波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

海道一の大親分・清水次郎長

2019-04-13 01:50:12 | 人物伝
こんばんは、白黒茶々です。
皆さんは、清水次郎長(しみずのじろちょう)という人物のことをご存知でしょうか? ひと昔、いや、ふた昔前の昭和34年(1959年)には、二代目広沢虎造氏が浪曲化し、ラジオ放送されたことで一躍有名になったそうです。



現在でも「彼の名前は聞いたことがある」という方は、たくさんいらっしゃると思います。 しかし彼が何をした人で、どんな親分だったのかという話になると「う~ん………」となってしまうのではないでしょうか? 彼の地元の静岡県民でありながらも、実は私もそうだったのですよ。なので、今回は実際に私が次郎長ゆかりの地を訪ね歩き、彼の生い立ちや彼が成した功績をたどっていこうと思います。



………ということで、やって来ましたよ 静岡市清水区に。こちらは漫画家のさくらももこさんの出身地でもあり、以前は清水市という地方都市でした。そのエスパルスドリームプラザから歩いていけなくもないところの美濃輪の街中に………



清水湊 次郎長生家はあります。 最近保存工事がおこなわれ………



間口は狭いのですけど、昔ながらの町屋らしく、奥行きがかなり長くなっております。清水次郎長は文政3年(1820年)1月1日に、薪炭を商う船頭・高木三右衛門の次男として誕生しました。



水は枯れてしまっているのですけど、その建物内にはその時に使用した産湯の井戸が現在でも残っています。 長五郎と名付けられた彼は、小さい頃から腕白かつ粗暴なガキんちょで、そのおこないを直すために、米穀商を営む母方の叔父の山本次郎八の養子に出されました。そして、次郎八の子の長五郎ということで「次郎長」と呼ばれるようになりました。
しかし粗暴な性格は直らず、入った寺子屋ではいたずらが過ぎて退塾させられ、さらには江戸で一念発起しようと叔父の家から大金を持ち出したのですけど、失敗。次郎長は次郎八から勘当を言い渡されてしまいます。 さすがの彼も、これには懲りたのかと思いきや「東がダメなら、西で成功してみせる 」と、隠し貯めておいた残りの金(百両)を持って、今度は浜松に行きました。 そこで米相場につぎ込んだら、大儲け そのことによって、次郎長は勘当を解かれました。 しかし、その翌年に養父の次郎八は亡くなってしまいます。 次郎長は彼のあとを受け継ぎ、米屋の仕事に精を出しました。それからきわを嫁に迎え、商売も繁盛して、彼は真っ当な道を歩んでいきました。
それから4年が経ち、20歳になった彼のもとに1人の旅の僧が訪れてきました。 彼は次郎長の人相を見るなり「これは……… 25歳までしか生きられないぞよ」と言ったのでした。 それまでおこないを改めてマジメに働いてきた次郎長の人生観はひっくり返り「どうせ早死にするのなら」と、任侠の道に走ってしまいました。 旅の坊さん、余計なことを………



清水港にほど近い清水区港町のエスパルス通りの西の端に、次郎長が開業した船宿末廣が移築復元されています。 かつては清水波止場にあったのですけど、その部材を多数転用して、平成13年(2001年)に清水港船宿記念館 末廣としてオープンしました。 入場無料のありがたい施設で、その館内に入ると………



明治時代に営まれた船宿の面影を今に伝え、展示品や15分ビデオで次郎長の生涯を知ることができます。 そのような中に………



等身大の旅姿の次郎長が再現されていて、旅人の小道具を借りて彼との2ショットを撮ることができるのですよ ちなみに、次郎長の身長は5尺2寸(約156cm)。その際に、私は係員の方にカメラのボタンを押していただきました。
ヤクザというか、渡世人として生きることになった次郎長。賭博場に出入りするようになったのですけど、博奕のもつれから人を殺めたこともありました。また、強盗を追ったり、斬り合いに加わったりして、重傷を負ったことも。さらに妻きわとも離婚し、清水を離れて西尾の今天狗の治助のもとに居候もしました。



そのような中、再び清水に戻った次郎長は、庵原川で津向一家和田島一家が対決しているところに1人で出向き、見事に仲裁することに成功 そのことによって、侠客としての彼の名声は高まりました。
その頃、次郎長はおちょうを妻に迎え、10人の子分を抱えていました。その中に、森の石松もいたのですけど……… 石松は次郎長の命で金比羅神社に行った帰りに、都田吉兵衛兄弟に25両を騙し取られたたうえに斬殺されてしまいました。そこで、次郎長のもう1人の子分の大政らが仇討ちをして、石松の無念を晴らしました。

それらの他にも、次郎長の武勇伝はあるのですけど、22人の次郎長一家が吉良の仁吉に加勢し、130人もの黒駒の勝蔵一家を相手にした「荒神山の血闘」はかなり有名で、そのことによって「清水湊に次郎長あり 」の名声を不動のものとしました。 そして時代は明治へ。しかし、時代が改まったからといっても、いいことばかりではありませんでした。

明治元年(1868年)に駿府町奉行が廃止されるのに伴って、次郎長は新たな組織のもとで東征軍判事街道警固を命じられました。そのような中で、旧幕府軍を乗せた咸臨丸(かんりんまる)が清水港内で官軍に攻撃され、幕軍の兵士が斬殺されるという事件が起こりました。 誰も港内に浮かぶ兵士の死体に手をつけようとしなかったのですけど、次郎長はそこに出向き、「死ねばみな仏」と言ってそれらの死体を引き揚げて埋葬し、手厚く供養しました。その姿に幕末明治に活躍した要人の山岡鉄舟は感服し、それをきっかけに次郎長と鉄舟の交流が始まりました。



次郎長の生家から歩いて7分ほどの清水区南岡町に、梅蔭禅寺という次郎長の菩提寺があります。 鉄筋コンクリート製の本堂は存在感ありありなのですけど、その片隅には………



小さな資料館が設けられています。 ここから先は、有料(大人300円)となります。その内部には………



次郎長が愛用していた博奕の道具や肘掛けなどが展示されています。
次郎長は鉄舟との出逢いをきっかけに渡世人をやめ、新しい時代の清水を考えるようになりました。 それに伴って、数々の事業を展開していきました。例えば、茶の販路を拡大するために、清水港に蒸気船が入港できるように整備するのに奔走したり、富士の裾野(現在の富士市大渕地区)を開墾したり、東京から医師を招き入れて、医院を開設したり、………と、清水の発展に貢献しました。



さらに国際化にも目覚め、英語塾を開いて外国との国際的な交流を奨励しました。 その様子は、船宿末廣の2階に再現されているのですけど、いきなりそのマネキン人形を目にしてしまった見学者は「うわっ 」と驚いていました。



再び梅蔭禅寺にワープさせていただきます。 そのミニ資料館を出たところには、池に囲まれるようにして清水次郎長の銅像があるのですけど………



「うわっ 竹内力さん
と、思わず叫ばれた方もいらっしゃるのでは?白目(?)の感じがなんとなく似ていませんか?それよりも、私が訪れたのは冬の夕暮れ時で、思いっきり逆光になっていました。 晩年の次郎長は子供にも慕われ(お菓子をくれたから)、すっかり好々爺となっていました。そして明治26年(1893年)6月12日に、74年の生涯を閉じました。



次郎長の葬儀はこのお寺でおこなわれたのですけど、彼を慕って3千人以上の参列者が訪れたそうです。彼は森の石松や大政、小政らの子分の墓に囲まれて、静かに眠っています。
順路は再び資料館に入り、土産物コーナーを通って出るようになっているのですけど………



そこには、別次元の若くて男前の次郎長がいました。 これをSNS等に投稿し、そのことを係員にアピールすると、ちょっとしたものがもらえるのですけど、それが何なのかは実際にその場に行ってお確かめくださいませ
義理人情に厚く、曲がったことが大嫌い。さらには先見の明があって、生まれ育った清水の発展にも貢献した清水次郎長は、男の中の男(漢)でした。


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今川義元の汚名返上なるか!?

2019-03-23 01:54:59 | 人物伝
こんばんは、白黒茶々です。
2019年の今年は、今川義元の生誕500年ということで、彼の顕彰事業がおこなわれつつあります。 そんな義元公にあやかって………



ウチにいる狛川義元公を白塗りにし、さらにまろ眉も描いてみました。 ところで皆さんは、義元公に対してどのようなイメージや情報をお持ちでしょうか?「白塗りの顔にまろ眉やお歯黒をやっていて、公家気どり」とか「足が短すぎて馬に乗れなかったから、輿で桶狭間に行った」とか「その桶狭間では、2万5千もの大軍を率いながらも、わずか2千の織田信長軍に討ち取られるなんて、油断しすぎ」とか、……… 凡将または愚将などとも呼ばれ、評価は散々なものが多いみたいです。
そうしたら、彼の最新の肖像画は出るでしょうか?



う~む……… いちおう「海道一の弓取り」という誉め言葉は付いているのですけど、出で立ちがあんまりです。 いきなりどん底に落ちてしまいましたけど、今回は今川義元のゆかりの地を訪れながら彼の生涯を追っていき、さらに最新の歴史家や落語家が出した彼への評価にも触れさせていただきます。 あと、彼に関してのゆるキャラ事情なども。



………ということで、私は今川義元が生まれ育ち、拠点としていた静岡市にやって来ました その駅前には、義元のもとで人質生活を送った竹千代(のちの徳川家康)の像が設置されていますね。さらに2020年までには、この近くに今川義元公の銅像が設置されるそうです。 とはいっても、私が取材に行ったのは、金箔瓦や発掘現場や静岡おでんを目当てに駿府城を訪れた、1月13日のことでしたけど。

今川義元は、永正16年(1519年)に今川氏親の5男として生まれました。 ちなみに母は寿桂尼で、幼名は芳菊丸といいました。すでに長男の氏輝が跡継ぎの有力な候補に決まっていたこともあって、芳菊丸は4歳で仏門に出されることに。 彼は駿河国富士郡瀬古・善得寺の太原雪斎のもとに預けられ、栴岳承芳(せんがくしょうほう)と名を改めました。しかし、その後は雪斎とともに寺を転々としていったそうです。
のちに彼は、長兄の氏輝に呼ばれて駿河に戻ったのですけど、天文5年(1536年)に氏輝は急死。 彼に継承権がめぐり、還俗して今川義元と名乗りました。



静岡駅から12分ほど歩いていったら、駿府城が見えてきました。 このお城は、徳川家康今川館があったとされる地に築いたとされていて………



昭和58年(1983年)に県立美術館を建設するためにそのお城があった駿府公園(当時の呼び名)内を掘ったら、今川館と思われる中世の城館址が発見されたのです。



一緒に陶器の破片なども出てきたみたいです。 結局、調査後にその遺構は埋め戻され、美術館は他の場所に建設されました。駿府城の天守台周辺の発掘プロジェクトの最終年となる2019年度は、今川館の推定地を再調査することになっているのですけど、そこで今川氏の歴史に関わるような重大な発見があるといいですね。



静岡県庁の別館の21階の富士山展望ロビーからは、眼下の駿府城公園や静岡市内を一望するだけではなく、北西の方向に臨済寺を臨むこともできます。 ちょっと遠いのですけど、今からそちらに向かって歩いていきながら、今川義元の話の続きをさせていただきます。
義元は、家督を継いだ翌年の天文6年(1537年)に、甲斐の武田信虎の娘(定恵院)を正室に迎え入れ、武田氏と甲駿同盟を結びました。 しかしその結果、相模の北条氏と対立することに。



