受け身、受け身文、受動態と、それぞれの違いを、受身形という語形、主体の表現を文にする、主体と客体の関係を表現する、その言語の違いを見ることになって、往きつくところは、文法における主語か、あるいは表現における主体か、そして言語対照による言語現象の捉え方となる。態の変換を経て目的語を明確にするかしないかは能動受動の根本にあるわけではないが、その基本には主語と述語動詞に目的語という文の要素と、主語と受け身語形の関係で文の成分を捉えているちがいがある。日本語の受け身文はそれだけ表現性があるのか、ないのか、言われるところの、と見られる、と言われている、とされている、と考えられる、などなど、おこされた問題は、自然発生の視点がまずあるのである。
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【第9回】自然言語処理の基礎知識-「振られた」と「家出された」の違い:日本語の『受身』について-
2015.08.25
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このような受身文を、日本語文法では「間接受身」とか「迷惑(被害)の受身」と言います。
「泣く」という動作に主語の「私」は直接関わっていないのですが、
それを『迷惑』と受け取ったということを「受身」が表しています。
そのため、無理に能動態に書き直すと、主語の置き所が難しく、
また「迷惑」の感情が落ちてしまいます。
こういう受身文でも、係り受けとしては【私は】⇒【泣く:受身】となります。
この関係だけを見て、「直接受身」か「間接受身」かを区別することはできません。
全体のツリー構造を見る必要があります。
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もうお分かりと思いますが、表題にあげた「私は彼女に振られた」という文は
『直接の受身』です。なので「彼女が私を振った」というように言い換えることができます。
それに対して「私は彼女に家出された」という文では、
「彼女が家出する」という文の中に「私」の身の置きどころはありません。
なので「被害・迷惑の受身」と言えます。あくまでも文法的な説明としてですよ。
というわけで、日本語の受身が表現するものは、英語の受動態よりも感情が豊かです。
見える化エンジンの次の機能として『感情分析』というテーマがありますが、
その中では『受身』も今以上に精密に分析する予定です。