※これは2014年2月に小説投稿サイトにUPしたものです。そのサイトが閉鎖したのでこちらに再掲します。
※5年周期でリメイクしてきた大事な作品なので、今年中に再リメイクしたい想いを込めて、今更ですが“あえてそのまま”UPしました。
※10年前の元祖はこちら→『桜の舞う頃に・・・』
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川沿いの公園で、僕は少女に想いを伝えた。
「西岡さんのことを、もっとたくさん知りたいです。もし良ければ……今以上の関係になってもらえますか?」
少女は水面に映る月を見ながらこう答えた。
「……ごめんなさい。ずっと黙っていたことがあります」
その時の少女の悲しそうな顔が、何よりも印象的だった。
昨年死別した母は、僕が5歳の時に離婚届を書いていた。今は母の遺産と月3万にも満たないアルバイトの給料を糧に高校2年にして一人暮らしを余儀なくされている自分が居る。
趣味は古本屋で買った100円の本を読むこと。今読んでいる『夜と霧』はとても難解で理解に時間を要し、少しでも早く読破する為に登下校中も歩きながら読書をしている。
「す、すみません前を見ていませんでした」
「イエ、こちらこそ急いでいて……」
出会いは突然だった。この日も学校を出てからずっと歩きながら本を読み続け、外階段を昇り、自宅のドアの前まで来た僕は一人の少女とぶつかった。普通ならこれで終わる。しかし、
「あ、挨拶がまだでしたね」
少女は話を続けた。
「はじめまして。隣の202に越して来た西岡結衣です」
早くも僕の心は揺れ動いた。ラインが濃いめのランダムボーダーニットに緑のフレアミニスカート、黒のニーハイソックスにショートブーツ。顔が可愛いだけでなく、毎日制服姿の女子ばかり見ている僕にそのコーディネートはあまりにも眩しすぎた。
「あ、ど、どうも、中村雄介です、よ、よろしこ願します」
ただでさえ女性に免疫のない僕は、あまりの緊張に呂律が回らなかった。
「これ、つまらないものですがどうぞ」
少女は鞄の中から青いリボンでラッピングされた小さな箱を取り出し、僕に手渡した。何故このタイミングで持っているのか。
「じゃあ急いでいるんでこれで」
階段を軽やかに駆け降りる少女の後ろ姿を僕はずっと眺めていた。いつまでも止むことのない異様な緊張感の原因は、明らかに一つしか考えられなかった。少女の顔が頭から離れられない。そして箱の中身は素人目でも高価だと察することのできる、砂の代わりにダイヤモンドの入ったキラキラと輝く砂時計だった。
その夜。明日は月曜日だと思うと僕は鬱になった。毎週これの繰り返しだ。本当にうんざりする。
だが、その日だけはいつもと違う夜だった。
「ピンポーン」
再びあの少女だった。
「もし暇なら、ちょっと出かけませんか?」
これは夢なのか。しかも少女の車に乗せてもらうことに。他にも友達が居るのかと思いきや、まさかの2人きりである。
僕は思わず格好付けて「スタバなんてどうですか?」などと行ったこともない店を提案し、そこに入ったはいいものの、ミルクと砂糖の場所が解らずにオロオロしてしまう。だが少女は「ここにありますよ」と優しく教えてくれた。
僕等はお互いのことを聞き合った。少女は21歳、私立大学の社会学部に通う4年生だという。女子大生がダイヤモンドの砂時計、どこかの資産家のお嬢様なのだろうか。だがそれよりも気になることがあった。
「何で今になって引っ越してきたんですか?」
「ウーン……何故だと思います?」
「あ、イヤ、すみません、言わなくていいですよ」
余計なことを聞いてしまった。もう少女には嫌われているのかもしれない。過去の経験からそんな気がした。いつも上手くはいかないのだ。だがそれでいい。一日限りでも楽しかったから。
「私、毎日寂しいんで、メールとかしません?」
しかし3日後の夜、少女はまたしても僕を誘い、ドトールの店内でそう言うのだった。少女は自分のメールアドレスと電話番号を赤外線で送ってくれた。何故こんなにも積極的なのか。
「あ、届きました。僕のも送りますからちょっと待っていて下さい」
しかし、アドレス交換などほとんどしたことのない僕は、赤外線送信のやり方すら解らなかった。