静岡県庁から徒歩18分ほどで、静岡浅間神社に到達。こちらも今川氏にゆかりがあり、義元のもとで竹千代が元服し、松平次郎三郎元信(まだ徳川家康の名前から程遠い )を名乗ったところでもあるのですよ。
義元は戦国大名との戦いや駆け引きだけでなく、内政にも力を入れていました。 天文22年(1553年)には、今川仮名目録に21条を新たに追加。それは時代の変化に対応できる法の整備というだけではなく、今川領国内の秩序維持は足利将軍家ではなく、今川氏が独自におこなうと宣言したことを意味しています。 さらに京文化を駿府に運び込んだり、金山の開発や商業の発展にも貢献しました。
浅間神社から、さらに20分ほど歩いていったら………



臨済寺にたどり着きましたよ
正面に立派な山門を構えているこちらのお寺は、今川氏の菩提寺でもあります。 前身は先述の善得寺で、天文5年(1536年)に義元はお寺の名前を臨済寺と改め、大休宗休を開山として招き入れ、その年に急逝した氏輝を同寺に葬りました。その次の住職として就いたのが、雪斎なのですよ。彼は竹千代の教育をする一方で、今川氏の軍師としても活躍しました。



こちらのお寺は修行僧の専門道場となっていることもあって、建造物や庭園内は非公開となっています。 それでも、境内の一部は自由に散策できるので、今回はその範囲内を廻らせていただきます。 ちなみに、私の目の前にある大きな新仏殿は、平成9年(1997年)の建立であります。



本堂(大方丈)に続く石段と塀の佇まいからは、厳かさと歴史の重みを感じます。
落ち着いたところで、再び義元の話に戻らせていただきます。 彼は、天文23年(1554年)には嫡男の氏真北条氏康の娘(早川殿)を縁組みし、武田氏に北条氏を加えた甲相駿三国同盟を結成 その頃には、武田氏や北条氏と渡り合えるほどの勢力があったのですよね。



入母屋造りで柿葺きの屋根を持つ本堂(大方丈)は江戸時代前期の建築で、国の重要文化財に指定されています。



その臨済寺は、春と秋の2日間に特別公開が行われ、その際にはお寺が所蔵している義元公の木製坐像も見ることができます。こちらの像は、顔が引き締まっていて、凛々しいですね。
三国同盟の翌年の天文24年(1555年)の第二次川中島の戦いでは、義元は武田晴信(のちの信玄)長尾景虎(のちの上杉謙信)の仲裁に入って、両者の間に和睦を結ばせたりもしました。



臨済寺の境内には、義元公生誕500年に間に合うように、昨年の平成30年(2018年)に今川神廟が再建されました。 こちらは義元の廟所(胴塚)であります。
永禄3年(1560年)5月に義元は、2万5千の大軍を率いて、西に進んでいきました。 その目的は、最近までは上洛とされてきたのですけど、尾張の織田信長を征伐しようとしていたというのが有力です。現在の名古屋市緑区大高近辺にあった織田方の諸砦を次々と落としていき、今川軍は桶狭間で休憩していました。 その地形や天候、敵軍の情報なども味方につけていた信長は、わずか2千の兵で今川軍を奇襲し、義元は討ち取られてしまいました。 享年42歳。
その際には、確かに馬ではなくて輿に乗っていたのですけど、これは今川氏が足利将軍家の血を引く名門で、輿に乗ることを特別に許されていたからでした。なので、決して足が短かったとか乗馬がヘタだったというワケではありません。信長との格の違いを見せつけたかったという気持ちがあったのかも知れませんけど、それがかえって仇となってしまいました。

それから、白塗りまろ眉お歯黒の出で立ちは彼のオリジナルではなく、当時の他の戦国武将も、化粧をして戦に向かっていたそうです。 それに近い話として、信長は自分を窮地に追い詰めた浅井久政長政親子と朝倉義景を、見せしめのために髑髏(ドクロ)の盃にして、そのことが後世になって顰蹙(ひんしゅく)を買ったのですけど……… やはり当時の戦国武将の間では、同じようなことがおこなわれていたそうです。 いずれにしても、なんて原始的で野蛮で大人げない行為なのでしょうか

歴史家で今川義元の研究を進めている小和田哲男氏は、「桶狭間の敗戦だけで、義元が築いてきた業績や人格まで否定されるのは忍びない。彼の正しい知識を身に付け、静岡で誇れる人物だということを理解してもらいたい」と仰っていました。



それから、静岡市出身で今川義元ファンで落語家の春風亭昇太さんは、大河ドラマ「おんな城主 直虎」の義元役のオファーがあった際に「彼が今までのような凡将や愚将の役どころだったら、受けない」と言ったそうです。 多くの歴史は勝者側によって綴られるので、必ずしも正しいとは限りません。なので、定説を鵜呑みにしないで、あらゆる角度から検証していきたいですね。 それにしても春風亭義元は、凄みがありますよ。
今川氏は氏真の代に戦国大名としては終わったのですけど、彼は天寿を全うし、子孫は徳川家に仕えて細々と存続していきました。



そんな今川義元ですけど、桶狭間の戦いがあった豊明市では、ご当地キャラとして「のぶながくん」と「よしもとくん」なるものが作られました。激しい対立の歴史に反して、こちらの両雄はいつも一緒で、大の仲良し。



その一方で、義元の出身地の静岡市では、非公認キャラながらも「今川さん」が誕生ました。 その隣には、小和田氏も写っていますね。 こちらは桶狭間で敗れた悔しさから、まぶたからこぼれる涙を有しているのですよ。さらに、その今川さんは………



生誕500年の今年に入ってから、甲冑バージョンのものも作られました。 こちらもいい味を出していますね。 さらに調子に乗って「氏真くん」とか「寿桂尼ちゃん」とかいうゆるキャラが生み出されたら、見たいような見たくないような……… とにかく、今川さんの今後の行方からも、目が離せません。


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感謝の言葉しか見つからない……… さくらももこさんが遺したもの

2019-01-23 01:12:32 | 人物伝
こんばんは、白黒茶々です。
昨年の8月15日に、漫画家で作詞家でエッセイストのさくらももこさんが亡くなりました。 彼女は人気アニメ「ちびまる子ちゃん」の原作者として有名ですけど、私のいる静岡県出身で、さらに作風にも共感できることが多々あるので、私には親近感があります。今回はそんなさくらももこさんの出身地を訪れつつ、彼女の歩んだ道を辿っていこうと思います。



さくらももこさん(本名はシークレット)は、昭和40年(1965年)の5月に静岡県清水市(現在の静岡市清水区)に生まれました。 入江小学校、同・第八中学校と地元の学校に通い、高校は公立ながらも当時は女子校だった県立清水西高等学校へ。 さらにこれもまた地元の静岡英和女学院短期大学(現在の静岡英和学院大学短期大学部)に進学しました。



そんな今年の1月中旬に、私は静岡駅に降り立ちました。 その駅前には、さくらさんによって描かれた、静岡市をアピールする横断幕が掲げられていました。
彼女は後日談で「何の取り柄もなかった私に、学校の先生は『お前のエッセイは群を抜いて優れている』と言ってくれました。私は漫画を描くのが好きだし、そうだ エッセイの漫画を描いてみよう」と、語っていました。そのようにして、短大に在学中の昭和59年(1984年)に「りぼんオリジナル」の冬の号で「教えてやるんだありがたく思え!」という作品で漫画家デビューしたのです

さらに、漫画家をやりながら東京の企業に就職したのですけど、二足のわらじはさすがにキツかったみたいで、仕事中には居眠りばかりしていたそうです。 しまいには、上司に「仕事か漫画か、どちらかにしろ」とまで言われ「じゃあ、漫画を取ります 」入社からわずか2ヶ月でその会社を辞めてしまいました。



漫画に専念する決意をしたさくらさん。デビューから2年後の昭和61年(1986年)に「りぼん」「ちびまる子ちゃん」の連載を始めたのでした。 姉が単行本を持っていたこともあって、私はかなり前からその存在を知っていました。その書き出しが、こんな感じなのですよ。 このような作者のノリ、私は好きです。



その記念すべき第1話は「おっちゃんの まほうカードの巻」というタイトルでした。 夏休みを前に、終業式から帰ってきた小学生のさくらももこさんことちびまる子ちゃんは、両手に持ちきれないほどの荷物を持って帰宅しました。 そのあと、誰でも手品ができるというカードを売る、怪しいオジさんと出くわすのですけど………
初期の「ちびまる子ちゃん」は、さくらさんが小学校3年の時の自らの姿を描いていて、日常の生活の中で彼女のまわりに起こることには、思わず「うんうん」とか「あるある」と言ってしまいます。



とかなんとか言っているうちに、私は清水駅に到着しました。ここは、さくらさんが生まれ育った街でもあります。



その駅の西口となる江尻口には、そこがかつては東海道の宿場町だったということもあって、さくらさんの手による旅人に扮した彼女の自画像がありました。 また、一緒にいるレッサーパンダは、日本平動物園のシンボル的存在でもあります。



その反対側の東口ことみなと口には、今度は茶摘み娘姿のさくらさんが 富士山と駿河湾の風景も、いいですね。



そのみなと口を出たところからは、エスパルスドリームプラザへの無料送迎バスが出ているのですよ ということで、今から私はそのバスに乗っていきます。



清水駅から10分ほどで、エスパルスドリームプラザが見えてきましたよ ちなみにこちらは、お土産屋、飲食店、映画館、観覧車などを備えた複合施設であります。 さらにその3階には………



ちびまる子ちゃんのテーマパークとなる、ちびまる子ちゃんランドがあるのですよ その入口前には、漫画に出てくる駄菓子屋のみまつ屋や神社が設けられています。



そこを入ったら、ちびまる子ちゃん(以降は『まるちゃん』とさせていただきます)とお友達のたまちゃん、それと友蔵じいさんがお出迎え なんか、これから楽しいことが始まりそうな気がしてきました。



そのまた先には、さくら家の日常の風景がありました。 台所にはお母さん(名前はすみれ)とお姉ちゃん(さきこ)がいて、茶の間にはお父さん(ひろし)とお祖母ちゃん(こたけ)の姿がありました。



さらに子供部屋には、いましたよ まるちゃんが。それにしても、かなり散らかしていますね。



さくら家ゾーンを過ぎたら、学校の教室に突入しました。 その一角で………



着ぐるみ、いや、生身のまるちゃんがグリーティングをしていたので、一緒に写真を撮ってもらいました。 これはいい記念になります。



………なんて言いながらも、次の公園ゾーンでは、まるちゃんやたまちゃんに囲まれつつ、しっかりちゃっかり自撮りしている私の姿がありました。



それらのような見て撮って楽しむコーナーの他にも、新聞の四コマ漫画に連載していた頃の、さくらさん直筆のネーム(大ざっぱな流れを表す下書き)や………



アニメのオープニングに流れる映像の原案なども展示されていました。 「ちびまる子ちゃん」は平成2年(1990年)にアニメ化され、当初のオープニングは今のような「おどるポンポコリン」ではなく、「ゆめいっぱい」という曲だったのですよ。 アニメの放送は一旦途切れたのですけど、あまりの人気と反響に押されて放送は再開され、今ではすっかり日曜日の夕方の定番となっています。



