波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

岡崎公園にサモエド大集合!それとスピッツも

2023-02-25 01:24:53 | ワンコイベントの類

こんばんは、白黒茶々です。

前回からの続きで、私は、とともに岡崎市に来ています。 その日はサモエドの集会に呼んでもらっていたので、その集合場所となる岡崎公園に向かいました。

………ということで、やって来ましたよ 岡崎公園の北側の入口にある模擬大手門の前に。 私たちがこちらを訪れるのは昨秋の犬市場の時以来なので、約3ヶ月ぶりとなります。

その門を潜った先にある三河武士のやかた家康館は、「どうする家康」の放送に合わせて大河ドラマ館に改装されていました。 それに加えて、ドラマではちょうどこちらの岡崎城が舞台となっていることもあって、前回私たちが来た時より来訪者が増えていました。

大河ドラマ館と一緒に、復興天守も化粧直しと展示内容の一新がおこなわれました。 その中身が気になるのですけど、今回はワンコ連れなので外から眺めるだけにしておきます。

こちらのお城は徳川家康公が生まれたところでもあって、彼の銅像があります。 さらに、松平元康の頃の姿をイメージした石像や、三方ヶ原の敗戦直後のしかみ像を立体化した石像も。

そうそう公園内にはもう1体、家康公の像といえるものがありましたよ 二の丸跡に設置されているからくり時計は、30分おきに家康人形が舞を踊るのですよ。 そしてそれは彼の遺訓の一節の「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし~」で締められます。

あと、今回の集合場所となる花時計も、大河ドラマを意識して葵の御紋をイメージしたデザインとなっていました。 ちなみにその向こうに見える黒い箱のような建物は、みやげショップのおかざき屋と観光案内所にございます。 前置きがかなり長くなってしまいましたけど、その頃には………

すでにたくさんのサモエドが集まっていました。 この段階で、私の処理能力は追い付いていないのですけど………

私たちの近くの豊橋市に住んでいて、ずっと逢いたかった仔サモの蓮君が来ていました。

同じく、仔サモのまゆちゃん 前回逢った時は生後2ヶ月だったのですけど、5ヶ月になっていました。

そのまゆちゃんと同じ岡崎市の地元民のアルバス君は、男らしさに磨きがかかっていました。

フェリシテちゃんとも、久しぶりに逢うことができました。 彼女の姉犬で、白黒茶々家とは箔がいた頃から交流していたマーシャちゃんは、昨年のクリスマスの日に旅立ってしまいました。

そのような中に、晴れ着で着飾った茶々丸ちゃんが姿を現しましたよ しかもワンコ用の既製品ではなく、オーダーメイドで仕立てたときたもんだ 髪飾りも含めて、よく似合っていますよ

さらに、サモエドのノエル君とともにこはくちゃんもやって来ましたよ 彼女は波狛を除いて、この日唯一のスピッツとなりました。

大人数でわちゃわちゃしている間に、私たちはたまたま近くにいた葵武将隊のメンバーを捕まえて、一緒に写真に写ってもらいました。 ちなみに、長い槍と大きな数珠がトレードマークのこちらの武将は、本多(平八郎)忠勝殿にございます。 彼の銅像が後ろに写っているのも、おわかりでしょうか?

金陀美具足を身に付けているお方は、いちおう徳川家康公ではあるのですけど、こちらではグレート家康公とお呼びくださいませ。 代が変わって若いイケメンとなったのですけど、箔母さんは今でも初代の年配者だった頃の家康公を推しています。

3人目は、榊原(小平太)康政殿にございます。 失礼ながら顔を見ただけではわからなかったのですけど、背中の家紋から彼の名前が判明しました。 ちなみに「どうする家康」では、杉野遥亮さんが好演しています。 そんな康政殿も巻き込んで………

この日集まった全てのサモエドとスピッツで、集合写真を撮りました。 まさか、これほどまでに膨れ上がるなんて 大きなサモエドが、かなり小さくなってしまいましたよ。 それが済んだら………

公園で居合わせた観光客の目を引きながら、本丸跡まで大移動することになりました。 持仏堂曲輪跡から復興天守復興井戸櫓を仰ぎつつ、歩いていき………

本丸の入口の撮影スポットで、写真を撮りました。

そして白ふわの一行は、本丸跡に至りました。 こちらでも、参加者たちと積もる話をしたりしました。 そうしている間に………

今回参加したサモエドのパピーたちと一緒に、写真を撮らせてもらいました。 彼らは生後5ヶ月ぐらいなのですけど、すでに波と狛を超えていました。 小さいのに、大きいというか……… 一時期、スピッツをやめてサモエドの子供になろうと思ったこともあったのですけど、どうやってもムリでした。 それはさておき、楽しい時間はあっという間に過ぎ、1頭、また1頭と帰っていって、今回の集まりは自然解散となりました。

私たちにとっての今年初サモは個別ではなく、大きな群れとなりました。 今回集まった白ふわの皆さん、ご一緒してくださりありがとうございました。 それから、私たちが今年の始めに幸公園で空振りしたことを気にかけて、今回の集まりに声をかけてくださったルーチェママさんも、心から感謝しています。


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八柱神社にありました。

2023-02-22 02:19:51 | お出かけ

こんばんは、白黒茶々です。

サモエドのお友達に声をかけていただいて、1月最後の日曜日となる29日に岡崎市の岡崎公園で集まることになりました。 その頃はウチのMPVは走行不能の状態だったので、実家の車を借りてそいつにを乗せて行くようにしました。 しかし、まっすぐ目的地に行くのもナンなので………

