日本語教育の歴史
日本語教育の歴史は日本独立とともに始まる。日本独立はいつか。近年では1945年を境に大日本帝国は連合軍による被占領国となり、日本になったのは1952年である。日本国憲法の発布はその時期以後に賠償留学生を迎える動きがあった。そのうちに、インドネシアからの留学生がいた。それは1960年のことである。学制百年史文科省の白書によれば国費外国人留学生制度は1954年に始まる。東南アジアの留学生の受け入れが行われた。国費に対して私費留学の受け入れもあった。そのような留学生の受け入れに賠償留学生がいた。留学生の受け入れに、日本語教育がある。
日本語教育の歴史の視点に留学生の受け入れを持つ。第2次大戦の戦前、戦中と戦後に分けることができる。いま、留学生の日本語教育に戦後の日本語教育史の展開を見ようとする。経済復興と国際社会への復帰による日本の歩みとともにある日本語教育である
二 留学生の招致・派遣と教育協力:文部科学省
www.mext.go.jp › 白書・統計・出版物 › 白書 › 学制百年史
>戦後の国費外国人留学生の制度は、昭和二十九年度に二三人を受け入れた時に始まる。この制度の重点は、東南アジア諸国からの留学生の受け入れにおかれ、人材の養成を通じてこれらの発展途上国の社会的・経済的発展に寄与することに協力しようというものである。そうして制度創設以来国費外国人留学生の数は年々増加し、四十六年までに東南アジアを中心に六十数か国から合計二、五〇〇人に達している。一方、私費留学生の数も年々増加しており、戦後今日までに一万人以上が来日したと推計される。このほか、わが国の賠償金により、三十五年度から四十年度にかけて約四○○人のインドネシア政府派遣留学生を受け入れている。
インドネシア元日本留学生協会(PERSADA)/アセアン元日本留学生協会(ASCOJA)のサイトによると、次のように述べている。
特集:帰国留学生会紹介 - Study in Japan
www.studyjapan.go.jp/jp/ath/ath03j_06.html
>歴史的に見ると、インドネシアの最初の留学生が勉学の場として日本を選び、日本に渡ったのは1930年代初めのころでした。当時、日本は産業、軍事、政治のいずれにおいても勢力を誇り、1905年に欧州の大国であるロシアを破ったアジアの強国として知られていました。オランダの植民地支配から独立を勝ち取ることを強く求めていたインドネシアの知識層や実業家の中には、何としても自分たちの子供に日本で技術や経営管理を学ばせたいと考える人がいました。その結果、およそ15名の若者たちが大阪と東京に赴きました。日本語や科学を学ぶかたわら、彼らは独立のための政治活動にも積極的に参加しました。当時の日本は軍国主義者に支配されていましたが、留学生たちはインドネシアの独立を願う日本の知識層の支持を得ることができました。これらの学生は、戦前の留学生と呼ばれています。
1942年3月に日本によってオランダの植民地主義者が追放された後、日本政府は、将来のリーダーを教育・訓練し、新たな占領者である日本を支持させるために、現在のインドネシア諸島の各地から若者を送り込みました。またビルマ(現ミャンマー)、マラヤ(現在のマレーシアとシンガポールとブルネイ)、フィリピン、ベトナム、タイからも多くの若者を集めました。このグループは、南方特別留学生と呼ばれています。彼らは1944年から1945年にかけて日本に渡り、外務省が設立した「国際学友会日本語学校(International Institute of Japanese Language)」という施設で学び、東京の目黒と新宿の寮で生活しました。残念ながら、彼らは日本に着いてまもなく、充実した学生生活を送ることなく、混沌とした悲惨な状態に追いやられました。留学生の中には東京を襲ったB-29の爆撃や広島の原爆の犠牲となって亡くなった者もいます。
これら2つのグループの留学生たちの多くは、勉学を終えるとインドネシアに戻り、やがて独立運動の指導者として軍事や外交の分野で力を発揮しました。その後、彼らは外務省や国防省、商工業省、保健省の高官となり、教育分野でも活躍しました。商社や製造会社を設立した者も何人かいます。言うまでもなく、彼らは日本で学んだサムライ精神や知識に基づく文化的価値観をもっており、それらを積極的にキャリアに取り入れています。
