波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

M君の観光案内と、へげ家への道(熊野紀行その2)

2017-03-29 01:10:32 | 旅行記
こんばんは、白黒茶々です。
前回の続きで、私はと一緒に訪れた新宮城で、大学時代からの友人で地元民でもあるM君と合流しました。まずは一緒にその城跡を散策することになりました。



私たちの目の前には、山の尾根に突き出るような形で築かれた出丸があったのですけど、あそこには行けるのでしょうか?
「せっかくだから、行ってみようか?」
M君の一声によって、そちらのほうに舵を切ることとなりました。本来は本丸から橋などが架けられていたと思われるのですけど、現在は急斜面を転がり落ちないように気を付けつつ、その本丸の石垣の裾を伝うようにして、なんとか行き着くことができました。 その次に私たちの視界には、前回の日記でも触れた山の麓の水の手の石垣が入っていました。
「せっかくだから、あそこにも行ってみようか?」



こちらのほうも、先程と同じノリで来てしまいました。 水の手というだけあって、熊野川がすぐ近くに見えていて、役者も揃っていることですし、ここでみんなで記念写真を撮ることにしましょう 今回は一発勝負でいくので、箔波ちゃもしっかりカメラのほうを向いてくざさいませ。 このようにして、セルフタイマーによって写された写真は………



こうなっていました。う~む……… 箔と波はどっか向いていますし、私は「シーボルトに治療されている人」みたいな口をしていますし。 その姿が気になる方のためにも………



その画像を探しておきましたよ。う~む、「ウメボシ食べてスッパマン」の口にも似ていますね。いや、スプラッシュ星人かも。 それよりもその時の私に、なぜその肝心な場面でそのような顔をしていたのか、問うてみたい。
新宮城の麓を歩きながら、M君は「昔、この城山にケーブルカーが走っていてな、日本一短いケーブルカーやけど、小さい頃にオレは乗ったことがあるよ」という話をしていました。そんな話、初めて聞きましたよ



彼の証言を裏付けるように、お城の案内看板の裏側に山麓駅のものと思われるコンクリートの段などが残存していました。 今度は私のほうが気になったので、丹鶴城跡(新宮城)のケーブルカーのことを調べたら………



確かにありましたよ 車両はかなり小さくて、軌道はわずか72m。昭和55年(1980年)まで運行されていたそうです。
「山の上(鐘の丸跡)に『二の丸』っていう旅館があったそうだけど、M君は覚えてる?」 「そういえば、そんなのがあったかも知れんな」お城のある山を川を渡った列車が貫通し、日本一短いケーブルカーで登ったところで、旅館がお出迎えするという。知れば知るほど、新宮城はインパクトありありのお城でした。

そのあとは、喫茶店あたりでゆっくり話をしようという流れになり、M君オススメのお店に向かうことになりました。 私は全国チェーン店のコ○ダでもよかったのですけど、彼は景色のいいところを選んだみたいです。新宮市から紀宝町、御浜町を通り越して熊野市まで戻っていき………



獅子岩なる、岩の近くにある喫茶店に入りました。 熊野古道関連で世界遺産にも登録されているこちらの獅子岩は、高さ約25m。巨大な獅子が口を開けて吠えているようにも見えるその姿は、地盤の隆起と海蝕現象によってできたそうです。
喫茶店は建物は古くてどこか味があるのですけど、七里御浜を見渡す海側はガラス張りで開放的ということもあって、屋内は明るかったです。そちらでそこそこ歓談したあと、私たちは次の目的地に向かうことに。そのお店を出たあとも、M君による獅子岩の説明は続きました。彼によると昔、泥棒とお巡りさんがその岩に登ったのですけど、一緒に落ちて2人とも死亡。のちにそんな彼らを供養するために、お巡りさん用に大きな石碑が、泥棒用に小さな石碑が、それぞれ岩の上に建てられたそうです。
その獅子岩に、M君は過去に何度か登ったことがあると言っていました。それだけでも驚きモノなのに、さらに彼は衝撃的な発言をしたのです

