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日本語文法論議23731
文章における文節が文章の構成単位である、とするのは、文を文節に分ける、文章を連文節に分ける、つまり連文節が文節扱いとなれば、文章を構成する文節を言うことになる。文と文章の単位をどう議論するか。文の単位は構造的には国語文法で整理する意味的な捉え方がわかりよいし、よりシンプルにする日本語教育の表記法にも分かりよさがある。
それを文型として基本3型にすると、文はこの構造を以て文章の中で文として用いられて文を複数に持つ文章となる。
>今朝、1枚の絵を捨てた。額に入ったままなので粗大ごみ扱いとなり、コンビニで購入した200円券を2枚貼付した。400円で縁を切る。安いものだ。 日経新聞20230730付け 文化面 絵を捨てる 最相葉月
この形式による文章単位で文を意味の単位で区切れば7つを文として読むことができる。それは連文節となる単位と係り受けをもとらえれば引用の句読になるから、文の数は4つである。
絵を捨てた / 額に入ったままな ので / 粗大ごみ扱いとなり /
200円券を購入した / 2枚貼付した / 縁を切る
安いものだ
次に文章が続く。
>絵を入れた箱には、鉛筆で「鴨居玲先生」とあった。伯母の筆跡だ。伯父と伯母は共働きで会社を大きくし、力士や歌舞伎俳優のタニマチをしたり美術品を収集したりと、地元ではちょっと知られた資産家だった。 同上
この文章にも、7つを文として読むことができる。引用した句読では文の数は4つである。
連続する段落でそれぞれに文章を単位とすれば、文章の意味は文情報によって補われて理解ができる。
「やすいものだ」と筆者が書く理由に文章をもってすればその意味が分かるし、ここの文章では絵はどのように伝えられたかを想像させるので、次の文章へと読み進めることになる。
さて文章にある文単位は、ここで句読による文を筆者がまとめるところ、形式には2種類の文として見える。文章はこの文の連続で構成されて、文情報の意味が互いに連接した複数の文となるのである。
さてさても、文法議論の文節、句、詞の単位についてそれぞれが国語文法の用語でみれば自立語と付属語の単位で内実に同様であることを述べてきた。わたしのパラダイムシフトになる批判は、自分で言ってこけそうであるけれど、それを語であると認めるところにある。
「定説をくつがえす」「ステレオタイプを捨てる」「革新的なアイデアによって時代を変える」というようなウイキペディアの強調スニペットに解説するもろもろとは程遠いが、さらに考えると、このブログで触れていたものを語法から文法へと展開するものである。
日本語文法の説80 文節批判の批判
2019-09-10 | 日本語文法
文節は詞であると気付く。文節は句であるとわかる。
橋本文法の文節が文を分かち書きにした話部すなわち品詞に相当するとわかると、時枝学説の句、松下学説の詞、そこに学校文法の文節を分節した単語の扱いになることがわかる。
そして連文節に文節相当を分析するかどうかのみかたで、文節の有効な議論の可否が決まる。
国語文法の理解をどうしているだろう。
文節は自立語と付属語とあって、その自立語は意味を持つ単語、付属語は実質的な意味に対して文法的な意味を持ち、自立語に付属する語である。ここで自立語、付属語というのは語の単位を構成する要素であるから、自立する、付属するという働きを持った語のレベルが異なっている。
それを品詞分類表でも区別されているところに、同じ語であるのは、語という名称がおかしいというのは、それですでに、語の区別を理解していないことになる。
語構成に接尾語とあって、単語における接辞の扱いになるかならないかはまた、文法分析を語に及ぼすときの捉え方である。
文節にもしも、同等の語のレベルで働くとする付属語を見るのは、そうではないと言えなくなってしまう、単語の規定を変えてしまってくることになる。
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