日本語の語は語の集合を表している。英語、中国語という場合もそうである。その語が意味を表わし語と語とが関係して法をあらわすと文をもって文法となる。語を単語とすると文法によって切り分けられた文のなかの語であり、単位体となる。その文法単位体に語性を見て文法機能を分類して品詞としている。詞とだけ使うと、言葉の意味を表し語とは違って、文の集合または文と句の関係でその中での用法をさすことにもなる。句は漢文での単位であったから、そこには詞と辞が現れていた。言葉はこれを総称し、話言葉を主に捉えていたが、書きことばというようにも使うことから、ことばの全体を指し示すようにもなった。コトバとするときにはそのことば全体をさすか、それをきりわけての、それぞれ設定されたコトバとなるようである。言葉、言の端、この用字は表記として時代によって見られたものである。それを言葉と伝統的に使うのはすでに古代の用字としてあったからであり、言語のあらわれを植物になぞらえた漢語表現の影響による。
日本語の語は語文とすると、それは文法単位の語と文をあわせたような印象を与えるが、文語、口語もそうであるが、語が単語となるとのとちがって、語文そのものは言葉と文章のことであって、言文と言いうる。これはその字義を組み合わせた用法なので、日本語でわかり得ても、その語文、言文のさすところ、広くとらえることになる。言語とは、したがって、どういう意味であるか、語誌によると、江戸時代までは漢音よみの、ゲンギョと呉音よみのゴンゴとが並行して用いられてきたが、明治初年に、両語形が混交してゲンゴが誕生したと、日本国語大事典には解説する。さらには、ゲンゴの一般化に伴ってゲンギョは姿を消し、ゴンゴは言語道断などの特定の慣用表現に残った、とするが、言語そのものの意味を、*礼記‐王制「五方之民、言語不通、嗜欲不同」 とあるような、ことばのことをさす。*論語‐先進「言語、宰我、子貢」と見えるように言論のことをさす。
字通によると、言語と連称し、言は立誓による攻撃的な言語、語は防禦的な言語、とし、またさらには、
>このような呪誦は、わが国の「風俗(くにぶり)の諺」に類するもので、地霊によびかけるものであった。言語はもと呪的な応対の語であったが、のち一般の語をいう。
と説明がある。
字通より。
訓義
[1] かたる、呪語をのべて霊をしずめる、ことば。
[2] ことわざ、おしえ。
[3] はなし、ものがたり。
[4] ときさとす、つげる、いう。
[5] かたる、かたらう。
[6] 国語、仲間とする
〔名義抄〕語 コト・コトバ・カタラフ・カタル・モノガタリ・モノイフ・ウワサ・サヅク・イフ・トフ・カタラク・アフ・サヘヅル 〔字鏡集〕語 サヘタツリ・カタル・モノユフ・モノガタリ・イイカタラフ・トク・サヅク・コトワザ・カタラフ・コトバ・トフ・イフ・ネゴト・コト
https://traitor.jp/china/r.html
>中國戎夷五方之民皆有其性也不可推移東方曰夷被髮文身有不火食者矣南方曰蠻雕題交趾有不火食者矣西方曰戎被髮衣皮有不粒食者矣北方曰狄衣羽毛穴居有不粒食者矣中國夷蠻戎狄皆有安居和味宜服利用備器五方之民言語不通嗜欲不同達其志通其欲東方曰寄南方曰象西方曰狄鞮北方曰譯
>中国には戎夷を含めて、五方に民族があり、皆それぞれに特徴があるのであり、あえて変えようとしてはならない。東方は夷という。頭に冠も載せず、体に入れ墨をしていて、生ものを食べるところもある。南方は蠻という。額に彫りものをして両足の指を向かいあわせて歩く習わしで 、生ものを食べるところもある。西方を戎という。頭に冠も載せず、動物の皮を衣服にしており、穀物を食べないところもある。北方を狄という。羽毛を衣服にして穴蔵に住んでおり、穀物を食べないところもある。中國、夷、蠻、戎、狄は皆、それぞれに、安心していられる住居の形があり、口に合うような調味があり、適切な衣服があり、役に立つ能力があり、目的にあった器を備えている。五方の民は、互いに言語が通じず、好んで欲しがるものも同じではない。それぞれやりたいことを伝え、望むところを通じるようにすることを、東方では寄といい、南方では象といい、西方では狄鞮といい、北方では譯という。
次は、リマインダーである。
ことは
2013-10-26 23:59:02 | 語り
