万葉歌人は伝承の歌から、皇族、臣下、防人、読み人知らずなどなど、階級をなしての、万葉集が国民的歌集であることに異論はない。国民的とは、国民に拠る、国民のための、国民の、そのものである。ふるく臣民といった方がよいのかもしれないと、すると君主国の故を以て、明治政権で規定されてしまったので、古代国家における用法ではどうか。臣下の歌集である。それを意図したのは、万葉集では歌集の内部ではわかりにくいが、それをドラマと眺めると、舒明朝にかかわる古代王族の継承にある事件がある。 >「乙巳の変」は、結局、何を実現したか。それは遠山氏がほぼ十年前に看破したことだが、天皇位の初の生前譲位 と、ここに、ひとつの史観が明らかにする大化の改新であり、持統朝におけるドラマの構築である万葉劇詩と見える。
舒明天皇 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/舒明天皇
舒明天皇(じょめいてんのう、593年?(推古天皇元年?) - 641年11月17日(舒明天皇13年10月9日))は、日本の第34代天皇(在位:629年2月2日(舒明天皇元年1月4日) - 641年11月17日(舒明天皇13年10月9日))。 諱は田村(たむら)。 和風諡号は息長足 ...
http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r18-113.htm
遠山史観による日本古代史(その3)
02年03月17日 萬 遜樹
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舒明天皇と大后・宝皇女(後ちの皇極天皇)の13年間の治世(629~641年)について、少しだけ触れておく。630年、初の遣唐使を送り出した。631年、百済から王子の豊璋が同盟の人質として来日する。彼の帰国は、663年の白村江の戦いの直前となる。639年、東西の人民を使役して、百済宮および百済大寺が造られ始める。百済大寺の塔は、現在90メートルの高さがあったと推定されている。大化改新の担い手となる、僧旻(632年)と高向玄理(640年)が唐から相次いで帰国した。
しかし、皇位継承問題は一向に打開されず、ポスト舒明天皇の候補には、最右翼・山背大兄王のほか、舒明天皇の子・古人大兄皇子とまだ若い中大兄皇子(宝皇女が生母)、大后・宝皇女の弟・軽皇子らがいた。結局、ここでも一時保留が選ばれ、舒明天皇の後にはその大后・宝皇女が皇極天皇として即位(注)することになった。642年のことである。ご承知の通り、その三年後には「大化改新」と通称される政治改革の始まりを告げるという「乙巳(いっし)の変」が起きる。
(注)皇極天皇は、舒明天皇との婚姻により同世代と見なされた。なお、弟の軽皇子(後ちの孝徳天皇)も年齢とも相まって、同世代と見なされた。
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間もなく自死に追い込まれる山背大兄王であるが、それ02.3.16にしても評判が悪い。資格的には舒明朝をすんなり継いでいても何ら不思議ではないのであるが、天皇家および支配層に忌避されて皇極天皇の即位に至っている。第一に、それだけ看過できないほど人物的に問題があったとしか言いようがない。643年、蝦夷の子・入鹿は諸豪族を率いて従兄弟に当たる山背大兄王を斑鳩宮に囲む。ただし、これを蝦夷・入鹿の単なる暴挙と解しては間違いである。
天皇家および支配層は明らかにこれを支持していた。包囲軍中には、何と軽皇子(後ちの孝徳天皇)がいた。他に巨勢徳太、大伴長徳、中臣塩屋牧夫らがいた。さらに、入鹿らが次期天皇に推す古人皇子の同意、中臣塩屋牧夫とのつながりから中臣鎌足と阿倍内麻呂らの支持もあったと見なければならない。つまり、軽皇子派と古人皇子派が共同で共通の敵を抹殺したのだ。これが山背大兄王が排除されなければならなかった第二の理由である。
つまり、山背大兄王殺害の目的は、皇位継承者を古人皇子か軽皇子かに絞り込むことにあった。少なくとも、入鹿が「天位を傾けむ」とするものではなかったし、殺害の罪を彼一人が背負わねばならないものでもなかった。ともあれ、生前譲位は目前に迫っていた。そのための二度目の女帝だったのであるから。いずれかの決着をつけなければならなかった。しかし、まだ皇極天皇は迷っていた。決定的な何かが必要であった。
http://www.asahi-net.or.jp/~ds3s-oomr/kodai/chrono/case-34.htm
2000.07.20
日本古代史・事件解説
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舒明天皇の即位
舒明天皇(じょめいてんのう)=田村皇子(たむらのみこ)。敏達天皇の子の彦人皇子(ひこひとのみこ)の子。
推古天皇の治世は36年に及んだ。単なる「つなぎ」とは思えない長さである。それはともかく、長期政権になったため推古天皇の次はひと世代飛び越えて、推古天皇の孫世代にあたる、山背大兄王(廐戸皇子の子)と田村皇子(彦人皇子の子)と争われた。
いずれを支持するかは、蘇我一族のなかでも意見が分かれ、他の有力豪族を巻き込んだ論争になった。最終的には蘇我本宗家、蘇我毛人(そがのえみし)が支持した田村皇子が、蘇我境部臣摩理勢(さかいべのおみまりせ)が支持した山背大兄王を退けて即位することとなった。
山背大兄王は廐戸皇子と蘇我馬子の子・刀自古(とじこ)の間に生まれた子で蘇我と血縁だが、田村皇子にはすでに当時、馬子の子の法提郎娘(ほていのいらつめ)との間に古人皇子があった。蘇我の血を引く男子がいたことが、蘇我の支持を勝ち取った根拠のひとつではなかろうか。
万葉語り 歌集
万葉歌は詩である。
音数を律動として謳いあげたものだ。
その詞には民族の魂がある。
その成立には興味のある事実がある。
劇詩と見る文学がある。
叙事詩、叙情詩とともに詩の部門である劇詩は、戯曲形式にはならずとも、その謳いあげた内容には叙事詩であるものがあり、古代王朝の物語が秘められる。
歌集であるから読み下された和歌に鑑賞がある。
その歌の詞書を添え、左注を施した編者の意図は歌をして劇にするものである。
それらが漢字表記されて万葉仮名と呼ぶ和歌表記に合わせてすべてをとらえるならば、その白文万葉にあらわされたのは壮大なドラマであるといってもよい。