文章の構成について、その段落に関係構成を分析するのを修辞に見て、起承転結をモデルとするのを、その議論に観ることがある。その起承転結は論理構成にならないことが言われてきた。文章論においてこの議論は文章が作品であるか、言語の表現には違いないが、それを文章の統一体とみる文法機能を見出すかの違いがあって、そのいずれであるかよりも、その説明にポイントがある。つまり、転筆において論理飛躍があるというものである。よく知られているところで作品には表現のあやを見出すので論理の飛躍をどの論理によるかという、それは、あやとしての連想にあるので言語芸術の妙としては認めても、言語が関係構成する理屈はに充てはまらないということである。それは議論になることのことがらではない。その立場をとらえて、文学ですか、文法ですか、というような、話である。
29
文章の分析は意味の単位でおこなわれる。ある文章のまとまりを示すのは形態としての語が構文としての文にその連鎖をもって意味をあたえ、そのひとまとまりが構成される。それを形態から段落という複数の文を連ねる形式を持てばまとまりとしての文章が成立する。段落は書き手によって作られる文のまとまりである。その形式を読み取って段落とするなら、そこには読み手による意味の段落がある。書き手と読み手とが一致しての段落があれば、読み手側に書き手のまとまりを解釈することで意味のまとまりを認める段落、それを文段と呼ぶことができる。日本語の文章はその段落また文段によって統一体としてまずは分析される。統一は文章に主題があり、文における話題が意味内容として文に連鎖して、その話題の展開が文章の統一の核となり、そこに主題が現れる。
28
文章は文と文節からなる。いわばこの単位が連続して小単位から構成を持つ。文節は語になるというのは作業単位として形態をとらえることである。文節は詞と辞から構成されるから、そこから詞をとりだせば語である。語の形態は自立形式と付属形式が語基とその派生でもって現れたものである。文節はしたがって、語を単位とし、品詞にわけて、語の形態に分類が行われる。名詞、動詞、形容詞を見ると、その要素に代表して文の中で機能する。副詞があり、接続詞があり、加えれば、代名詞、指示代名詞、数詞がある。品詞はその文法機能を特徴に持つ。その用法が文に働くと、品詞性をもって扱われる。
例えば、彼は早く走る という、はやい に、ついていうと、形容詞の副詞としての用法が現れたものである。形容詞がもっぱら名詞を対象として機能する意味内容を、動詞にかかる、語形を変容しての用法を持つのは日本語の特徴である。
27
文節を言語の機能でどのように分節をしているか。記号素、音素にする二重分節をとらえるなら、ここに日本語はその言語記号を漢字にあらわすがゆえに、四重となるとみることができる。二重分節性はよく知られるところとなり、意味の最小単位と意味を支える音の単位に分けるものである。いわば、語と発音とを見る。例文に、机の上に本があります を、挙げれば、机の上-に 本-が あり‐ます ts u k u e n o u e n i h o n g a a r i m a s u というふうに分節する。
言語記号を日本語にあてはめて考えることは言語を音声でとらえることになる。それをさらに、日本語の事象に合わせて考えるなら、記号素と音素に相当するさきの分析に加えて、言語を記号にすることと、文字にすることの特徴がある。文字はすなわち言葉である。どうなるかと言うと、仮名文字である音節の捉え方があって、音韻のレベルで加わる。音素、音節、記号素となり、漢字をもって言葉のレベルをにおいて意味とする、文節を考えることになる。
音素 ts u k u e n o u e n i h o n g a a r i m a s u
音節 つ く え の う え に ほ ん が あ り ま す
記号素 机 の 上 に 本 が あり ます
文節 机の 上に 本が あります
26
文節を連ねて連文節をつなげていくと、文になるのではなくて文章になる。文と連文節が変わりなくなるのは、文法論と文章論の捉え方である。文章論文法としての文には、文法法則があるので、文の規定には語の規定と文章の規定とが係わる。文法の小単位から大単位までの連続性を見る。すでに松下学説では、原辞、詞、断句を分析して、詞が連詞を構成していくと、連詞の連詞となり、それは句を分かつ単位となるとして、断句を文に相当させていた。日本語の言語事象で詞と辞との構成をとらえてみる限り、そこには時枝学説が捉えて見せたように、文章単位も包括的な詞辞の大単位となりうるのである。その典型に文章作品の源氏物語をたとえてみるならば、語り口調の物語り作品に、読点だけを打つ、それは枠囲みが繰り返されて詞となりそれを包括する辞があって一続きの文意なる、つまり文章体として実現しているのであるから、日本語は詞の連続に記述されるのである。
25