「エーット……あれ? こうじゃないか……あれ? あ、すみません、メールでもいいですか?」
「ンフフ。いいですよ」
僕の情けない姿を見ても、いつも笑ってくれる。可愛いのみならず、すごく優しい。
その後、毎日のようにメール交換が行われた。あまりにも上手くいきすぎて疑問にさえ思う。僕は騙されているのか、それとも遊ばれているのか。
「次の土曜日に映画に行きませんか?」
思い切って誘ってみた。少女は快くOKしてくれた。
当然何を観るかという話になり、僕が読んだことのある本を原作とする純愛ものの邦画を提案すると、「私もちょうど観たかったんです」などと言ってくれて、それが本心かは解らないが、少女の優しさに僕は更に心を打たれた。
そして土曜日。終盤で少女は涙を見せていた。僕は思わずひじ掛けに置かれた少女の左手を握ってしまった。が、嫌がられることはなかった。
その後も何度か2人きりで会った。その都度僕は性格ゆえの不手際が目立ったが、少女は僕の全てを受け入れてくれるかのように何も文句を言わなかった。騙されているとか遊ばれているとかそんな考えは次第に頭の中から消えていき、純粋に少女を想う気持ちだけが残っていた。臆病者の僕が思い切って少女に告白しようと心に決めるまで一ヶ月もかからなかった。
「……ごめんなさい。ずっと黙っていたことがあります」
2月の風が吹き抜ける川沿いの公園で、悲しそうな顔を浮かべる少女。告白は失敗に終わったかのように思えたが……。
「……私の命、そんなに長くないんです」
「えっ」
「私、末期の肝臓がんなんです。医者には治療は不可能と言われて、今は毎日薬を飲んでいるだけです。余命は1~2ヶ月。早ければ、あの木から桜が舞う頃には、もう……」
少女の視線の先には、この公園に一本しかないソメイヨシノ。
「実は私も……中村さんのことが好きです。でも、いつ終わるか解らない恋に、あなたを巻き込ませることなんてとても出来ません」
「………」
あまりの衝撃に僕は一瞬言葉を失ったが、すぐに口を開いた。
「それでもいいです。期間なんて関係ありません。僕は西岡さんと一緒にいたい。ただそれだけなんです。どうか、お願いします」
僕等の恋は、いつ終わってもおかしくない恋はここから始まった。常に貪欲になり、行きたい場所、やりたいことは我慢せずに何でも実行した。そして、不思議なことに僕等は喧嘩することは全くなかった。不器用な僕が少女を一度も傷付けなかったと言えば嘘になる。だが少女の怒った顔は一度も見たことがない。そんな少女の優しさに応え、僕も少女に対して怒りを露にすることはなかった。
あっという間に一ヶ月が過ぎ、僕等は再び川沿いの公園に来ていた。ソメイヨシノの蕾は膨らみ、ところどころ花が咲いていた。
「僕が告白したのはこのあたりでしょうか」
「アハハハ、懐かしいですね」
実は翌日から入院する少女を前に、僕は初めて自らの過去を話す決心がついた。
「僕は去年まで学校でいじめに遭っていました」
「えっ」
「そんな僕を支えてくれたのは母、ただ一人でした。でも去年、その母も死にました。10年以上も前に離婚している父にその事実が行き届くわけも無く、僕は完全に孤立しました。本を読み漁る日々はそれから始まりました。友達の居ない学校でも一人黙々と本を読むようになり、そんな僕を同情してくれたのか、いじめも無くなりました。もう僕には本しか無いと思っていました」
「………」
「でも、西岡さんと出会ってからは考えが変わりました。一人の女性の為に生きることがこんなに楽しく嬉しく、幸せであるのだと気付きました。こんな気持ちになれたのは生まれて初めてですし、全部西岡さんのお陰です。本当にありがとうございます」
それを聞いた少女は、映画の時以来の涙を見せた。
「……あ、ありがとう…………私も、本当にありがとうございます」
僕等は自然と抱擁し、初めての口付けを交わした。
「お見舞い、必ず行きますから。会える日と時間が分かったら教えて下さい」
「……ハイ」
「この木から桜が舞う頃に、医者に許可を貰ってもう一度2人で見に来ましょう」
「……そう、ですね」
翌日の昼過ぎ、駅で少女と別れた。そのまま病院に向かったようだ。