ちびまる子ちゃんランドのすぐ横では、期間限定で「さくらももこ ありがとうの会」の展示がおこなわれていました。その入口には長蛇の列ができていたのですけど、私はそれを見るまでは帰らない決意をして並びました。



お待たせしました。今から皆さまをその中にご案内いたします。 ある程度の人数で仕切られたのですけど、かなり賑わっていますね。



入ってすぐのところには、さくらさんの仕事部屋の様子が再現されていました。このような環境の中で、数々の作品が産み出されてきたのですね。



こちらにも、新聞の四コマ漫画の原画がありました。「うんうん」な内容ですけど、カラーだとキレイで見やすいですね。



こちらは、ネームみたいですね。まるちゃんと父ひろしとのやりとりがとても面白いです。



さらに、まるちゃんとクラスメイトなどが描かれたイラストや………



さくらさんのメッセージが書かれた色紙などもありました。 またその会場では、さくらさんの歩んできた道や、彼女へのメッセージが収録されたビデオも流されていました。 そのナレーターは、やはりキートン山田さんだったのですけど………
「『ちびまる子ちゃん』など、私の描いてきた作品をたくさんの皆さまに可愛がっていただき、とても感謝しています」という彼女のメッセージに対して、キートン山田さんが「ありがとうと言いたいのは、こちらのほうである」と返したところで、私はぶわっときてしまいました。 さらにそれに追い討ちをかけるように「さくら、ありがとな 」などといった、まるちゃんのクラスメイトの声でお礼の言葉が続いたので、泣かない自信があった私でも耐えきれませんでした。 彼女が亡くなってから、5ヶ月近くも経つというのに………



さくらさんは故郷の清水が好きで、このような環境で生まれ育ったので、長年多くの人から愛されてきた「ちびまる子ちゃん」などの作品が生まれたのですね。そのことは、彼女の直筆のメッセージからもうかがうことができます。



静岡市葵区の新静岡セノバの近くには、さくらさんがデザインしたマンホールの蓋があります。



さらにもう1ヶ所、清水区の清水駅の江尻口の近くにも、その地域をイメージしたデザインのものが設置されているのですよ。 そこからも地域愛を感じるのですけど、これが彼女にとって最後の仕事となってしまいました。



あと、会場の外に「さくらももこさんにメッセージを書こう 」というコーナーがあったので………



私も一筆書かせていただきました。 さくらさんの活動場所は天国に移ってしまったのですけど、彼女が遺した作品はこれからも親しまれ、伝わり続けていくことでしょう。 エスパルスドリームプラザの「さくらももこ ありがとうの会」の特別展は、2月11日までおこなわれているので、さくらさんを偲びたいという方は、期間内にそちらを訪れてみてくださいませ。
それからオマケとなりますけど、彼女が郡上八幡(岐阜県郡上市)をいたく気に入り、そこを舞台にして勝手に作ったという「GJ8(エイト)マン」というヒーローが主役のネットアニメに、私は最近ハマっています。 主題歌の「長良川鉄道の夜」の歌詞は彼女が手掛け、さらに自ら声優も務めたのですよ その肉声が、まるちゃんをやっているTARAKOさんにソックリなのですよ さくらももこ先生、いろいろと楽しませてくださり、ありがとうございました。


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龍馬を斬った男・今井信郎

2018-10-20 01:08:07 | 人物伝
こんばんは、白黒茶々です。
突然ですけど、皆さんは今井信郎(のぶお)という人物のことをご存知でしょうか?そういう私も、実はつい最近まで彼の存在を知りませんでした。



その今井信郎は何をした人かというと……… 今回の日記のタイトルにも出ている通りで、坂本龍馬を殺害した張本人とされています。 それでも、彼にはそれ以外のところでの功績もあります。その彼が明治以降に現在の静岡県島田市に移り住み、その屋敷跡があるというので、今回私は波と一緒にそこを訪れつつ、彼の辿ってきた道を紐解いていこうと思います。

その今井信郎屋敷跡は、行き方がわかりづらいというウワサは前もって聞いていたのですけど、どのような難関が立ちはだかっているのかも、気になりますね。 なかには「無事にたどり着くことができたから、今回の日記のネタにしたのでしょ?」と思われた方もいるかも知れませんけど、私は失敗した場合でもそれをネタにするので、安心してはいけませんよ。 結果がどうなったかは読んでいくうちにわかるとして、まずは最もオーソドックスに行けそうな道から入っていくことにしました。


(Google Earthより)

地図で見ると、世界最長の木造歩道橋として知られている蓬莱橋の1つ東側にある県道34号線づたいに大井川を渡っていき、その道沿いにあるタンクを目印にして脇道に入っていけば、最短距離でたどり着けそうなのですけど……… 台地から降りていく坂道は切り立っていて、その道幅も車1台が通れるかどうか微妙なところですけど、思い切って行ってみましょう

屋敷跡への道が切り開けてきたので、このあたりで今井信郎の生い立ちに触れさせていただきます。 今井は天保12年(1841年)10月2日に、江戸本郷の湯島で幕臣の家に生まれました。 10歳で元服し、湯島聖堂に入って勉学に励み、20歳で剣術の直心影流の免許皆伝。
さらに遊撃隊頭取として京都に赴き、上京後は佐々木只三郎の京都見廻組に入隊しました。

こ、これは……… 坂を降りたところで、私は後悔しました。道は行き止まりとなっていて、引き返すとしても向きを変えるのも困難な状況となっていたのです。 そういえば、地図(スマホの地図機能)ではその先の道があやふやになっていたような……… 車のバンパーやホイールを擦るのは避けられそうになく、そこをクリアしたとしても、この急な坂道を上がっていけるかどうか……… もう、今井信郎どころではありません
それでも、今回は乗組員が私と波だけで軽かったこともあって、なんとか戻ることができ、慎重にいったおかげで車も無傷で済みました。

脱出に成功したということで、これに懲りてそのまま帰るという手もあったのですけど、せっかくここまで来たのだから今度は平野部の南側から攻めてみることにしました。 先程の県道34号線は東名高速道路の吉田インターチェンジに繋がっているのですけど、そこから北西の方向に、今井屋敷跡に行けそうな道がありました。ナフコ島田店前の交差点から西に進んでいき、う~む……… 特に目印のようなものがないところで右折。


(Google Earthより)

さらに、その先にある感応式の信号を通り、新幹線のガードを潜って北に向かっていったら、進んでいく途中で道が枝分かれしている箇所もあったのですけど………



このような案内看板がありましたよ 今度こそ、間違いなくたどり着けそうです。



とはいっても、こちらも車で通っていいのか迷うぐらいの細道でした。 それでも、屋敷跡到達の目処が立ったので、このあたりで今井信郎の話を再開させていただきます。 え~と……… どこまで話しましたっけ? そうそう、彼が見廻組に入ったところでしたね。 慶応3年(1887年)11月15日にその見廻組は、京都の近江屋に潜んでいた坂本龍馬中岡慎太郎を襲撃しました。
「龍馬たちを暗殺するなんて、許せない 」と思われた方もいるかも知れませんけど、決して今井は彼らに個人的な恨みがあったというワケではありません。 当時の彼は幕府直属の見廻組の一員で、幕府にとっては反逆者で指名手配していた龍馬たちを成敗したのはやむを得ないことだったのです。



NHK大河ドラマの「西郷どん」にもそのシーンはあったのですけど、それはほんの数秒だけで………



今井と思われる男は一瞬しか映らず、その番組のオープニングで流れる出演者名にも出ていませんでした。 それはやむを得ないとしても、「見廻組」という組織名はあまりにもそのまんま過ぎて、ネーミングでは「新撰組」に見劣りしているので、どうにかならなかったのでしょうか? なんてことを言ったら、見廻組ファンに怒られるかも。



………とかなんとか言っているうちに視界が開け、今井信郎屋敷跡にたどり着きましたよ 向こうの一段高くなっているところに、屋敷の建物があったと思われます。



屋敷跡を記している石碑は、大きくて立派ですね。
今井は戊辰戦争で幕府側として戦った末に新政府に降伏し、龍馬たちの殺害に関与したことを自供しました。 それらの罪で投獄されたのですけど、明治5年(1872年)に恩赦で釈放されました。明治11年(1878年)には榛原(はいばら)郡初倉村(現在の島田市初倉地区)に移植。 その地に根を降ろした彼は、初倉村の4代目村長や農事会長を務め、さらに現在の県立榛原高校につながる学校の設立に尽力しました。
大正5年(1916年)に脳卒中で倒れ、2年間の病床生活を送り、大正7年(1918年)6月25日に亡くなりました。 享年76歳。



明治から昭和初期にアララギ派の歌人として活躍した今井邦子は、今井の3男の健彦の妻ということもあって、屋敷跡には彼女の歌碑も並んでいました。



私たちが訪れたとき、屋敷跡では整備の作業がおこなわれていて、東屋や看板ができつつありました。 そこにいたオジちゃんは、10月上旬に今井の像の除幕式がおこなわれると言っていました。



つい最近、その様子が新聞の県内版に載りました。 今年は幕臣による牧之原台地の茶園開拓から150年で、今井の没後100年にもあたり、石像の建立には、この地方で政治や教育などの分野で貢献した彼を顕彰する意味もあったみたいです。
しかし、彼は常に龍馬殺しに反発する暗殺者からの目を気にしていたみたいです。 そういうこともあって、大井川初倉側の段丘が作った谷の一番奥まった隠れ里のような場所に、屋敷を構えたとされています。明治に入ってからも、龍馬暗殺の呪縛から解放されなかったなんて、なんか気の毒です。 今井信郎のことを語る際には、つい「龍馬を斬った」というところから入ってしまうのですけど、これから私はそれ以外の彼の功績を強調するようにします。


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異色の画家・石田徹也の世界へのいざない

2018-10-17 00:40:43 | 人物伝
こんばんは、白黒茶々です。
前回から私と波は、藤枝市にある蓮華寺池公園に来ています。 その園内をぐるりと廻り、池の畔にある藤枝市郷土博物館と藤枝市文学館を見て締めようというのですけど………



そちらでは「夢を描いた青年 石田徹也展 ~翔けぬけた10年のキセキ~」という特別展をやっていました。 すぐに皆さまを、その世界に導きたいところなのですけど………



まずは郷土博物館の常設展から入らせていただきます。 こちらには、藤枝市の歴史を旧石器時代から紹介&展示しています。志太平野に造られた縄文時代や弥生時代の遺跡やその出土品、律令時代にその地方の役所として機能していた志太郡衙など。それらの中には、前の日記で私たちが見てきた若王子古墳群から出土した副葬品もありました。



次の中世・近世ゾーンには、武田信玄勝頼親子と徳川家康の攻防戦の舞台となった、田中城に関する展示も。このお城は、お堀や土塁が同心円状に築かれた独特の縄張りで、その様子を再現した模型は、見応え充分です さらに、家康が食したという鯛の天ぷら御膳の食品サンプルも必見です。 元和2年(1616年)1月21日に家康は鷹狩りの帰りに田中城に立ち寄り、そこで京都で流行しているという鯛の天ぷらをお腹一杯食べました。しかし、その夜に腹痛と食あたりを起こしたのです。その後も病状は悪化していき、4月17日に駿府城で亡くなりました。



