日本語の新現象をとらえていた。
その書目が世に問われてからひさしい。
問題にちがいないのでとくに、その書名の興味に意見があるわけではない。
問題な、というべきか、問題の、というべきか、それはかつてふれたことがある。
形容詞性を文法的に見て限定修飾とするかどうかで、日本語そのものに問題が潜むならば、問題な日本語であり、日本語の現象に問題があるならばそれは問題の日本語である、というべきであって、そういえないならば、それよりは、日本語そのものの全体に起こりつつあることとして日本語の問題となるであろう。
名詞に形容詞性をもとめて、問題という名詞が形容詞になるとしたら、問題なこと、問題な事件、あえてまた、問題な人、というように表現することはできる。
いずれにしても、問題になる日本語、問題のある日本語、問題である日本語の使い方、というようなことである。
問題な日本語を検索すると関連するキーワードには、言葉の乱れ、ことばの揺れ、ことばの誤用、ことばの間違い、などなどがある。
さて、どんなものがあるかと、次のサイトにあるのは、最近気になる言葉だそうである。
へんな日本語
www1.ocn.ne.jp/~konnok/henf.html
英語のThroughは前置詞ですが、それをサ変名詞にしてしまうところが、日本語の柔軟性ですね。 ...... 北原保雄の「問題な日本語」に、例えば「新しい」(あたらしい)という言葉も「新た」(あらた)から変化した言葉だからこのようなことはまれにはあることだ、という ...
>
オールする
きょどる
息をするように
死ねばいいのに
エンタメ
自宅警備員
パツパツ
まるっと
イラッとくる
KY
真逆
勝負服
スルーする
がっつり
もっかい
心が折れる
ムリ!
ありえない
いぎなし
ネクラ
エッチ
ドタキャン
おさぼりモード
おとな買い
コピペ
チクる
早急
ポケティ
ネタバレ ツンデレ
テンパる
こじゃれた
プータロー
バツイチ
ビミョー
エロい、グロい
パニクる
ググる
クソゲー
キターーー
コクる
エンジェル係数
語尾上げ
小確幸
イケメン
萌え萌え
~なくない?
チョー
~って、どうよ
あけおめ
お名前様
~になります
ヅラ
おはよう靴下
ソッコーで
お約束
バグる
あ゛、え゛
ダメじゃん
お喜び申し上げます
~円からお預かりします
ありえねえ
みたいな
ぶっちゃけ
へたれ
いっこ下
きもい
めっちゃ、めちゃめちゃ
すいません
うかつな!
~っちゃ~
よさげ、なさげ
~ません?
すっごい
好きくない
ぜんぜんオッケー
進捗
ちがかった
~しぃ
~っぽい
~のほう
よろしかったでしょうか
さらなる
デフォルト
~すか?
タメ口(ためぐち)
見れる
マジ?
うざい
むずい
~的には
ふいんき
なのでえ
さりげに、なにげに
うっそお!
問題な日本語 北原保雄
日本語はおもしろい
美しい日本語
ヴァーチャル日本語 役割語の謎
間違った日本語
おかしい日本語
正しい日本語
面白い日本語
問題な日本語 - 増田耕一
macroscope.world.coocan.jp/ja/memo/mondaina/mondaina.html
>2006/01/14 - 問題な日本語」という語句は本の題名(北原, 2004)になっているが、 その編者自身、この語句が問題な日本語[自己形容的表現...別ページ ... 問題な」と言われないですむ表現を使えば、 「問題を含んだ日本語(の表現)」ということになるだろう。
「問題」という名詞があることはまちがいない。 たとえば、「これは問題だ」というときの「問題だ」は、名詞「問題」に 助動詞「だ」の終止形がついたものと考えるのがふつうだ。 とくに、「これはひとつの問題だ」とか、「これは新しい問題だ」という場合には、 「名詞+だ」であることはまちがいない。 助動詞「だ」には「な」という連体形がある。 「これは新しい問題なのだ」というときの「問題なのだ」は、 「問題(名詞)+な(助動詞連体形)+の(代用名詞的に使われる助詞)+だ(助動詞終止形)」 と解釈することができる。 (「なのだ」をひとつの助動詞と見たほうがよいという考えもあるようだが。) 「な」は、この例のように形式的には連体形(次に名詞的なものがくるときにとる形) なのだが、実質的に名詞を形容する(限定する)のにはふつう使われない。 名詞が名詞を形容するときはふつう助詞「の」でつなぐ。 たとえば、「日本人の英語」というように。