「さっき行った喫茶店は、まだ明るい17時には閉めるよ。何て言ったかな、ほら、心霊現象の………」「ポルダーガイストとか? 」「そう、ポルダーガイストとかラップ現象なんかが起きるもんだから、オーナーがしょっちゅう変わってるんやて」それでも今の方になってからは、長いそうです。ひょっとしたら霊感が弱くて、余計なものが見えないのかも知れませんね。いわく付きの岩を見たあとは………



私たちはそこから程近いところにある、鬼ヶ城なるところに行きました。 城郭ではないのですけど、鬼ヶ城なのですよ。ちなみに、こちらも熊野古道の関連ということで、世界遺産に登録されています。



この特異な海蝕洞は、熊野灘の荒波と急激な地盤の隆起によって作り出されました。



それらの岩肌に沿って遊歩道が設けられているのですけど、場所によっては1人がやっと通れるぐらいの細くて険しいところも。なので、こちらでもうっかりヒールで来てしまった方は、足をグキッ とやらないようにお気を付けくださいませ。 そのような道は、端から端まで1,2kmも続いているそうです。



そのような中で、こちらの千畳敷と呼ばれる空間は、迫力満点 その近くにある高校出身のM君は、卒業アルバムの集合写真を撮る際には、集団で学校から先程の道を歩いてこちらまで来たそうです。 その断崖絶壁の下では、釣り人が優雅に釣糸を垂らしていたのですけど、そこまでどうやって降りたのでしょうか?



鬼ヶ城を出てからも、M君による観光案内は続きました。 そこから程近いところには、花の窟(いわや)なる祈りの場というか、パワースポットがありました。



箔と波は車の中に置いてきたのですけど、こちらはワンコと一緒に参拝できるそうです。それにしても、参道も厳かな雰囲気ですね。



花の窟は、カグツチノミコトを産んだイザナミノミコトを葬った御陵で、日本書紀に記された日本最古の神社と云われています。 気になる御本殿というか、御神体は………



高さ45mもある、見上げるほどの巨大な岩でした。
「まさかとは思うけど、M君はここも登ったことある?」「ああ、あるよ」「ええっ~~~」とはいっても、さすがにロッククライミングまではしていなくて、別にムリなく登れる道があるそうです。
そろそろ日が暮れてきたので、M君とはここでお別れして、私は次の目的地となるへげたれ妻さんのご自宅に向かいました。 M君、親切な観光案内やそれらにまつわる裏話、自らの武勇伝をなどを聞かせてくれて、ありがとうございました。



へげ家は、御浜町の標高700m級の山々の懐に抱かれた、緑豊かな環境の中にあります。 下調べで住所から位置検索をしてみたのですけど、目印になるものがなくて少々分かりにくいです。それでも、ネットのGoogleアースを見ていて、さらにモデルとなった家が、「ねこぱんち」で現在連載中の「農家のまんまる猫」の作品中にも描かれているので、私の中ではおおよそのイメージはできています。 へげ妻さんから「目印となるようなところまで来たら、迎えに行く」ようなメールもいただいたのですけど、なんとなく手助けナシでも行けそうな気がしていたので、その旨を伝えておきました。 それに、宝探しみたいで楽しそうですし。

ところが、私が最大限にアンテナを働かせて探しても、それらしい家は見つかりませんでした。 何回か同じところに出ていますし。もしかしたら、見えない何かによって守られているのかも知れませんね。果たして、私たちは日没前にへげ家にたどり着けるのでしょうか?次回に続かせていただきます。


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そうだ!熊野に行こう(熊野紀行その1)

2017-03-25 01:11:43 | 旅行記
こんばんは、白黒茶々です。
3月も下旬にもなると、厳しい寒さから解放され、春の暖かさを感じるようになります。 そうすると、桜の開花まであと少しですね。また、春といえば行楽の時季でもあります。私は仕事柄、GWや盆暮れ正月以外に連休を取るのが難しいのですけど、春分の日を含めた今月の19日~20日はたまたま休めるようになりました。その連休をフルに活用して、私は以前から気になっていた地域に行く計画を立てていました。



