西公園には福岡藩の藩祖黒田官兵衛を祀った光雲(てるも)神社がありますが、その北側荒戸山山頂付近に歌碑が残っています。

「銅像」の文字が消されているのが痛ましいです。

彼は名門だったゆえに思想的に幕藩体制からは抜け出せなかったのでしょう。

こちらは福岡城跡、鴻臚館発掘現場のフェンスにある加藤司書の説明。

福岡藩は「乙丑の獄」で大勢の勤皇派の人材を失いました。
その1年半後の明治4年、戊辰戦争には官軍として2千人以上の藩兵を出兵させましたが、太政官命で「乙丑の獄」の責任者佐幕派家老3名を処刑しなければなりませんでした。
そして明治10年、西南戦争に呼応して福岡藩でも反乱が発生しましたが、その中心は皮肉にも「乙丑の獄」の子弟たちでした。死刑5人、戦死者54人を数え、幕末に続き福岡藩はことごとくの有為な人材を喪失してしまいました。

「銅像」の文字が消されているのが痛ましいです。

彼は名門だったゆえに思想的に幕藩体制からは抜け出せなかったのでしょう。

こちらは福岡城跡、鴻臚館発掘現場のフェンスにある加藤司書の説明。

福岡藩は「乙丑の獄」で大勢の勤皇派の人材を失いました。
その1年半後の明治4年、戊辰戦争には官軍として2千人以上の藩兵を出兵させましたが、太政官命で「乙丑の獄」の責任者佐幕派家老3名を処刑しなければなりませんでした。
そして明治10年、西南戦争に呼応して福岡藩でも反乱が発生しましたが、その中心は皮肉にも「乙丑の獄」の子弟たちでした。死刑5人、戦死者54人を数え、幕末に続き福岡藩はことごとくの有為な人材を喪失してしまいました。