私は朝から家を出て、豊橋市民病院の近くにあるミックスベリーさんというお店に寄っていきました。 こちらでの目的は……… もう謎かけ(?)する必要もないかも知れませんけど、もちろんモーニングですよ

きれいでモダンなその店内は、お年寄りや家族連れなど、年齢層を問わずたくさんのお客で賑わっていました。

そうしたら、メニューを決めなければ ドリンク代のみで食べられるレギュラーモーニングだけでも、内容は充実していますね。 それから間もなくして………

モーニングのセットが運ばれてきましたよ 半トーストにゆで玉子、サラダが乗った皿はレギュラーモーニングで、ブレンド珈琲(440円)に付いてきました。 それらに私は、単品のおにぎり(100円)をチョイスしました それらの中では特におにぎりが美味しくて、米の味はもちろんのこと、程よい柔らかさで握られていて、具の鮭との相性もバッチリ その食感は食べたあとも心に残り続けました。 ミックスベリーさんはカレーのお店でもあるので、今度はお昼以降に行って、そちらのメニューも食べてみたいです。 お腹も心も満たされた私は、波と狛が待っている車に乗り込み、そのまま岡崎市内に入ったのですけど………

まだ岡崎公園には到達していません。 道の駅藤川でトイレ休憩していき、その近くにある徳川家康公の石像で記念撮影をしておきました。鷹狩りの時の姿を刻み込んでいるのですけど、足がないところからモビルスーツのジオングを連想したのは、私だけでしょうか?

さらに私たちは、こちらも岡崎市内となる東公園に寄っていきました。 ちなみに後方に見えるのは、本多(平八郎)忠勝の子孫の忠次氏が昭和初期に東京の世田谷に建てた邸宅(旧本多忠次邸)です。 あとで時間に余裕があったら、その内部も見ておきたいですね。 私たちはそこから近いといえなくもないところにある………

八柱(やはしら)神社まで歩いていきました。 鳥居をくぐった先には石段が続いていて、厳かな雰囲気があります。 創建した年は不明なのですけど、伊勢神宮の系列とのことです。

私たちはその拝殿を参拝してから、記念撮影をしました。 画像からはわかりにくいのですけど、この建物の瓦や破風飾りなどには、徳川家の家紋の三つ葉葵が飾られています。

せっかくなので、久しぶりに「狛(犬)と狛」をやっておきました。 なんか、だんだんと似てきていると思いませんか?

その拝殿や本殿の西側の森に至る道には、このような案内看板が立てられていました。 実は、私たちはこの「築山御前塚」を目当てにして、こちらの神社に来たのですよ。 その案内に従って歩いていったら………

「築山御前塚」と呼ばれる築山殿瀬名)の首塚がありました。

徳川家康は元亀元年(1570年)に築山殿と長男の信康を岡崎城に残して、浜松に移り住みました。 信康は織田信長の娘の徳姫五徳)と結婚したのですけど、のちに彼女と築山殿との間で嫁姑戦争が勃発したと云われています。 信康と徳姫との間にはなかなか世継ぎが生まれなかったことから、築山殿は信康の側室の選定を始めました。 それによって、信康と徳姫夫婦も不仲になったとも。 それらのことに堪えかねた徳姫は、父の信長に彼らへの恨み辛みを綴った十二ヶ条の訴状を送りました。
その内容は、築山殿の陰謀で自分たち夫婦は不和にさせられた。築山殿は医師と密通している。築山殿は武田と通じている。信康は徳姫の侍女・小侍従を殺した。信康は踊り子の衣装が悪いと踊り子を殺した。信康は僧侶を殺した。………などといったものでした。

その結果信長は家康に、築山殿と信康を処分することを命じたというのですけど……… いくら「魔王」と呼ばれた信長でも、同盟関係にある家康にそこまで踏み込んだことをするのでしょうか? いや「どうする家康」では、信長は家康にかなり無茶ぶりをしているので、そのドラマではこの路線でいくかも知れません。 ただし、十二ヶ条の訴状は後世の創作だということが判明しているので、築山殿と信康は岡崎派と浜松派の対立の犠牲になったという説が有力です。

浜松の佐鳴湖畔で家康の家臣たちによって殺害された築山殿の首は、安土の信長のもとに届けられ、検視されてから岡崎市内にある祐傳寺に埋葬されました。さらに八柱神社に改葬され、現在に至ります。
そういえば、私たちはほんの2週間前に西来院の築山殿のお墓(霊廟)をお参りしたばかりでした。ちなみに徳川(松平)信康のほうの首塚は、八柱神社から近いといえなくもない若宮八幡宮に、お墓は浜松市天竜区の清瀧寺にあります。 できたらそれぞれの場所をセットで訪れておきたいです。

ハ柱神社のお参りを済ませてから、私たちは東公園に戻ったのですけど、時間に余裕がなかったので、旧本多忠次邸の見学は泣く泣く断念することにしました。 そのようにして、この日の目的地となる岡崎公園の来訪者用にもなっている、岡崎市図書館交流プラザりぶらの駐車場に至りました。 そうしたら………

すでにその場所で、サモエドのお仲間がわちゃわちゃしていました。 「はっ、写真を撮らなければ 」と私が我に返った時には、かなりバラけてしまいましたけど、みんなして本来の集合場所に向かうことになりました。 そこに現れる子もいるので、サモエドの群れがどこまで膨れ上がるのか楽しみですね ということで、次回はお城での白ふわ祭りの様子をお伝えします。



