上海下町写真館2010

上海より半年ぶりに帰国しました。マイペースで故郷の風景や歴史などをご紹介します。

舞鶴ウォーキング(2):黒田家別邸跡碑

2012年01月14日 06時36分44秒 | ふるさとの風景
黒田長溥の兄弟は薩摩藩主の他、中津藩主、盛岡藩主を継ぎ、姉妹は桑名藩主、大垣藩主、郡山藩主、新庄藩主などに嫁していました。


徳川時代の260余年の間、全国の各大名は姻戚を結び合い、黒田家も1万石以上の大名100家以上と姻戚を結び、親族は400家に及んだそうです。
この熱い血で結ばれた武家の時代をたやすく変革することはできませんでした。そのためか、明治維新では全国で2万から3万人の尊い血が流されたと言われています。

舞鶴ウォーキング(1):「東学問所跡」碑

2012年01月11日 06時28分11秒 | ふるさとの風景
福岡藩7代藩主・黒田治之(はるゆき)の遺命により、天明4年(1784年)藩校が開校されることになり、まず始めに東学問所修猷館が開校されました。
藩士の子弟は、11才になると入学が義務づけられたそうです。



明治4年(1871年)の廃藩置県により藩校修猷館は廃校になりましたが、同18年(1885年)黒田家の援助もあって再興されました。

その後、明治33年(1900年)現在地の早良区西新に移転し、現在は福岡県立修猷館高等学校となり、現在までも多くの優秀な人材を輩出しています。


加藤司書公銅像跡:当仁ウォーク(4)

2012年01月09日 06時16分44秒 | ふるさとの風景
西公園には福岡藩の藩祖黒田官兵衛を祀った光雲(てるも)神社がありますが、その北側荒戸山山頂付近に歌碑が残っています。


「銅像」の文字が消されているのが痛ましいです。


彼は名門だったゆえに思想的に幕藩体制からは抜け出せなかったのでしょう。


こちらは福岡城跡、鴻臚館発掘現場のフェンスにある加藤司書の説明。



福岡藩は「乙丑の獄」で大勢の勤皇派の人材を失いました。
その1年半後の明治4年、戊辰戦争には官軍として2千人以上の藩兵を出兵させましたが、太政官命で「乙丑の獄」の責任者佐幕派家老3名を処刑しなければなりませんでした。

そして明治10年、西南戦争に呼応して福岡藩でも反乱が発生しましたが、その中心は皮肉にも「乙丑の獄」の子弟たちでした。死刑5人、戦死者54人を数え、幕末に続き福岡藩はことごとくの有為な人材を喪失してしまいました。

西学問所跡:当仁ウォーキング(2)

2012年01月04日 06時38分51秒 | ふるさとの風景
初代館長の亀井南冥は市内姪浜生まれの儒学者で医師。

彼は志賀島で発見された「金印」が本物で歴史的価値があることを見抜き保護させました。

福岡藩にはもう一つ、現在の県立修猷館高校の前身「東学問所」もありましたが、その跡碑も史跡として残っています。