2024年7月20日浜田城に登ってきました。
続日本100名城の170番目です、今回初めてです。
いや~地図見たり路線調べたりしましたが、ここも実に行きにくいのです。
ということで広島着、7時半です。天気は曇ってました。
ここから広島電鉄バスさんで高速バスに乗ります。あっ、雨です、結構降ってる(´・ω・`)
日本海側の浜田まで行ってくれます、3,090円。
順調に2時間ちょっとで着きましたが、雨足が強くなっています。
雨に濡れる浜田駅。
さてここからどうしましょう。歩くと20分、バスがありますが強い雨、困りました。
えーい、タクシーのお世話になってしまおう、タクシーさん、やーい。
すぐに乗れて10分ほどで小高い丘へ。運転手さんの話ですと、入り口ではなく、山の上まで行ける、というのでお願いしちゃいました。1,000円ちょっと。
浜田護国神社。まずは探索の無事を祈願。
社務所で続100名城スタンプと御城印をGET。
湾に突き出してますね。
柿本人麻呂終焉の地、鴨山が浜田ですと?
昔、梅原猛さんの水底の歌を読んだことがあるのですが、難しかったなあ。鴨山って概念だけではイメージが湧かないのですよ。
余裕があれば、後で身に行きましょう。
さっきの浜田護国神社の横から本丸城址に行けそうです。
司馬遼太郎さんの浜田藩追悼の碑。
1866年慶応2年、第二次長州征伐の際、浜田へは切れ者大村益次郎が進軍します。
浜田藩主松平武聡は弱冠20代半ばで病気のため、戦わずして撤退します。その後浜田藩士が城に火を放ってしまいました。
お城は燃えてしまったのですが、司馬さんはそれを追悼しているのですね。
ちなみに松平武聡さんは水戸烈公徳川斉昭の息子、つまり徳川慶喜の弟だったりします。
そりゃ反長州陣営ですわなあ。
往時の浜田城。立派な天守があったのですねえ。
うわっ、唐突に門が現れました。ちょっちホラー感が……
大丈夫です、安心して下さい。後日、浜田県庁の門を移設したものだそうです。
続100名城スタンプ通りの石垣です。何か嬉しい(笑)
本丸に向けて登っていくのです。
何かが動いていると思ったら蟹でした。こんな小高い丘にいるもんですねえ。
綺麗な石垣ですね。
雨が弱くなってきました。石垣を見て愉悦に浸る私なのです。
出丸だそうです、向う側が開けています。
標高68メートルの頂上です。向う側は海!!
三重櫓は跡形もありません、燃えちゃったのでしょうか。
わーい、海です(*´▽`*)
外ノ浦だそうです。
北前船寄港地だった訳ですね。
さあ、降りましょう。本丸の虎口でしょうか。
枡形虎口の形状です。お城っぽくなってます(笑)
堪能できますねえ。
石段の壁が凄いです。組み方も美しく、丁寧。
これだけで結構満足です。
さっきの道を降りて行きますね。
石垣を振り返りました。
中ノ門跡というところに来ました。
石が崩れてますね、ちなみに横は民家っぽいです。
大体主なところは見て回りましたね、柿本人麻呂の鴨山以外。
11時半です、次の列車に乗るため山を降りましょう。
山をほとんど降りたところにある秋葉神社。これが鴨山っぽいです。
山を下りると、あれだけ降っていた雨はやんでいました。
ちょっと歩くとバスがあり、都合良く浜田駅まで190円のバス旅行、助かりました。
12時ちょうど駅前のからくり時計が動き出しました。
浜田の神楽舞いでした。
今12時ですが、11時12分の浜田駅着の特急スーパーおき2号が大雨で1時間遅れで、今ごろ来るそうなんです。
良かった(私に取って)、乗りましょう!
海ではなく、しじみの取れる宍道湖。
2両の特急スーパーおき2号です、お見送り。
次の目的地に向かいましょう、でわ。
(山陰はまだ梅雨明けてなかった?)
それにしても遠征…いつも思いますが行動力がすごい!
その理由、すごい城のようで、行きたくなるのもわかります。
浜田藩
三つ葉葵だったんですね。
慶喜の弟とは!
大河のような物語があったとは…
(全くの勉強不足で知りませんでした)
登り口は公園化の跡も見られるようですが、上の方は良い感じに残ってるとこも多くあって、石垣、石段、映えますね~♪
攻め上がるの息が切れる良いお城ですね~!
戦わずして焼失…ですか…う~ん…無念。
今回も貴重な紹介ありがとうございます。
暑さの中、無事攻略なりよりでござった!
司馬さんの花神を読んで、初めて浜田城を知りました。
一戦交えて欲しかったとか無責任なこと言ったら、叱られますね。
自分の手で火を放つ浜田藩士の胸中、辛かったでしょう。
上部の方にはご指摘の通り、お城の痕跡がかなりありますので、それなりにお楽しみいただけます。
余力があれば、是非、と無責任なこと言ったりして(笑)
下関でも大砲ぶっ放してますし、薩摩とも手を組んでたし、、
長州で財力って、、大陸との交易とかですか?
石見銀山は幕府直轄だったのですよね?
幕末、ここでも黒田家は生き残った…動かなかったのですよね?
これで芸州口、大島口、小倉口、石州口の四境戦争を遂行するとか、凄過ぎませんか。
方や幕府諸藩勢が約10万だそうです。
石見銀山は天領でしたが、浜田藩逃亡により長州が明治初期まで占拠しました。
戦争資金については藩政改革に精を出し、干拓、紙や蝋燭の軽工業、日本海貿易のお陰なんですって。
この時、黒田家は家中で佐幕派、勤王派が抗争しております。遂には勤王派がほとんど壊滅。
長州征伐には加わっておりません。
肥後細川家は小倉口で戦っていますが、小倉城主小笠原長行と揉めて撤退なんだそうです。
兵力、財力、大差があったのに、「士気」の差でしょうか
というか、血の気が多っかった?
大村益次郎!
調べました…見覚えのある顔です!
宇和島藩に、高野長英、シーボルトが居たのは知ってましたが、同時期、大村益次郎も居たとは!
このあと、長州に戻って…吉田松陰とはどうだったのか、、、調べることにします。
なんか思わぬ展開に、おもしろくなってきました。
萩と宇和島か~
幕府も一部様式陸軍部隊があったのですが……
大村益次郎はかかなり面白い人ですね。
長州内でも士分ではなく半農、医者の出で、結構差別されたそうですし、最期がね……