三門の次は仏殿に行きました。仏殿は普段は正面外側まで行けて内陣も拝めますが、今回の特別公開では内陣に入れるということで、これまた稀有の機会でした。
仏殿の内陣の様子です。中央の須弥壇上に本尊の釈迦如来坐像が安置されています。その釈迦如来坐像は、大徳寺の基本史料である「竜宝塔頭位次」によれば、豊臣家が建立した方広寺の大仏の1/10スケールの試作品として大仏製作を手掛けた仏師玄信が製作したものであるそうです。
その試作品の像は、いつしか徳川家で保管されていたようで、江戸期の方広寺の再建に際して将軍徳川家綱が大徳寺に寄進したと伝わります。再建された方広寺に安置出来ない何らかの事情があったのでしょうか。
仏殿そのものは、大徳寺一世の徹翁和尚により創建されましたが、応仁の乱までに二度焼失し、文明十一年(1479)に一休和尚の参徒であった堺の豪商の尾和宗臨により再建されました。さらに寛文五年(1665)に播磨国の檀徒であった那波九郎左衛門常有が再建したものが、現存の建築にあたります。
内陣の天井には、いまは退色や剥落などで見えにくくなっていますが、円環内に東西に一対の飛天(天女)が描かれています。作者は古法眼こと狩野元信とされています。この飛天図の部分は、文明十一年(1479)に堺の豪商の尾和宗臨が寄進して再建した以前の仏殿からの再利用であるそうです。
建物は典型的な禅宗様を示しています。平面規模は桁行三間、梁間三間で、屋根は入母屋、本瓦葺で一重、裳階付ですので、内部に入ると天井が非常に高いのが分かります。そのぶん空間が広く感じられ、禅宗で重視されるところの「悟道」の精神的結界空間が意識されています。
U氏が主屋の列柱の柱を順に凝視していて、「柱に妙な模様みたいなのが見えるが、あれ何だろう」と小声で訊いてきました。木目と油煙と煤とが模様のように見えるんじゃないか、と答えておきました。
案内人に率いられた一行がさっさと次へ行ってしまっても、U氏と二人で一分ほど内陣にとどまって天井や裳階の内部などを見上げていました。私はともかく、水戸のU氏にとってはなかなか行ける場所ではありませんから、この機会にじっくりと見学しておきました。
外に出て、柱間の桟唐戸や火灯窓などをじっくり近くで見ました。縁側はなく、内部も土間であるのが禅宗様建築の特徴の一つです。
U氏が指差して「何と書いてある?」と訊いてきました。上の大きな二文字はすぐに「仏殿」と読めましたが、下の小さな文字の羅列は読むのに手間取りました。右が「重文」で中央は「寛文五年」、左は「再建」のようでした。要するに現在の仏殿の文化財指定区分と再建年代を示してあるわけです。
さらにU氏が感動しながら眺めていた火灯窓と、その上の柱間の波状弓欄間。柱上の組物は出三斗。中備えの詰組は、平三斗です。
U氏は地元の水戸市でもこうした古い社寺建築を見て回るのが趣味の一つで、ともに京都造形芸術大学で学んでいた頃は自由研究の課題レポートを全て古建築関係でまとめていたほどです。なので、20年余り経ったいまでも、本場の京都や奈良の古社寺の建築を見て回るのが嬉しくて楽しくて仕方がないそうです。 (続く)