ことはについて、ことばとなったのはいつか、どのようにもちいられたか、探求する。
ことばには言葉、詞、辞を表記に宛てる。漢字で表せば言、語にも相当する。その使い分けを説明するものを求めると、言は、
>古ことば・こと・ものがたり・いふ・いへる・ものいふ・まうす・まうさく・のぶ・のたまはく・かたらふ・とく・とふ・のり・これ・ここに・われ
であり、語は、
>古ことば・こと・かたる・かたらふ・いふ・ものいふ・とふ・さへづる・ものがたり・をさめ
と見えて、ふることば以下、もうす、もうさくと、ものいう、ものがたりについて、異なりがあるようである。それぞれ、言い表すこと、かたること、となる。
ことはの語源には、その説を並べるもによると、まず、口から洩れ出る音の説がある。
(1)コトハ(言端)の義〔名言通・大言海〕
ことのは、また、くちのはし、である。次に、歌学びの説に上げられる葉に例えるものである。
(2)コトノハ(言葉)の義。ハ(葉)は言詞の繁く栄えることをいう〔和訓栞〕
文芸のなかで植物に例えた言い方が影響しるている。また、ことの古義には、言、事を兼ねる解釈があるので、それによるか。
(3)コト(事)から生じた語。葉は木によって特長があるように、話すことによって人が判別できるということから〔和句解〕
そして意義を解釈したものに、心、語がある。
(4)コトハ(心外吐)の義〔言元梯〕。
(5)コトは「語」の入声Kot で、語る意。バは「話」の別音Pa の転〔日本語原考=与謝野寛〕。
以上、日本国語大辞典の語源に上げられた説である。
ことはについて語源解釈によれば、ことばとはならない。つまり、ことはとして清音発音、あるいは、ことばとして濁音発音のいずれであるかは定めがたい。
同辞典の意味記述に、まずはじめにある、話したり書いたりする表現行為とするのは、次の用例である。
*万葉〔8C後〕四・七七四「百千(ももち)たび恋ふといふとも諸弟(もろと)らが練(ねり)の言羽(ことば)は我は頼まじ〈大伴家持〉」
*古今〔905~914〕仮名序「かくてぞ、花をめで、鳥をうらやみ、霞をあはれび、露をかなしぶ心、ことば多く、さまざまになりにける」
万葉集の歌、大伴家持に、言羽とみえる。題詞には大伴宿祢家持従久邇京贈坂上大嬢歌五首とあり、次のようである。
百千遍 戀跡云友 諸<弟>等之 練乃言羽<者> 吾波不信
百千たび 恋ふと言ふとも 諸弟らが 練りのことばは 我れは頼まじ
ももちたび こふといふとも もろとらが ねりのことばは われはたのまじ
万葉仮名の、羽字は清音であるので、ことは、である。
日本語の語は語文とすると、それは文法単位の語と文をあわせたような印象を与えるが、文語、口語もそうであるが、語が単語となるとのとちがって、語文そのものは言葉と文章のことであって、言文と言いうる。これはその字義を組み合わせた用法なので、日本語でわかり得ても、その語文、言文のさすところ、広くとらえることになる。言語とは、したがって、どういう意味であるか、語誌によると、江戸時代までは漢音よみの、ゲンギョと呉音よみのゴンゴとが並行して用いられてきたが、明治初年に、両語形が混交してゲンゴが誕生したと、日本国語大事典には解説する。さらには、ゲンゴの一般化に伴ってゲンギョは姿を消し、ゴンゴは言語道断などの特定の慣用表現に残った、とするが、言語そのものの意味を、*礼記‐王制「五方之民、言語不通、嗜欲不同」 とあるような、ことばのことをさす。*論語‐先進「言語、宰我、子貢」と見えるように言論のことをさす。
字通によると、言語と連称し、言は立誓による攻撃的な言語、語は防禦的な言語、とし、またさらには、
>このような呪誦は、わが国の「風俗(くにぶり)の諺」に類するもので、地霊によびかけるものであった。言語はもと呪的な応対の語であったが、のち一般の語をいう。
と説明がある。
字通より。
訓義
[1] かたる、呪語をのべて霊をしずめる、ことば。
[2] ことわざ、おしえ。
[3] はなし、ものがたり。
[4] ときさとす、つげる、いう。
[5] かたる、かたらう。
[6] 国語、仲間とする
〔名義抄〕語 コト・コトバ・カタラフ・カタル・モノガタリ・モノイフ・ウワサ・サヅク・イフ・トフ・カタラク・アフ・サヘヅル 〔字鏡集〕語 サヘタツリ・カタル・モノユフ・モノガタリ・イイカタラフ・トク・サヅク・コトワザ・カタラフ・コトバ・トフ・イフ・ネゴト・コト
