国語文法論を国語と、日本語文章論を日本語とするのは、国語は文法論で議論があり、日本語は文章論で議論するのがよいとする立場である。国語も日本語もわたしたちにとってのひとつの言語であるから、国語文法論を含めて日本語文章論とすることもできる。日本語文法文章論としての議論であるが、文法論が文を扱い、文章論が文章を扱うならば、同じ文法であって文と文章を取り上げてその範疇に議論をすることである。日本語文法単位体をもとにすれば、そのそれぞれの論には、形態論があり、語論があり、句論があり、節論があり、文論があり、段落論があり、文章論がある。この段落に文章を設定し文章論とすることで、文章作品の単位をとることができる。
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文が開かれた単位であり、文章が閉じられた単位であるとするのは、文法論の便宜である。言語の現象は常に、この喩えを用いるならば、開かれている、大海にたたえられた言葉である。そこにうちよせる波は風波ともあって、その波のラインは文のようである。波は続き、切れ、また続いては切れる。さて、その文が開かれているとするのは、言語に主体客体とを合一する現象を見るときに、その表現に見える主語述語を一体とするあらわし方と、主語述語を一体とするのを、体用の現象とみる表し方の違いにある。主語に文を統括する働きがあるのを、その述語との結びつきが述語と関係するほかの語よりも、主語が最優先であるとする捉え方に対して、体用の現象には必ずしも主語との結びつきをしめざず、いうところの目的語また客語との一体である。したがって、主語を結びつきに絶対とするのに、主語との結びつきに相対のひとつであると考え方であるから、閉じた体系となる主述語に、開かれた体系の体用の現象である。文が閉じた関係構成ならば、文章もまた閉じた関係構成であるので、日本語の文の閉じた関係を超えた特徴を見出そうとする
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文法論議は文法の分析対象とする言語の現象から単位を設定する。国語文法は文を設定した。のちに、語構成論、文章論をもってそれぞれの単位設定を行い、学校文法で単位に加えている。すなわち語、文、文章である。この単位に形態を勘案して形態素を設けて分析するのが現代日本語文法の学説である。学校教育文法に国語文法があり、ないいぽオン語教育文法に日本語文法がある。形態素を文法にとらえる文法の形態論は拠るべき学説によって、言語現象に文法単位を次のようにした。形態、語、句、節、文、文章である。形態はモーフ、morphである。形態素morphemeが文法の表れをとる形式である。
文法単位は関係し構成して形態が語となり、語が句となり、句が節となり、節が文となる。文法論は文の単位をさらに関係構成して段落となり、文章単位のものになる。その文章が関係構成する段落が、さらに段落であるままに文章として関係構成して言語統一体の文章作品となるとらえ方である。形態文法が統語文法へと文法を展開していくと、言語の現象が閉じられた体系として仮設される。国語文法論では文の構成をとらえることで最大文法単位としてきたが、それは、文法が品詞論と構文論で議論されていたからであるが、そこに文よりも大きい単位である文章単位を設けてきた経緯がある。しかし、国語文法論は、いわば、品詞論で語と文の構成を明らかにしてきた。文における職能である。したがって、文を最大単位とする文法は、日本語においては文章を最大単位とすることになり、文そのものは閉じられた体系ではなく、文章そのものが閉じた体系であるとするべきである。
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文が開かれた単位であり、文章が閉じられた単位であるとするのは、文法論の便宜である。言語の現象は常に、この喩えを用いるならば、開かれている、大海にたたえられた言葉である。そこにうちよせる波は風波ともあって、その波のラインは文のようである。波は続き、切れ、また続いては切れる。さて、その文が開かれているとするのは、言語に主体客体とを合一する現象を見るときに、その表現に見える主語述語を一体とするあらわし方と、主語述語を一体とするのを、体用の現象とみる表し方の違いにある。主語に文を統括する働きがあるのを、その述語との結びつきが述語と関係するほかの語よりも、主語が最優先であるとする捉え方に対して、体用の現象には必ずしも主語との結びつきをしめざず、いうところの目的語また客語との一体である。したがって、主語を結びつきに絶対とするのに、主語との結びつきに相対のひとつであると考え方であるから、閉じた体系となる主述語に、開かれた体系の体用の現象である。文が閉じた関係構成ならば、文章もまた閉じた関係構成であるので、日本語の文の閉じた関係を超えた特徴を見出そうとする
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文法論議は文法の分析対象とする言語の現象から単位を設定する。国語文法は文を設定した。のちに、語構成論、文章論をもってそれぞれの単位設定を行い、学校文法で単位に加えている。すなわち語、文、文章である。この単位に形態を勘案して形態素を設けて分析するのが現代日本語文法の学説である。学校教育文法に国語文法があり、ないいぽオン語教育文法に日本語文法がある。形態素を文法にとらえる文法の形態論は拠るべき学説によって、言語現象に文法単位を次のようにした。形態、語、句、節、文、文章である。形態はモーフ、morphである。形態素morphemeが文法の表れをとる形式である。
文法単位は関係し構成して形態が語となり、語が句となり、句が節となり、節が文となる。文法論は文の単位をさらに関係構成して段落となり、文章単位のものになる。その文章が関係構成する段落が、さらに段落であるままに文章として関係構成して言語統一体の文章作品となるとらえ方である。形態文法が統語文法へと文法を展開していくと、言語の現象が閉じられた体系として仮設される。国語文法論では文の構成をとらえることで最大文法単位としてきたが、それは、文法が品詞論と構文論で議論されていたからであるが、そこに文よりも大きい単位である文章単位を設けてきた経緯がある。しかし、国語文法論は、いわば、品詞論で語と文の構成を明らかにしてきた。文における職能である。したがって、文を最大単位とする文法は、日本語においては文章を最大単位とすることになり、文そのものは閉じられた体系ではなく、文章そのものが閉じた体系であるとするべきである。