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「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

紫野大徳寺26 大徳寺方丈唐門

2023年12月25日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 大徳寺本坊伽藍の特別公開におけるラストは、一番の目玉である国宝の唐門でした。もともと一般公開区域の範囲外に位置しているうえ、平成11年から四年間にわたって修理を受け、その後の十数年も非公開とされ、さらに令和2年から方丈が6年間の解体修理に入ったこともあって、方丈正面の玄関口に位置する唐門も非公開区域に含まれています。

 今回の特別公開では、その唐門を近くまで行って見られる稀有の機会ですから、U氏や私だけでなく、拝観客の大多数がこの唐門を目当てにしてやってきていた筈です。

 

 俗に、京都の国宝の三大唐門というのがあります。古社寺名刹の多い京都には、唐門に限っても名建築と謳われる遺構が少なくありませんが、とくに国宝に指定されている、安土桃山期の立派で豪華な三棟の唐門が有名です。西本願寺の唐門、豊国神社の唐門、そしてここ大徳寺の唐門です。

 京都ファンや古社寺巡礼マニアの間では、この国宝の三大唐門を見なければ京都に来た意味が無い、とまで言われているようですが、実際にいつでも見られるのは西本願寺の唐門、豊国神社の唐門の二棟だけで、ここ大徳寺の唐門は滅多に見られません。

 

 その国宝の三大唐門の共通項は、いずれも豊臣秀吉政権が建立した聚楽第または伏見城の門であったと伝えられている点です。その真偽はともかく、建立時期そのものは解体修理や文化財調査などの所見によって豊臣期にあたることはほぼ確定しています。豪華絢爛な唐門建築を好んで建てた豊臣秀吉の治世期以外に、こういった唐門が建てられることが有り得ないのも理由の一つですが、次の江戸幕府徳川家が建てた日光東照宮以下の建築の豪華絢爛さとは性格が異なっている、という指摘も多いそうです。

 個人的には、豊臣期の豪華絢爛さを一言で形容すれば「雄大で大らか」、徳川期の豪華絢爛さとは「繊細にして華美」と解釈しています。江戸期の日光東照宮や三峰神社の諸建築を見て感じたのは、徳川期において豊臣期への対抗意識から豪華絢爛さを競ってはいるが、豊臣期建築の特色である「伸びやかさ」までは模倣し得なかったようで、細部にわたり細かく彫り物や装飾を施して全体的には「せせこましく」なっている傾向がある、という点でした。

 

 なので、今回この大徳寺唐門を見て、やっぱり大らかで伸び伸びした雄大な気宇があるな、と感じました。そのことをU氏に言うと何度も頷いていて、「やっぱ、そういう時代だったもんな」と応じてきました。

 U氏の「そういう時代」とは、端的に言えば「大航海時代」を指します。豊臣政権期とは、南蛮つまりスペイン、ポルトガルなどからの貿易船や宣教師の動きが「大航海時代」のピークに達してアジアにも活動範囲を拡げて日本にも渡来し、さまざまな技術や文化をもたらして織田信長の天下統一事業にも関与して日本の近世をスタートさせた安土桃山時代の後半期にあたります。南蛮諸国の建築様式にも影響を受けた、雄大な建築への志向が高まった時代です。

 それが、次の徳川政権期には鎖国、伴天連追放、と真逆の施策に転換して外国文化への意識も封印してしまうのですから、「大航海時代」の恩恵に浴した豊臣期建築の特色である「伸びやかさ」までは模倣し得なかったのも当然と言えましょう。

 

 案内人の説明のなかに、この門が当時は「葡萄門」と呼ばれた、というのがありました。U氏が「なるほど葡萄か、うまいこと形容したんだな、実際に葡萄の彫り物とかがあるんかね」と言いつつ、双眼鏡で観察していましたが、「うーん、葡萄は見当たらんな」と言いました。

 それもそのはず、唐門の装飾意匠のなかに葡萄はありません。彫り物の植物の意匠は唐草と牡丹がメインで、あとは仙人や天女、霊獣、鳥類、魚介類が天地自然の描写のなかに配置されています。それらの彩色配置の下地の黒漆の色が全体的に茶色っぽく見えて葡萄色に近いので、葡萄門と呼ばれたのだろうと思います。

 

 この唐門は、平成11年からの修理で小屋根裏から発見された慶長八年(1603)の棟札によって由来が判明しています。
 要約すれば、大徳寺第129世住持の天叔宗眼が天正から慶長の頃に塔所(塔頭、住房、墓所などの通称)として大慈院を創建し、その際に天叔宗眼の帰依者のひとりである村上周防守頼勝から「官門」を賜り、それを先師が創建した興臨院の総門として寄付した、という内容です。

 実際、この唐門は、明治十九年(1886)に現在地へ移築されるまでは、龍源院の北側の辻、興臨院や大慈院への参道の入り口に建っていました。それまで方丈南面には明智光秀が寄進した唐門があって明智門と呼ばれていましたが、明治十九年の開山五百五十回忌に際して明智門を南禅寺金地院に譲り渡して移したため、その跡地へ現在の唐門が移されてきたわけです。

