2022年11月27日、上賀茂の梅辻家住宅の特別公開があるのを知って、一人で出かけました。嫁さんは勤務日なので「のんびり歴史を楽しんでくださーい」とおどけて送り出してくれました。
地下鉄で京都市役所前まで乗り、そこのバス停で市バス4系統に乗って、上賀茂神社前で降りました。が、飲み物を持参するのを忘れたことに気付き、来た方向へ引き返して御園橋を西へ渡り、西詰交差点の辻にあるローソンへ行きました。買物の後、再度御園橋を渡って大鳥居前参道筋に進み、上図の写真を撮りました。
上賀茂神社の大鳥居より一の鳥居を拝みつつ、そのまま東へと通り過ぎました。少し行くと池殿橋を渡りました。上賀茂神社境内を南へ流れる小川「ならの小川」が池殿橋のたもとで分岐して明神川と名を変えて、東に流れています。西へと分かれる流れは、そのまま賀茂川に合流して終わりますが、東に流れる明神川は、古い街並みの構成要素となって現地の景観を形作ります。
その古い街並みが、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、上賀茂伝統的建造物群保存地区の名で呼ばれています。上図はその中心街路となる上賀茂本通り(藤ノ木通り)で、その南辺に沿って明神川が流れています。
明神川には、並ぶ家々の玄関口からの石橋が架かって並びます。この独特の景観が上賀茂伝統的建造物群保存地区の特徴でもあります。
この街並みは、上賀茂神社の東に位置して、室町時代より発展した門前集落からの歴史を伝えています。明神川沿いに、神官の屋敷である社家が建ち並んで社家町を形成しています。
通りからは、明神川を隔てて社家のそれぞれの玄関口である門と土塀が連なって見えますが、その奥には社家の主屋以下が建って切妻造、平家建、妻入という特色ある形態をいまに残している所もあります。幾つかの社家は退転して空き地となっているようですが、敷地を囲む土塀、庭園、門、明神川にかかる土橋などはなお保たれて、独特の歴史的風致を構成しています。
この街並み地区は、江戸期には270戸余りを数えて栄えたとされていますが、明治期の神仏分離策に伴う諸措置によって社家の世襲制が廃止されてからは、戸数も減少の一途をたどりました。
現在も残るのは約30戸ほどで、なかには所有者が替わって建物が取り壊された所も含まれます。この約30戸のエリアに保存維持のカバーをかけるようにして、上賀茂伝統的建造物群保存地区が指定されたわけです。
明神川が辻に沿って南へ折れる辺りまでが、上賀茂伝統的建造物群保存地区の指定範囲ですが、古い街並みはその外回りにも広がっており、社家の遺構も幾つか点在しています。そのなかで特に古い建物を伝える社家が三ヶ所あって、京都市の指定文化財に登録されています。井関家住宅、岩佐家住宅、そして今回行く梅辻家住宅です。
その梅辻家住宅は、上図の辻から上賀茂本通りをさらに東へ、まっすぐ約100メートルぐらい行った左側にあります。
梅辻家住宅の門前に着きました。門は長屋門形式で、薬医門が多い上賀茂の社家のなかでは珍しい構えです。長屋門は上賀茂地区では他に1棟があるのみで、上賀茂の社務職の上位である「賀茂七家」の格式をしのばせます。「賀茂七家」とは後鳥羽天皇の血筋を汲み、鎌倉期より上賀茂社の宮司を持ち回りで務めたという家柄の七家を指します。
令和四年度の京都非公開文化財特別公開の対象施設に含まれており、長屋門の東側に上図の案内看板が立てられてありました。
私自身は、京都の神社の関連の社家の建築遺構というのは、これまで下鴨神社の社家であった旧浅田家住宅しか知りませんでした。そちらは鴨社資料館および秀穂舎として時々一般公開されていますが、こちらの梅辻家住宅のほうは、現在も所有主が住んでいるために公開期間も限られ、かつ不定期で、なかなか機会を得られなかったものです。
長屋門から中をのぞいてみました。正面に主屋の玄関にあたる式台が見えました。そこが特別公開の受付になっているようでした。 (続く)