終戦後、こうした我々の先輩たちが戦争賠償計画の枠組みの中で日本の外務省と交渉した結果、1960年から1964年にかけて1,000人以上の学生と研修生が日本に派遣されました。彼らもまた最初の1年間は「国際学友会日本語学校」で日本語を身につけ、その後、北海道から鹿児島に至る各地のカレッジや大学でそれぞれ工業技術や商業、医学、芸術を学びました。学生たちは、インドネシア建国の父であり初代大統領でもあるスカルノから、独立後間もないインドネシアを広く紹介し、日本の一般市民との友情を築き、親善大使としての役割も果たすよう励まされていました。彼らは、賠償留学生と呼ばれています。賠償留学生のほかに、私費留学生や日本の政府機関から招待された留学生もいます。当時の日本は、あらゆる分野で欧米に追いつこうという機運に満ち、誰もが朝早くから夜遅くまで働いていました。当然ながら、留学生たちは勤勉の大切さを学び、生産技術や生産管理の能力を身につけて戻ってきました。彼らはインドネシア各地の様々な国営企業、病院、銀行、ホテル、大学などに配属され、またそのおよそ2割が日系民間企業の従業員となりました。さらにこの留学生グループは、空手、柔道、少林寺拳法、合気道など日本の武道に基づく伝統的な価値観を紹介し、その普及に努めました。
>その後、1970年以降のインドネシアの留学生は、インドネシア政府と日本政府の奨学金による留学生と、日本の大手企業の研修生の2つに分類されます。元留学生を含めた多くの企業家が自分たちの子供を留学させ、工業技術や経営管理を学ばせています。この間に日本の社会のあり方が大きく変化したこともあり、若い留学生は先輩たちが経験したような個人的な友情を築く状況には置かれなかったようです。人々は豊かになりましたが、多少冷たくなりました。いずれの国民も、身内の集まりや若者の集まり、スポーツ、芸術活動、登山、スキー、麻雀などを楽しむ時間的余裕を失っています。彼らはポップカルチャー、個人主義、究極の効率の追求といった環境の中で育った世代です。こうした新しいタイプの元留学生が、徐々にPERSADAのリーダーシップのバトンを引き継いでいます。
日本語教育の歴史は日本独立とともに始まる。日本独立はいつか。近年では1945年を境に大日本帝国は連合軍による被占領国となり、日本になったのは1952年である。日本国憲法の発布はその時期以後に賠償留学生を迎える動きがあった。そのうちに、インドネシアからの留学生がいた。それは1960年のことである。学制百年史文科省の白書によれば国費外国人留学生制度は1954年に始まる。東南アジアの留学生の受け入れが行われた。国費に対して私費留学の受け入れもあった。そのような留学生の受け入れに賠償留学生がいた。留学生の受け入れに、日本語教育がある。
日本語教育の歴史の視点に留学生の受け入れを持つ。第2次大戦の戦前、戦中と戦後に分けることができる。いま、留学生の日本語教育に戦後の日本語教育史の展開を見ようとする。経済復興と国際社会への復帰による日本の歩みとともにある日本語教育である
二 留学生の招致・派遣と教育協力:文部科学省
www.mext.go.jp › 白書・統計・出版物 › 白書 › 学制百年史
>戦後の国費外国人留学生の制度は、昭和二十九年度に二三人を受け入れた時に始まる。この制度の重点は、東南アジア諸国からの留学生の受け入れにおかれ、人材の養成を通じてこれらの発展途上国の社会的・経済的発展に寄与することに協力しようというものである。そうして制度創設以来国費外国人留学生の数は年々増加し、四十六年までに東南アジアを中心に六十数か国から合計二、五〇〇人に達している。一方、私費留学生の数も年々増加しており、戦後今日までに一万人以上が来日したと推計される。このほか、わが国の賠償金により、三十五年度から四十年度にかけて約四○○人のインドネシア政府派遣留学生を受け入れている。
インドネシア元日本留学生協会(PERSADA)/アセアン元日本留学生協会(ASCOJA)のサイトによると、次のように述べている。
特集:帰国留学生会紹介 - Study in Japan
www.studyjapan.go.jp/jp/ath/ath03j_06.html