 なお「官門」とはいわゆる朝廷や幕府などの公的施設の門を指した用語で、豊臣政権期の政治本拠であった聚楽第や伏見城の門も、公的には「官門」と見なされます。村上周防守頼勝から「官門」を賜ったというのは、豊臣秀吉の重臣堀秀政の与力であった村上頼勝から聚楽第か伏見城の門であったものを賜った、という意味になります。

 この大徳寺唐門は、昔から聚楽第の遺構であるとの伝承があって、江戸期には「日暮門」とも呼ばれていたことが古文献などから知られますが、「日暮門」とは「雍州府志」(江戸期の山城国に関する地誌事典)には聚楽第の門の号である、と述べられています。これが史実であれば、「官門」の用語にも矛盾はありません。

 それを大徳寺側では「葡萄門」と言い換えているわけですが、言い換えたのは何らかの事情があったためでしょうか。おそらくは、滅亡した豊臣家と政権に就いた徳川家の双方に対する思慮が介在したのだろう、と個人的には受け止めています。

 

 ちなみに、大徳寺に「官門」こと現在の唐門を賜った村上周防守頼勝は、出自がはっきりしませんが、河内源氏の流れをくむ信濃村上氏との関連が江戸期の武家系譜集成である「断家譜(だんかふ)」に述べられ、戦国期に上杉謙信の与力となった村上義清が外祖父にあたると言われます。

 確かなのは、織田信長政権期において重臣の丹羽長秀に仕え、後に豊臣秀吉の与力となり、丹羽長秀の没後に嫡子長重に替わって越前北ノ庄城へ入部した堀秀政の与力大名と位置付けられていた経緯です。豊臣秀吉政権期にもその位置は変わらず、堀秀政の後を継いだ嫡子堀秀治の与力として後に越後本庄に領地を与えられています。つまりは豊臣政権を担った重臣のひとりであったわけです。
 関ケ原合戦では堀秀治とともに東軍に属し、徳川家康から所領を安堵され、後に越後村上藩の初代藩主となっています。

 このような重要な人物であれば、慶長の頃に「官門」を大徳寺に賜ることが出来たのも当然でしょう。豊臣政権期の聚楽第や伏見城は廃城になったわけですから、その関連の門を他へ移築させることも可能でしたが、それに関与出来たのも豊臣政権期の重臣格であったからこそのことでしょう。ひょっとすると、村上周防守頼勝自身が、聚楽第や伏見城の「城じまい」の処理業務に携わっていた一人だったのかもしれません。

 

 今回の特別公開見学では、唐門を囲む柵の出入口も開かれて、見学者は唐門の真下に行って門の細部や装飾を間近に見ることが出来ました。

 U氏はすっかり感動にひたっていて、「治部少輔(石田三成)も右京大夫(佐竹義宣)もこの門をくぐったのか」と小声で言いました。もはや聚楽第の門だったと思っているようでしたので、私が「(聚楽第の)唐門なら身分や格式は限られる。皇族か、秀吉本人の為の門だったと思うな」と話すと、ああ、と弾かれたように背筋を伸ばして「なるほど、それはそうだ。君のほうが正しい」と何度も頷いていました。

 この唐門は四脚門ですので、有職故実の慣例にしたがえば、中納言か、三位相当の高官でなければ設けることが許されない最高格式の門にあたります。豊臣政権期において城館や邸第(屋敷)に四脚門を設ける事が出来た武家は5人しか居ません。
 挙げれば、豊臣秀吉(関白太政大臣)、織田信雄(内大臣)、德川家康(大納言)、豊臣秀長(大納言)、豊臣秀次(中納言)となり、この5人だけが大徳寺唐門クラスの四脚門を通れるわけです。石田三成は従五位下、佐竹義宣は従四位上でしたから、四脚門を構える身分ではありませんし、通ることも許されません。

 それにしても、よくぞ今日まで残ってくれたものです。豊臣家を完璧に殲滅して滅ぼすことに全力をかけた徳川家康も、豊臣家関連の建築に関しては破却するどころか転用するか移築するかしての再利用を認めています。お蔭で現在も相当数の建築遺構が伝わって、殆どが国宝や重要文化財に指定されています。

 おそらく、豊臣政権期の贅沢だが大らかで伸び伸びした志向のある、見応えもあって心を打つような建築だったからこそ、徳川家康も格別の配慮をもって応えずにはいられなかったのでしょう。江戸期の初めごろに徳川家が関与した社寺建築がいずれも似たような豪華絢爛の風をまとっていたのも、豊臣期の煌びやかな建築群の素晴らしさの真髄が、德川家にも評価され継承されていったからではないか、と思います。

 

 国宝の大徳寺唐門、初の見学でしたが、初めて知る情報量も半端なく、様々な考究と解釈の種を豊富に貰えた、という気がしました。
 他の見学者たちの多くは、これで京都の国宝三大唐門を制覇した、などと話していましたが、私自身はこれほどに濃厚な安土桃山時代の気宇壮大さや美意識の感覚というものを建築遺構を通して本格的に理解したのが初めてのことであったので、そちらのほうが衝撃的で、大きな感動として心に残りました。