藤枝は宿場町としても栄え、餅米のおこわをクチナシの色素で染めた「瀬戸の染飯(そめいい)」は名物となっています。 その食品サンプルも、オススメしておきます。



近代・現代にもなると、明治維新の変革と西洋文化の浸透が顕著化してきます。大正2年(1913年)には軽便鉄道の駿遠線が開業し、昭和23年(1948年)に藤枝市の大手駅から相良、浜岡、横須賀の沿岸部を通り、袋井駅に至る総延長64,6Kmもの全線が開通しました。 その路線を実際に走っていたミニSLが、博物館の屋外に展示されているのですよ。 駿遠線は、軽便としては日本一の営業距離を誇っていたのですけど、自動車の普及などにより、昭和45年(1970年)に完全に廃線となりました。



………と、つい前置きが長くなったというか、脱線してしまいましたけど、皆さんは石田徹也さんのことをご存知でしょうか?彼は一風変わった画家で、昭和48年(1973年)に焼津市に生まれました。



今回の特別展では、彼が小学校で賞を取った作品も展示されていました。 このことがきっかけで、絵に関心を持つようになったと思われます。



また、彼の少年の頃の時代背景を映す資料として、ゲームウォッチやファミコン、「タッチ」なども展示されていました。その後、彼は県立焼津中央高校を経て武蔵野美術大学に進学し、卒業後は東京に居を構えて精力的に絵画の製作をおこないました。



そんな彼が実際に使っていたパレットや絵筆もありましたよ。



さらに直筆の「夢日記」や………



アイデアノートも展示されていたのですけど、かなり几帳面というか緻密に書かれていますね。 石田さんの作品は、創造力あふれる独特の筆致で描かれていて、現代に生きる若者たちの苦悩や葛藤、現代社会の矛盾や不条理を、ときにはユーモラスに、ときには風刺的に描いています。といったトコで、いよいよ皆さまをその石田ワールドにご案内いたします。
今回の特別展は、ストロボを焚かなければ自由に撮影できるので、遠慮なく撮らせていただきました。



まずは「クラゲの夢」です。クラゲに包まれた青年が、心地良さそうに眠っていますね。



次も似たような作品で、こちらの「ダンゴ虫の睡眠」では、ダンゴ虫をベッドに見立てています。 これを実際にやってみたいという方も、いらっしゃると思います。



こちらの「兵士」は、手負いのサラリーマンが建物の谷間に逃げ込んでいます。 いや、彼にとって心地よい場所が、そこなのかも知れませんね。



こちらでは、側溝の中に避難してきた人を描いていますよ。よく見てみたら、後方にドアが描かれているので、すべて部屋の中でやっているということに。



さらに、横断歩道を掘ったら、人の顔が こうなると、棺桶にも見えてしまいますよ。



こちらは社会風刺なのでしょうか?オウム貝の中身があの教祖の顔になっていますね。



こちらはいったい……… 「あしたのジョー」みたいなボクサーと、リングのコーナーポストと一体化したアントニオ猪木氏が意味するものは何でしょうか? ちなみにこの作品は、雑誌にも掲載されたそうです。



プロレスで覆面狩りをしたら、顔が指だったというのは、ユニークですね。 しかも、落書きのようなその表情の脱力感も、たまりません。



ここからは、抽象画部門(?)に戻ります。「めばえ」という作品は、授業風景を描いているのですけど、顕微鏡と一体化した生徒の1人は、教師に押さえ込まれています。



こちらの労働者と思われる人は、フォークリフトと同化していますよ。しかも、運搬している物がカバンというのが、なんとも。



同化といえば、こちらの「SLになった人」も、うまい具合にはめ込まれていますね。



階段と同化している人は非常ボタンを押していて、安心できる場所を求めて、屋外に避難していることを表現しています。 しかし足元が浮いていることから、そこでも落ち着かなかったみたいです。



「燃料補給のような食事」は、石田さんの作品の中でも特に有名です。 仕事に追われる労働者が、空腹を満たすためだけに牛丼屋で食事する様子を描いています。ただ、この光景があまりに強烈で、私はセルフのスタンドで車の給油をする度に、自分がその店員になったような錯覚に陥ってしまいます。



こちらの「飛べなくなった人」は、彼の代表作と言ってもいいでしょう



その前年に発表された「ビアガーデン発」は、飛行機と一体化した人が千鳥足で、両脇を支えられながらも楽しそうにしていただけに、かえって物悲しさを感じてしまいます。 それもそのハズ、「飛べなく………」のほうはバブル崩壊後に廃墟となった遊園地の遊具と、リストラなどで見捨てられた人の姿が重ね合わされているのですよ。
これらの他にも、学校の校舎にはめ込まれた人やバラバラになった人がパーツのように箱詰めされている姿など、かなりショッキングな作品も描かれたのですけど、それらは今回の特別展にはありませんでした。



しかし、その才能が認められ始めた矢先の平成17年(2005年)5月に、石田さんは踏み切り事故で31歳のあまりにも短い生涯を閉じてしまいました。 彼の死後にアトリエで見つかったこちらの無題の作品は、彼の遺作とされています。彼の自画像と思われる白いシャツを着た青年が、白いキャンバスを見つめています。何もないところにこれから何かを描こうとしているのでしょうか?それとも真っ白でもう描けないということを表しているのでしょうか?もし後者だったとしたら、彼の死は自殺だったのかも知れません。
特別展を出たところのロビーには、記念撮影用に設けられた石田作品の「飛べなくなった人」の書き割りがあったので、私は思わず体を突っ込んでしまいました。 題して………



「飛べなくなった白黒茶々さん」です。
※喜び勇んで突っ込んでいったので、「翔んでる白黒茶々さん」といったほうがいいのでは?(編集部注)



観賞後の感想を貼り付けるコーナーで見つけたこちらの絵は、なんかカワイイです。
石田徹也さんは、創作を始めてから亡くなるまでの10年の間に、200点以上の作品を遺しました。 それらはNHKの「新日曜美術館」で紹介され、さらに世界でも評価されました。さらに来年の4月には、ピカソの「ゲルニカ」が展示されているスペインの国立美術館・ソヒィア王妃芸術センターでの個展の開催が予定されています。それによって、彼の作品はますます価値が上がることでしょう もし皆さまのお近くで石田徹也さんのの作品展がおこなわれていたら、ぜひ一度ご覧になってくださいませ。


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桂浜と坂本龍馬と花火大会(高知・高松紀行その3)

2018-08-29 01:03:35 | 人物伝
こんばんは、白黒茶々です。
今年のお盆休みは、私は一人旅で高知方面に向かいました。1泊3日の予定のうち、現在は2日目のお昼あたりで、高知市を代表する風光明媚な観光名所の桂浜にたどり着いたところです。前回の日記の終盤では、その龍頭岬の高台の上にある坂本龍馬の銅像を目指して、階段を上がっていきながら今回の日記に引き継いだのですけど……… あれっ?龍馬像がない。 もうちょっと東のほうみたいですね。そうしたら、いよいよ高い台座の上から桂浜を眺めている、坂本龍馬像とご対面いたします。



あれっ?今度は向きが違う。 私は過去に2度こちらを訪れたことがあるのですけど、記憶違いだったみたいで、実際の龍馬像は桂浜に背を向ける形で立っていました。今までこちらからじっくりと見たことはなかったのですけど、後ろ姿もカッコいいですよ。



お待たせしました またしても前フリが長くなってしまいましたけど、坂本龍馬像の正面に回りました。 この銅像は、長崎で撮影されたあの龍馬の有名な写真を参考資料にして、地元出身の彫刻家の本山白雲氏の手によって昭和3年(1928年)に完成しました。 像本体の高さは5,3mで、台座も含めた総高は13,5mにもなります。



せっかくなので、一緒に写ってみました。 しかし、我ながらポーズに芸がないですね。ここは龍馬に倣って、右手を懐に突っ込んだり、ブーツを履いたりしておくべきでした。



それはさておき、こちらは真夏の快晴の桂浜にございます 太平洋に面していて、龍頭岬と向こうに見える龍王岬の間に弓状に広がる海岸です。 その松の緑と五色の小砂利、紺碧の海が箱庭のように調和する風景は、まさに絶景 また、こちらは月の名所としても知られています。
しかし、波打ち際は急に深くなっているうえに波も荒くて危険みたいです。 そこに近付こうものなら、常駐の監視員にやんわりと注意されるのですよ。



なので、このようなことは絶対にやってはいけませんよ。 宴会を終えて、さあ帰ろうというときに、仲間の誰かが波にさらわれていなくなっているという事態になるかも。 いや、ヘタしたら全滅する恐れも。そうなってしまったら、歴史が変わってしまいますよ。 それはさておき、さらにその先まで歩いていき………



龍王岬の上に鎮座する、海津見(わたつみ)神社龍王宮のところにまでやって来ました。こちらから臨む太平洋も絶景なのですけど、私の地元の遠州灘より海がきれいで蒼い
桂浜の景色を堪能したら、次の目的地に向かいます。 それは桂浜から歩いていける距離のところにあるのですけど、立地している丘の上まで登っていかなければなりません。



ハアハア……… 最も暑い時間帯で汗が吹き出しつつも、なんとかたどり着きましたよ。 全体像を写すのが難しい場所にあるのですけど、県立の坂本龍馬記念館にございます。こちらは新館を増築したりして、今年の4月にリニューアルオープンしたばかりで、それにともなって入場者も増えたそうです。 十数年前に私が訪れた時は、右側のひょろ長い建物だけで、龍馬の手紙などが展示されていたのですけど、どのように変わったのでしょうか?さっそく迫ってみることにしましょう



その本館(従来のひょろ長いほう)の裏側には、坂本龍馬のシェイクハンド像が新たに設置されていたので、シェイクをハンドしておきました。
※敢えて言うと「ハンドをシェイクする」なのでは?(編集部注)
大きさからいって龍馬の等身大ぐらいで、さらに彼が本当に「しぇいくはんど(イメージとしては、ひらがな)ぜよ」と言っているような気がしました。そうしたら、私も「シェイクハンド(現代人なので、カタカナ)だに」。 いつの間にか、土佐弁VS遠州弁になってるに~。

坂本龍馬は天保6年(1835年)の11月に、高知城下で生まれました。幼少時代のことは不明なのですけど、鼻垂れ、寝小便、臆病者、………と、マイナスからのスタートだったとされています。 国内の流れが尊王攘夷に傾いていた頃、武市半平太が結成した土佐勤王党に入ったのですけど、程なく武市とは別の道を歩むことになり、さらに土佐を脱藩してしまいました。 それは、文久2年(1862年)3月のことでした。
この炎天下の中で立ち話を続けるのもナンなので、このあたりで龍馬記念館に入ることにしましょう。 その入口はこちらとは逆方向の新館側にあり、この時は特別展をやっていたので、700円(MY遊割引きで560円)を払い………



