教育文法は便宜の規則であるという。学校文法は規範文法であるので、学校の教科文法は例外を認めるものとなる。教育文法はもとより実用文法とは異なるが、実践文法であるには変わりがない。日本語教育文法は学習文法であるが、それは学習者のためのものでもない。日本語教師が知るべく、説明また記述文法となる。文法教科書を教育文法として見て、際立つのは、文科省による国語文法であった。
国語文法はその実には古典文法であったのであるが、それを文語文法とするのに対して口語文法をもっぱらとする現代語文法を作り出してきた。国語に漢文が並列していたころの国語文法は漢文を対照とした古典文法の時期であったのであるが、それは文献解釈のための文法となっていたから、話しことばの文法と称する英語文法の引き写しとなるところ、橋本学説の文節文法が強く影響力を持ったので、それは現代文を分析するのに文法としてのわかりよい捉えかたであった。
日本語の文節は話しことばの単位として、part of speech 、(《複数形》 parts of speech) 文法 品詞 である。音列に単語の切れ目を見て、語列にスペースを空けることなく、分かち書きにも相当する結果となる、文節に切る日本語は、その自然な、国語話者にとってのことであるが、漢字と仮名交じりの文を切り分けることができる。それは文節として語単位に品詞を見ることになる。
教育文法に文節があり、その分け方を習得するのは自然なことであった、と、国語を身に付ける過程で行ってきたことだったことに思いをいたすべきである。言葉をならべ、それに関係構成したひとまとまりを句とするに、もともとは文章また文にあった句であるから、それをスぺースに分けて、分かち書きをする学習が、発音と、物言いに、その切り方を乳幼児のころから学び続ける国語話者である。
長じて文節を説明に聞くころにはそのときどきの学習した絵本なり、童話集なり、それを分かち書きそのもののように記憶することなく、文にして、日本語の内省によって音列を語列に直しているのである。そこに文節の概念をしっかりと作りながら育っていることになるのが教育文法であったのであるが、困ったことに、その概念を捉えようとする時期に、教師のさかしらな文節批判によって、文法は混乱するのである。
国語文法はその実には古典文法であったのであるが、それを文語文法とするのに対して口語文法をもっぱらとする現代語文法を作り出してきた。国語に漢文が並列していたころの国語文法は漢文を対照とした古典文法の時期であったのであるが、それは文献解釈のための文法となっていたから、話しことばの文法と称する英語文法の引き写しとなるところ、橋本学説の文節文法が強く影響力を持ったので、それは現代文を分析するのに文法としてのわかりよい捉えかたであった。
日本語の文節は話しことばの単位として、part of speech 、(《複数形》 parts of speech) 文法 品詞 である。音列に単語の切れ目を見て、語列にスペースを空けることなく、分かち書きにも相当する結果となる、文節に切る日本語は、その自然な、国語話者にとってのことであるが、漢字と仮名交じりの文を切り分けることができる。それは文節として語単位に品詞を見ることになる。
教育文法に文節があり、その分け方を習得するのは自然なことであった、と、国語を身に付ける過程で行ってきたことだったことに思いをいたすべきである。言葉をならべ、それに関係構成したひとまとまりを句とするに、もともとは文章また文にあった句であるから、それをスぺースに分けて、分かち書きをする学習が、発音と、物言いに、その切り方を乳幼児のころから学び続ける国語話者である。
長じて文節を説明に聞くころにはそのときどきの学習した絵本なり、童話集なり、それを分かち書きそのもののように記憶することなく、文にして、日本語の内省によって音列を語列に直しているのである。そこに文節の概念をしっかりと作りながら育っていることになるのが教育文法であったのであるが、困ったことに、その概念を捉えようとする時期に、教師のさかしらな文節批判によって、文法は混乱するのである。