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MPV立ってくれ!(逆走・家康の散歩道その3)

2023-02-18 01:07:13 | お出かけ

こんばんは、白黒茶々です。

前回の日記のラストで、私たちが乗ってきた車が動かなくなりました。 しばらく置いておいたら直ったこともあったので今回もそうなることを信じて、その間に逆方向から攻めていった「家康の散歩道」の散策の続きをすることにしましょう。 私たちが戻ってきた頃には、どうか動いてくれ~

………と願いつつ、向かったところは浜松城でした。 年を跨いだ3週間前に来たばかりなのですけど、実は今回はこちらで試してみたいことがあったのですよ それは何かといいますと………

テレビCMや新聞記事に出ていたのですけど、T社のアプリをダウンロードして、それに登録してあるお城に直接行ってスマホをかざすと、VRで昔の姿を見ることができるのですよ 徳川家康が在城していた頃の、まだ石垣や瓦葺きの建物がなかった頃の浜松城をじっくりと見てみたいですね。 では、今から皆さまをその世界に誘います

家康時代の浜松城は、現在天守曲輪となっているあたりは詰の曲輪とか呼ばれていました。その頃から、天守門と同じ場所に櫓門があったみたいです。

さらに、その曲輪を俯瞰してみました。 そこには御殿のような建物があって、実際に家康が住んでいたと思われます。

………と、そのアプリには静止画と解説は出てくるのですけど、CMのように好きな角度から眺めることはできませんでした。 やり方がよくわからないので、どなたか時空を越えて、その時の私に教えてやってください。

そうしたら、そろそろ愛車を置いてきた普門寺さんに戻ることにしましょう。 私たちは行きとは違うルートを辿って、浜松城公園の北西にある亀山トンネルをくぐっていくようにしました。

こちらは昭和39年(1964年)まで走っていた軽便鉄道の奥山線の軌道だったところで………

現在はレンガのトンネルを徒歩や自転車で通ることができます。 けっこう長いのですけど、綺麗でおしゃれで照明で明るくなっているので、霊的な怖さは感じられません。

とかなんとか言っているうちに、出てきてしまいました。 この日の散策は、これにて終了となります。

………ということで、再び普門寺さんにやって来ました。 どうか愛車のMPVが、再稼働しますように~

………と願いつつ、スイッチを入れてみた結果……… 動きませんでした。 ギアを動かしたり、念じ方を変えてみたり、………と、いろいろと試してみたのですけど、ダメでした。 だんだんと暗くなってきたので、こうなったら明日の朝まで車中泊を……… なんてことをしたら、お寺に迷惑がかかるので賢明な処置をしなければなりません。
まずは、この車の整備や車検を任せている、私の親戚が営むモータースに電話をかけてみました。 ところが、日曜日で休みだったので出てくれませんでした。 それならば、近くのマツダのディーラーに助けを求めてみましょう。 その結果は「レッカーなどで店まで運んできてくれないと、対処できない」とのことでした。

そういうことならやむを得ません。 このままここで車中泊を……… じゃなくて、このような緊急事態に対応してくれる業者を、スマホで検索してみましょう。 そうしたら「出張費無料」を謳うところが出てきましたよ さっそくそのフリーダイヤルにアクセスしたら、すぐに駆けつけてもらえることになりました。 まずはバッテリー切れと読んで、ブースターに繋げる処置をすることになったのですけど……… 「○万○千円を現金でいただきます」と言うではありませんか バッテリーに繋ぐだけで、そんなに取るなんて。 それよりも、今の私はそんなに持ち合わせていませんよ。 その旨を業者に伝えたら、今の話はなかったことにされてしまいました。 スマホのバッテリーも切れかけてきましたし、万策尽きてしまったのか

考えた末、私はお寺の方に事情を話して車を一晩置かせてもらい、この日は箔母さんに迎えに来てもらうことにしました。 この日は一旦引き上げ、翌日になれば何らかの対応ができると思ったのです。 幸い、お寺さんは了解してくださいました。 あとは箔母さんのほうですけど、普門寺さんは住宅地の入り組んだところにあって、初めて来たら迷う恐れがあるので、もっとわかりやすい場所で合流することにしました。 その際には波と狛だけではなく、彼女らを入れてきたクレートも持っていかなければなりません。 箔母さんが到着するまでまだ時間がありますし、トイレにも行きたかったので………

私たちは再び浜松城公園に行きました。 その頃には雨が降ってきたのですけど、ライトアップされた模擬天守を見ることができました。 ちなみに箔母さんと待ち合わせるのは、公園を出たところの交差点付近。 そのままその場所に向かったら、すぐに見覚えのある車が入ってきました。 なんと、両者とも同時にその場所に到着したのです これは仏様のお力によるものでしょうか?
その翌日、MPVは保険を使ってレッカーで私の親戚のモータースまで運び、修理できるか見てもらうことになりました。 検査の機器が届くまで数日かかり、それまで待たなければならないことに。 今回の歴史散策は思いもよらない結末となってしまいましたけど、また今までのようにMPVで巡れるようになることを願っています。


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家康の散歩道で寺院3連発(逆走・家康の散歩道その2)

2023-02-15 00:46:25 | お出かけ

こんばんは、白黒茶々です。

前回からの続きで、の白黒茶々家の1人と2頭は浜松市の「家康の散歩道」をたどっています。 しかも、逆方向から。 浜松市博物館で徳川家康のリアルしかみ像を凝視してから、私は再び波&狛を伴って、博物館からは東に1,6kmほど行ったところにある………