まずは、坂本龍馬に関する資料が展示してある部屋に入りました。 彼は筆まめで、行く先々で家族に宛てて書いた手紙が多数残っていることもあり、展示はそれらがメインとなっていました。しかも複製品なので、ストロボを焚かなければ自由に撮ることができるのですよ
ちなみに、こちらは脱藩してから最初に家族(乙女姉さん)に送った手紙で、「そもそも人間の一生は合点のいかぬはもとよりのこと、運の悪い者は風呂より出でんとして、きんたまをつめわりて死ぬる者もあり。それにくらべては私などは運が強く、なにほど死ぬる場に出ても死なれず………」という書き出しが、くだけていますね。 それと同時に、その手紙には脱藩後に龍馬は江戸に行き、勝海舟に弟子入りしたことも報告しています。



また、翌年の文久3(1863)年6月に乙女姉さんに宛てた、こちらの「日本を今一度せんたくいたし申し候」という手紙はあまりにも有名で、彼の名言にもなっていますよね。 しかもよく見ると、日本に「ニッポン」と丁寧にルビをふっていますし。とにかくその文面からも、これから日本のために大仕事をするという彼の決意が感じられます。



これらの他に、新館には土佐出身のジョン万次郎のコーナーなどもあるのですけど、本館のほうはもっとくだけた体験型の展示がされていました。
討幕するためには、薩摩と長州が手を結ぶ必要があるということで、龍馬は奔走し、犬猿の仲だった両者の間を取り持ち、慶応2年(1866年)に薩長同盟を成立させました。



この絵は、ある意味芸術的にデフォルメされているといったほうが………
さらに龍馬は、日本で内乱が起きている間に外国から侵略されたり、薩長が幕府と全面戦争になることを避けるために、大政奉還に向けて活動しました。 大政奉還とは、幕府が自ら政権を朝廷に返上し、幕府による支配を終わらせるというものです。またそれによって、戦争を起こす理由をなくすという意義もありました。 龍馬の尽力によって、慶応3年(1867年)10月に、15代将軍の徳川慶喜は大政奉還をおこない、徳川幕府は終わりを告げることとなりました。

あと、龍馬記念館には「幕末写真館」なるコーナーもあって、そこには龍馬と関わった人物などの写真が多数展示されているのですよ。桂小五郎(のちの木戸孝允)や久坂玄瑞がけっこうイケメンだったりして、いろんな面で楽しむことができます。
桂浜方面での用事が済んだので、あとはバスに乗って引き返すだけなのですけど……… 帰りはバラけていて、来た時のように道路が混むことはなかったものの、バスの車内が夕方になって一斉に帰ろうとする人でぎゅうぎゅうとなっていました。



それでも、なんとか高知駅前に到着。この流れからすると、これから列車に乗っていくトコなのですけど、この駅を出発点としている土讃線は、在来線の本数が少ないうえに接続も悪く、私の次の目的地の高松までは特急にでも乗らなければたどり着くことができないのですよ。 しかも、その列車を利用したら、自由席でも5000円近くもかかりますし。
しかし、心配には及びません。 この駅に併設されているバスターミナルからは、高松に2時間ほどで直行する黒潮エクスプレスという高速バスが出ているので。 ちなみにその料金は、3400円にございます。………なんてイチオシしておきながらも、乗る前に写真をとっておくのを忘れていました。

よく考えてみたら、今回は高知駅を観光の拠点にしながらも、そこで一度も列車を乗り降りしませんでした。 それから、MY遊バスのパスポートを買ったのに、メインのMY遊バスに乗ることもなく終わってしまいましたし。
ま、まあ、この高速バスが順調だから、いいでしょう。 どころが、それから間もなくして工事渋滞に巻き込まれ、予定が大幅に遅れてしまいました。



そ、それでも、あとは高松で晩御飯を食べて、同市内にある安宿に泊まるだけなので、多少遅くなっても大丈夫ですよ。 その渋滞を抜けてから、瀬戸内海に沈む夕日を眺めたりして………



予定より1時間20分遅れて、20時過ぎに高松駅前にたどり着きました。 運転手さんはすごく謝っていたのですけど、これもやむ無きこと。 しかしそこで、私にとってはまた新たに予定外のことが起こっていたのです。それは何かと言いますと………



駅から程近いところにあるサンポート高松の向こうで、「さぬき高松まつり花火大会 どんどん高松」なる大きな花火大会が、ちょうどその日のその時刻から始まったのです。



しかも露店もたくさん出ていて、ここから先はたくさんの人で混雑していますし。 そのような中でも私は、こちらに向かっている間に検索して見つけたお店に向かうことにしました。 ちなみにそのお店とは、サンポート高松の3階にあるTMチキンというところであります。 その頃は花火大会の真っ最中だったからでしょうか?そのお店はガラ空きで、貸し切り状態でした。



それからしばらくして、私の注文した料理が運ばれてきました。 香川県といえば讃岐うどんが有名ですけど、こちらの骨付き鶏も名物となっているのですよ 骨付き鶏とは、鶏の骨付きもも肉を一本丸ごと胡椒の効いた醤油だれに浸けて焼き上げたものです。それに、とりご飯、サラダ、スープが付いたセットが1080円(税込)と、手頃なお値段となっていました。 説明しているうちに、熱々だった骨付き鶏が程よく冷めてきたので、いただくことにしましょう。  はもっ

ほわっ スパイスの効いた肉汁が口いっぱいに広がって、これはクセになる味です。 薄く味付けされたとりご飯との相性も、いいですし。切って食べられるように添えられた大きなハサミを駆使しつつ、加速度的に鶏肉を消化していく私。その私には、フライドチキンや手羽先の類いは、箸と皿があれば手を全く汚さずに食べきる特技(?)があって、今回もその手法で骨だけにしました。
お店を出た頃には花火大会は終盤で、佳境に入るところでした。そうしたら、せっかくなので観ていくことにしましょう。



この先のエスカレーターを上がっていけば特等席になると思うのですけど、そこはビアガーデンのような有料スペースとなっていました。 私は晩御飯を食べ終わったばかりで、あと数分で終わるのにそこに入るのもどうかと。それに、多少視界を遮るものがあったとしても、迫力は充分伝わってきますし。なので、この写真でご了承くださいませ。
花火大会が終わった直後には、帰路に就く人の波が押し寄せてきました。これから電車やバスに乗って帰るとしたら、大変ですよね。 それでも、私はそこから歩いていけるところにある宿を押さえてあるので、心配要りません。 それは、サンポート高松や駅からは東のほうにあって………



その途中で、ライトアップされた高松城旧東丸艮櫓(きゅうひがしまるうしとらやぐら)が見えてきました。 ライトに照らされて、暗闇の中に白壁が浮かび上がる姿は、幻想的ですね。そこからさらに歩いていったら………



ようやくたどり着きましたよ 私がこの夜お世話になる、ファーストイン高松が。 ちなみに夜ではわかりにくいので、写真は翌朝に撮ったものを使わせていただきました。こちらはサウナ付きの大浴場がメインで、カプセルルームといった簡易宿泊施設も併設されています。 しかも、1泊朝食付きで3400円と、かなりお得ときたもんだ ちなみに、気になるそのお部屋は………



※かなり広そうな和室ですね。なんか、ホテルの外観や宿泊料金と合わないのですけど……… (編集部注)
しまった 写真を間違えてしまいました。こちらは坂本龍馬記念館の本館内に再現された、京都にかつてあった近江屋の母屋の二階の部屋であります。 そちらの部屋は、自由に入ったり写真を撮ったりできるのですけど………



そこは、慶応3年(1867年)の11月15日の夜に、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された場所でもあります。 襲撃したのは見廻組で、彼らに致命傷を与えたのは、のちに静岡県に移り住んだ今井信郎が有力とされています。それは大政奉還からわずか1ヶ月後のことで、奇しくもその日は龍馬の33歳(満32歳)の誕生日でした。 またしても、話も部屋も横道にそれてしまいましたけど………



本当の部屋は、こうです カプセルタイプのベッドスペースは上下の二種類があるのですけど、私は上段のタイプを選びました。それに椅子とテーブルが備わった小さな部屋が付いているのですけど、ドアはなくて通路とは厚いカーテンで仕切るだけとなっていました。 なので財布などの貴重品は、その中にある鍵付きのロッカーに入れるか、フロントに預けてくださいませ。
今回の一人旅は、早いものであと1日で終わりとなります。その旅日記も次回で終わらせるつもりですけど……… なるべくきれいに締められるように、簡潔かつ丁寧に書けるように努めさせていただきます。


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静岡のケイキ様(大政奉還後の徳川慶喜、スピッツクラブ展覧会その1)

2018-05-26 01:14:50 | 人物伝
こんばんは、白黒茶々です。
5月13日は、スピッツクラブの展覧会の日でした。 私は今回もそのイベントに行くために、朝早く……… というよりは未明に支度を始め……… そうしたら、波ちゃのお出かけセンサーが過剰に反応して、吠え出しました。 以前はそれほどでもなかったのですけど、その能力は箔から伝授したのでしょうか?とにかくこんな時間(2時台)はご近所に迷惑となるので、静かにしなさい

3:34


日が長い5月とはいっても、3時台はさすがにまだ真っ暗なのですけど、その時間帯に朝散歩をしておきました。 さらに準備が整ったら、いよいよ出発しますよ

5:21


私たちは始発列車に乗るために、浜松駅に来ました。この日は天気はしだいに下り坂になるみたいで、自宅のある白すぴ地区では出発する頃にはすでに小雨が降っていました。 私たちはあるミッションを実行するために、この先で途中下車するのですけど、雨雲が迫る前に終わらせなければなりません。



その駅前には、モザイカルチャー的な出世大名家康くんがあるのですよ そこでの記念撮影はハズせない……… なんて言っていたら、列車の時刻が迫っていました。急げ

5:33


………ということで、まずはペットを乗車させるための手回り品の切符(280円)を波の列車用キャリーにくくり付け、いざ東へ向かわん 彼女にとっては、先月の名古屋行きに続いての列車の旅となりますけど、今回もその中で静かにしていてくれました。

6:59


浜松から約1時間半で、静岡駅に到着。 今までだったらそちらでの用事を淡々とこなすところなのですけど、私は最近Instagram(インスタ)に手を出し、戌年生まれだからなのでしょうか?スマホからマーキングというか「今、ここにいるぜ 」アピールをせずにはいられませんでした。



こちらの駅前には、徳川家康の幼少時代こと竹千代君(ぎみ)の像があります。 ちょうどいい高さのところにあるので、ワンコを連れていたら、このような「お散歩竹千代君」をやりたくなりますよね? そういえば、1年前のスピクラ展の道中でも、箔で同じことをやっていました。さらにその北西の方向には………



葵タワーをバックにして、老年期の鎧姿の徳川家康像が立っています。 しかし、こちらの像は高い台座の上にあるので、「お散歩………」はできないのですよ。 それはさておき、静岡市は家康にとっては、ゆかりの地でもあります。彼は人質として、8歳から19歳まで今川義元のいるこの地で過ごし、戦国大名として成長した45歳からの4年間は、駿府城を築いて移り住みました。 さらに、徳川幕府の初代将軍の座を辞してから75歳で亡くなるまで再びこちらに赴き、隠居生活という名の江戸との二元政治の拠点としました。
時代は移って、15代目で徳川幕府最後の将軍として知られている徳川慶喜も、この地で過ごしたことがあるのですよ 慶喜といえば、現在放送中のNHKの大河ドラマ「西郷どん」では「江戸のヒー様(一橋慶喜)」として登場し、松田翔太さんが好演していますよね。 その20年前の大河ドラマ「徳川慶喜」では、慶喜に最も容姿が似ているということで、本木雅弘さんが主役を務めました。
………ということで、前置きが長くなってしまいましたけど、今回は「人物伝」として徳川慶喜を採り上げさせていただきます。 こちらで長々と語るのもナンですから、駅から程近いところを散策しながらさせていただきます。 とはいっても、雨雲に追い付かれたみたいで、雨がポツポツと降り始めたので、急がなければなりません。 とにかく、静岡駅から老年期の家康像の前を通り、北西の方向に6分ほど歩いていくと………



