくなったら、即処分。
勿体なくても、即処分。

もしも、処分するモノがわからない、まだ使うから捨てられない、と悩むことがあれば、まずモノを使う行動を見直せば、処分すべきモノが見えてくるのかもしれませんね。


今回は、父が残していた工具を処分した話をしましたが、工具を使って日曜大工や手作りを趣味にしている方に、これだけは言いたい。

「工具は、生きている間に処分してください」

本当に、処分するの、大変なのです(苦笑)