宗源院さんにやって来ました こちらまで歩いてきたような感じになっているのですけど、実はここだけの話、車を使ったのですよ。 こちらの寺院は住宅地の中にあるのですけど、広い境内は樹木に覆われていて、静かで厳かな雰囲気が漂っていました。

そうしたら、参道を上っていってその境内を巡りましょう。

本堂は大きくて立派ですね。
宗源院さんは山号を宝蔵山といい、普済寺13派のうちに数えられる曹洞宗の寺院です。 応永23年(1416年)に在天弘雲和尚によって開創されました。 室町後期には、今川義元の庇護を受けました。
さらに、徳川家康が浜松に在城している間、彼は境内の東南一帯にあった的場で、弓の稽古に励んでいたそうです。

案内板がなかったらわかりにくいのですけど、檀信徒会館の庭の塀に沿った細道を、奥まで進んでいくと………

一般とは違う墓所に至ります。 その中には………

三方ヶ原の戦いで家康を逃がすために討ち死にした、家臣の成瀬正義のお墓があります。 私がここに来たのは23年ぶりで、その時と同じように手を合わせてから、次の目的地に向かいました。 ということで、宗源院さんからは東に400mほど行ったら………

西来院さんに行き着きました。 歩いていっても5分程度なのですけど、今回は車で来ていたので。 それはさておき、こちらも住宅地にありながらも、木々に囲まれていて落ち着いた雰囲気の中にありました。 参道をずいずいと進んでいくと………

かつては木造の立派な本堂があったのですけど、昭和20年(1945年)の空襲で焼失してしまい………

現在は、鉄筋コンクリートのモダンな建物となっています。
西来院さんは、山号を高松山という曹洞宗の寺院です。 正長元年(1428年)に月窓義運禅師が開山しました。 さらに、本堂の西には………

前の日記でも触れたのですけど、佐鳴湖畔で不遇の死を遂げた築山殿瀬名)の霊廟の月窟廟がありました。 殺害されたあと、彼女は西来院に葬られたのです。 この建物も本堂とともに戦災で失われたのですけど………

築山殿の400年忌となる、昭和53年(1978年)に復元されました。

「どうする家康」はまだその段階までいっていないのですけど、この日こちらには築山殿を偲んで来る人がいくらかいました。 有村架純さんが演じる瀬名には死んでもらいたくないのですけど、そのあたりのことがどのように描かれるのか、とても気になります。 その頃になったら、泣きながら参拝に来る人が殺到するかも知れませんね。
さらに私たちは、そこからは東に370mほどで、余裕で歩いていけるのですけど、またしても車に乗って………

普済寺さんに来ましたよ こちらには立派な山門がありますね。 あとになって知ったのですけど、この建物は市内の北区引佐町にあった金指陣屋から移されたそうです。 ただし、この門は通れないようになっているので、脇に設けられた通路から入っていくと………

総門が見えてきました。 こちらの門は江戸時代初期に建てられ、現存しています。 しかし柵で丁重に囲まれているので、こちらも潜ることはできないのですよ。 さらに山門、総門と連なるようにして………

雲夢橋(うんぼきょう)という、古そうな石造りの橋があります。 こちらは江戸時代中期に造られたもので、県内最古。
普済寺さんは正長元年(1427年)に華蔵義曇(けぞうぎどん)和尚が、現在の同市中区寺島町に随縁寺を建立したのが最初となります。 その後、永享4年(1432年)に現在の場所に移され、広沢山(こうたくさん)普済寺と称するようになりました。 その頃、普済寺さんは遠江一帯における曹洞宗の拠点となって、禅宗が広められました。
かつての普済寺さんは「広沢」の名にふさわしく水の澄んだ池があって、月の名所としても知られていました。 しかし、現在はその面影はほとんど見られず、わずかに雲夢橋が残るのみです。

その雲夢橋の後方には、昭和39年(1964年)に鉄筋コンクリートで再建された本堂があります。
普門寺さんは元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いの際に、浜松城が炎上したと見せかけて武田軍を油断させるために、焼き払われました。 それに先立ってご本尊や寺宝を運び出したり、再建の約束をしておいたと思われるのですけど、このような形で徳川家康と関わっていたのですね。 そんなちょっと気の毒なお寺の歴史を偲びつつ、次の目的地に向かうために車に乗り込んだら………

あれっ、エンジンがかからない。 何回やっても動かなかったのですけど、実はその10日前にも同じようなことがありました。 その時は、一晩放っておいたら復活し、その後は普通に乗れたので、今回もきっと大丈夫でしょう。 そうしたら、しばらくお寺に車を置かせてもらって、その間に近いといえなくもないところにある、次の目的地まで歩いていくことにしましょう。 (続く)



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そうだ!家康の散歩道を歩こう(逆走・家康の散歩道その1)

2023-02-11 02:00:02 | お出かけ

こんばんは、白黒茶々です。

大河ドラマ「どうする家康」は2月の時点では、松本潤さん演じる松平元康(のちの徳川家康)は、生まれ故郷の岡崎を拠点にしています。 彼はそこに10年程滞在した後、元亀元年(1570年)からは浜松に移り住むことになります。 地元がその舞台となることもあって、こちらは大いに盛り上がっています。 その浜松には、徳川家康に関するスポットがたくさんあり、今から23年程前にはそれらを巡る「家康の散歩道」というウォーキングのコースが作られました。 実は、そのコースができた際のウォーキングイベントに、私は参加したのですよ その後、新たなスポットが追加されたり、「合戦ルート」「城内・城下ルート」の2つに分けられたりしたのですけど、今回は久しぶりにそれらの土台となったルートを巡ります。 しかも、本来ゴール地点となっていたところから逆走して。もちろん、にも付き合ってもらいますよ