現在はホテルや結婚式場、料亭として営業している、浮月楼に行き着きます。



徳川慶喜は、土方歳三松平容保東郷平八郎、………といった方たちと肩を並べる、幕末明治のイケメン偉人10選のうちの1人でもあります。 好みは人それぞれなのですけど、私も彼のことをハンサムだと思っているので、間違いありません。たぶん、きっと。
慶喜といえば、14代家茂亡きあとの慶応2年(1866年)将軍に就任したのですけど、その頃には薩摩と長州が手を結んだりと、世は倒幕の動きの真っ只中にありました。 慶喜はその矛先を外に向け、徳川家を存続させるために、翌慶応3年(1867年)に京都の二条城で大政奉還をおこない、政権を朝廷に返上しました。これにて政治の混乱が収まると思っていたのですけど、薩長連合は朝廷側の岩倉具視と結束し、天皇家の権威を復活させて、錦の御旗を立てて幕府に立ち向かうことに。世に言う「王政復古の大号令」です。これによって、慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦いが勃発しました。 歴史でいうところの、戊辰戦争の始まりです。



その際に慶喜は、幕府軍の総司令官として大坂城での指揮を任されることになったのですけど、旧幕府軍=朝敵となることを避けるために、船で江戸に逃亡 その年の2月には、彼は上野寛永寺で謹慎生活を始めました。



※白黒茶々さん、浮月楼は素通りしてしまうのですか?(編集部注)
はい、話の流れからしてこの先にあるところから入りたいので、そうさせていただきます。
薩長を中心とした新政府軍はその後、東日本に進攻し、江戸に差し掛かりました。と、そこで「このまま江戸の町を戦火に巻き込んではいけない 」ということで、勝海舟西郷隆盛天璋院(篤姫)らの尽力によって、同年の4月に江戸城は無血開城されました。時を同じくして、慶喜は謹慎場所を水戸の藩校弘道館に移しました。



私たちは浮月楼から5分ほど西のほうに歩いていき、宝台院という寺院にたどり着きました。 こちらには、家康の側室であり2代将軍秀忠の生母でもある、お愛の方(西郷の局)のネタを書くために、私は7年半前に箔と一緒に訪れたことがあるのですよ。 かつては立派な伽藍が建ち並んでいたのですけど、静岡大火や戦災で焼失してしまい、現在はこじんまりとした境内に鉄筋コンクリート製の本堂や………



お愛の方のお墓があります。このあたりで雨がやんで、雲の間から日が差し込んできましたよ。 さらに、その隣には………



「徳川慶喜公謹慎之地」という石碑が立てられているのですよ。慶喜は慶応4年の7月に、こちらにひっそりと移り、謹慎生活を続けました。 翌年の明治2年(1869年)6月に、新政府軍の箱館制圧でもって戊辰戦争が終結したら、彼の謹慎は解かれました。 その後、慶喜はどうしたのかというと………



………ということで、私たちは再び浮月楼に戻ってきました。 その北側には「徳川慶喜公屋敷跡」という石碑があるのですけど………



正面入口にも、同じような石碑が設置されています。 自由の身となった慶喜は、政治からは遠ざかり、こちらに屋敷を構えて悠々自適な生活を送りました。 さらに油絵、写真術、自転車、狩猟など多才な趣味に目覚めました。そんな彼は、地元の人々から親しみを込めて音読みの名前で「ケイキ様」とも呼ばれるようになりました。



そのうちの写真は、若い頃から興味があったみたいで、このような自画像ならぬ自写真、いや、自撮りともいうべきものも残っています。 こうして見ると、やはりなかなかのイケメンなのですけど、屋内では露光不足となってしまうということで、机や本、筆記用具などの小道具をわざわざ屋外まで出してきて撮影したそうです。 しかも、このようなポーズまで編み出して
彼はカメラを持ち歩いては気に入った風景を写し、写真雑誌などに投稿したのですけど、なかなか採用してもらえませんでした。 もし彼が現在の世にいたら、インスタ映えに執着していたかも知れませんね。



また、自転車で静岡の町を走り回ったりもしました。 しかし、運転はニガテだったみたいで、お堀に落ちたり、美女に見とれて看板に激突したりと、伝説を残してしまいました。

しかし、明治21年(1888年)に屋敷の近くに鉄道が敷かれることが決まると「汽車の往来がうるさくなったら、かなわん 」と言って、静かな環境を求めて同市内でも内陸部の、現在の葵区西草深町に引っ越してしまいました。 その屋敷の面影はまったく残っていないのですけど、西草深町のポケットパークには屋敷跡の石碑が設けられています。ただし時間がないので、そちらのほうはハショらせていただきます。
静岡県民としては大河ドラマの「徳川慶喜」で、静岡での彼の生活がどのように描かれるのか楽しみにしていたのですけど、そのドラマは大政奉還をもって終わってしまったのですよ。私の「あ…あ………」という嘆き声も聞かずに。



浮月楼のほうには、ケイキ様の屋敷の頃からの庭園が残っています。 彼は明治30年(1897年)まで静岡で過ごし、その後は東京の巣鴨に移り住みました。その翌年、60歳となった彼は、明治天皇と謁見し、さらにその4年後には、貴族院議員として再び政治に関わることになります。

8:12


静岡で語りきれなかったこともあるのですけど、慶喜氏が東京の住人となったということで、私たちは列車に乗り込みました。 そして、このような天気の中でも、富士川に差し掛かったところで奇跡的に富士山が見えてきましたよ



慶喜氏は大正2年(1913年)11月に、77歳(満76歳)でその生涯を終えました。 家康の75歳(満74歳)を超え、徳川歴代将軍のなかでは最高齢ということになります。 彼は現在、東京でも静かな環境のなかにある、谷中霊園で眠っています。

10:33


そういう私たちは、東京までは行かずにこちらの横浜駅で下車しました。先ほどまで慶喜氏の話で一人で盛り上がってしまいましたけど、この日の目的はこちらにあるのですよ。

10:41


まだ雨は降ってなかったので、スピッツクラブ展覧会の会場となっている横浜そごうの鐘の広場までは、駅から直結しているこちらの歩道橋を歩いていきますよ。 その先には、すでにたくさんの白ふわたちが集まっていました。そのスピクラ展の様子については、次回の日記で語らせていただきます。


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武田勝頼について、あなたはどう思います?

2017-12-02 01:21:09 | 人物伝
こんばんは、白黒茶々です。
前々回の日記から、私・の白黒茶々家の1人と2頭は、愛知県新城市に来ています。 卵かけご飯モーニングを済ませ、鳳来寺山を制覇したらそのまま帰る……… とはならず、私にはまだその地でのミッション(?)があったのですよ。 というワケで、今回のテーマに入らせていただきます。



突然ですけど、皆さんは武田勝頼に対して、どのようなイメージをお持ちでしょうか?織田・徳川のヒール役とか、武田家を滅亡させた無能な者とか、悪い面しか出てこないかも知れませんね。 それではあんまりなので、今回は新城市にある勝頼にゆかりのある場所を訪れつつ、彼の生涯をたどっていきたいと思います。
それよりも、この肖像画はちょっとやり過ぎではないですか?



………ということで、今回は従来のこのような堅実なイメージでいかせていただきます。
武田勝頼は天文15年(1546年)に、武田信玄諏訪御料人の間に生まれました。信玄にとっては四男で、当初は母方の実家の諏訪氏の養子だったことから、諏訪四郎勝頼と名乗っていました。
初陣してからは信玄の軍に従事し、実戦経験を積んでいきました。
そして、元亀4年(1573年)に信玄が死去したことにより、その家督を相続しました。長男の義信は信玄と対立したことによって粛清され、次男は全盲になったことから仏門に入り、三男は夭折したので、四男の勝頼が後を継ぐことになったのでした。



まず私たちは、長篠城跡にやって来ました。えっ、「この先、犬の散歩を禁止します。」ですって 数年前に箔と訪れたときには、このような触れ書きはなかったのに。いや、これは犬の散歩ではなく、犬との歴史調査……… って、苦し~ 箔波ちゃには申し訳ないのですけど、私が長篠城で蘊蓄を垂れている間は、車の中で待っていてくださいませ。



では、改めまして……… 本丸を囲む土塁と空堀は、よく残っています。 こちらのお城は寒狭川と宇連川の合流地点の断崖上に築かれた天然の要害で、徳川方の奥平信昌が城主となっていました。天正3年(1575年)5月、武田勝頼は1万5千もの軍勢を率いて、長篠城を包囲しました。対する城兵は、わずか500人ほど。 信昌はもともと武田の配下だったのですけど、その前年に徳川方に寝返ったということもあって、勝頼は攻め落とすことに執着していました。 しかし、信昌と城兵は善戦し、勝頼軍はなかなか攻略することができませんでした。



土塁の上には、長篠城跡の石碑が。こちらの石碑も、箔と一緒に写したことがあるのですよ。
信昌の籠城は、10日にも及びました。もはや限界と思われたまさにそのときに、織田信長軍3万と徳川家康軍8千が援軍としてやって来て、設楽ヶ原に布陣しました。



本丸跡には建物や視界を遮るようなものはなく、かなり広く感じます。 こちらには「長篠城本丸跡」の記念碑と、その脇には両軍の小さな供養塔がありました。
長篠決戦前日の戦闘で勝利していたこともあって、武田軍の士気は高まっていました。 しかし、武田の重鎮たちは状況は不利ということを感じ取り、勝頼に撤退することを進言しました。それでも勝頼は討って出ることにしたのです。



今度は、新東名高速道路の新城インターチェンジから程近い清井田にある、武田勝頼戦地本陣跡に来ています。 こちらには小さい石碑があるだけで、説明板や史跡公園化のようなものはないので、つい見逃してしまいそうです。
天正3年5月21日早朝に、長篠の戦いの火蓋は切って落とされました。 武田軍1万5千に対して、織田・徳川連合軍は3万8千。



設楽ヶ原には、復元された馬防柵があります。
合戦は必ずしも軍の数が多い方が有利とは限らないのですけど、この対決は兵力差の影響が出やすい攻城戦に近かったので、武田軍は最初から不利でした。さらに、織田・徳川連合軍はその地形を熟知しているうえに馬防柵を効果的に配備し、近代兵器の火縄銃も多いに活用したこともあって、武田軍は完膚なきままに叩きのめされました。 それによって勝頼は、馬場信春山県昌景内藤昌豊原昌胤真田信綱昌輝兄弟、高坂昌澄らなど、多くの重臣を失いました。

