こんばんは、白黒茶々です。
前回から、私は波&狛とともに廃校をめぐるために、愛知県の新城市に来ています。 前段階の卵かけご飯モーニングやサモマジックでテンションが上がり、慌てて本来の目的の廃校旅に切り替えたのですけど、その途中の道で通行止めに遭ってしまいました。
果たして、私たちのその後の行方は
それから25分後には、私たちはこのようなところに来ていました。 ちなみにこちらは、JR飯田線の本長篠駅から宇連川を隔てた南側に位置しています。「校門の門柱のようなものがあるような」と思われたそこのアナタ、いい観察眼をお持ちですね。
そうです こちらは旧鳳来町立乗本小学校であります。
私たちは2ヶ所目の廃校となるこの学校跡に、無事に到着することができたのですよ。
乗本小学校は明治5年(1872年)に創立し、昭和44年(1969年)に閉校しました。 赤瓦葺きで、薄桃色の木造校舎は味わい深いのですけど、東半分はいわゆる「魔改造」を受けていますね。
以前は地元の企業が使っていたみたいですけど、現在はそのような気配はなくて静かです。 その内部がどのようになっているのかわからないのですけど、端から端まで長い廊下が続いていると思われます。それならば、雑巾がけ競争を……… いや、疲れるのでやめておきます。
こちらの学校の敷地はかなり広く、校庭の片隅には何かの記念碑のようなものが残っていました。 そうしたら、この勢いのまま次の廃校に向かいますよ
本長篠駅からもう1駅先の、三河大野駅の近くの坂を上がったところに………
私たちにとっては3ヶ所目の廃校となる、旧鳳来町立富栄(とみさか)小学校はあります。 その校名が刻まれた門柱の前で写真を撮ろうとしたのですけど、波と狛がなかなかこちらを向いてくれませんでした。
やむを得ず秘策(奇声の発声)で興味を引き付けたのですけど、狛ちゃが首をかしげてしまいました。
富栄小学校は明治5年(1872年)に創立し、昭和51年(1976年)に閉校しました。 その当時の木造校舎が残っているのですけど………
こちらも東半分は改造を受け、左右非対称となっています。 ただし、乗本小学校のような使い捨て(失礼
)ではなく………
介護施設として活用されていました。 かつての校庭は、その施設の増築部分が締めていて、全体像はつかみにくいのですけど………
二宮金次郎像はブレることなく、施設の入口横に立っていました。 廃校を介護施設として活用するなんて、ある意味斬新ですね。そのようなところは、お年寄りの方にとっては懐かしく、ホッとできる場所になることでしょう。
それでも、なるべく外観は昔のままにしておいてもらいたいです。
………という願望を持ちつつ、私たちは飯田線の沿線から離れ、宇連川を渡って、新城市の観光名所の阿寺の七滝に続く細くて曲がりくねった山道を上っていきました。 その途中にある集落の道沿いには………
廃校の雰囲気がありありで、車では入れないような細くて少し急な上り坂がありました。
こちらは旧鳳来町立阿寺小学校で、明治6年(1873年)に創立。昭和51年(1976年)に閉校したところです。
立派な石垣の上の木造校舎は、閉校してからほとんど手をつけられていないみたいで、かろうじて原型をとどめているものの、崩壊寸前でした。
それでも大丈夫です。 日本一標高の高いところに天守が現存する備中松山城は、これぐらいの状態から修復されたので。
なので、旧阿寺小学校も今すぐ保存工事をおこなえば……… って、苦しい。
その校庭の一角には、水飲み場が良好な状態で残っていて………
可愛らしいサイズの二宮金次郎像も、安全な場所に移されていました。 阿寺地区まで来て、朽ちかけた廃校だけ見て引き返すのもナンだったので………
この日の予定にはなかったのですけど、阿寺の七滝にも寄っていくことにしました。 駐車場からは15分ほど歩いていかなければならないのですけど、森林浴をしながらだったので、夏場でもそこそこ快適でした。
そうしているうちに………
滝に行き着きましたよ 波と狛は初めてなのですけど、私にとっては24年ぶりとなりました。
「七滝」というだけあって、段を重ねて流れ落ちる姿がいいですね。 マイナスイオンも出まくっていますし。
廃校からちょっと遠ざかってしまいましたけど、話の締めにはいい風景ですし、キリもいいので、今回の日記はこのあたりで閉じさせていただきます。 私たちの廃校めぐりはまだまだ続き、次回はあのドラマで全国に知れ渡った学校が出てくるので、あれこれ予想しながらお待ちくださいませ