ヨネヤマママコさん
ママコさんの生の舞台に初めて接したのは、1972年にアメリカから帰国されて間もない頃で会場は渋谷のジャンジャン、私がマイムをはじめて5年目、25 歳の時ですね。大先輩としてお名前は師・佐々木先生からも何度も聞いていたし、子どもの頃に NHKテレビの「パック」も見た記憶があって当然よく存じ上げていました。
根っからの捻くれ者の私は、初めてのママコさんの舞台を凄く楽しみにしつつも、大先輩の舞台を心ときめかせながら見ようというのではなかった。 「契約結婚」で芸能誌を騒がせ、海外で活動する「有名人」ママコさんは一体どのようなパントマイムをされるのか、どことなく斜に構えながら確かめに行った様な感じでした。 不遜ですよねえ、若気の至りでした。
その舞台で何と私は「ママコさん、それは違うでしょう!」と思ったのです。それは最期にご挨拶をされたときに「今日は有り難うございました。でも私は体調が悪くて満足なステージをお見せ出来ずにごめんなさい。」と言うようなお話をされたのです。ママコさんとしては純粋に、ご自身の納得がいく舞台ではなかった事へのお詫びだったと思います。
でも私は「えー、と言うことは不満足な舞台を見せられたのか・・・」と受け止めたのです。
私はその日をママコさんの舞台のために空けて見に行った。
ママコさんの体調なんて私には関係ない、その日の精一杯の舞台を見せて貰えればそれで良かったのです。
アメリカから帰ってすぐで体調も十分ではなかったのでしょう、でもそれは聞きたくなかったと言うのが正直な気持ちだったのです。
だってママコさんは舞台に現れたその瞬間から輝いていたし、何よりも私は充分にママコさんのパントマイムを楽しんだのですから。
舞台は常に「一期一会」、そのときその場限りの出会いです。
以来私は何があっても言い訳はしないと心に誓いました。
「体調が悪ければ私の責任、出来が悪ければそれも私の責任、お客様はそのときのために来て下さっているのだから、例えしくじったり出来が悪くてもこれが今日の私のすべてですと、そのときに出来る精一杯の舞台を観て戴くしかないのだ」と。
そんな私でしたから以降ママコさんの舞台を敢えて観に行こうとはしませんでした。
そして何年かが過ぎたときに何とママコさんから「十牛」という作品に出ないかというお話を戴いたのです。
結婚もし小さな二人の子も居たときでした。当時の連れ合いもパントマイムをしていたので一緒にと言うことだったのだけれど、そうなるとその子らを預けるところがなく、稽古に連れて行かざるを得ない状況になったことがあったのですが、それはママコさんには認めがたいことだったのですね。これはもう致し方のない考え方の違い、私たちは稽古も進んでいた折角の共演のお話を本番間近で降りざるを得ませんでした。
人生で一度きりのチャンスだったのですけれど、当時の私には子どもを育てる事もマイムをすることもどちらも大事、どちらを取るかというような話ではなかった。でもママコさんの舞台に対する姿勢も納得出来たので、この件は私にはママコさんとの貴重な出会いの思い出として大事にしてきました。
ママコさんはさぞかしお気持ちを害されただろうな、とその後ずーっと心に引っかかっていたのですが細川さんが銀座で企画された「マイムフェスティバル」で舞台をご一緒する機会を得、数年ぶりにお目に掛かったママコさんは、何ら屈託のない笑顔で接して下さり漸く長い間の心の棘が取れたのでした。
そのような経緯から私はママコさんとは殆ど親しく接することがないままでしたので、ここに追悼のお言葉を掛けるようなエピソードも無いのです。
それはそれとして、私が始めた頃でさえパントマイムと言えばヨーロッパの物、そしてイコール「マルセル・マルソー」で日本ではまだまだマイナーな表現分野でした。それは残念なことに今も変わりませんが、その未開の地を先頭に立って切り拓いて来られたママコさんは、地味なパントマイムの原っぱに咲いた色鮮やかな花の様な方だったと思います。と同時に、ただ華やかだっただけではなく、パントマイムに対する真摯な姿勢に多くの刺激を戴きました。
近年お体を悪くされていると伺い、気になりつつもご無沙汰をしたままでお別れとなってしまいました。舞台に立たれるお姿を観たいと思いながらも、ママコさんはただ居て下さるだけで私の大きな励みでした。
ぽっかりと空いてしまった穴は、やはりパントマイムを通して私自身で埋めていくしかないですね。
「ママコさん、有り難うございました。」
清水きよし