短い間だったけど、良い夢を見ることが出来た。
後になって、これで終わりなら良かったと後悔することになるとも知らずに。
異変はその翌日から起きた。月曜の夜に僕から少女に送ったメールの返信が、3日経っても送られてこない。電話をかけてもいつも「電源が入っていません」というメッセージ。お見舞いに行って良い日時も一向に教えてくれない。
これは変だと思い、金曜日、学校を半日で早退して少女の言っていた病院に直行した。しかし、
「西岡結衣さんですか? そのような方は入院されていないようですが……」
受付のその言葉に僕は愕然となった。今、少女はどこにいるのか。他の病院なのか、それとも実家か、それともまさか……。
「急患です! 急患です!」
急にあたりが騒がしくなった。運ばれてきた患者はよく見えなかったが、
「21歳の女性が急性薬物中毒の疑いあり!」
「結衣! しっかりしろ! 結衣―!」
付き添っていた医者と父親らしき人の台詞で少女だと確信し、僕を更に驚愕させた。一体どうなっているのか。
病室で点滴を打たれたまま目を覚まさない少女。頭を抱える少女の父親。恐る恐る僕は話しかけた。
「あの、すみません……僕は結衣さんの……その……」
「お前が結衣の言っていた男か。お前が殺ったのか」
「え、ちょっと待って下さい、誤解ですよ」
「結衣は自殺しようとしたんだぞ」
「えっ」
なんと少女は今朝、実家の自分の部屋で精神安定剤を100錠も服用して倒れていたのだ。その3時間後に発見した母親が慌てて119番と会社にいる父親に電話をかけたのだ。
「お前が自殺に追い込ませたんだろ!? そうなんだろっ!?」
「イヤ、ちょっと待って下さい。そもそも結衣さんは末期のがんで」
「ハァ!? 何を言っているんだ!」
「イヤ、結衣さん、末期の肝臓がんって言っていましたよ」
「んなわけねーだろボケがあ!」
そう言うと父親は僕を殴った。もう何がなんだか解らなかった。まさか、がんは嘘だったのか。
「あなた、待って! その男は何も悪くないわ!」
そこへ少女の母親らしき女性が現れた。
「これを見て! 結衣の部屋から見つかったものよ」
母親は、父親と僕に一枚の手紙を見せた。
>両親へ
>
>遺書なんて重々しいものはとても書けないので、手紙という形で書かせていただきます。
>最近、胃の痛みが激しいです。しょっちゅう吐き気もします。食欲もあまり出ません。
>大学の友達もいつからか連絡をくれなくなって寂しいです。
>講義にもついていけず、単位は足りず、卒論も未完成なので留年は確定です。
>何をやっても楽しくないし、頭が常に重いし、生きている実感がありません。
>精神科医に貰った薬は効いていないみたいです。
>そんな絶望的な状況の中、追い討ちをかけたのが同じ大学の元彼です。
***
「人生で最高の人に出会えた」
その一言から私たちの関係は始まり、その一言が彼のピークでもあった。彼は次第に本性を露にし、毎日喧嘩をするようになるまで時間はかからなかった。そして、
「どうして解ってくれないの」
「お前みたいなマリー・アントワネット気取りする女は嫌いだ。もう消えてくれ」
単位のことや精神科に通っていること、悩みを話せば話すほど逆効果になり、2ヶ月も経たないうちに別れは訪れた。その夜、私の鞄に青いリボンでラッピングされた小さな箱が入っていることに気付いた。これをやるから二度と現れるなという彼の最後のメッセージなのだろう。当然受け取るわけにはいかず、返す為に翌日再び彼の家に行った。今なら気持ちも落ち着いて改めてくれるかもしれない。その考えは浅はかだった。ドアから出てきたのは彼と、30歳前後と思われる女性の二人だったのだ。
***
>元彼と別れた日、私は全てが嫌になり、1~2ヶ月後には自殺すると決めました。
>今更ですが、勝手に家を出てしまってごめんなさい。
>あれからアパートを借りて一人暮らしをしていました。
>隣の部屋に住んでいたのが今の彼・中村雄介さんです。
>中村さんが私に好意を抱いていると気付くのに時間はかかりませんでした。
>こんなダメ人間な私でも、死ぬ前に何か人の役に立ちたいと思い、
>人生の最期は中村さんのために生きようと心に決めました。
