日本語教育の拡大期は1980年代から始まる。時代の要請ともいうべく、日本語学習に求められるものがあった。学習者の多様性が言われる直前に留学生の増加がこの時に起こったのである。ちょうど拡大期に差し掛かる、いわば前夜にあたるころ、わたしは日本語教育を知る、それは1977年になる。大学院博士後期で国語学国文学研究をしていたのだが、日本語教育の研究所での募集の話があるので応募してはどうかというものだった。博士後期をまだ2年近く残すところで書類を整え上京し日本語教育研究要員の面接を受けた。
その思い出に個人的なことがらであるから、日本語教育史を重ね合わせるのはまったくもって論外であるが、お許しを乞う。結果は日本語教育センタの拡大に伴う定員予算が当初と異なり人件費が減じられてわたしの枠がなくなって採用が見送られた、というようにわたしは聞いていた、そのまま帰って大学院を続けたのである。得難い経験となって日本語教育のメッカに行きあったことになる。付置された日本語教育センタはその後に日本語教育界のパイオニアとなり、それを知る。知り目?に見てのわたしはもう一つの専門を国から日本へと向けることになる。
そのころの日本語教育が実態としてどうであったかは実は知らなかったので、あの面接の質問にもうまく答えらえなかった思いがあり、俄然、興味を起こす。そもそも日本語教育に向いているとの一言で、その通りその後を歩むことになるから、国語から日本語への視点を転換することでもあった。文献国語の徴証に明け暮れていたので実験科学の言語はそれまでの理論としてだけではなく、実践のこと、ととして身に迫った。
大学院での研究の蓄積があるとするならばそれは1970年代から80年代の10数年を国語国文学専攻の学科ですごし、それと同時に日本語教育の実践を重ねて、つぎは1980年代から90年代にかけ積み重ねて文化学大講座で教育と研究をしその一方で留学生専門教官ともなりまたその10年余を過ごしてきたので、約20年に及んで日本語教育実践を行っていた。学生は日本人の文科と理科の在籍、学習者は留学生と外国人研究者であった。そして2000年代になったいまの10数年がある。日本語コミュニケーションと交流文化である。
日本語教育を知ることになったので、すぐさま、日本語教育研修会の講座申込みをして夏季研修を受けた。内発的に突き動かされるものがあり、この研修会は引き続き毎年、参加することになる。1978年、79年、80年、東京、大阪、東京と、夏が来るたび出かけた。研修は東西の2会場で行うので、大阪にでかけたときは東京にもでかけた。その後、81年にまた参加している。計5回、延べで参加して、中国人日本語教師を4名、引率した80年は神田の和式宿で合宿さながらであったと思い出すことである。
この研修会は終日、週日連日の講義で苦労も多かったがよい刺激となっていまも残ることがある。もちろん、この研修会に出かけて、集中研修を毎年の夏に受けたことは日数をならせば1か月以上にわたって訓練し受講したことになる。修了証をもらうなどして、やっと日本語教育に目があいたようなことだった。その時はすでに1978年からのことになるが、大阪上本町9丁目で日本語教育の教壇に立っていた。
大学院を満期退学して研究職を求めてポスト待ちの1年を過ごす。助手として京都から名古屋の東、豊橋に文学部助手として用意されていた、その間に、大阪外国語大学留学生別科で日本語を教えることを始めていた。それはその後、1984年まで続くことになる。1979年に豊橋赴任後も、週一で大阪にある箕面市の高台にできた大学に通うことになる。いまも留学生別科でお世話になった先生方には言うに言われぬ思いで感謝の気持ちが尽きない。もはや外国語大学はなく、大阪大学の組織にあってそこにいらっしゃった方々は定年で退いておられるが、わたしにはいつまでも日本語教育の手ほどきを受けた思いがそのときのままにある。
このころの思い出を語ると日本語教育の拡大期にあったその一コマ一コマを紹介することになるだろう。
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