「問題な日本語」の「問題な」という表現は、 少なくともわたしには、「問題だ」という形容動詞の連体形としか考えられない。 これがなんとなく不自然なのは、 「問題だ」という形容動詞が標準的な日本語に含まれないのではないかと 感じられるということだ。 つまり、文法の問題ではなく、語彙の問題だと言える。 ことばはうつりゆくものであるという立場をとれば、 「問題だ」という形容動詞が、まさにつくられてゆく過程なのではないかと思う。 名詞「問題」を使って 「問題を含んだ」や「問題をはらんだ」のような表現 (ここでの「だ」はおそらく過去を示すのと同じ助動詞「た」の連体形で 音のつながりのため濁音になったものだが、 過去の意味はもたない)をすればよかったのだが、 それがくりかえされるうちにもっと短い表現が好まれるようになったのかもしれない。
「問題な日本語」というのも実は問題な日本語だ(北原, 2004)。 さて、この「問題な日本語」のようにそれ自体にあてはまる表現を自己形容的、 その否定を非自己形容的と呼ぶことにしよう。 「非自己形容的」ということばは自己形容的だろうか、非自己形容的だろうか? 自己形容的だとすると、非自己形容的だということになる。 非自己形容的だとすると、自己形容的だということになる。
ウイキペディアより。
>日本語の乱れとは、規範とされる日本語(標準語、国語)と現実の日本語の食い違いを否定的に捉えた語である。「変化」や「ゆらぎ」ともいう。
食い違いは現実の日本語が変化することでも規範が変化することでも生じうる。乱れは、なくなることもあれば定着することもあるが、その受容の過渡的段階で特に「誤用」などと盛んに取りざたされる。
古い時代の日本語は現代以上に激しく変化し続けてきたとし、昨今言われている日本語の乱れというのはやぼなことと考える意見もある[1]。この立場からは「言葉は生き物」などと喩えられる。
尚、言葉の乱れとは、オーソドックスな言語学には無い概念である[2]。科学(人文科学)の一分野である言語学では、物事に対して価値判断をしない。言語の実態と文法が一致しない場合、言語学では実態に合わせて文法を修正すべきだと考え、文法に合わせて実態を修正すべきだとは考えない。また、規範とされる文法については規範文法と呼んで区別し、その影響などは社会言語学などで研究の対象となる。このような中立の視点からは「文法的におかしい」のような表現は「規範的な日本語と異なる」ことに対する捉え方の一つと解釈する。
>政府の姿勢は日本語の変化を即悪いことと考えるようなものではなく、変化を容認することもあれば、積極的に日本語を改造することさえある。例えば、1905年に政府は『文法上許容すべき事項』を定め当時の書き言葉に現れていた「従来破格又は誤謬と称せられたるもの」の一部を追認した。このとき追認された誤用の多くは現在では誤用とは認識されなくなっている。戦後になって『当用漢字』では漢字数の削減と字体の簡略化を打ち出した。『現代かなづかい』は、それ以前の歴史的仮名遣いと違って、文法や語源に関係なく発音通りに表記することを原則とした。『これからの敬語』では敬語の簡略化を図った。
日本語の誤用では、規範的な日本語(標準語)とは異なる日本語の表現や運用を記す。誤用には、文字、綴り、音韻、形態(語形)、意味、統語など様々なレベルのものがありうる
>誤用は、言語学上の概念ではない。記述的な言語学では母語話者の言語の運用について、正誤の判断をしない。しかしながら、一般的には日本語に正用・誤用があると考えられている。また言語教育の場面では正用・誤用の区別は必要である。言葉の乱れなどとして指摘されるもののほか、比喩や慣用句の誤用がしばしば話題とされる。
第二言語として日本語を学習するさい、「書かない」を「書きない」などとする誤用が見られ、何となくおかしいのだけれどもどこがおかしいかはっきり指摘できない場合があり、この「おかしい」と感じるものが誤用(error)と呼ばれる。従来の誤用研究は文法的正確さが重視されてきたが、現在は伝達・コミュニケーションに関わる誤用が重要視されている。外国語の学習過程では誤用が生じるのが当然であり、ことばを習得するための一つのステップととらえ、誤用とはとらえず中間言語(interlanguage)という呼び方をする[1]。
その書目が世に問われてからひさしい。
問題にちがいないのでとくに、その書名の興味に意見があるわけではない。
問題な、というべきか、問題の、というべきか、それはかつてふれたことがある。
