カトリックを選んだのは、歴史がある、ということと、兄弟がミッション系の学校に通っていたことがあり、馴染みがあったから、ということ、何となく好きだから(!)ということが理由です。
さてさて、兄弟から聞いていた様子より、ミサはずっと平易になっておりました。
日本語だし(ラテン語でなくなっていた)、神父様は会衆の方を向いて話して下さるし、理解しやすくてよかったです。
ところが。
福音宣教、のお話で、「殉教」のところで詰まってしまいました。
キリスト教徒は、イエスを証しする人びとです。
イエスを信じると宣言しなければいけない人びとです。
日本では殉教というのは今はなさそうですが、外国は今でも、キリスト教徒ゆえの迫害があります。
それを堪え忍べるのは、「復活」の希望があるからです。
でも、「復活」したくなかったら?
はい、私はここで詰まってしまいました。
もともと、殉教なんて私にはできない、と思っていた身でもあります。
痛いの苦手です。
自分の信じるもののため、に命を賭けられるでしょうか。
自分だけならできたとしても、家族や恋人や友人の命もかかったとしたら…?
ー無理です。
それでもなおできる、というのはすごい(と同時に怖い)ことです。
キリスト教徒は決して命を粗末にしているわけではありません。
命は大事だけど、からだの命よりもっと大事なものがある、のがキリスト教徒なのだそうです。
それが、魂の命、復活。
でも、復活、したいものなんでしょうか。
私は、今の私自身を決して嫌いではありませんし、楽しく暮らしてもいますが(細かい?悩みは一杯ありますが)、復活して永遠に生きたい?と言われたらNOです。
自分自身をひきずるのは疲れます。
しがらみにも疲れます。
あの世で嫌いな人に会ったら、にっこりなんて絶対できません。
…う~ん。
これでは絶対キリスト教徒になるなんて無理だ~!!
さてさて、兄弟から聞いていた様子より、ミサはずっと平易になっておりました。
日本語だし(ラテン語でなくなっていた)、神父様は会衆の方を向いて話して下さるし、理解しやすくてよかったです。
ところが。
福音宣教、のお話で、「殉教」のところで詰まってしまいました。
キリスト教徒は、イエスを証しする人びとです。
イエスを信じると宣言しなければいけない人びとです。
日本では殉教というのは今はなさそうですが、外国は今でも、キリスト教徒ゆえの迫害があります。
それを堪え忍べるのは、「復活」の希望があるからです。
でも、「復活」したくなかったら?
はい、私はここで詰まってしまいました。
もともと、殉教なんて私にはできない、と思っていた身でもあります。
痛いの苦手です。
自分の信じるもののため、に命を賭けられるでしょうか。
自分だけならできたとしても、家族や恋人や友人の命もかかったとしたら…?
ー無理です。
それでもなおできる、というのはすごい(と同時に怖い)ことです。
キリスト教徒は決して命を粗末にしているわけではありません。
命は大事だけど、からだの命よりもっと大事なものがある、のがキリスト教徒なのだそうです。
それが、魂の命、復活。
でも、復活、したいものなんでしょうか。
私は、今の私自身を決して嫌いではありませんし、楽しく暮らしてもいますが(細かい?悩みは一杯ありますが)、復活して永遠に生きたい?と言われたらNOです。
自分自身をひきずるのは疲れます。
しがらみにも疲れます。
あの世で嫌いな人に会ったら、にっこりなんて絶対できません。
…う~ん。
これでは絶対キリスト教徒になるなんて無理だ~!!
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