<シャープの闇>
やがて、シャープと会話を出来たくらいで喜ぶのも違う気がしてきた。冷静に考えると、職場の人間とコミュニケーションをとった、ただそれだけのことである。多くの社会人がもっと早くにクリアしていた問題を、僕は9年半も悩んできた。前に進むのが遅すぎた。
(社長)「お前は10年を無駄にしてきたからね」
この会社の最終面接で社長にそう言われたのはとてもショックだった。無駄にした10年を、この先の10年で取り返したい。それはコミュニケーションにも言えるだろう。ただ会話をするのみならず、一歩踏み込んでみようと思った。といっても何をすべきなのか。過去の会話を振り返り、シャープの気持ちを考えてみた。彼女は今の仕事に完全に満足しているわけではなかった。
(僕)「今の店(会社)は良いところだと思います」
(シャープ)「エーそう? ここは酷いよ。社員は良いかもしれないけど」
(僕)「いや、スタッフさん(の待遇)も良いと思いますけど」
(シャープ)「そんなことないよー。時給1000円だし、昇給無いし」
(僕)「いや、あると思いますけど」
(シャープ)「形式上はあるけど、評価システムが明確じゃないのよ。店長のさじ加減というか」
(僕)「うーん……たぶん元から高すぎるんじゃないですかね。例えば僕が居たコンビニは930円でした」
別の日にはこんな会話もあった。
(僕)「シャープさん、この店でレジ部門もやられていたんですか?」
(シャープ)「そうよ。私、ずっとレジだったのよ。本当はレジをやりたいんだけどね……」
(僕)「ああ……」
ここで気の利いたコメントを出せない自分を悔やんだ。日頃のコミュ力がそのままアドリブ力に繋がるのだと痛感した。
【11月3日の日記(抜粋)】
そもそも何故12年以上、当店だけでも1年、レジ部門を担当し続けた人がグロサリー部門に異動したのか。あまり良くない理由がありそうで、聞きづらい。店長なら教えてくれるだろうか。
シャープの闇が少しずつ暴かれていく中、衝撃の事実も明らかになった。
【11月8日の日記(抜粋)】
あるスタッフの会話の盗み聞きにより、シャープさんは一度この仕事を辞めようとしていたことが発覚しショックを受けた。結果的には思い止まり今に至るが、いつ本当に辞めることになっても不思議ではないということである。常に最悪の事態を覚悟しなければならない。
辞めようとした理由は不明だが、待遇に不満があることは事実。コンビニ時代を思い出せ。待遇に不満を抱くスタッフが辞めないでくれる理由は、勤続のモチベーションを維持する要素は何だったのか。
(芋子)「(C子さんは)勤務中の私語、他スタッフとの雑談は多かったように思います。その分だけ仕事をしていないということですからね」
(小野)「それこそコミュニケーションの為にも多少の私語は良いと思うけど」
そうだ、スタッフ同士が仲良く話せること。それだけでも仕事を続ける理由になり得る。シャープは前述の嵐ファンに加え、20年選手やfreebird、そしてマネージャーなど、あらゆる社員・スタッフと気さくに話している。そのメンバーに僕も入れるだろうか。シャープが辞めないでくれる理由の一人になりたい。
<伝えたいこと>
考えた末、シャープに伝えたいこと、伝えるべきことが見つかった。あとは雑談の中でさりげなくそれを言うのみである。
11月13日。休憩室には僕とシャープ、20年選手、嵐ファンの4人が居た。例によって僕を除く3人は雑談をしていた。
(シャープ)「僕さんは正月休み、実家に帰るの?」
(僕)「いや、そもそも休みになるのかが良く分からなくて……」
またしてもシャープのお陰で僕は会話に入れた。その後は聞き役に徹することが多かったが、話の流れを読み、伝えたいことを言うチャンスを伺っていた。
やがて、シャープがレジ部門に配属されていた頃の話になった。タイミング的に今だと思い、僕は勇気を出して聞いた。
(僕)「あの、答えられたらで良いんですけど……シャープさんがレジからグロサリーに異動するきっかけは何だったんですか?」
(シャープ)「あのね、レジに居た頃はパートなのにアルバイトレベルの時間しか入れなかったし、給料が安定しなかったのよ。だから店長に、もっと稼げる部門に異動できないか要望を出してみたの。こっちは生活がかかっているのに、腹立つじゃん(笑)」
シャープは普通に答えてくれた。本当はレジをやりたいと言っていたのは、こういうことだったのか。それにしても、休憩中に話している時はキャリアウーマンを感じさせない普通の女性だった。
(僕)「僕はシャープさんがグロサリーで良かったと思います」
ついに言えた。ずっと伝えたかったこと。
(シャープ)「あらそう?(笑)」
(僕)「シャープさんはいつも凄いところに気付いて教えてくれて。この前も『レジ横の和菓子、賞味期限が今日までなので値引きして下さい』と言ってくれましたけど、何で気付いたんだろうって思います」
(シャープ)「ああ、あれたまたま(笑)」
(僕)「何年経っても追い付くことは出来ないのだろうなって思いました」
(シャープ)「いやいや(笑)そんなことないよ」
【11月13日の日記(抜粋)】
つい2週間前まで謎多きキャリアウーマンだったシャープさんのことが少しずつ解明されるカタルシスが、もっと様々なことを知りたい気持ちにしてくれる。31年間コミュニケーションに恐怖を覚え続けてきたはずなのに、今はシャープさんと一秒でも長く会話を交わしたい自分が居る。尊敬か憧れか、あるいはそれ以上の感情を抱いているのかもしれない。
シャープだけではない。最近の僕は男性社員などにも自ら話しかけるようになった。実際は疑問に思ったことを聞いたり、相談しているだけではあるが、そこから話が広がり、思いがけず長く続いたりもする。また、無機質な業務上の会話にも何か一言感想や突っ込みを加えるだけで、そこから笑いが生まれることもある。全ては真面目キャラという難しい存在を受け入れてくれる人が居るからこそ成り立っている。そんな良い人たちをこれからも大事にしていきたい。
仕事上のコミュニケーションというのは、母親が子供の頭を撫でるように、自然で当たり前のことなのかもしれない。しかし、調子に乗りすぎれば失言にも繋がるだろう。そのリスクを決して忘れてはならない。かといって逃げてもならない。結果が楽しみな苦労をしようではないか。
(Fin.)