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1.竪町筋
現在の中呉服町から下呉服町の東側は御笠川左岸に沿って寺が多く残っていますが、江戸期に黒田藩が東側の防衛ラインとして寺を集めたためとされています。
明治通りの南北はかつて聖福寺の蓮池があったことから「蓮池町」と呼ばれていました。
江戸期には蓮池町には8つの寺がありましたが、中央を東西に明治通りが開かれ市内電車が通ったため、2つの寺が移転し蓮池町は二分されてしまいました。
2.妙典寺
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明治通りのすぐ北、堅町筋の東側に日蓮宗妙典寺があります。
3.木製の山門が歴史を感じさせます。
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4.1381年の開山
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筑後柳川に創建されましたが、慶長年間(1596年 - 1615年)現在の場所に移築されました。
5.キリスト教と仏教の宗教問答開催
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慶長8年(1603年)4月、京都妙覚寺の僧「日忠」が九州布教の折、この寺でキリスト教のイルマン(宣教師)旧沢や安都と宗教論争を行ないました。
当日は博多の切支丹200名が寺に押しかけ、これを聞いた仏教徒も大挙してやって来ました。
藩では不測の事態を恐れ、警備の武士も出すという殺気立った中、日忠がイルマンを論破し勝利しました。
これを聞いた藩主「黒田長政」はたいそう喜び、橋口町(現在の須崎)にあった切支丹の寺の土地を召上げ日蓮宗の寺「勝立寺」を建ててやったそうです。
「勝立寺」は明治10年の西南戦争時には大本営が置かれたそうですが、現在勝立寺は天神4丁目の日銀福岡支店の東側にあります。
6.日蓮宗起雲山「本興寺」
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16世紀始め怡土郡高租(現在の前原市)に創建されましたが、秀吉の九州征伐により高租の原田氏が没落すると姪の浜に移りました。
江戸期に更に古門戸町に移り、その後1653年に現在の位置、妙典寺の向かいに建っています。。
7.神屋宗湛と大黒天
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天正10年6月1日織田信長が京の本能寺に宿泊した際、神屋宗湛と島井宗室も茶会に招かれ同宿していました。
島井宗室は戦乱に紛れて弘法大師直筆の「千字文」を持って逃げたと言われています。
その「千字文」は東長寺に現存するそうです。
8.大黒堂
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宗湛の夢枕に出たその大黒天は、現在も「本興寺」に安置されています。
もともと「本興寺」は神屋家代々の菩提寺で、この大黒天をたいそう尊崇していたそうです。
撮影:CANON 5DIII + EF24-105mmIS L
現在の中呉服町から下呉服町の東側は御笠川左岸に沿って寺が多く残っていますが、江戸期に黒田藩が東側の防衛ラインとして寺を集めたためとされています。
明治通りの南北はかつて聖福寺の蓮池があったことから「蓮池町」と呼ばれていました。
江戸期には蓮池町には8つの寺がありましたが、中央を東西に明治通りが開かれ市内電車が通ったため、2つの寺が移転し蓮池町は二分されてしまいました。
2.妙典寺
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明治通りのすぐ北、堅町筋の東側に日蓮宗妙典寺があります。
3.木製の山門が歴史を感じさせます。
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4.1381年の開山
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筑後柳川に創建されましたが、慶長年間(1596年 - 1615年)現在の場所に移築されました。
5.キリスト教と仏教の宗教問答開催
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慶長8年(1603年)4月、京都妙覚寺の僧「日忠」が九州布教の折、この寺でキリスト教のイルマン(宣教師)旧沢や安都と宗教論争を行ないました。
当日は博多の切支丹200名が寺に押しかけ、これを聞いた仏教徒も大挙してやって来ました。
藩では不測の事態を恐れ、警備の武士も出すという殺気立った中、日忠がイルマンを論破し勝利しました。
これを聞いた藩主「黒田長政」はたいそう喜び、橋口町(現在の須崎)にあった切支丹の寺の土地を召上げ日蓮宗の寺「勝立寺」を建ててやったそうです。
「勝立寺」は明治10年の西南戦争時には大本営が置かれたそうですが、現在勝立寺は天神4丁目の日銀福岡支店の東側にあります。
6.日蓮宗起雲山「本興寺」
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16世紀始め怡土郡高租(現在の前原市)に創建されましたが、秀吉の九州征伐により高租の原田氏が没落すると姪の浜に移りました。
江戸期に更に古門戸町に移り、その後1653年に現在の位置、妙典寺の向かいに建っています。。
7.神屋宗湛と大黒天
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天正10年6月1日織田信長が京の本能寺に宿泊した際、神屋宗湛と島井宗室も茶会に招かれ同宿していました。
島井宗室は戦乱に紛れて弘法大師直筆の「千字文」を持って逃げたと言われています。
その「千字文」は東長寺に現存するそうです。
8.大黒堂
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宗湛の夢枕に出たその大黒天は、現在も「本興寺」に安置されています。
もともと「本興寺」は神屋家代々の菩提寺で、この大黒天をたいそう尊崇していたそうです。
撮影:CANON 5DIII + EF24-105mmIS L
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