文節が語であり詞である、連文節が句であり節である。そうして文章を分析すると、文章は文節からなる。この文節という単位を分節によって得られるので、そこには文法の法則があることを知り、語は品詞に分けられ、句は語と語とが関係し構成する単位になる。句には文にある要素を見るか、句を節にするときには、文における語と句と節の関係とその構成を見ることになる。ここで大切なことは、文節を考えることは日本語の現象にふさわしく係り受けの関係を文節に捉えることである。
連文節はその係り受けによるものであって、国語文法が作業に易くする隣り合う文節を連なるとしたことで行おうとする、その連文節は便宜、とられた方法であるから、ここから日本語文章に加える分析は文の構造より、さらに進めたものとするべきである。そしてまた、国語をとらえてわかりやすく説明をする、まとまったというときの、言葉のまとまりを言うことがあるが、そのまとまりを線状に展開している言葉の連続をそれだけにとどまらない係り受けの日本語を考えなければならない。
24
文節を調べていくと、その語のままに、英語での翻訳が出てきて、これはまさに、句の捉え方と、文章の捉え方になるので、議論をすすめればそうならざるをえないので、ここでもまた文節の用語の重要性を知る。英語教育で文節とは言わないが、それは国語教育の文節との違いということを強調するようで、なかにはそれをもって、国語の文法単位をよろしくないとする意見もあるから、これは困ったことである。確かに従属節、主節などというふうに、節をもって複文の文単位に相とする文法の枠組みからすれば、この節という用語で、語、句、節、文ととらえるから、文節の混同を避けることになるからである。
しかし、文節を関係構成して連文節とする分析があって、それについていえば、わたしには、連文節をもって、また文節とするべきであるとするので、連文節が句であり、いうところの従属節であったりすることは当然であって、それこそが文章の連文節すなわち文節になる。最近の考えには、橋本の連文節をやっと国語教育で進める考え方が出てきているようなので、なぜにもっと早くに考え方をすすめなかったのか、いろいろとその原因が求められるようなことである。ひとつには、橋本学説に対峙した時枝学説が入れ子型構造において文章分析をしたこと、それは文章単位の設定となるだけの議論であったが、その影響下にあって、学校教育はまた国語の文節どまりの議論が繰り返されてしまっている。
そして、いまだにその誤った文節無用の批判のままにあるようである。文節と連文節、それは、文節が語であり、連文節が句である、あるいは節であるという文法の議論をするべきところ、日本語を現象としてとらえることなく、その捉え方はわたしに言う文章であってよい、その、ここに言う文章論文法をしてこなかったのは、国語をわからずに進めてしまってきているとでも言わざるを得ない英語教育の弊でもあったようである。英語の教師が口々に日本語がわからないという発言を聞くたびに、それでもって言語を理解するとはどういうことなのかと、語学教師としての思いであったのか、不思議であった。日本語よりも英語がよくわかる、ドイツ語がよくわかるなどを言い続けているのだから致し方ない。
23
文節を語としてとらえる、もう少し進めれば、詞ととらえる、この文節がそのように文法として設定されていることに言及してきた。なかなか理解されないことかもしれないが、わかってみれば、ごく当たり前のことになる。あたりまえだということに、わかるのがどれほどむずかしいか。文節が詞と辞の組み合わせである、組み合うというのは関係しあって構成することであるが、自立語と付属語で、自立するものに重きを置くと、それは語である、ということであるから、自立詞と付属辞と言っている。學校文法の、便宜、自立と付属とを語の現象としてどのようにとらえさせるかである。
したがって、文章の単位に、文にもそうであるが、文節を見るのは極めて分かりよいことである。文章を読むときに自然に発音の切れ目をもってするということは、文の単位と同じであるのは、文を含む文章であるからだが、そこで文節をもって日本語を現象として切り分ける、それは分節することなのであるということを、さらに言えば、橋本学説の音韻解釈にある意味の単位ということを、知るべきである。それはまた、文節が語であって、その語が抽出されるとなると、その分節による語そのものは、文法の視点から品詞分けされることになる。文節が、こうして、品詞としてのpart of speechであることを知る。
22
日本語文章の分析に文節を用いる。文節は橋本学説における文の成分である。文に文節を見ることは日本語の特徴である。文節において文の要素を分析し、主語述語をもって文とする。その文に主語を必須要素とする捉え方と異なって、日本語では、必ずしも文の単位だけが文章を構成するものではない。目的語述語をもって文の単位に即した働きをする句がある。文章は文が関係構成する、文の集合体であるが、そこには句をもって文と関係構成をすることがある。したがって文章において関係構成の要素となるものには文、句、語と、それぞれ下位に単位がある、文節はそれぞれの単位を作っている。