………ということで1月15日の日曜日に、私たちは浜松市の佐鳴湖に程近い富塚というところにやって来ました。 案内板にもあるのですけど、これから太刀洗の池というところに向かいます。
「どうする家康」のネタバレになってしまいますけど、築山殿瀬名)は織田信長から謀反の疑いをかけられ、天正7年(1579年)8月29日に岡崎から移送中のその地で、家康の家臣たちによって斬殺されてしまいました。 刀についた血を洗った池は、のちに太刀洗の池と呼ばれるようになったのですけど………

その跡に設けられていたモニュメント的なものには、近付けないようになっていました。

これまでは浜松医療センターの駐車場の一角にあったのですけど、そこに新たな病棟を増設することになったのですよ。 私はそのことは知っていたのですけど、工事がどこまで進んでいて、太刀洗の池がどのように扱われているのか確認したかったのです。

せっかくここまで来たので、出世大名家康くん出世法師直虎ちゃんが描かれている工事現場の壁の前で、写真を撮っておきましょう。 その建物が完成したら、せめて太刀洗の池の跡を示す何かを設けてもらいたいです。

そのあと、私たちは蜆塚遺跡に向かいました。 こちらは縄文時代晩期の集落の跡で、国指定史跡。 現在は史跡公園となっていて………

掘立て式の住居が復元されています。 そのうちの数棟は日中は開放されているので………

「内部を見てみたい」という方のためにも、入ってみました。 実は、こちらは徳川家康ゆかりの地ではないのですけど、公園の一角にある………

浜松市博物館が「家康の散歩道」のコースに入っているのですよ もちろん、ここまで来たら館内も見学していきます。 その間、波と狛は車の中で休憩していてくださいませ。

博物館を入ってすぐのところでは、浜松市内で化石が発見されたナウマンゾウの骨格標本がどど~んと出迎えてくれます。

さらに蜆塚遺跡で発掘された、屈葬された縄文人の人骨も。 展示は旧石器時代から始まり、縄文時代、弥生時代、古墳時代、古代、中世、と移っていき………

近代のところでは、「おんな城主直虎」が放送された際に脚光を浴びた、井伊直虎の名前と花押が記された「井伊直虎・関口氏経連署状」(の複製)が展示されています。

さらに、特別展示室では9月24日まで「家康伝承と浜松」というテーマ展が開催されているのですよ しかも、博物館の通常の料金で入れるときたもんだ 気になるその内容は………

後世に描かれた「徳川十六将図」がありました。酒井忠次本多忠勝榊原康政井伊直政の徳川四天王だけではなく、鳥居元忠平岩親吉なども入っていますね。
元亀3年(1572年)に徳川家康武田信玄と対決した三方ヶ原の戦いを中心にして、浜松には家康にまつわる伝承が多く伝わっています。 例えば、家康が三方ヶ原の戦いで大敗して浜松城に逃げ帰る途中で、空腹に耐えかねてある家でお粥をご馳走になったこととか。 彼はそのことに感謝して、のちにその家に「小粥(おがい)」という姓を与えたそうです。 それだけではなく、厠(かわや)を借りた家は「御手洗(みたらい)」としたとも。 さらに………

三方ヶ原から敗走してきた直後の情けない姿を絵師に描かせたという「しかみ像」 そいつを立体化させてよりリアルにしたものが、この博物館に常設されています。 テーマ展がおこなわれている間は、その像はこちらの部屋で見られるようになっていました。

それにしても、苦悶に満ちた表情をしておられる。 「しかみ像」の原本は、名古屋市の徳川美術館にある蓬左文庫が所蔵しています。 ところが、近年になってその「しかみ像」は三方ヶ原の敗戦直後に描かれたのではないという説が浮上してきたのです 徳川家康を神格化したかった尾張徳川家が、家康が困難を乗り越えてきたことを印象づけるために、この絵を制作したと考えられるようになったのです。 いずれにしても「どうする家康」では、その戦から逃げ帰ってきた松本潤さん演じる徳川家康がどのようなリアクションをするのか?今から気になります。


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白黒茶々家に鬼現る!

2023-02-08 00:43:59 | 年間行事

鬼は~外、福は~うち!白黒茶々です。

年間で最も寒い時季になりましたけど、皆さんは難なく過ごされているでしょうか? そんな2月に入ったら、まずは節分がありますよね。 その日は、普段はあまり口にしない太くて長い食物や豆粒を食べ、あと大人も童心に還って鬼を退治したりするのですよね。 ということで、今回は今年の白黒茶々家の節分の様子をお伝えします。
節分の一連の行事は、たつぴが仕事から帰ってきてからおこなうことになりました。 しかし彼は最近は残業が続いていてこの日も遅くなりそうなので、その間に………

白黒茶々家のワンニャンたちに鬼のお面をかぶせて遊び……… いや、正確にはかざす程度です。 最初のターゲットは、波ちゃです この困惑したような表情が、たまりませんね そうしたら………

次は、狛ちゃにいきます 静かに受け入れたと思いきや、なんとなく迷惑そうな顔をしていますね。 ま、まあ、これも年に1度ですし。

ここからは、ニャンズに移ります まずは先日11歳9ヶ月となり、茶々さんを抜いてウチのニャンズの高齢記録を更新した京ちゃです 猫の性質からして、頭の上に何かを乗せられたら落ち着かない様子です。 節分ですし、ここはなんとかお堪えくださいませ。