その地域とは、白黒茶々地方と同じ東海地方の三重県にありながらも、和歌山県との県境に近いところに位置している熊野市御浜町のことです。そこには、大学時代からの私の友人のM君や、箔波日記にもしばしば出てくる、へげたれ妻さんがお住まいになっているのですよ ウチからはかなり遠く、私にとっては未踏の地でもあるので、行くにはかなりの勇気と覚悟が必要でしたけど、その目的地で彼らと逢う約束もしたので、士気が高まりました。 さらに、そこまで行ったらもうちょっと頑張って、和歌山県の新宮城まで足を伸ばしてみたいですね。
このようにして、私にとっては大遠征となる春の旅が決まりました。今回は長旅なのですけど、状況によって臨機応変に対応できる車での移動にしたので、も連れていくことにしました。

ところが、白ふわオフ会の日程も、19日となりました。 春のイベントとしてすっかり定着している、なつみかんさん主催のそのワンコ行事は、開催地が地元というだけではなく、遠方からもたくさんのお仲間がやって来ることになっています。私はかなり悩んだのですけど、熊野への旅は代替え日が確保できず、この機会を見逃したら次はなくなりそうだったので、その日は泣く泣く地元を離れることにしました。

初日は日の出前の早朝に自宅を出発すると思いきや、目的地が初めて行く遠いところということもあって、前日に夜経ち&行けるところまで行って車中泊という手段を取ることにしました。 ということで、18日の土曜日は身支度を済ませ、箔と波を車に乗せて22時半過ぎに自宅を出発。 豊橋バイパスを経て、岡崎インターチェンジ(以下IC)から東名高速道路に入っていきました。 さらに今回は、湾岸道路に流れ………



日付が変わってから、最初の休息地となる刈谷パーキングエリア(以下PA)に到着しました。こちらのPAは、観覧車や日帰り温泉施設などのある刈谷ハイウェイオアシスとも接続しているのですけど、それらの施設はその時間帯ではさすがに漆黒の闇の中に沈んでいました。



さらに私たちは高速道路を飛ばし、三重県に突入 長島スパーランドの夜景を眺め、御在所SAでのトイレ休憩を経て、2時少し前には松阪SAの手前にある嬉野PAにたどり着きました。 看板がテカってしまって見づらいのですけど、正真正銘の嬉野にございます。 この日の移動はそこまでにしておいて、簡易宿泊システム(車中泊)で寝ることにしましょう。では、おやすみなさい。 ZZZ………



話の展開上、ドラゴンクエスト並みに一瞬で夜が明けたことにさせていただきます。 私が歯磨きや洗顔をしたあとは、箔と波を小散歩させ、ブラッシングをしたら………



ご飯をお上がりなさい。 彼らは場所が変わっても熟睡できたみたいで、ご飯のほうにもいつものように勢いよく喰らい付いていました。それが済んだら、今度は私が朝の朝食モーニングをいただくとしましょう。 私たちは松阪SAを出たあと、松阪市内に入っていき………



私はちょっと豪華に、ココス朝食バイキング(税込842円)をいただきました。 小おかずに加えて、卵かけ御飯や数種類のパンがあり、自ら生地を流し入れて焼くワッフルも備えられていました。もちろん、スープや味噌汁、コーヒー、ジュースといったドリンク類も、おかわり自由でしたよ!おかげで、ちょっと食べ過ぎてしまいました。
お腹も心も満たされたら、気合いを入れて紀伊半島を南下しますよ 目指すは、三重県を通り越したところにある、和歌山県新宮市にある丹鶴城公園(新宮城)です。私たちは松阪市から国道42号線をひたすら辿っていき、多気町、大台町を経て、道の駅奥伊勢おおだいで一旦休憩。 さらに大紀町から………



紀北町の、道の駅紀伊長島マンボウに至りました。熊野灘に程近いこちらの道の駅では、アワビやサザエといった新鮮な魚介類が取り揃えられていました。 そして、私たちは尾鷲市、熊野市を通過し………



御浜町にある、道の駅パーク七里御浜にたどり着きました。 こちらの道の駅は、その名の通り七里御浜のすぐ近くにあるので………



せっかくなので、歩道橋からその海岸に出てみました。 熊野灘は私の地元の海よりどこか荒々しい感じですけど、海風が心地よかったです。そうしたら、今回の旅の最深部まであと少し。ラストスパートをかけて参りますよ