いまここに書き連ねる文章にもその構成要素を見出す。冒頭の一文は、文であるか、句であるか。そこに主語述語の関係を見れば文である。第2文は、文節はと、前の文を受けて引詞をもってトピックとしている。この文にも主語と述語の関係があれば文である。第3文は、文に文節を見ること、それを引句として、トピックとしている。文節の語が繰り返し見えて、第4文で、文節において、とする、文節を主題として述べている文章が展開している。さてそこまでの文を見て、それを文とする分析と、句とする分析と、いずれの場合も当てはまりうるのは、その主語には文章の書き手の主体主語があるということである。第1文は主体による。その事実の特定をして事象を述べている。
21
文章論をふたたび、みたび、考える。文法文章論と文章文法論と、その違いは何か。日本語を冠して、日本語文法論文章と日本語文章論文法と、そこには日本文法文章論、日本文章文法論とがある。つまるところ、文章論と文法論とで、そのふたつにおいて、論の範囲をどのように位置づけるかである。文章を文法の法則で記述することが目標である。日本語文法の文章を意味に見ることである。文法の形態と意味をとらえて、形態論morphology から、シンタックスsyntax へと議論を展開する。
文章は文の連続において、文と文とが関係し構成する。文は語の連続において語と語とが関係し構成する。語と語との関係構成は文に直接し、文章に文を介在して間接する。文の成立と文章の成立には、語の関係構成が、その成立に直接に関与するものと、その文に補い合うものとして関与するものがある。より具体の言語事象においてみれば、文の成立に語と語の関係構成が関与しているということである。―晴れている ―何が ―空が ―晴れて ―どうしたか ―気持ち良い 日常の談話文章である。
20
文章を分析すると文の種類には単位文をとって、単文、複文とみることができる。その単文は主語を持つものと持たないものとに分けられて、文の規定を充てれば文の文節としてのみ構成する分がある。すなわち主語を持たない文は文節また連文節であるか、句のままに文章を構成する。単文において核となる主語を持たない文は、述語をもって文の単位に準じてとらえることになる。主語がその文情報に現れていないのは文章にあるということであり、文脈をたどる。文の要素を規定するものの、その文の成分を文章に見出す。これはまた、文と文、文と句が関係構成して文情報を補い合うということである。連文節がそのまま文であるか、句であるかは文に属するかどうかを見ることになる。複文はそれを併せ持つことになる。文章を単位とすると、単文、複文のほかに述語を持たない句また文がある。ことばのいいさしとなる用法、名詞止めに現れる箇条書き用法、加えて感嘆を示す用法である。文芸になるとその文章には文に相応する表現法がある。
29
文章の分析は意味の単位でおこなわれる。ある文章のまとまりを示すのは形態としての語が構文としての文にその連鎖をもって意味をあたえ、そのひとまとまりが構成される。それを形態から段落という複数の文を連ねる形式を持てばまとまりとしての文章が成立する。段落は書き手によって作られる文のまとまりである。その形式を読み取って段落とするなら、そこには読み手による意味の段落がある。書き手と読み手とが一致しての段落があれば、読み手側に書き手のまとまりを解釈することで意味のまとまりを認める段落、それを文段と呼ぶことができる。日本語の文章はその段落また文段によって統一体としてまずは分析される。統一は文章に主題があり、文における話題が意味内容として文に連鎖して、その話題の展開が文章の統一の核となり、そこに主題が現れる。
28
文章は文と文節からなる。いわばこの単位が連続して小単位から構成を持つ。文節は語になるというのは作業単位として形態をとらえることである。文節は詞と辞から構成されるから、そこから詞をとりだせば語である。語の形態は自立形式と付属形式が語基とその派生でもって現れたものである。文節はしたがって、語を単位とし、品詞にわけて、語の形態に分類が行われる。名詞、動詞、形容詞を見ると、その要素に代表して文の中で機能する。副詞があり、接続詞があり、加えれば、代名詞、指示代名詞、数詞がある。品詞はその文法機能を特徴に持つ。その用法が文に働くと、品詞性をもって扱われる。
例えば、彼は早く走る という、はやい に、ついていうと、形容詞の副詞としての用法が現れたものである。形容詞がもっぱら名詞を対象として機能する意味内容を、動詞にかかる、語形を変容しての用法を持つのは日本語の特徴である。
27
文節を言語の機能でどのように分節をしているか。記号素、音素にする二重分節をとらえるなら、ここに日本語はその言語記号を漢字にあらわすがゆえに、四重となるとみることができる。二重分節性はよく知られるところとなり、意味の最小単位と意味を支える音の単位に分けるものである。いわば、語と発音とを見る。例文に、机の上に本があります を、挙げれば、机の上-に 本-が あり‐ます ts u k u e n o u e n i h o n g a a r i m a s u というふうに分節する。