4番目は緑(りょく)ちゃ、アナタです ビビりな性格ながらも、なんとかここまで持っていくことができました。  曲がりなりにも、ここまでは順調にウチのワンニャンを鬼化させることができました。 あとは、晃(こう)ちゃだけです

人懐っこくて愛想のいい子なので簡単にいくと思っていたのですけど、私にすり寄ってきたりふにゃふにゃしたりして、なかなか上手く捉えることができませんでした。 それに、黒猫はうまく写りにくいですし。

粘った結果、なんとかここまで持っていくことができました。 いや、これでお許しくださいませ。 とかなんとかやっているうちに、たつぴが帰ってきました。

ちょっと遅めの21時過ぎに、節分ディナーを始めました。 そのメインはもちろん、恵方巻ですよ さらにそのつけ合わせとして、今年もそばを作ってもらいました。 皆さま、今年1年お疲れ様でした。 では、よいお年を………
※そばから年越しそばに走ってしまった茶々さんを、どなたか止めてください!(編集部汗)

そばを食べ終わったら、いよいよ恵方巻を頬張りますよ 今年の恵方は南南東やや南。この部屋では、隅っちょを眺めながら食べることになります。 では、いただきま~す もごもご………
毎年終えてから気付くのですけど、恵方巻は願い事を念じながら食べるものですよね? 押し込むことに集中し過ぎて、またしても無心でいってしまいましたっ それはさておき、節分ディナーを済ませたら、お楽しみの(?)豆まきの時間と相成ります ただし台所や居間でやると、どうしても回収しきれないので、今年はその場所を変えてみることにしました。

よく見てみたら、豆の量がかなり減っているような。 物価高騰の影響が、このようなところにまで及んでいるみたいです。 こうなったら、これからは鬼退治は豆に頼らずに、日輪刀を用意しておかなければならないのかも知れません。 とりあえず、今回はできるだけ少ない豆鉄砲でやっつけるようにしましょう。 作戦会議(?)は終わりました。あとは、鬼の登場を待つだけです

………とかなんとか言っているうちに、凶悪そうな鬼が現れましたよ とはいっても、中の人はですけど。 順番はじゃんけんに負けて……… とにかく、私が先頭に立つこととなりました。 すると、間髪入れずに豪速豆が私を直撃しました。 「いてっ 」どうやら、たつぴが残業で溜まった鬱憤を私に、いや、鬼にぶつけてきたみたいです。 このようにして、鬼1号は撃退しました。 続いては、2号の出番となります。

皆さまは、この正体はもうおわかりですよね?そうです たつぴです。 それよりも、北海道日本ハムファイターズの応援グッズのしゃけまるを武器に持っていますよ。 球団マスコットのフレップが動画で「しゃけまるで打ったり叩いたりしてはいけません 」のような注意喚起をしているのに。 そんな鬼2号に、私は豆を数発当てました。

そうしたら、鬼3号は自動的に箔母さんとなります。 彼女は黄金アナゴのぬいぐるみを装備してきましたよ とてもファンシーなのですけど、手加減はしませんよ。 鬼はそと、鬼はそと、鬼はそと~

その様子を、控え室から見ている狛ちゃ 彼は鬼の動向よりも、床に落ちている豆が気になる様子です。 こちらからは見えないのですけど、先程から波ちゃは向こうでふにゃふにゃ言っていますし。 そんな彼らを、豆まきが終わってから解き放ちました。

床に散乱した豆を、一心不乱にむさぼり喰う波ちゃと狛ちゃ。 宝探しみたいで楽しそうですけど、嗅覚などを生かして徹底的に拾っていってくれるので、私たちとしては助かります。
このようにして、今年の節分はつつがなく終わりました。 いや、あとになって思い返してみたら、鬼を撃退するのにムキになり過ぎて、またしても「福はうち」をやるのを忘れていました。 いや、すべて屋内でやったので、「福はうち」も無意識のうちに一緒に済ませていたということにして……… く、苦し~ とにかく、来年こそは恵方巻の願い事も合わせて、忘れずにやるようにします。 ………なんて今から言っていたら、鬼に笑われるかも



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設楽原の戦い

2023-02-04 01:05:55 | お出かけ

こんばんは、白黒茶々です。

私たちが訪れた新城市内には、合戦に関するスポットが点在しています。 それらは単品というか、個別販売というような状態なのですけど、1つ1つを歩いて巡っていくと、点と点が線になって、さらに面となり、やがて立体的になっていくように感じます。 ということで、新城市の古戦場巡りの締めとなる今回は、設楽原の戦いをテーマにいたします。
天正3年(1575年)5月16日に岡崎城を出発した織田信長徳川家康の連合軍は、3万8000にも及びました。 そして、その2日後に設楽原に着陣しました。

新城東高校跡の北東の新城市富永西田には、織田信忠の本陣地があります。 信忠は織田信長の嫡男で、彼が布陣したところは、現在は野辺神社の境内となっています。 その場所は小高い丘の上ということもあって、まわりを見回すことができます。 さらにそこから東に2kmほど行ったところには………

徳川家康本陣跡があります。 こちらは八釼神社の境内となっていて、やはり小高い丘で展望が開けています。 そこからまたさらに北東に13分ほど歩いていき………

私たちは連吾川を渡って………

その西側に再現されている馬防柵に差し掛かりました。
織田・徳川連合軍はそのまま長篠城の救援設には向かわないで、設楽原に着陣。 さらに突貫工事で馬防柵の設置を、わずか1日で終えました。