御浜町から紀宝町をまたぎ、熊野川を越えてすぐのところに、新宮城のある丹鶴山が聳えていました。 川の対岸からも、お城の石垣が見えてインパクトありありなのですけど、さらに川を越えた紀勢本線がその城山を貫通しているのですよ。そのことから、「ドラゴンボール」で、孫悟空が「オラのすべてをこの拳にかける!」と言って(元祖)ピッコロ大魔王に大接近!「はね返してくれるわ!」「つらぬけー!はーっ!」悟空が渾身の力を込めて、ピッコロ大魔王の体を貫通した、あの名シーンを思い浮かべてしまいますね。 そして………



私にとっては初めてとなる、新宮城にようやくたどり着きました。 もちろん、箔波ちゃにとっても初踏破となります。



こちらのお城は、山の麓の石垣もよく残っていますね。そうしたら、さっそく山頂の本丸を目指して登っていくことにしましょう



この石段は先程の道ではないのですけど、登っていくときの気持ちは一緒(?)ですよ。ちょっと急な道なのですけど、すぐに登り詰めることができました。 その先には………



松の丸の石垣と入口が見えてきたのですけど、足元がやや荒れていますね。うっかりヒールで来てしまった方は、足をグキッ!とやらないようにお気をつけくださいませ。



松の丸に続く鐘の丸の石垣も、見事ですね。
新宮城は、関ヶ原の戦いの後に和歌山城主となった、浅野氏の一族の浅野忠吉がこちらの領地を与えられ、慶長6年(1601年)から築かれたお城です。元和元年(1615年)の一国一城令によって一旦廃城となったのですけど、その3年後に再び築城の許可が降りました。しかし、その翌年に忠吉は三原に国換えとなり、お城が完成した姿を見ることなく彼はこの地を去りました。



松の丸からは、麓の熊野川沿いに設けられた水の手や舟入りの遺構も見ることができます。 こちらは最近発掘&整備されたみたいですね。そこまではかなりの高低差を降りていかなければならないので、眺めるだけでヨシにしてよろいしでしょうか?



さらに同じ場所からは、本丸の石垣も見えました。山頂を囲うように積まれたその石垣も、迫力がありますね。



本丸入口の舛形の石垣も、江戸時代初期に発展した「切込みハギ」という切り石を隙間なく積む工法によって築かれています。
元和5年(1619)、徳川頼宣が紀州徳川家の初代として和歌山城主となると、付家老の水野重仲が新宮城に入り、浅野忠吉の築城工事を継続。寛永10年(1633年)に城はようやく完成しました。



その後の新宮城は、廃藩置県によって廃城となり、建物はすべて取り壊されてしまいました。やがて城址は公園となり、平成15年(2003年)には国の史跡に指定されて、現在に至ります。
他と比べると小ぢんまりとしたお城なのですけど、河口近くの丘の上に築かれ、現在でも山を囲うようにして立派な石垣が残っているということもあって、見応えは充分あります。
実は私はこちらで、大学時代からの友人で熊野市の地元民でもあるM君と待ち合わせをしているのですよ。 それから間もなくして………



彼が現れましたよ 2年前の春に、白黒茶々地方にふらりとやって来たこともあって、今度は彼の地元のほうで逢いたいと思っていたのですけど、ようやくその願いを叶えることができました。 私と同じ文学部歴史学科出身ながらも、大きくてガッチリした体型のM君。ということで、次回はM君の案内による名所めぐりやそこにまつわる裏話、彼の武勇伝などが飛び交うので、そちらのほうにもぜひお付き合いくださいませ。


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「箔波ちゃ取材を受ける」の巻

2017-03-22 01:12:53 | その他
こんばんは、白黒茶々です。
白黒茶々家では、A日新聞やY賣新聞といった全国紙ではなく、静岡新聞というローカル紙をとっています。 さらにその配達元となる新聞屋では、新分野の………



「朝刊太郎」なるミニ新聞を、月に1回ぐらいの割合で取材+編集+発行+広告に折り込み+配達しているのですよ。 その内容も、その地域でおこなわれた成人式や豆まき、中学生の職場体験など、新聞の本編より大衆に寄り添ったものとなっております。ただし、そのぶん出回っている地域は限られていますけど。 さらに、その中には………