形容詞性を文法的に見て限定修飾とするかどうかで、日本語そのものに問題が潜むならば、問題な日本語であり、日本語の現象に問題があるならばそれは問題の日本語である、というべきであって、そういえないならば、それよりは、日本語そのものの全体に起こりつつあることとして日本語の問題となるであろう。
名詞に形容詞性をもとめて、問題という名詞が形容詞になるとしたら、問題なこと、問題な事件、あえてまた、問題な人、というように表現することはできる。
いずれにしても、問題になる日本語、問題のある日本語、問題である日本語の使い方、というようなことである。
問題な日本語を検索すると関連するキーワードには、言葉の乱れ、ことばの揺れ、ことばの誤用、ことばの間違い、などなどがある。
さて、どんなものがあるかと、次のサイトにあるのは、最近気になる言葉だそうである。
へんな日本語
www1.ocn.ne.jp/~konnok/henf.html
英語のThroughは前置詞ですが、それをサ変名詞にしてしまうところが、日本語の柔軟性ですね。 ...... 北原保雄の「問題な日本語」に、例えば「新しい」(あたらしい)という言葉も「新た」(あらた)から変化した言葉だからこのようなことはまれにはあることだ、という ...
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オールする
きょどる
息をするように
死ねばいいのに
エンタメ
自宅警備員
パツパツ
まるっと
イラッとくる
KY
真逆
勝負服
スルーする
がっつり
もっかい
心が折れる
ムリ!
ありえない
いぎなし
ネクラ
エッチ
ドタキャン
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コピペ
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語尾上げ
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萌え萌え
~なくない?
チョー
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あけおめ
お名前様
~になります
ヅラ
おはよう靴下
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バグる
あ゛、え゛
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お喜び申し上げます
~円からお預かりします
ありえねえ
みたいな
ぶっちゃけ
へたれ
いっこ下
きもい
めっちゃ、めちゃめちゃ
すいません
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~っちゃ~
よさげ、なさげ
~ません?
すっごい
好きくない
ぜんぜんオッケー
進捗
ちがかった
~しぃ
~っぽい
~のほう
よろしかったでしょうか
さらなる
デフォルト
~すか?
タメ口(ためぐち)
見れる
マジ?
うざい
むずい
~的には
ふいんき
なのでえ
さりげに、なにげに
うっそお!
問題な日本語 北原保雄
日本語はおもしろい
美しい日本語
ヴァーチャル日本語 役割語の謎
間違った日本語
おかしい日本語
正しい日本語
面白い日本語
問題な日本語 - 増田耕一
macroscope.world.coocan.jp/ja/memo/mondaina/mondaina.html
>2006/01/14 - 問題な日本語」という語句は本の題名(北原, 2004)になっているが、 その編者自身、この語句が問題な日本語[自己形容的表現...別ページ ... 問題な」と言われないですむ表現を使えば、 「問題を含んだ日本語(の表現)」ということになるだろう。
「問題」という名詞があることはまちがいない。 たとえば、「これは問題だ」というときの「問題だ」は、名詞「問題」に 助動詞「だ」の終止形がついたものと考えるのがふつうだ。 とくに、「これはひとつの問題だ」とか、「これは新しい問題だ」という場合には、 「名詞+だ」であることはまちがいない。 助動詞「だ」には「な」という連体形がある。 「これは新しい問題なのだ」というときの「問題なのだ」は、 「問題(名詞)+な(助動詞連体形)+の(代用名詞的に使われる助詞)+だ(助動詞終止形)」 と解釈することができる。 (「なのだ」をひとつの助動詞と見たほうがよいという考えもあるようだが。) 「な」は、この例のように形式的には連体形(次に名詞的なものがくるときにとる形) なのだが、実質的に名詞を形容する(限定する)のにはふつう使われない。 名詞が名詞を形容するときはふつう助詞「の」でつなぐ。 たとえば、「日本人の英語」というように。
