売文業、売文家、売文の徒という語を連想して、文を書いてそれで飯を食う、つまり一1人前の小説家になるということで、それは大変なことだと思ってきた。文学賞を取って、出版社が原稿を買いに来るような状況が生まれ、ペン1本で生活をする、プロフェッショナルにして、次から次へと、文章が書ける、作品ができることであったから、芥川賞を受賞して、文筆生活に入るということは、才能のゆえに、できることなのである。文章を書く才能はその鍛錬によって磨かれる。1度や2度の浮き沈みのことではない。売文の輩、ここに極まれるは、ブロガーなる営為である。
売文業、売文家、売文の徒という語を連想して、文を書いてそれで飯を食う、つまり一1人前の小説家になるということで、それは大変なことだと思ってきた。文学賞を取って、出版社が原稿を買いに来るような状況が生まれ、ペン1本で生活をする、プロフェッショナルにして、次から次へと、文章が書ける、作品ができることであったから、芥川賞を受賞して、文筆生活に入るということは、才能のゆえに、できることなのである。文章を書く才能はその鍛錬によって磨かれる。1度や2度の浮き沈みのことではない。売文の輩、ここに極まれるは、ブロガーなる営為である。
小田嶋 隆さんは「百円ライター」を自称していました。うちの所長も、「一杯奢ってくれたら書く」というので、「ワンショット・ライター」(「一式陸攻で検索してください)を自称していました。
「文章を書く」というのは、「個」の話です。まだ「個」が確立されていない子供に、「作文」をさせるというのは、感心しません。「好きなことを、自由に書いていいんだよ」といいつつ、大人の事情やら都合やらによって評価され採点され、扱いが変わってしまいます。
あたしは自閉圏の方々とのおつきあいがある(つーか、私は自閉です)のですが、「人形のように」に対して「馬鹿だ」と言ってはいけなくて、「可愛い」と言わなくてはいけない、というのはどうだろうか、と思います。
「オノマトペ」というのが、テレビのバラエティ番組にあったのを最近見ましたが、「烏」に「アーアー」と答えたらバツなのか、と思いました。「嗚呼」って使っちゃいけないんでしょうか。「馬」に「いんいん」もダメだということになりますよね?
「烏」は「カーカー」、「馬」は「パカパカ」「ヒヒーン」、というのは「教育の成果」なのでしょうか。
まぁ、「祐筆」とか「代書屋」とかいった言葉がありますが、ワープロ時代のライターにもプライドというものがありまして、「売文家は、言われた通りに作文するのが仕事」みたいなイメージに押込められるのは、あまり愉快なことではありません。
とはいえ、斎藤 緑雨「筆は一本 箸は二本、衆寡敵せず」という話もありますが(笑)。キーボードを使っていると、それなりに(けっこう邪魔が入って食い扶持が減ったりするのですが)「箸は二本、指は九本(左手の親指って、ほとんど使ったことがありません)」なので、四人分くらいの食い扶持は稼げそうに思います。
「文章を書く」というのは、重要なスキルだと考えています。昨今は「小論文」とか言われていますけど、「期待されているような文章を書く」という意味での「作文」って、世の中からは軽蔑されていますよね?
とはいえ、義務教育の国語の授業では、「思ったことを好きなように書け」と言われて思ったことを好きなように書いたら教師からイジメを受けた、みたいな話もあります。
どこかの文学賞を受賞しなければ、正々堂々と自分の思ったことを表現しちゃいけないんですかね?
「文學」のジャンルでは、そのあたりはお目こぼしを頂けるようですが、「国語學」関連のジャンルでは、学会ではボロクソに叩かれます。はい、少なくとも一度は叩かれたそうで、「二以上の自然数回叩かれたよ」(あの笑顔は二度と見たくないぞ。「人を殺すときはああいう表情になる」という話があります)だそうです。
以来、「益岡 隆志・田窪 行則『基礎日本語文法』を見かけると、ゲロを吐きそうになる」と所長が言っていました。
とはいえ、学会の総会というのは、各分科会のカンファレンスに関しては、議事録のサマリーを参加者(あるいは、参加登録者)に公開するのが通例なので、「その時点でアンフェアではないか」とは思うのですが。