一方の武田勝頼の軍は、長篠城攻めの際には医王寺の裏山に布陣していたのですけど……… 私たちは時間の都合で、そこまで廻ることはできませんでした。この時の軍勢は1万5000。  勝頼は織田と徳川の軍がもたついていると思い込み、5月20日に設楽原により近いあるみ原に陣を移しました。 実は、連合軍は秘かに馬防柵を造って、迎え撃つ準備をしていたというのに………
さらに織田信長は、鳶ヶ巣山砦を奇襲することによって武田勝頼から戦いの主導権を奪い、彼らを決戦の地に呼び込みました。

私たちはより馬防柵に迫りました。
5月21日の早朝に、戦いの火蓋は切って落とされました。 武田軍は鉄砲や矢を射かけて突破口を開きながら、無敵といわれていた騎馬隊で進撃 対する織田・徳川連合軍は馬防柵の背後に控え、3000丁の火縄銃を駆使して応戦しました。

復元された馬防柵は2つほどのタイプがあるのですけど、こちらは北側のほうです。 その持ち場に波と狛を配したら、いい感じで覗き込んでくれました

長篠・設楽原の戦いといえば、連合軍が近代兵器の火縄銃を放ち、武田の騎馬隊が圧倒的にやられたというイメージがあるのですけど、馬場信房内藤昌豊の軍が柵内まで攻め入ったりして、途中までは善戦しました。 しかし、武田の重鎮・山県昌景の死によって、流れが変わったのです 彼が討ち死にして山県隊は崩れ、その影響は武田軍全体に及びました。

今度は南側の馬防柵から、武田軍が攻めてきた方向を見てみました。
武田軍は脆くも崩れ、内藤昌豊土屋昌次といった信玄が大切に育てた最強軍団の名将たちが、露と消えていきました。

古戦場の周辺には、設楽原の戦いで犠牲となった武田の家臣などのお墓が点在しています。 こちらは設楽原歴史資料館に至る坂の下にある、甘利信康のお墓です。 設楽原で大敗した武田勝頼は、残った兵とともに退却し、武節城や伊那路を経て、甲斐に落ち延びていきました。

こちらもまた設楽原歴史資料館の近くにあるのですけど、のちに設楽原の戦いの戦死者を埋葬して、信玄塚と呼ばれる塚が造られました。 この戦では武田軍が10000人、連合軍は5000人が戦死したと云われています。

あ、それから古戦場の周辺には、首洗池という生々しいスポットもあります。 まさに名前の通りなのですけど、こちらの池で戦死者の首を洗ったと云われています。 /現在でも水を湛えているのですけど、池のまわりは厳重に柵で囲まれていて、溺れている人を助けるための竿も備えられています。 やはり、戦死者の霊に引き込まれる恐れがあるのでしょうか?

せっかくなので今回の歴史散策の締めに、新城市設楽原歴史資料館に寄っていきましょう

この地方出身で、幕末の開国に貢献した岩瀬忠震(ただなり)の像を仰ぎ見ながら入っていくと………

館内には、野田城の戦いや設楽原の戦いなどの他に、岩瀬忠震に関する資料も展示されています。 それから、本物の火縄銃も。

あと、徳川家康公(の絵)と一緒に記念写真を撮れるコーナーもあったので、しっかりちゃっかり使わせてもらいました
今回は時間の都合で、織田信長の本陣跡や馬場信房のお墓などは巡ることができなかったのですけど、合戦に関連するところを訪れていったらいろいろな発見があって、私たちにとっては有意義なものとなりました。 これから「どうする家康」で、長篠・設楽原の戦いがどのように描かれるのかも楽しみですね。 そんな私の歴史ネタに最後までお付き合いしてくださり、ありがとうございました。


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長篠城の戦い

2023-02-01 00:40:59 | お城

こんばんは、白黒茶々です。

前回から、の白黒茶々家の1人と2頭は新城市に来ています。 話の構成の都合で、実際にその日に訪れた順番は多少変わりますけど、野田城跡を攻略した私たちは………

長篠城跡にやって来ました 歴史的に重要なところで、遺構もそこそこ残っていることから、こちらのお城は日本100名城に認定されています。 それよりも、波と狛の視線の先には「犬の散歩は禁止します」という厳しいお触書が こ、これは散歩ではなくて、高尚な歴史散策で、波と狛はそのコーディネーターをしていて……… く、苦しい。 長篠城がワンコ禁止となっていることは以前から知っていたのですけど、とにかく私がその城跡を巡っている間は、彼女たちには車の中で待機していてもらいます。

空堀や土塁は、築かれた時よりは低くなっているのですけど、それでもまだ堅固な姿を見ることができます。
長篠城は16世紀の初めに、菅沼元成によって築かれたと云われています。 寒狭川(豊川)と宇連川が合流する断崖の上という天然の要害の地にあります。こちらのお城は遠江(静岡県西部)と三河(愛知県東部)の国境に近く、交通の要所にあったことから、今川氏・武田氏・徳川氏が争奪戦を繰り広げました。

その本丸主郭)跡は広い空間となっています。
元亀4年(1573年)4月に、武田信玄の病状が悪化して軍が甲斐に引き返すと、その間隙を狙って徳川家康が長篠城を攻撃 そして天正元年と改まったその年の8月に、城主の菅沼正定は城を明け渡しました。 家康は武田軍が再び攻めてくるのに備えて城を拡張し、防御力を高めました。 さらに、奥平貞昌をその城主に就かせることに。

