これも気にいるようなことではない。も と言うのは死にざまからできたといわれる生きざまと話して来たことに似たような続きようだからだ。気にいることでなければうっちゃればよいがそうはいかないこともあってしぶしぶ書くようなことである。
死に急ぐとは、しなくてもいいのにそれをしたがために死んでしまうことである。それでは生き急ぐとはどういうことか。これもまた、いまはそんなにしなくていいと思われるようなことを必要以上にしすぎたために生きていることを終わってしまうようなことである。死に急ぐからできた言葉だという。要するに仕事を張り切りすぎたということか。これはよく考えてみるとどちらも寿命を全うしたようなことで、急いだわけでもないが、はたから見ればそう見えたことになる。そんなに無理をして体を壊すようなことであったのが通り越して死に至るわけでもあってどうしたかと死んでからまわりが述懐することである。どちらであっても寿命だったとすれば死に急いでも生き急いでも変わりはなかったことである。しかしどうしてこんな言葉ができたのだろう。
死ぬか生きるか、それはその時点までの前後のことであって生きることは見えても死ぬことは見えないのがふつうだろう。死に急ぐとは死に至るまでを急ぐことかと思うと、つまり生きている間を急いでしるし、生き急ぐとは生きていることを急ぐとなるので、どちらも同じである。この言葉の違いは結果を捉えて言うかどうかと言うことであろう。言ったように死ぬことは見えないが生きていることは見えるわけで死に急ぐについてはその結果から表現している。だから生き急ぐについては見える状態でとらえてそのときに何をしていたかが問われる。死んでしまえばおしまいであるから生きているときのことはそれなりにである。生き急いで死ぬなら誰も生き急ぐことはない。死にたくないからである。それをなぜ死んでしまった人に生き急いだというふうに言うのだろうか。
辞書によれば死期を早めるような生き方をするとありまた死ななくともよいのにわざわざ死のうとするとあったりして、これでは死に急ぐことはない。これに対して限りある命を急いで終えようとするかのように生きるとあってその例に、生き急ぐ無軌道な若者たち となっていて、無軌道な若者たちとは生き急ぐものかとなる。いずれも生きていることの意味があるかないかのような説明のことである。やはりこの語の使い方はよくないということが辞書の編集による解説だ。もともと生き急ぐについては言葉がなかったのだから表現を変えてどうかしようという話でもないらしい。そこで考えてみるとこの語には急ぐという意味内容のとらえ方があることがわかる。
>人生はマラソンのような長距離競争である。一気に駆け抜けようとすると落伍することになる。急ぐべからず、焦るべからずである。徳川家康も言っているように「人生は重き荷を負いて遠き道を行くがごとし。百里の半ばを90里とせよ」の心がけもって、長い人生の荒波を根気強く渡らなければならない。
[大屋晋三の名言・格言|人生は急ぐべからず。焦るべからず。]
>人間に寿命があるように、われわれの人間にも、それがいつのことがわからないにしても、やはり一つの寿命があると言えるのではないかと思う。だからといって、努力してもつまらないと放棄してしまうようでは、人間でいうところの天寿を全うせしめることはできない。これはいわば人間はやがて死ぬのだから不摂生、不養生の限りを尽くすのと同じであろう。
[松下幸之助の名言・格言|努力を放棄するな]
>人生はマラソンなんだから、100メートルで一等をもらったってしょうがない。
[石坂泰三の名言・格言|短期間の成功にとらわれるな]
死に急ぐとは、しなくてもいいのにそれをしたがために死んでしまうことである。それでは生き急ぐとはどういうことか。これもまた、いまはそんなにしなくていいと思われるようなことを必要以上にしすぎたために生きていることを終わってしまうようなことである。死に急ぐからできた言葉だという。要するに仕事を張り切りすぎたということか。これはよく考えてみるとどちらも寿命を全うしたようなことで、急いだわけでもないが、はたから見ればそう見えたことになる。そんなに無理をして体を壊すようなことであったのが通り越して死に至るわけでもあってどうしたかと死んでからまわりが述懐することである。どちらであっても寿命だったとすれば死に急いでも生き急いでも変わりはなかったことである。しかしどうしてこんな言葉ができたのだろう。
死ぬか生きるか、それはその時点までの前後のことであって生きることは見えても死ぬことは見えないのがふつうだろう。死に急ぐとは死に至るまでを急ぐことかと思うと、つまり生きている間を急いでしるし、生き急ぐとは生きていることを急ぐとなるので、どちらも同じである。この言葉の違いは結果を捉えて言うかどうかと言うことであろう。言ったように死ぬことは見えないが生きていることは見えるわけで死に急ぐについてはその結果から表現している。だから生き急ぐについては見える状態でとらえてそのときに何をしていたかが問われる。死んでしまえばおしまいであるから生きているときのことはそれなりにである。生き急いで死ぬなら誰も生き急ぐことはない。死にたくないからである。それをなぜ死んでしまった人に生き急いだというふうに言うのだろうか。
辞書によれば死期を早めるような生き方をするとありまた死ななくともよいのにわざわざ死のうとするとあったりして、これでは死に急ぐことはない。これに対して限りある命を急いで終えようとするかのように生きるとあってその例に、生き急ぐ無軌道な若者たち となっていて、無軌道な若者たちとは生き急ぐものかとなる。いずれも生きていることの意味があるかないかのような説明のことである。やはりこの語の使い方はよくないということが辞書の編集による解説だ。もともと生き急ぐについては言葉がなかったのだから表現を変えてどうかしようという話でもないらしい。そこで考えてみるとこの語には急ぐという意味内容のとらえ方があることがわかる。
>人生はマラソンのような長距離競争である。一気に駆け抜けようとすると落伍することになる。急ぐべからず、焦るべからずである。徳川家康も言っているように「人生は重き荷を負いて遠き道を行くがごとし。百里の半ばを90里とせよ」の心がけもって、長い人生の荒波を根気強く渡らなければならない。
[大屋晋三の名言・格言|人生は急ぐべからず。焦るべからず。]
>人間に寿命があるように、われわれの人間にも、それがいつのことがわからないにしても、やはり一つの寿命があると言えるのではないかと思う。だからといって、努力してもつまらないと放棄してしまうようでは、人間でいうところの天寿を全うせしめることはできない。これはいわば人間はやがて死ぬのだから不摂生、不養生の限りを尽くすのと同じであろう。
[松下幸之助の名言・格言|努力を放棄するな]
>人生はマラソンなんだから、100メートルで一等をもらったってしょうがない。
[石坂泰三の名言・格言|短期間の成功にとらわれるな]