戦後70年の記憶はわたしの生である。
昭和20年、1945年8月15日にまだ誕生してはいなかったが、その1年後に宮崎県で生を享けた。
本籍を東京籍に持ちその故が戦後をあらわしている。
ながく、なぜ東京にあって生まれと育ちと現在があるのは、日本の状況でとらえようとした。
ただに生まれが九州、成長は京阪神、職場は東海となったに過ぎないのを、その70年の生には戦後日本がある。
おさなくして大陸からの引き揚げ家族であると知った。
そのときに帰国がなければと考えることはないが、戦争の混乱に家族はあった。
上陸後に宮崎延岡にいて、それは終戦1年後に引き揚げていた。
そしてさらに1年後に阪神間の西宮市に居住をした。
戦後70年はそこから記憶が始まっている。
きょうで満69年を迎えた。
数えで70歳となって、その思いにあるのは運命というより、命運である。
めぐりあわせか、身の定めとするのは凡庸に生きることであった。
昭和20年、1945年8月15日にまだ誕生してはいなかったが、その1年後に宮崎県で生を享けた。
本籍を東京籍に持ちその故が戦後をあらわしている。
ながく、なぜ東京にあって生まれと育ちと現在があるのは、日本の状況でとらえようとした。
ただに生まれが九州、成長は京阪神、職場は東海となったに過ぎないのを、その70年の生には戦後日本がある。
おさなくして大陸からの引き揚げ家族であると知った。
そのときに帰国がなければと考えることはないが、戦争の混乱に家族はあった。
上陸後に宮崎延岡にいて、それは終戦1年後に引き揚げていた。
そしてさらに1年後に阪神間の西宮市に居住をした。
戦後70年はそこから記憶が始まっている。
きょうで満69年を迎えた。
数えで70歳となって、その思いにあるのは運命というより、命運である。
めぐりあわせか、身の定めとするのは凡庸に生きることであった。