長篠の戦いで勢力を弱めた勝頼は、そのまま滅亡への道を歩んでいった……… と思いきや、実は体制を建て直して領地を拡大していったのでした。 まず彼は、本拠地を従来の躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市)から新府城(山梨県韮崎市)に移し、東美濃(岐阜県)だけではなく東遠江(静岡県)も手中に収めました。



私たちは、新東名高速道路の長篠設楽原パーキングエリア(上り)にも足を伸ばしました。 こちらは下りのPAよりは規模は小さいのですけど、武田軍をイメージした外観となっていて………



自動販売機の上には武田の兜が しかもこちらの自動販売機は商品を買うときに、戦国武将を思わせるようなシブい声でしゃべるのですよ。このときは「人は堀、人は石垣、人は城………」という武田信玄の格言が飛び出していました。



さらにその屋内には武田関係ということで、戦国武将グッズや信玄餅も置かれていました。
話はもとに戻って、武田勝頼の領地での足元は必ずしも安定していたとは言えませんでした。天正6年(1578年)の上杉謙信の急死によって起こった跡目争いの「御館の乱」では、選択ミスで同盟関係だった北条家との関係が決裂してしまいました。



その2年後には、遠江の高天神城の攻防で、味方のいる城に援軍を送れなかったことから、領主としての信頼までも失ってしまいました。 いわゆる「高天神崩れ」であります。
さらに1年後の天正10年(1582年)3月には織田軍などに追い詰められ、天目山に落ち延びたときには、従者はわずか50人ほどしかいませんでした。勝頼はその地で自害しました。享年37歳。これによって、平安時代から続いた武家の名門武田家は滅亡したのです。



長篠設楽原PA(上り)のフードコートでは、武田家の家紋の武田菱をイメージした戦国コロッケなるものが売られているというので、私は話のタネに食べてみることにしました。 一見、ただの四角いコロッケのようですけど、これは菱形になるように置いてみてください。 さらに専用の醤油で斜めに2つの線を入れれば、武田菱の完成と相成るのです それに加えて、コロッケの中身にはジャガイモ、おから、コンニャク、ゴボウ、ニンジン、鶏肉が入っていて、味のほうも戦国時代を彷彿させるものとなっているというではありませんか

しかし、食券売機には見当たらず、取り扱いメニューの写真の中にはそれっぽいものはあるものの、値段と写真の半分が白い紙で中途半端に隠されていました。
「何かお探しでしょうか?」
と、そこで厨房のおいちゃんが声をかけてきたので「武田菱のコロッケってあります?」と率直に聞いてみました。 すると、おいちゃんは「アレはあまり売れなかったからやめちゃった」とでも応えると思いきや「え、何ですかそれ?」なんと、戦国コロッケはなかったことにされてしまいました。 PAのホームページにもハッキリと載っているというのに………
なんか、歴史から抹殺された武田勝頼のようで、悲しいです。



最後に、このPAから古戦場方面を臨んでみました。
武田勝頼は、戦術面では父親の信玄より優れていたと思います。しかし、信玄の負債を抱えた状態で家督を継ぐことになったり、数々の選択ミスで勢力や信頼を失ったり、………と、不運な面もありました。 それからもう少し腹黒いトコがあれば、生き延びるか織田信長と渡り合えたのかも知れません。敗者の立場から歴史を見てみると、また違った発見などがあって、面白さが増します。


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竜ヶ岩洞の洞窟おじさん、戸田貞雄さん

2017-09-30 01:15:31 | 人物伝
こんばんは、白黒茶々です。
私・箔・波の白黒茶々家の1人と2頭による初秋の奥浜名湖散策は、今回が最終話となります。 前回の日記の最後に予告した通り、私たちは観光鍾乳洞のR洞に向かいました。
※すでに今回の日記のタイトルにも出ているので、伏せ字にする必要はないのでは?(編集部注)



ということで、やって来ましたよ 竜ヶ岩洞に。こちらは浜松市北区引佐(いなさ)町にある観光鍾乳洞で、以前から龍譚寺と並んで、奥浜名湖の人気スポットとなっております。 とはいっても、オープンしてから30年あまりと、それほど古くはないのですよ。それでも、その年月の間に鍾乳洞の入口周辺にも「これは………」というものが多数できてきたので、まずはそれらを見ていこうと思います。



屋根のある休憩スペースの脇には、古びた鉄橋と線路みたいなものが置かれています。昭和38年(1963年)に廃線になるまで、浜松市の中心部から奥山方広寺の門前までを結ぶ、総延長25,7kmにも及ぶ奥山線の軽便列車がこの地域を走っていました。 (※全面廃線は昭和39年)その遺構の一部がこちらに移されたのであります。



………とせっかく感心したのに、その隣にはなぜかメリーゴーランドの馬車みたいなものがあるのですよ。 しかも「定員4人」の注意書まで付けられていて。



さらにその一角ではミカンの皮アートに勤しむ方がいて、「おんな城主 直虎」のオープニングに出てくるような、花が咲く兜も置かれていました。



それだけではなく、砦の木柵をモチーフにした、ラブラブな撮影スポットも設けられていて。「顔出し無料」となっていますけど、カップルの2人がハートのあたりに顔を持っていくようにするのでしょうか? 箔と波はそこには届かないので、下のすき間から顔を出してくださいませ。



こちらの「ようきた洞」は、竜ヶ岩洞から流れ出る水に足を浸すところです。 今から10年前の平成19年(2007年)に完成し、以来夏場には涼むことができるようになりました。いや、冷やっこいを通り越してむしろ寒いぐらいで、できることならスイカやビールを冷やしたいです。ただし、こちらはワンコとは一緒に入れないので、ご注意くださいませ。



それから洞窟の入口の横には、竜ヶ岩洞だけにモザイカルチャーな竜があって、さらにこの竜はときおり目が赤く光って口から白いミスト状の霧を吐くのですよ カメラをお持ちの方がこの瞬間に出くわしたら、ぜひ前へお進みくださいませ。



その近くには、作業服姿でヘルメットをかぶっているおじさんの銅像があります。 その台座には「貞雄の像」と刻まれているのですけど、広島の平和記念公園にある「貞子の像」とはまったく関係はありません。 その格好からして、竜ヶ岩洞の開発に関わったことは想像できると思いますけど、地元ではそこそこ有名です。それから、今回の日記のカテゴリーが「人物伝」になっているということは……… そうです 今回はこちらの戸田貞雄さんを採り挙げさせていただきます。彼のことを掘り下げていくためにも、竜ヶ岩洞とその出口に直結している洞窟資料館に入っていきたいのですけど………



その間、ワンコは入場券売り場に頼めば、その横にあるワンコ預かり所に無料で置いていけるようになっています。 そのカギはスタッフの方が持っていてくれるので、安心して洞窟や売店を散策することができるのですよ。 それよりも、いつの間にか箔のケージが「直親の館」、波のほうは「直盛の館」となっていましたよ。とにかく私の取材が終わるまで、箔波ちゃはそこでおとなしく待っていてくださいませ。



竜ヶ岩洞の売店では、「竜ヶ岩洞物語」という漫画が販売されています。 最近増補改訂(ページ数増し)されたのですけど、価格は500円(税込)のまま据え置かれました。気になるその内容は………



戸田貞雄さんを中心とした、竜ヶ岩洞の開発記なのですけど、その中では彼の生いたちについても触れています。
貞雄さんは明治40年(1907年)10月に、静岡県引佐郡奥山村(現在の浜松市北区引佐町)に生まれました。彼が小さい頃に父親の店が倒産したこともあって、貧しい生活を余儀なくされました。昭和19年(1944年)8月には軍に召集されて中国に渡り、終戦後もしばらくはそちらで過ごしました。その後は材木業を営み、さらに58歳の頃には観光事業に携わり、奥山方広寺の門前に桜の名所としても知られている奥山公園を、その上にはキジ料理やジンギスカン鍋が食べられる山の家(きじ亭)を、そのまたさらに山の上には箔波日記にも出てきた奥山高原を、それぞれ整備しました。



その一方でその頃、現在竜ヶ岩洞がある竜ヶ石山のあたりは、殺風景な採石場の跡でした。 この状態では、戦隊ヒーローものの決闘シーンぐらいにしか使えませんよね。以前からそこには鍾乳洞があると云われていたのですけど、本格的な調査はされていませんでした。写真の左下のあたりに、それっぽい穴があるのがおわかりでしょうか?
貞雄さんはその山の一帯を買い取り、「私を育ててくれたこの地域に、恩返しをしたい」と、観光地化して客を呼び込むするためにも、洞窟の調査を始めることにしました。 それは昭和56年(1981年)6月、彼が74歳のときのことでした。



洞窟の調査は暗くてジメジメして気味が悪いということもあって、賛同してくれる人はなく、まわりにも反対され、貞雄さんは単独でやることに。 しかし1人だけでは、なかなか作業は進みませんでした。
そういえば、私は小さい頃に父から「変わり者のおじいさんが、洞窟を掘っている」という話を聞いたことがあります。



そんなある日のこと、ケービング(洞窟探検)を趣味にしている小野寺竹内という2人の青年が、竜ヶ石山の洞窟内にこっそりと潜り込み、その先で彼らは鍾乳石のある鍾乳洞を発見しました。 その帰り道で、たまたま彼らと行き会った貞雄さんは「君たち、そこで何をしているんだね?」と質問してきました。「この山の持ち主でしたか スミマセン、無断で入ってしまって 」彼らは怒られると思ったのですけど「穴の中には何かあったのかい?詳しく聞かせてくれないか」 貞雄さんは目を輝かせて食い付いてきました。それ以来、小野寺と竹内は貞雄さんとともに洞窟の調査をすることになりました。



強力な味方をつけたこともあって、狭い隙間に潜り込んだり、溜まった土砂を掻き出したり、……… と、調査は順調に進んでいきました。 さらにその後にあった新たな発見も手伝って、協力者は増えていきました。



そして、彼らは鍾乳洞の最深部で落差30mの洞内滝を発見したのです。 その頃の貞雄さんは資金繰りに困っていたのですけど、その滝を地元の銀行員に見せたら「これは観光客を呼び込める」融資がまとまりました。 そして………



調査を開始してから約2年後の昭和58年(1983年)8月8日に、竜ヶ岩洞はオープンしました。 竜ヶ石山にあるのですけど、貞雄さんは敢えて「石より岩のほうが重みがある」と、「竜ヶ岩洞」と書いても「りゅうがしどう」と読む名前にしました。
そのオープン当日、駐車場に入りきれなくなるほど観光客が押し寄せ、まわりののどかな山間部の田舎道が渋滞を起こすほどだったそうです。



それから3年後の昭和61年(1986年)9月10日、戸田貞雄さんは78年の生涯を終えました。奇しくも、私たちが竜ヶ岩洞を訪れたのは、彼の命日となるその日でした。しかし、それっぽい行事のようなものはおこなわれていませんでした。オープンから30年を過ぎ、現在竜ヶ岩洞の所長職は貞雄さんの孫が受け継いでいます。



生前の貞雄さんは、「サーチャ」という愛称で呼ばれていたみたいですね。頑張り屋のサーチャ。実は、そんな彼をより身近に感じられる肖像が、銅像の他にももう1ヶ所あるのですよ。 「顔ハメ大賞に輝く」という「日本一の顔ハメ」とは………



