中野坂上の駅から丸ノ内線に乗った。
丸ノ内線といえは荻窪から東京を経由して池袋を結ぶ地下鉄である。
この路線以外に中野坂上の駅からわずかだけ伸びた支線がある。距離は3キロ、乗車時間は6分程度の盲腸線だ。
終点は方南町と言って杉並区の小さな町。他の路線との接続もない小さな駅らしい。
今回はこの支線に乗って、旅をはじめようと思う。
行先も決めずに、行ってみよう。
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中野坂上の駅で改札を済ませて階段を下ると、真ん中のホームに3両編成の小さな列車が止まっている。
赤のラインカラーは丸ノ内線と同じだ。
がらんとした車内に入ってシートに体をうずめると、間もなく列車は出発した。
低い音をシートに響かせながら、本線の軌道を逸れて進む。
ここからは未知の世界。暗い闇の中をゆっくりと走る。
地下を走っているから、何か変わった風景に出合う事もない。
ただ、ゆっくりと知らない街へと私を連れて行く。目的地までの景色を見ることのできない地下鉄はまさにワープそのものだと思う。6分間の長いようで短いワープだ。
終点の方南町駅に着くと、ホームは頭端式だった。軌道は数メートル先でぷつりと切れている。
終わりにしてはなんとも中途半端な、寂しい駅である。
私を乗せて来た列車はまもなく、「この先のことは君に任せるよ。」と私にこの先のすべてを託して、新たな乗客を乗せて去っていった。
この中途半端を先へと繋げるべく、私はさっそく改札を出て歩くことにした。 ここからは自分次第の旅。
地上に出ると、周辺には新宿のように巨大なビルもなく、上野のように観光地があるわけでもない。乗換駅があるわけでもない。
あるのは何の変哲もない商店街と住宅地。きっとこの機会がなければ訪れることのなかった町だろう。
私が一人この町で浮いているような気持ちになる。
きょろきょろしても知っているものは何も見つかるはずがないからとりあえず歩いてみる。
歩いたら何かに出会うはず。
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しばらく歩いているとコンクリートに両岸を固められた小さな川に出合った。
どこにでもある様な川だが、川沿いには遊歩道が整備されている。あまりにもきれいな遊歩道だったからこの川沿いを上流に向かって歩くことにした。
川に架かる橋には「神田川」と表記されている。聞いたことのある川だ。きっと下流に進めば東京の中心部に辿り着くに違いない。
外はもう日が暮れてしまって、わずかに明るい西の空が切ない。
遊歩道にはたくさんの人が行き交っていて、買い物袋を提げて自転車を漕ぐ主婦や犬を連れた老人、皆帰り道の途中のようだ。
時間が経って、すっかり夜になると川沿いを歩く人がいなくなった。
周囲の景観は何も変わらないはずなのに。誰ともすれ違う事もない。誰もが家に帰ってしまったのだろうか。
もし季節が夏ならば虫の鳴き声が賑やかだったかもしれない。
しかし、今聞こえるのはわずかな川の流れと、遠くを走る車の音だけ。
日の暮れた時間に知らない場所にいるというのに、寂しくも少しだけ心地よいのは何故だろう。
川という存在が安心感を与えているのだろうか。それとも、日々の一定サイクルから逃れていることが気持ちを楽にしているのかもしれない。
難しい話は置いておいて、今は何も考えずに歩ける。
川は緩やかに蛇行し、どこまでも続く住宅地を抜けていく。
この川の始まりを見てみたいという気持ちでいっぱいだが、時間があれなので一時間程度歩いて帰ることにした。
しかし、同じ場所へ戻るのはつまらないので、神田川と別れを告げ空の明るい方向を目指して歩き始めた。
車通りの少ない暗い道をしばらく進むと大きな道に突き当たった。
道路をオーバーパスする歩道橋には甲州街道と書かれている。暗い所に目が慣れていたので、道を照らすオレンジ色の明かりが眩しい。
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甲州街道を渡ると、京王線の下高井戸駅に着いた。
商店街のある賑やかな街だ。駅前市場と言って駅から出てきた人々や自転車でやって来た主婦たちで賑わっている。色々な匂いがする。
この駅から京王線に乗って新宿に戻ることもできるが、もう少しだけ歩きたかったので通過する。
下高井戸の駅からは路面電車の様な世田谷線に導かれながら線路沿いを歩く。
静かな住宅街をカラフルな低床車両がゆっりと私を追い越していく。
またも、主要街道などがない静かな場所だ。
先程の神田川と一緒で、何かに寄り添って歩くのは安心感がある。
私は光に吸い寄せられる虫のように列車を追って三駅分歩いた。
「山下」と呼ばれるその駅の隣には小田急線の豪徳寺駅があった。
見覚えのある高架線には、いつもの青い列車が走っていて、いつもの混雑した列車が私を迎えてくれた。その車内へと足を踏み入れる。
まさか知らない街の終着駅から歩き始めて、こんな結末を迎えるとは思わなかった。何があるかわからないものだ。
小田急線の揺れが私を現実へと引き戻していく。
それは嬉しくもあったし、すこしだけ鬱陶しくもあった。
初出
紀行文「今日は歩こう」 武蔵大学文芸部2013年新歓号
横書きへの変更にあたり加筆訂正を行いました。