へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

玉虫色

2015年03月27日 22時57分17秒 | Weblog
「玉虫厨子」で有名な玉虫だが、最近はほとんど見かけない。

が・・・・。

昭和20年代の東京では、結構見つけることができた。

その当時は小学生だったので、よく捕まえたものである。

と言うことで、実物を見たことのない人が多いと思うが、この虫、見る角度によって羽の色が様々な色に変化する。

鳥の中にも同じように羽の色が変化するものがあるが、一般的には「玉虫色」という言い方をする。

と言うことで、「玉虫色の結論」などとよく言われるのは、見る角度によって色が違うことが転化して、「考え方によってどうでも解釈できる」という意味になるのである。

通常は「悪い意味」で使われるのだが・・・・。

日本人が好んで使う言葉(結論)に対して使われることが多い。



また、あれやこれやと様々なことを引き合いに出し、「結論をぼやかす」と言うのも日本人の得意とするところであろう。


で、私はこう聞き返す。

「それでどうだと言うの?」と。

何かと難し話を引き合いに出すが、それらのほとんどは「誰かが言ったことの引用」であって、本人の考えはどこにもない。

日本人の多くは「群れたがり症候群」や「寄らば大樹症候群」になっていて、私のような人間は排除される。

へそ曲がりであるとともに、「一匹狼」でもあるのだから、特にどうということもないのだが・・・・。
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不毛の論議

2015年03月27日 03時48分43秒 | Weblog
何もできない土地のことを「不毛の地」と言う言葉もあるように、単なる議論を繰り返す「不毛の議論」もある。

不毛の議論からは何も生まれない。

国会での論議もそのたぐいである。

お互いが言いたいことを言い合って、「時間切れ」で終わる。

その結果は、日本(だけではないのだが)では「数の論理」が強く働くため、数の力によって少数意見は封じ込まれてしまう。

要するに、数が多い方の意見だけがまかり通るのだ。

が・・・・。

「数の論理(多数決)」は、一体何を基準にしているのであろうか。

ある人は「日本においては」と言っているのだが・・・・。

日本においては。

この言葉は一見都合の良い言葉のように思えるが、実際は違う。

「日本においては」という言葉が成り立つのであれば、「アジアにおいては」という言葉も成り立つだろうし、「刑務所の中においては」「暴力団の世界においては」「我が家においては」「私個人においては」など、非常に多くの条件が当てはまることになる。

アジア、特に中国に対しては、人間の数ではとても太刀打ちができない。

刑務所の中では囚人の方が圧倒的に多いのだから、刑務所の中では「囚人が正義」と言うことになる。

と言うように、「数の論理」は、その基準をどこに置くかによって結果が違ってくる。

結果が違ったら、一体どれが正しいのか。

ガリレオが唱えた「地動説」だって、始めはたった一人である。

ローマ法王庁からの迫害を受けたらしいが、後になってそれが正しいことが証明される。

「数が少ないからダメだ」とか、「数が多いから良い」という考えは捨てられないのだろうか。
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