「問題な日本語」の「問題な」という表現は、 少なくともわたしには、「問題だ」という形容動詞の連体形としか考えられない。 これがなんとなく不自然なのは、 「問題だ」という形容動詞が標準的な日本語に含まれないのではないかと 感じられるということだ。 つまり、文法の問題ではなく、語彙の問題だと言える。 ことばはうつりゆくものであるという立場をとれば、 「問題だ」という形容動詞が、まさにつくられてゆく過程なのではないかと思う。 名詞「問題」を使って 「問題を含んだ」や「問題をはらんだ」のような表現 (ここでの「だ」はおそらく過去を示すのと同じ助動詞「た」の連体形で 音のつながりのため濁音になったものだが、 過去の意味はもたない)をすればよかったのだが、 それがくりかえされるうちにもっと短い表現が好まれるようになったのかもしれない。
「問題な日本語」というのも実は問題な日本語だ(北原, 2004)。 さて、この「問題な日本語」のようにそれ自体にあてはまる表現を自己形容的、 その否定を非自己形容的と呼ぶことにしよう。 「非自己形容的」ということばは自己形容的だろうか、非自己形容的だろうか? 自己形容的だとすると、非自己形容的だということになる。 非自己形容的だとすると、自己形容的だということになる。
ウイキペディアより。
>日本語の乱れとは、規範とされる日本語(標準語、国語)と現実の日本語の食い違いを否定的に捉えた語である。「変化」や「ゆらぎ」ともいう。
食い違いは現実の日本語が変化することでも規範が変化することでも生じうる。乱れは、なくなることもあれば定着することもあるが、その受容の過渡的段階で特に「誤用」などと盛んに取りざたされる。
古い時代の日本語は現代以上に激しく変化し続けてきたとし、昨今言われている日本語の乱れというのはやぼなことと考える意見もある[1]。この立場からは「言葉は生き物」などと喩えられる。
尚、言葉の乱れとは、オーソドックスな言語学には無い概念である[2]。科学(人文科学)の一分野である言語学では、物事に対して価値判断をしない。言語の実態と文法が一致しない場合、言語学では実態に合わせて文法を修正すべきだと考え、文法に合わせて実態を修正すべきだとは考えない。また、規範とされる文法については規範文法と呼んで区別し、その影響などは社会言語学などで研究の対象となる。このような中立の視点からは「文法的におかしい」のような表現は「規範的な日本語と異なる」ことに対する捉え方の一つと解釈する。
>政府の姿勢は日本語の変化を即悪いことと考えるようなものではなく、変化を容認することもあれば、積極的に日本語を改造することさえある。例えば、1905年に政府は『文法上許容すべき事項』を定め当時の書き言葉に現れていた「従来破格又は誤謬と称せられたるもの」の一部を追認した。このとき追認された誤用の多くは現在では誤用とは認識されなくなっている。戦後になって『当用漢字』では漢字数の削減と字体の簡略化を打ち出した。『現代かなづかい』は、それ以前の歴史的仮名遣いと違って、文法や語源に関係なく発音通りに表記することを原則とした。『これからの敬語』では敬語の簡略化を図った。
日本語の誤用では、規範的な日本語(標準語)とは異なる日本語の表現や運用を記す。誤用には、文字、綴り、音韻、形態(語形)、意味、統語など様々なレベルのものがありうる
>誤用は、言語学上の概念ではない。記述的な言語学では母語話者の言語の運用について、正誤の判断をしない。しかしながら、一般的には日本語に正用・誤用があると考えられている。また言語教育の場面では正用・誤用の区別は必要である。言葉の乱れなどとして指摘されるもののほか、比喩や慣用句の誤用がしばしば話題とされる。
第二言語として日本語を学習するさい、「書かない」を「書きない」などとする誤用が見られ、何となくおかしいのだけれどもどこがおかしいかはっきり指摘できない場合があり、この「おかしい」と感じるものが誤用(error)と呼ばれる。従来の誤用研究は文法的正確さが重視されてきたが、現在は伝達・コミュニケーションに関わる誤用が重要視されている。外国語の学習過程では誤用が生じるのが当然であり、ことばを習得するための一つのステップととらえ、誤用とはとらえず中間言語(interlanguage)という呼び方をする[1]。