https://traitor.jp/china/r.html
>中國戎夷五方之民皆有其性也不可推移東方曰夷被髮文身有不火食者矣南方曰蠻雕題交趾有不火食者矣西方曰戎被髮衣皮有不粒食者矣北方曰狄衣羽毛穴居有不粒食者矣中國夷蠻戎狄皆有安居和味宜服利用備器五方之民言語不通嗜欲不同達其志通其欲東方曰寄南方曰象西方曰狄鞮北方曰譯
>中国には戎夷を含めて、五方に民族があり、皆それぞれに特徴があるのであり、あえて変えようとしてはならない。東方は夷という。頭に冠も載せず、体に入れ墨をしていて、生ものを食べるところもある。南方は蠻という。額に彫りものをして両足の指を向かいあわせて歩く習わしで 、生ものを食べるところもある。西方を戎という。頭に冠も載せず、動物の皮を衣服にしており、穀物を食べないところもある。北方を狄という。羽毛を衣服にして穴蔵に住んでおり、穀物を食べないところもある。中國、夷、蠻、戎、狄は皆、それぞれに、安心していられる住居の形があり、口に合うような調味があり、適切な衣服があり、役に立つ能力があり、目的にあった器を備えている。五方の民は、互いに言語が通じず、好んで欲しがるものも同じではない。それぞれやりたいことを伝え、望むところを通じるようにすることを、東方では寄といい、南方では象といい、西方では狄鞮といい、北方では譯という。
次は、リマインダーである。
ことは
2013-10-26 23:59:02 | 語り
ことはについて、ことばとなったのはいつか、どのようにもちいられたか、探求する。
ことばには言葉、詞、辞を表記に宛てる。漢字で表せば言、語にも相当する。その使い分けを説明するものを求めると、言は、
>古ことば・こと・ものがたり・いふ・いへる・ものいふ・まうす・まうさく・のぶ・のたまはく・かたらふ・とく・とふ・のり・これ・ここに・われ
であり、語は、
>古ことば・こと・かたる・かたらふ・いふ・ものいふ・とふ・さへづる・ものがたり・をさめ
と見えて、ふることば以下、もうす、もうさくと、ものいう、ものがたりについて、異なりがあるようである。それぞれ、言い表すこと、かたること、となる。
ことはの語源には、その説を並べるもによると、まず、口から洩れ出る音の説がある。
(1)コトハ(言端)の義〔名言通・大言海〕
ことのは、また、くちのはし、である。次に、歌学びの説に上げられる葉に例えるものである。
(2)コトノハ(言葉)の義。ハ(葉)は言詞の繁く栄えることをいう〔和訓栞〕
文芸のなかで植物に例えた言い方が影響しるている。また、ことの古義には、言、事を兼ねる解釈があるので、それによるか。
(3)コト(事)から生じた語。葉は木によって特長があるように、話すことによって人が判別できるということから〔和句解〕
そして意義を解釈したものに、心、語がある。
(4)コトハ(心外吐)の義〔言元梯〕。
(5)コトは「語」の入声Kot で、語る意。バは「話」の別音Pa の転〔日本語原考=与謝野寛〕。
以上、日本国語大辞典の語源に上げられた説である。
ことはについて語源解釈によれば、ことばとはならない。つまり、ことはとして清音発音、あるいは、ことばとして濁音発音のいずれであるかは定めがたい。
同辞典の意味記述に、まずはじめにある、話したり書いたりする表現行為とするのは、次の用例である。
*万葉〔8C後〕四・七七四「百千(ももち)たび恋ふといふとも諸弟(もろと)らが練(ねり)の言羽(ことば)は我は頼まじ〈大伴家持〉」
*古今〔905~914〕仮名序「かくてぞ、花をめで、鳥をうらやみ、霞をあはれび、露をかなしぶ心、ことば多く、さまざまになりにける」
万葉集の歌、大伴家持に、言羽とみえる。題詞には大伴宿祢家持従久邇京贈坂上大嬢歌五首とあり、次のようである。
百千遍 戀跡云友 諸<弟>等之 練乃言羽<者> 吾波不信
百千たび 恋ふと言ふとも 諸弟らが 練りのことばは 我れは頼まじ
ももちたび こふといふとも もろとらが ねりのことばは われはたのまじ
万葉仮名の、羽字は清音であるので、ことは、である。
ことはことはについて、ことばとなったのはいつか、どのようにもちいられたか、探求する。ことばには言葉、詞、辞を表記に宛てる。漢字で表せば言、語にも相当する。その使い分けを説明するものを求...