言語記号を日本語にあてはめて考えることは言語を音声でとらえることになる。それをさらに、日本語の事象に合わせて考えるなら、記号素と音素に相当するさきの分析に加えて、言語を記号にすることと、文字にすることの特徴がある。文字はすなわち言葉である。どうなるかと言うと、仮名文字である音節の捉え方があって、音韻のレベルで加わる。音素、音節、記号素となり、漢字をもって言葉のレベルをにおいて意味とする、文節を考えることになる。
音素 ts u k u e n o u e n i h o n g a a r i m a s u
音節 つ く え の う え に ほ ん が あ り ま す
記号素 机 の 上 に 本 が あり ます
文節 机の 上に 本が あります
26
文節を連ねて連文節をつなげていくと、文になるのではなくて文章になる。文と連文節が変わりなくなるのは、文法論と文章論の捉え方である。文章論文法としての文には、文法法則があるので、文の規定には語の規定と文章の規定とが係わる。文法の小単位から大単位までの連続性を見る。すでに松下学説では、原辞、詞、断句を分析して、詞が連詞を構成していくと、連詞の連詞となり、それは句を分かつ単位となるとして、断句を文に相当させていた。日本語の言語事象で詞と辞との構成をとらえてみる限り、そこには時枝学説が捉えて見せたように、文章単位も包括的な詞辞の大単位となりうるのである。その典型に文章作品の源氏物語をたとえてみるならば、語り口調の物語り作品に、読点だけを打つ、それは枠囲みが繰り返されて詞となりそれを包括する辞があって一続きの文意なる、つまり文章体として実現しているのであるから、日本語は詞の連続に記述されるのである。
25
文節が語であり詞である、連文節が句であり節である。そうして文章を分析すると、文章は文節からなる。この文節という単位を分節によって得られるので、そこには文法の法則があることを知り、語は品詞に分けられ、句は語と語とが関係し構成する単位になる。句には文にある要素を見るか、句を節にするときには、文における語と句と節の関係とその構成を見ることになる。ここで大切なことは、文節を考えることは日本語の現象にふさわしく係り受けの関係を文節に捉えることである。
連文節はその係り受けによるものであって、国語文法が作業に易くする隣り合う文節を連なるとしたことで行おうとする、その連文節は便宜、とられた方法であるから、ここから日本語文章に加える分析は文の構造より、さらに進めたものとするべきである。そしてまた、国語をとらえてわかりやすく説明をする、まとまったというときの、言葉のまとまりを言うことがあるが、そのまとまりを線状に展開している言葉の連続をそれだけにとどまらない係り受けの日本語を考えなければならない。
24
文節を調べていくと、その語のままに、英語での翻訳が出てきて、これはまさに、句の捉え方と、文章の捉え方になるので、議論をすすめればそうならざるをえないので、ここでもまた文節の用語の重要性を知る。英語教育で文節とは言わないが、それは国語教育の文節との違いということを強調するようで、なかにはそれをもって、国語の文法単位をよろしくないとする意見もあるから、これは困ったことである。確かに従属節、主節などというふうに、節をもって複文の文単位に相とする文法の枠組みからすれば、この節という用語で、語、句、節、文ととらえるから、文節の混同を避けることになるからである。
しかし、文節を関係構成して連文節とする分析があって、それについていえば、わたしには、連文節をもって、また文節とするべきであるとするので、連文節が句であり、いうところの従属節であったりすることは当然であって、それこそが文章の連文節すなわち文節になる。最近の考えには、橋本の連文節をやっと国語教育で進める考え方が出てきているようなので、なぜにもっと早くに考え方をすすめなかったのか、いろいろとその原因が求められるようなことである。ひとつには、橋本学説に対峙した時枝学説が入れ子型構造において文章分析をしたこと、それは文章単位の設定となるだけの議論であったが、その影響下にあって、学校教育はまた国語の文節どまりの議論が繰り返されてしまっている。
そして、いまだにその誤った文節無用の批判のままにあるようである。文節と連文節、それは、文節が語であり、連文節が句である、あるいは節であるという文法の議論をするべきところ、日本語を現象としてとらえることなく、その捉え方はわたしに言う文章であってよい、その、ここに言う文章論文法をしてこなかったのは、国語をわからずに進めてしまってきているとでも言わざるを得ない英語教育の弊でもあったようである。英語の教師が口々に日本語がわからないという発言を聞くたびに、それでもって言語を理解するとはどういうことなのかと、語学教師としての思いであったのか、不思議であった。日本語よりも英語がよくわかる、ドイツ語がよくわかるなどを言い続けているのだから致し方ない。