 何よりも、聚楽第や伏見城クラスの建築でないと持ち得なかった要素や特徴が、大徳寺の唐門を見れば一目瞭然であったのでした。建築の様式や細部意匠はもちろん、彫り物の傾向や彩色のしつらえの特色などが、他の時代のものとは明確に違っていて、天下布武への美意識が建築に反映されるとこうなるのか、と理解出来ました。

 この唐門が、安土桃山時代後半期の最高格式の建築であることが分かる要素を試みに一つ挙げますと、写真でも見えますが、地垂木(じだるき)や飛檐垂木(ひえんだるき)の鼻先の逆輪(さかわ)と呼ばれる部分の造形です。案内人の方もこれは説明しませんでしたが、唐門の建築造形の真髄ともいえる部分なので、私が双眼鏡で観察して知り得た状況をここで簡単に説明しておきましょう。

 まず、逆輪は一本の垂木から造り出してあります。その鼻先に黒漆を塗り、縁に唐戸面(材の角を落として面(めん)をとる際に、平滑面ではなく丸い面で処理したもの)などを取って金箔が押されています。
 そのうえに鍍金された桐紋(豊臣家の紋)や菊紋(皇室の紋)などの錺金具(かざりかなぐ)が多数取り付けられています。さらに菊座が付く小錺鋲(亀甲形の鋲釘の古名)が垂木逆輪の入八双形(いりはっそうけい)の片側に一列3本ずつ、一本の垂木に合計18本も並べてあります。

 小錺鋲の唐門全体での使用本数は、垂木の数からみて1400本ぐらいと計算されますが、同じ質の菊座付小錺鋲をいま復元すれば1本で3万円ぐらいすると聞いたことがありますので、小さな丸釘だけで現在の価格に換算して4200万円ぐらいをかけているわけです。戦国乱世の時期にこんな贅沢で高度な造形が出来るわけはなく、天下統一後の静謐を維持した豊臣政権期であったからこそ成しえた、費用と手間暇を惜しまない密度の高い重厚な造形の結晶である、といえます。
 その、極限までに織り込まれた伝統的手法の最高格の技を結集している点も、天下泰平の到来を象徴させる建築に相応しい要素のひとつですが、日本の歴史のなかで、そのような建築が数多く建てられたのが、教科書では安土桃山時代の名で習う時代であり、その安土桃山時代以外に、そうした建築を生み出した歴史はありません。

 U氏は端的に「そういう時代(大航海時代)だったもんな」と表現しましたが、その意味するところが物凄く大きいことは、私にも理解出来ました。
 なにしろ、応仁の乱以来乱れに乱れてしまった日本の、悲しく辛い戦国乱世の流れを絶対に終焉せしめて、大航海時代の大きく躍動している世界からの波にも揺るがぬ日本という国をまとめて建て直さなければならない、と思い定めた織田信長、豊臣秀吉の意識と視線が、そういう時代に生きた権力者の基本方針として明確に見えるからです。安土城はもちろん、その精神を昇華させた聚楽第や伏見城なども、その時代の建築的産物として輝いているように感じられるからです。

 同時に、最近に京都の古社寺巡礼の一テーマとして新たに始めた聚楽第および伏見城の建築遺構の巡礼における、明確な建築要素の識別のための基本情報、基本理解が色々と得られました。今後に予定している伏見城の建築遺構の巡礼において効力を発揮してくれるものと期待しています。

 

 特別公開範囲の見学を終えて、帰途につくべく本坊伽藍の南へ回って東の総門へと向かいました。上図の勅使門を見上げつつ、U氏が「これは確か慶長の京都御所のどっかの門を下賜されたものだったかな」と言いました。

 その通り、平成11年からの修理にて小屋根内部で確認された墨書によれば、「御内裏西之かわ」「西かわ南御門」などの文があり、さらに野垂木に禁裏の御用材であることを示す「禁」の丸刻印も発見されています。

 

 大徳寺の基本史料のひとつ「龍寶山大徳寺世譜」によれば、江戸期の寛永十七年(1640)に内裏の門を下賜されたとあります。一説では内裏の南門つまり陽明門かとされていますが、近年の研究によって慶長期内裏の西唐門である可能性が説かれ、それが現在では定説になっているようです。

 大徳寺を出た後、U氏が、今日は大満足したからそのまま新幹線で帰る、と言うので、京都駅近くのヨドバシの食事処で遅い昼食をともにしました。
 その際に、出来れば秋ぐらいに伏見城から移築された建築遺構の巡礼を予定している、と話したら、「それはいい、俺も行こう。どうせなら高台寺とかも行かんかね?」と応じてきたので、それで秋の予定がほぼ決まりました。

 それで、京都市内にあるとされる、伏見城からの移築建築遺構をそれぞれに名を挙げて話しましたが、虚構や伝承が多い所が少なくないので、確実に本物だと言える所になると、思ったよりも少なくなるのではないか、と思います。秋からあちこち回って実物を確かめることになるでしょう。  (了)

 

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