>歴史的に見ると、インドネシアの最初の留学生が勉学の場として日本を選び、日本に渡ったのは1930年代初めのころでした。当時、日本は産業、軍事、政治のいずれにおいても勢力を誇り、1905年に欧州の大国であるロシアを破ったアジアの強国として知られていました。オランダの植民地支配から独立を勝ち取ることを強く求めていたインドネシアの知識層や実業家の中には、何としても自分たちの子供に日本で技術や経営管理を学ばせたいと考える人がいました。その結果、およそ15名の若者たちが大阪と東京に赴きました。日本語や科学を学ぶかたわら、彼らは独立のための政治活動にも積極的に参加しました。当時の日本は軍国主義者に支配されていましたが、留学生たちはインドネシアの独立を願う日本の知識層の支持を得ることができました。これらの学生は、戦前の留学生と呼ばれています。
1942年3月に日本によってオランダの植民地主義者が追放された後、日本政府は、将来のリーダーを教育・訓練し、新たな占領者である日本を支持させるために、現在のインドネシア諸島の各地から若者を送り込みました。またビルマ(現ミャンマー)、マラヤ(現在のマレーシアとシンガポールとブルネイ)、フィリピン、ベトナム、タイからも多くの若者を集めました。このグループは、南方特別留学生と呼ばれています。彼らは1944年から1945年にかけて日本に渡り、外務省が設立した「国際学友会日本語学校(International Institute of Japanese Language)」という施設で学び、東京の目黒と新宿の寮で生活しました。残念ながら、彼らは日本に着いてまもなく、充実した学生生活を送ることなく、混沌とした悲惨な状態に追いやられました。留学生の中には東京を襲ったB-29の爆撃や広島の原爆の犠牲となって亡くなった者もいます。
これら2つのグループの留学生たちの多くは、勉学を終えるとインドネシアに戻り、やがて独立運動の指導者として軍事や外交の分野で力を発揮しました。その後、彼らは外務省や国防省、商工業省、保健省の高官となり、教育分野でも活躍しました。商社や製造会社を設立した者も何人かいます。言うまでもなく、彼らは日本で学んだサムライ精神や知識に基づく文化的価値観をもっており、それらを積極的にキャリアに取り入れています。
終戦後、こうした我々の先輩たちが戦争賠償計画の枠組みの中で日本の外務省と交渉した結果、1960年から1964年にかけて1,000人以上の学生と研修生が日本に派遣されました。彼らもまた最初の1年間は「国際学友会日本語学校」で日本語を身につけ、その後、北海道から鹿児島に至る各地のカレッジや大学でそれぞれ工業技術や商業、医学、芸術を学びました。学生たちは、インドネシア建国の父であり初代大統領でもあるスカルノから、独立後間もないインドネシアを広く紹介し、日本の一般市民との友情を築き、親善大使としての役割も果たすよう励まされていました。彼らは、賠償留学生と呼ばれています。賠償留学生のほかに、私費留学生や日本の政府機関から招待された留学生もいます。当時の日本は、あらゆる分野で欧米に追いつこうという機運に満ち、誰もが朝早くから夜遅くまで働いていました。当然ながら、留学生たちは勤勉の大切さを学び、生産技術や生産管理の能力を身につけて戻ってきました。彼らはインドネシア各地の様々な国営企業、病院、銀行、ホテル、大学などに配属され、またそのおよそ2割が日系民間企業の従業員となりました。さらにこの留学生グループは、空手、柔道、少林寺拳法、合気道など日本の武道に基づく伝統的な価値観を紹介し、その普及に努めました。
>その後、1970年以降のインドネシアの留学生は、インドネシア政府と日本政府の奨学金による留学生と、日本の大手企業の研修生の2つに分類されます。元留学生を含めた多くの企業家が自分たちの子供を留学させ、工業技術や経営管理を学ばせています。この間に日本の社会のあり方が大きく変化したこともあり、若い留学生は先輩たちが経験したような個人的な友情を築く状況には置かれなかったようです。人々は豊かになりましたが、多少冷たくなりました。いずれの国民も、身内の集まりや若者の集まり、スポーツ、芸術活動、登山、スキー、麻雀などを楽しむ時間的余裕を失っています。彼らはポップカルチャー、個人主義、究極の効率の追求といった環境の中で育った世代です。こうした新しいタイプの元留学生が、徐々にPERSADAのリーダーシップのバトンを引き継いでいます。