病院を予約して出かけた。
年齢を72歳と書き込んで、この数字は自分のものなんだという思いで、手術に耐えられるか、体力を考えてと、医師は告げていた。そうか、どう見ても年齢相応にみなければいけない、自分では、わからないから、血液検査、尿検査、レントゲン、生理検査つまり心電図と受けて回って、その結果で方策を立てようということである。20数年に放置してきた肉腫を、これは判断がむずかしいことがあるので、切り取って見てからのこともありますから、その前に局部麻酔になるかどうか、そこから始める、というように言われた。医療の現場が流れ作業のように次々へとわたって、コンピュータに診察券からの情報が集約して、それはどこまでカードに記録するか、その向こうに番号で連鎖してすべての結果がひき出される、そのゆくままに、ただそのカードによってできた計算で支払い機にて済ませることになる。はじき出された製品のように、帰宅の道につく、どこで人間と機械が接触しているか、そこに介在するのは患者と誰になるか、
東西の中庸
2018-03-22 08:55:32 | ほんとうのところは
儒教は聖人君子の教えである。仏教は仏の安寧である。そして日本の原始信仰には自然への崇拝がある。それには宗教の信仰と哲学にすみわけがある。現実、死後の世界、そして来世への祈りである。政治に儒教を入れて、その経典は君子の教えを民人に施した。漢語漢文の学びのゆえであるから、寺子屋で君子の仁たるを暗誦する。素読のゆえである。永くその典範を仰ぐことになる。政治にはまた、国家を鎮護する法をいれて、民族の精神を仏の願に見い出し、念仏信仰を確かにした。いわば、日本宗教であった。その儒学と仏法の真理において、民人は神をいただいてきた。日本人の心性はその自然崇拝の霊を見いだすことにある。世界は洋の東西をもって知性理性の目覚めを促し、それまでの哲学に絶対者との問答を加える論法が導かれる。直観と慈愛は宗教世界へと遷り、目覚めに学問が開かれて、東洋西洋の学びを知る。はて日本の学びは、なににおいて実現をしてきたのか。
右手にくっきりと出ている。それと知ったのは20代であるから、ずっと見続けてきている。手相を見る、その手ほどきを受けたようなことであった。大学院のころに、中国讖緯思想の研究をしている先生から言われた。キミ、手相の勉強をしなさい、ということだった。袴をはいて風呂敷包みから取り出すテキストは授業にも雰囲気を醸した。お公家さんかとも見まがう、おっとりとして、そう、色白の顔にかけたメガネはまるぶちであったし、髪の毛は天からふわりと頭に乗って、漢文の授業をしていたので、それこそ静寂の教室に、淡々と読み進めた。授業での印象よりも、ともに作業をするようなことがあって、その雰囲気のままにち密に物事の分析をしていた。物静かで、大声を立てたりすることはなく、周りの教員から手相を見てもらえとばかりにけしかけられて、やおら、おもむろにカバンから取り出したテンガンキョウ、そこに見えたわが手相の線をじッと見て、とくに話すことではない、ただ一言だけ、さきの神秘の十字を教えてくださったのである。それで、のちのち、教えを仰ぎたいと思ったのであるが、ご著書を読んで、いっぺんで分かってしまったので、手相には少しの関心が持てる。検索すると、いまでも、ほんもの手相術 | 平 秀道 とある。
世代感覚
はたして記録には予見している。いま2018年であるから2008年のできごとをどのように見るか、記憶にしまい込んでしまったのだから、それを取り出してみることは難しい。ブログ日記は何......