23
文節を語としてとらえる、もう少し進めれば、詞ととらえる、この文節がそのように文法として設定されていることに言及してきた。なかなか理解されないことかもしれないが、わかってみれば、ごく当たり前のことになる。あたりまえだということに、わかるのがどれほどむずかしいか。文節が詞と辞の組み合わせである、組み合うというのは関係しあって構成することであるが、自立語と付属語で、自立するものに重きを置くと、それは語である、ということであるから、自立詞と付属辞と言っている。學校文法の、便宜、自立と付属とを語の現象としてどのようにとらえさせるかである。
したがって、文章の単位に、文にもそうであるが、文節を見るのは極めて分かりよいことである。文章を読むときに自然に発音の切れ目をもってするということは、文の単位と同じであるのは、文を含む文章であるからだが、そこで文節をもって日本語を現象として切り分ける、それは分節することなのであるということを、さらに言えば、橋本学説の音韻解釈にある意味の単位ということを、知るべきである。それはまた、文節が語であって、その語が抽出されるとなると、その分節による語そのものは、文法の視点から品詞分けされることになる。文節が、こうして、品詞としてのpart of speechであることを知る。
22
日本語文章の分析に文節を用いる。文節は橋本学説における文の成分である。文に文節を見ることは日本語の特徴である。文節において文の要素を分析し、主語述語をもって文とする。その文に主語を必須要素とする捉え方と異なって、日本語では、必ずしも文の単位だけが文章を構成するものではない。目的語述語をもって文の単位に即した働きをする句がある。文章は文が関係構成する、文の集合体であるが、そこには句をもって文と関係構成をすることがある。したがって文章において関係構成の要素となるものには文、句、語と、それぞれ下位に単位がある、文節はそれぞれの単位を作っている。
いまここに書き連ねる文章にもその構成要素を見出す。冒頭の一文は、文であるか、句であるか。そこに主語述語の関係を見れば文である。第2文は、文節はと、前の文を受けて引詞をもってトピックとしている。この文にも主語と述語の関係があれば文である。第3文は、文に文節を見ること、それを引句として、トピックとしている。文節の語が繰り返し見えて、第4文で、文節において、とする、文節を主題として述べている文章が展開している。さてそこまでの文を見て、それを文とする分析と、句とする分析と、いずれの場合も当てはまりうるのは、その主語には文章の書き手の主体主語があるということである。第1文は主体による。その事実の特定をして事象を述べている。
21
文章論をふたたび、みたび、考える。文法文章論と文章文法論と、その違いは何か。日本語を冠して、日本語文法論文章と日本語文章論文法と、そこには日本文法文章論、日本文章文法論とがある。つまるところ、文章論と文法論とで、そのふたつにおいて、論の範囲をどのように位置づけるかである。文章を文法の法則で記述することが目標である。日本語文法の文章を意味に見ることである。文法の形態と意味をとらえて、形態論morphology から、シンタックスsyntax へと議論を展開する。
文章は文の連続において、文と文とが関係し構成する。文は語の連続において語と語とが関係し構成する。語と語との関係構成は文に直接し、文章に文を介在して間接する。文の成立と文章の成立には、語の関係構成が、その成立に直接に関与するものと、その文に補い合うものとして関与するものがある。より具体の言語事象においてみれば、文の成立に語と語の関係構成が関与しているということである。―晴れている ―何が ―空が ―晴れて ―どうしたか ―気持ち良い 日常の談話文章である。
20
文章を分析すると文の種類には単位文をとって、単文、複文とみることができる。その単文は主語を持つものと持たないものとに分けられて、文の規定を充てれば文の文節としてのみ構成する分がある。すなわち主語を持たない文は文節また連文節であるか、句のままに文章を構成する。単文において核となる主語を持たない文は、述語をもって文の単位に準じてとらえることになる。主語がその文情報に現れていないのは文章にあるということであり、文脈をたどる。文の要素を規定するものの、その文の成分を文章に見出す。これはまた、文と文、文と句が関係構成して文情報を補い合うということである。連文節がそのまま文であるか、句であるかは文に属するかどうかを見ることになる。複文はそれを併せ持つことになる。文章を単位とすると、単文、複文のほかに述語を持たない句また文がある。ことばのいいさしとなる用法、名詞止めに現れる箇条書き用法、加えて感嘆を示す用法である。文芸になるとその文章には文に相応する表現法がある。