>中村さんに告白された時、余命が最短で1ヶ月の肝臓がんだと嘘をついてしまいましたが、
>それでも中村さんが「付き合って欲しい」とお願いしてきたので、それに応えるべくOKしました。
>一緒にいた日々が、中村さんに尽くした日々が、どれも最高に楽しかったのは事実です。
>やっと人の役に立てた。もう思い残すことはありません。
>この手紙を書いた後、薬をたくさん飲んで安らかに眠りにつきます。
>さようなら。そして、ごめんなさい。
>
>結衣
「なんだよ……死にたいんだったら僕に相談してくれれば良かったのに……」
すると父親がおもむろに口を開いた。
「さっきは殴ってしまってすまなかった。結衣は悩みを人に話さずに、自らの心の内に仕舞い込む娘なんだよ。昔からそうだった。中学、高校といじめられていた時も、先生に言われるまで俺も母さんも知らなかった」
「え、結衣さんもいじめに遭っていたんですか?」
「やはり聞いていなかったか。結衣は昔から救われない娘だった。5日前、突然家に帰ってきた日に『やっと私に彼氏が出来たの』と喜んで報告していたけど、その笑顔が尚更俺と母さんを不安にさせたよ。本当は上手くいっていないんじゃないか、暴力に遭っているんじゃないかって。勝手に疑って申し訳ない。この手紙を読んで解ったよ。君は間違いなく結衣を幸せにしてくれたということがね」
――3時間後、心電図は直線になった――
少女の両親は号泣したが、僕の目からは不思議と何も出なかった。
病院を出た僕は、例の難解な本を読みながらただひたすら歩いた。知らない道でも構わず歩いた。赤信号も気に留めず歩いた。夜が更けても歩いた。山道、畦道、凸凹の道、そして線路の上も歩いた。何も考えられず、読んで歩くことしか出来なかった。そして夜の12時、やっと最後のページを読み終えた僕は川沿いの公園に辿り着いていた。
「中村さーん」
薄っすらと、少女の姿が見えた。
「ねえねえ見て下さい、満開ですよ!」
少女の視線の先には、この公園に一本しかないソメイヨシノ。
――こんな理不尽な別れが待っていたなら、最初から出会わなければ良かった――
一週間後、僕の父が突然現れた。
「去年再婚し、妻の連れ子・聡史は大学4年で2人の彼女が居た」
「それってまさか」
「そう、そのうちの一人が西岡結衣だ。そしてもう一人は新宿でホステスをやっている29歳。西岡とは対照的に聡史は成績がとても良く卒論も一年前には完成させていたが、極度の人見知りが災いし就職だけは決まらなかった。彼の不安に漬け込んだ悪女が出会い系サイトで知り合ったホステスだ。『同い年の彼女と別れて私と結婚してくれれば生涯安定よ』などと脅されたのだろう」
「そういうことか……」
「西岡の死を知った聡史はその3日後、家を出て行ったよ。最後にこう言い残してな。
『本当の息子さんに伝えてくれ。
西岡の私物にダイヤモンドの砂時計があるはずだから受け取ってくれ、と』」
その一言で僕は全てを悟り、初めて目から涙が零れ落ちた。ダイヤモンドの砂時計は既に受け取っており、おそらく聡史さんが手切れ品として少女に渡したもの。僕が一ヶ月以上もかけて何とか読み終えた『夜と霧』の著者であり心理学者のヴィクトール・E・フランクル氏は人生を砂時計に例えた。細くなった部分が現在で、上に残っている砂が未来、そして下に流れ落ちた砂は過去。つまり、迫り来る苦悩から逃げずに今を生き抜いたとき、過去はその人の人生を豊かにするかけがえのない財産になるというのだ。少女と同じ社会学部に通う成績優秀な聡史さんなら知っていてもおかしくはない。キラキラと輝く砂時計そのものが、多くの悩みを抱える少女への、コミュニケーションが苦手な聡史さんなりの最後のメッセージだったのだ。
「これからどうする。聡史も居なくなったことだし、うちで暮らしてみないか」
「わざわざ伝えに来てくれてありがとう。けどもう帰ってくれ。12年間見捨てておいて、こんな時だけ頼ってんじゃねーよ。僕は誰にも頼らず一人で生きてやるよ」
少女と出会わなければ良かったなどと後悔してはならない。少女と過ごした一ヶ月はかけがえのない財産だ。そしてこれからも“苦悩”を“財産”にどんどん代えていこう。それが僕の生きる理由だから。
(Fin.)