気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

紫野大徳寺25 大徳寺法堂

2023年12月22日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 仏殿の次は法堂(はっとう)に行きました。ここ数年は修理のため非公開であったそうで、U氏はもちろん、私もこの建物には近づくのも中に入るのも初めてでした。

 

 法堂は、禅宗寺院における講堂に該当し、長老が修行者に説法したり教えを継いだりするための施設です。禅宗においては、法を説き、教えを継ぐことが最も重視され重んじられるため、法堂は伽藍において非常に神聖な場所とされています。

 

 法堂も、仏殿と同じく創建時の建物は失われています。創建の法堂は、正中二年(1325)に宗印禅者を檀越として修造されましたが、応仁の兵乱によって焼失しました。仏殿はすぐに再建されましたが、法堂は資金難でなかなか建てられず、仏殿が法堂を兼ねる時期がしばらく続きました。現在の建物は寛文十三年(1636)に江月和尚の参徒であった小田原藩主の稲葉正勝・正則の寄進によって再建されたものです。

 

 法堂も、典型的な禅宗様建築として、屋根は一重、裳階付、入母屋に造られています。前述の仏殿と同じ様式ですが、こちらは平面規模が桁行五間、梁間四間ですので、ひとまわり大きいです。

 組物は出組で、台輪の上の中備えは詰組として平三斗(ひらみつと)が置かれています。柱は禅宗様特有の上端が絞られた円柱で、粽柱(ちまきばしら)と呼ばれます。その頭貫(かしらぬき)と台輪には木鼻が付けられます。頭貫の下には、波状の弓欄間が設けられます。

 

 法堂内部は撮影禁止でしたので、内部の画像は一切ありません。建築自体の様式は仏殿と共通ですので、内部の設えや空間の構成なども仏殿と同じです。平面規模が、仏殿の桁行三間、梁間三間に対して桁行五間、梁間四間とひとまわり大きいので、空間規模もそれだけ広くなっています。

 

 法堂の天井には、上図の案内パネル写真のように大きな雲龍図がはめこまれています。龍は仏法を守護し、法の雨(仏法の教え)を降らせると共に、水を司ることから、寺院における防火神獣として崇められています。
 こちらの雲龍図は、狩野探幽が35歳のときに描いたものです。方丈障壁画にみられるような後年の作風とは異なり、若年期特有の力強い筆致が示されて見るものを圧倒します。この雲龍図の真下で手を叩くと、龍が鳴いたように響くことから「鳴き龍」とも称されます。

 今回は、その「鳴き龍」を体験しましょうということで、見学者が一人ずつ順番に雲龍図の真下へ行って手を叩き、堂内に響く音の反響と余韻を聴きました。U氏も私もそれぞれの番で手を叩き、「鳴き龍」のエコーを味わいました。

 

 法堂の次は唐門に向かいましたが、その途中の順路上にて案内人が上図の寝堂(しんどう)を指して説明してくれました。法堂の背後にあって廊下で結ばれており、「茶堂」とも呼ばれます。今でいう応接間としての機能を果たした建物です。

 現在の建物は、梁間三間・桁行二間の規模で屋根は切妻、檜皮葺とします。寛永七年(1630)に長州藩家老の益田元祥により寄進建立されたものです。

 

 寝堂には近寄れませんでしたので、デジカメの望遠モードで南面の部分を引き寄せて撮りました。こちらも仏殿や法堂と同じ禅宗様式の建築で、本坊伽藍の軸線に連なる建物が外観を統一して造られていることが分かります。

 

 ぐるりと回って西側にいったん出て、本坊の庫裏を外観のみ見学しました。以前に見学した国宝の方丈に隣接する建物で、方丈の解体修理が終わり次第、こちらの庫裏の解体修理に入ると聞きました。

 この庫裏は、以前の方丈の古材を利用して寛永十三年(1636)頃に再建されたものといいますから、 前年の寛永十二年(1635)の再建である方丈とは建築史的に密接な関連性があるわけです。いまだに不明かつ不詳の事も少なくない建築ですので、解体修理によって初めて明らかになる歴史があることでしょう。

 

 本坊庫裏を出て、最後の見学地点である国宝の唐門に向かいました。今回の特別公開にて、個人的に最も楽しみにしていた建築遺構でした。  (続く)

 

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