3.11 2011年は個人史において大変な年となった。地震災害の復興に寄せる番組を聞いていて、人々の思いがひしひしと伝わるなか、このときの出来事は3.11と結びつくことなく、わたしの出来事として記憶される。この2011年は校地の所属替えで研究室引っ越しをしていた。その作業に年末年始と追われて、3月初めの荷物運び出しはそれなりの重労働であったが、それでも解決すべく計画通りに動いた。抱えていた人事面のことで校舎を転じたことは良いほうへ動くと思った。震災に遭ったときには、研究室の整理ができて、それなりの開放感があり、その後に来る変調には予想だにしなかった。バックパックにして両手を開けて地下鉄通勤ができると意気込んで、それで、ふたつの校地を往ったり来たりして、そのときに、そもそも肩が弱いことに気づかず、気がついていても、両手を自由にした通勤スタイルはお気に入りで、どんどんとかつぐ荷物が重くなっていった。そして5月半ばに、こわばる関節を自覚した。思うような動きにはなるが、筋肉の動きと重量感を支える感覚がずれていた。連休明けから、週ごとに身体が動かなくなる、まさに動けない、起き上がれない、立ち上がれない、ベッドから転がるのであるから、脳の命令がきかない、それでも、こわばりを克服しようとそろりそろりとやっていて、これはダメだと月末にリウマチ整形外科を訪ねたのである。自宅近くにあって10数分で歩けるところを30分以上かかってたどり着いて診てもらった。リウマチの専門医だから、いろいろ触診して、念のために血液、レントゲン検査とした後に、劇薬があるので、それを服用すると信じられない回復があると、処方を決めてくれた。5ミリグラムをのむことにして、そのステロイドの効き目で、劇薬、信じられない、劇的回復を遂げた。その後、それは多発性関節炎として、リウマチには至らなかった。自己免疫の回復がクスリによって、それから7年かかっている。まだ1ミリグラムが常用である。
このことがひとつめで、次に、8月にまた重篤になる、その恐れで大手術をすることになったので、この年のめぐりあわせは、パンチがきいていた。
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6年め
2017-03-11 23:51:26 | 日記
研究室を移した。その時の揺れであったから、記憶は鮮明である。そして、いくつかの出来事が重なることになる。引っ越しは3月には荷解きのひと段落のころ、箱詰めのまま、積みあがった縦列の高さに、その2列をそのままにして、過ごすことになった。気づくと、疲労とストレスを抱えていた。気分は逆であったので、身体への負担がわからなかった。発症は多発性関節炎となって表れた。地震から2か月後のことだ。それは劇薬でおさまった。しかし、次に夏を過ぎた6か月後に肺を摘出する手術を受けた。ステロイドを5ミリ、のみ続けていたので、手術後の回復が危ぶまれた。その後遺症のように、器質肺炎を起こしていた。3か月後におさまり始めたから、年末まで、地震後のわたしには試練だった。ガンサバイバーとなったいまは、まる5年のケアを区切りにした。そして2017年、研究室の引っ越しはもうない。3度の節目がおわる。本をたたみこんで、10数年に及ぶ書類を処分した。人間の脳は、5年経過のあたりが、記憶の移り変わりに影響するようだ。
このことがひとつめで、次に、8月にまた重篤になる、その恐れで大手術をすることになったので、この年のめぐりあわせは、パンチがきいていた。
6年め研究室を移した。その時の揺れであったから、記憶は鮮明である。そして、いくつかの出来事が重なることになる。引っ越しは3月には荷解きのひと段落のころ、箱詰めのまま、積みあがった縦列の高......
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6年め
2017-03-11 23:51:26 | 日記
研究室を移した。その時の揺れであったから、記憶は鮮明である。そして、いくつかの出来事が重なることになる。引っ越しは3月には荷解きのひと段落のころ、箱詰めのまま、積みあがった縦列の高さに、その2列をそのままにして、過ごすことになった。気づくと、疲労とストレスを抱えていた。気分は逆であったので、身体への負担がわからなかった。発症は多発性関節炎となって表れた。地震から2か月後のことだ。それは劇薬でおさまった。しかし、次に夏を過ぎた6か月後に肺を摘出する手術を受けた。ステロイドを5ミリ、のみ続けていたので、手術後の回復が危ぶまれた。その後遺症のように、器質肺炎を起こしていた。3か月後におさまり始めたから、年末まで、地震後のわたしには試練だった。ガンサバイバーとなったいまは、まる5年のケアを区切りにした。そして2017年、研究室の引っ越しはもうない。3度の節目がおわる。本をたたみこんで、10数年に及ぶ書類を処分した。人間の脳は、5年経過のあたりが、記憶の移り変わりに影響するようだ。