こちらのことにございます。 竜ヶ岩洞の開発作業に勤しむ貞雄さんと、お手伝いのお婆さんの姿を描いた、この書き割り。ヘルメットが半分出ているところも、よりリアルです。それから、それらはちょっと奥まったところにあるので、さらし者になる心配もほとんどありません。このような配慮も、日本一に起因しているのかも知れません。 そんな貞雄さんとお婆さん(妻ではない)に敬意を表して………



まずは箔に貞雄さんになりきってもらいました。顔を出した瞬間、まわりから「わぁ~、カワイイ」という声が聞こえてきたのも、嬉しいですね。



そうしたら、次は波婆さんの出番です。今回は私1人が連れてきたので、いっぺんにはできませんでした。それでも、これはけっこうハマりますよ。



あとは、売店で買ってきた地元産の引佐牛乳を使ったアイスを食べて、締めることにしましょう。 戸田貞雄さんらが開発した歴史を知ると、竜ヶ岩洞は今までとはまた違ったように見え、ありがたみも増します。こちらでは、今日に至るまでに様々なドラマがあったのですね。 「竜ヶ岩洞物語」にはそれらの話が詰まっていて、読み進めていくと、彼らの熱い思いも伝わってきます。こちらでしか扱ってないので、竜ヶ岩洞にお越しになったらぜひ1冊お求めくださいませ。


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小野但馬守政次の最期

2017-09-23 00:20:29 | 人物伝
こんばんは、白黒茶々です。
早いもので、今年は残すところ3ヶ月ちょっととなってしまいましたね。 それに伴って、大河ドラマ「おんな城主 直虎」も終盤に入っていきました。 高橋一生さん演じる小野但馬守政次は、一見悪役のようでしたけど、内に秘めたものがあって、いろんな意味で気が置けない存在でしたね。



そんな難しい役を好演した一生さんも、素晴らしいです。 そんな彼が処刑されてから、1ヶ月ほど経ちますけど、政次ロスに襲われた方は立ち直ることができたでしょうか?
………ということで、今回はと一緒に井伊谷の小野政次に関連する場所を訪ねつつ、彼がどのような人物だったのか、史実と伝承、さらにはドラマで描かれた姿などから迫ってみようと思います。 ということで、私たちは浜松市北区引佐町の井伊谷方面に向かっていったのですけど………



通り道だったので、北区細江町気賀に設けられた大河ドラマ館にも寄っていきました。 こちらでは、ドラマ内で小野政次が退場したことにより、政次ロスに見舞われた女性ファンのためにも、ロケで使われた彼の衣装や囲碁、高橋一生さん直筆の辞世の句などの「政次メモリアル」が展示されるようになりました。 ただし、ワンコを連れて入ることはできないので、私たちは外から建物を見るだけとさせていただきます。



冷やかしが済んだら、隣接地にある気賀関所に入っていき………



取り締まりもなんのその、構内をグイグイと進んでいったら………



そのまた先にある田空直虎ショップの前では、ちょうど出世大名家康くんと出世法師直虎ちゃんによるグリーティングがおこなわれていました。 「実は、最初からコレを狙っていたのでは?」ですって?………はい、正直言って一緒に写真に写りたくて、事前に彼らが活動する時間をチェックしてから来ました。



おかげで、いい感じで撮ることができましたよ。 実は私たちは、先月の上旬にも家康くんや直虎ちゃんたちと記念撮影をしていたのですけど、今回は私がいないバージョンでお願いしました。
いきなり脱線してしまいましたけど、今度こそ本当に小野政次に迫りますよ

小野但馬守政次(道好)は生年は不詳なのですけど、井伊家筆頭家老の小野和泉守政直(道高)の嫡男として生まれました。小野家は京都の貴族につながる名門で、小野小町を輩出した小野家の庶流でした。 遠江国赤狭郷小野村(現在の浜松市浜北区尾野)を領していて、井伊直宗(直虎の祖父)が井伊谷の領主だった頃に、井伊家に仕えました。



とかなんとか言っているうちに、私たちは井伊谷にたどり着きました。 ちなみにこれは、井伊谷城の中腹から龍譚寺方面を臨んだところです。
小野家は井伊家の筆頭家老とはいっても、駿府の今川家のほうにより従属していて、井伊家の様子を頻繁に報告していました。 つまり、今川家のスパイ的存在だったのです。そして小野政直の代になって、井伊家直系の直盛の一人娘・おとわと、分家の直満の嫡男・亀之丞を結婚させ、井伊家を継がせることになりました。大河ドラマでは、鶴丸(幼少期の政次)が彼らの幼なじみとして登場したのですよね。



さらに、井伊氏居館跡に行き着きましたよ。こちらは井伊谷城の麓に位置していて、井伊谷領の政務や井伊家の通常の住まいとして機能していたと思われます。
しかし政直は、亀之丞とおとわの結婚には反対。それを阻止するために、今川家の当主・義元に「直満に謀反の動きがある」と讒言(デマの報告)をしました。ドラマでは、義元役の春風亭昇太さんが白塗りの顔で、家臣らに無言で直満殺害を指示!あのシーンは大迫力でしたね。



井伊氏居館跡の片隅に、その直満と直義の兄弟の墓となる、井殿の塚があります。あの場面では、直満は直義と一緒に惨殺されたのですけど、ドラマでは直満一人だけで、ドラマのエンディングの直虎紀行でも、直義に関しては一切触れませんでした。
直満亡きあとは亀之丞の命も狙われ、彼は信州にまで逃走したのですよね。そのあと政直は病没し、政次が彼のあとを継ぐことに。しかし、政次も今川寄りということもあって、井伊家の家臣たちと対立し、常に孤立していたそうです。



私たちはこの日、奥山家にゆかりのある奥山方広寺にも行ってきました。
政次は、義理の父にあたる奥山朝利を殺害。 ドラマでは正当防衛ということになっていますけど、その裏には人間関係が複雑に入り組んでいたのかも知れません。

桶狭間の戦いの後、亀之丞は信州から帰還し、元服して直親と名を改め、井伊家を継ぎました。しかしそんな直親を、今度は政次が陥れることに。今川家の次の当主となった氏真に「直親が今川家を見限って、三河の徳川家康と内通している」と讒言したのです 氏真は「これはけしからん 」と臣下の朝比奈泰朝に、直親討伐の軍を送ることを命じました。その潔白を証明するために、直親は丸腰で駿府の今川館に向かったのですけど、その途中の掛川城下で、泰朝らによって惨殺されてしまいました。それだけでは済まず、直親の遺児の虎松まで命を狙われることに。政次、親子二代でなんてことをするんだ



この手製と思われる人形は、井伊直虎でしょうか?
虎松は、井伊家家臣の新野左馬助の助命嘆願などがあって、なんとかして命を救われ、女城主となった直虎のもとに庇護されました。 しかしその4年ほど後に、再三にわたる今川家からの要求により徳政令を受け入れ、直虎らは井伊谷を追われることに。そんな彼女らに代わって井伊谷城主となったのは、小野政次でした。彼が井伊谷を乗っ取ったという形になるのですけど、わずか34日後には徳川軍が進攻してきて、政次は逃走



その後捕らえられ、かつて処刑場があった………  あれっ?
私たちは当たりをつけて、その処刑場跡に向かったのですけど、なんか違うみたいですね。 ちなみに正しい場所は、他の所にその案内図がありました。



なんとかして、たどり着きましたよ。 政次はこちらの蟹淵(がにぶち)で磔にされ、絶命しました。彼の処刑は、石の上に座らされ、首を跳ねられたという説もあります。 永禄12年(1569年)4月7日のことでした。その処刑場跡には、地元の住民たちによって政次の供養塔が建てられたのですけど………



それらは近年の河川改修によって、そこから程近いところの現在地に移されました。 ドラマでは、政次は直虎への想いを秘め、独身を貫き通したことになっているのですけど、実際には彼には妻や2人の息子がいたのですよ。政次の死から1ヶ月後には、彼の息子2人も同じ場所で処刑され、彼らの墓や供養塔も同じところに建てられています。 私たちがいる間、高橋政次ファンと思われる女性が数人こちらを訪れ、手を合わせていきました。

記録上の小野但馬守政次は、今川寄りの父のスタンスを受け継ぎ、義理の父の奥山朝利を殺害し、井伊直親までも死に追いやり、徳政令にかこつけて井伊谷領を乗っ取り、………と、とんでもない悪人ということになっています。 しかし、高橋一生さん演じるドラマ上の政次は、それらの行動にはそれぞれに深い理由があって、実は井伊家を守るために彼一人が悪者の皮をかぶったという、いわゆる損な役となっていました。たとえ疑われても、決して言い訳や言い逃れをしなかった、高橋政次。彼がときおり見せる、憂いを帯びたどこか寂しそうな表情も、女性ファンの心をグッと掴みました。



せっかくなので、箔と波もお詣りしておきなさい。
そもそも政次のことを伝える記録も、彼にとっては仇に当たる徳川方が記したものなので、事実とは違っているのかも知れません。 「死ねばみな仏」という思想や彼の祟りを恐れたのかも知れませんけど、小野政次が井伊家にとって反乱分子の極悪人だったら、地元の住民たちによって供養塔や彼を祀る祠が建てられるようなことはなかったと思います。さらに、それらには「小野政次のものと伝わる」という冠詞が付いていて、井伊谷が徳川家の支配下になった手前、あからさまに政次の名前を出せなかったとも考えられます。

それから、政次と息子2人は処刑されてしまいましたけど、彼の弟の玄蕃の子らによって小野家は受け継がれていきました。現在、彼らの子孫は浜松市浜北区にいるそうです。

最後に「おんな城主 直虎」の第33話「嫌われ政次の一生」の高橋政次の処刑シーンを振り返らせていただきます。このタイトルは昔の映画の「嫌われ松子の一生」をパロったものですよね。 しかも「政次の一生(いっせい)」って、高橋一生さんの名前も入れるなんて、粋なこともしていますし。
※それは違うのでは。(編集部注)



処刑場で磔にされた政次(高橋一生)。彼の処刑がまさに執り行われようとしたそのとき、直虎(柴咲コウ)は槍を奪い取り、躊躇することなくそれを政次の胸に突き刺すという衝撃的な展開となりました。



「地獄に落ちろ 小野但馬」
それにしても、スゴい形相です。 さらに彼女は「日の本一の卑怯者と未来永劫語り継いでやるわ」と続け………



それに対して政次は、血を吐きつつも「おなご頼みの井伊に、未来などあるものか 地獄の底から………見届け………」
両者のやりとりは、罵り合っているようにしか聞こえませんけど、実は思っているのとは反対のことを言っていたのでした。
ドラえもんの道具のウソ800を飲んだのび太君が「うれしくない。これからまた、ずうっとドラえもんと いっしょに くらさない。」と言ったのと同じです。それでも、お互いの気持ちは通じていて、「おんな城主 直虎」のほうは究極のラブシーンとも捉えられるのですよね。



それよりも、近藤康用のマユ毛が太すぎ
三浦春馬君の井伊直親が太陽だったのに対して、高橋一生さんの小野政次は月に例えられていました。 しかし、春馬君が演じる直親が決してイマイチだったというワケではなかったのに、彼がドラマの中で殺害されても、直親ロスの動きはあまりなかったのですよね。実在の小野政次が亡くなってから450年近く経ってから、このような形で生きざまが見直されて、彼はきっと喜んでいると思います。


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