土塁の上には、城址碑がありますね。
奥平貞昌は、その前まで作手(つくで)を治めていました。 奥平氏は、貞昌の祖父・定勝の頃には今川氏に属していたのですけど、桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、松平元康(のちの徳川家康)の傘下に入ることに。 しかし、武田信玄が勢いを増すと、貞昌の父・定能は武田氏に寝返りました。 その一方で、家康は奥三河における武田氏の勢力を牽制するために、有力な武士団の奥平氏を味方に引き入れることを考えていました。
家康は織田信長と相談し、長女の亀姫を貞昌と婚約させるなどして、彼を味方につけました。 亀姫といえば……… 波狛日記では以前に人物伝で採り挙げたことがあるのですけど、「どうする家康」で家康と瀬名築山殿との間に生まれた第2子の女の子のことであります。 のちに亀姫は「加納御前」と呼ばれ、彼女のお墓は新城市内にも造られました。

こちらの城址碑も、味がありますね。
しかし、貞昌は武田方に人質として送っていた妻おふうと離縁することに。 縁を切ることによって、彼女の命を救おうと考えていたのかも知れません。 ところが、貞昌の裏切りに激怒した武田勝頼は、おふうと一緒に人質となっていた貞昌の弟・仙千代ら奥平方の3人を処刑してしまいました。 それは天正元年(1573年)9月21日のことでした。先が見えない戦国の世で生き残るために、服従や離反を繰り返すのは致し方ないこととはいえ、おふうたちの犠牲はあまりにも悲しいです。

天正3年(1575年)5月、武田勝頼は1万5000の軍を率いて、長篠城に押し寄せました。 一方の奥平貞昌は、500人の兵とともに籠城することに。 長篠城は堅固になったとはいえ、あまり長くは持ちこたえられません。どうする貞昌
貞昌は足軽の鳥居強右衛門勝商(とりいすねえもんかつあき)を呼び寄せ、彼に岡崎城の徳川家康に援軍を要請することを命じました。 強右衛門は武田軍の間隙をぬって、長篠を無事に脱出 家康のもとに駆けつけました。
岡崎では、織田信長の軍も含めて3万8000もの大軍を結成 すぐに長篠に向けて出陣することになりました。その朗報を貞昌や城兵に報告するために、強右衛門は再び長篠に向けて走りました。

ところが長篠城を目前にして、強右衛門は武田方に捕らえられてしまったのです さらに武田勝頼のもとに連れていかれたのですけど……… 勝頼は「城に向かって『援軍は来ないから降伏しろ』と言えば、命を助けて褒美もやろう」と持ちかけました。 それに対して強右衛門は「承知した」と、あっさりと受け入れたのです。 そんな………

長篠城址史跡保存館の空堀跡を隔てた向かいの路地には、「鳥居強右衛門呼びかけの所」なる案内板が立てられています。 字が消えて分かりづらいのですけど、強右衛門は勝頼との約束を果たすために、このあたりに立たされました。 その彼が、長篠城の城兵に向かって発した言葉は………
「織田と徳川の大軍が岡崎から出発した 間もなく到着するから、それまで持ち堪えられよ 」 

城内側からは、このように見えます。
「おお~ 」彼の叫びに、城兵たちは大いに湧きました。 一方の武田勝頼は……… 強右衛門の勇気と度胸に感服したという説もあるのですけど、ダマされたことに激怒したという説のほうが有力に思えます。

長篠城からは寒狭川(豊川)を隔てた対岸に位置し、現在は畑の向こうに見えるあのあたりに………

「鳥居強右衛門磔死之趾」と刻まれた石碑が立てられています。 その碑文の通り、強右衛門は命を賭けた叫びの直後に、この地で磔にされて処刑されました。 享年36歳。それは長篠城側に対して、見せしめのようにしておこなわれたのでしょうけど、「強右衛門の死を無駄にしてはならぬ 」と結束が強まり、士気も高まったので、逆効果になったと思います。

そんな強右衛門の忠義心に、武田家の家臣の落合左平次は感銘を受け、彼の最期の姿を書き写し、旗指物にしたと云われています。 それは長篠城跡の入口の看板にも描かれていて、「だもんで豊橋が好きって言っとるじゃん!」では吉田ちぎりがトラウマになったと言っていますけど、強右衛門の姿を伝える唯一の肖像画となっています。
彼のお墓は、作手の古宮城の近くの甘泉寺さんにもあるのですけど………

磔死の碑からは歩いていけなくもないところにある、新昌寺さんに造られました。

強右衛門の忠誠心は後世になっても称えられ、お墓はより立派になりました。 それから、奥平貞昌は長篠城での功績が評価され、織田信長の名前から1文字をもらって「信昌」と名乗るようになりました。

話が前後しますけど、私は波&狛と別行動を取っている間に、長篠城址史跡保存館も見学しました。 その館内には………

本物の火縄銃や………

血痕が付いた血染めの陣太鼓など、生々しい史料が展示されています。
長篠の戦いは、強右衛門の死を境にしてその舞台は設楽原に移っていきました。 私たちはそちら方面には……… もちろん、行きましたよ ということで、次回は設楽原の戦いの話をさせていただきます。 それから、鳥居強右衛門の話は波狛日記ではかなり前に人物伝のほうでも採り挙げたことがあるので、もしよろしかったらそちらも覗いてみてくださいませ。



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