「Hello Pet」なる、ワンコをメインとしたペットの特集記事も載っているのですよ。 今回は、パグとチワワのミックス犬のモモ子ちゃんというワンコですね。ちなみにこれは、飼い主が新聞屋に依頼し、自宅まで来てもらって取材と写真撮影を受け、掲載の日が来るのを楽しみにして待つというシステムとなっております。 実は10年以上も前に、もこのコーナーに載せてもらったことがあるのですよ その当時は日中は箔母さんが家にいることが多かったので、私に代わって彼女にその受け答えをしてもらいました。
あれから月日が経ち、その間に白黒茶々家では新たにを迎え入れたということもあって、再び取材を受けようかと思うようになりました。 しかしあの時とは状況が変わり、私だけではなく箔母さんまでも日中の明るい時間帯に家にいることはほとんどなくなりました。そういうこともあって、波ちゃの朝刊太郎掲載計画は断念し、そのことはすっかり忘れていました。

そんなある日の夕方に、私はいつものように箔と波を散歩に連れ出し、いや、連れ出そうとしたまさにその時に、家の呼び鈴が鳴りました。 こんな時間に誰でしょうか?
ガチャッ

「こんばんは、リ〇〇〇〇ン(新聞屋の名前)ですけど、こちらのお宅のワンちゃんを『朝刊太郎』に載せさせていただきたくて伺いました」
というのです。どこかでウチにワンコがいるという情報を得てきたのでしょうか?何にしても、私としては大歓迎ですよ ということで、急遽箔と波を前にしての取材が始まりました。

まずは名前や性別、年齢などから入り、個性についても聞かれたのですけど……… たまたま手元には波がいたので、彼女のことをメインにして話しました。そのあと写真を撮ることになったので、箔波庭に放置したままとなっていた箔も連れてきて、その2頭を並べました。
しかし、玄関外の照明の下では暗くてうまく写せないみたいですね。 記者の撮影器具も、スマホでしたし。ということで、今度は屋内の玄関……… では狭すぎるので、その先の廊下で撮ってもらうことになりました。ところが、こちらでもなかなかOKは出ませんでした。



そうしたら、玄関灯だけではなく、廊下灯も点けたらどうだ そちらの問題はなんとか解決したみたいですけど、今度は箔と波が落ち着かなくなりました。 そういえば、散歩とご飯がおあずけ状態でしたね。そろそろ限界なので、早く取材を締めてくださいな。



箔と波の突撃取材(?)から半月ほど経った今月の20日に、配達された朝刊の中に最新版の「朝刊太郎」が折り込まれていましたよ 待ってました 1面は季節ネタで、幼稚園や市の施設などでおこなわれた、ひな祭りの様子が載っていました。



その次の2面には、たつぴも参加したことのある「愛 LOVE ウォーク in 白すぴ」がありました。 このイベントでは、小学生が扮する水戸黄門が先頭を歩いているのですよね。
それはこちらに置いておいて、気になる「Hello Pet」は………



そういえば、あのときはご飯前だったからでしょうか?私は、2頭共通の特徴として、食欲旺盛なことを話していました。 さらに、最初は波のほうがメインだったので、お出かけ先では猫をかぶるとしていたのですけど、これでは箔までもがイイ子ちゃんになると、誤解されてしまうのでは 彼は年齢とは関係なく、内でも外でもテンションが高いです。



今回の取材は、心の準備ができていなかったということもあって、私のほうがまとまっていなかったような気がします。 それでも、おおよそのことは伝えられたと思います。また、小規模ながらもネット以外の媒体によって、彼らがプチ有名犬となることもできましたし。今回の「朝刊太郎」は永久保存版として、取り出しやすいところに大切にしまっておくようにします。


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久しぶりに浜松サービスエリアに行ってみたら………

2017-03-18 01:04:17 | お出かけ
こんばんは、白黒茶々です。
今年も早いもので、気付いたら3月の後半に入っていました。 それでも私は、先日の「北区 De まつり」のほうで、今年初スピッツとなんとかご対面することができました。 そうしたら、それ以外でまだやっていないことは……… そういえば、ドッグランにはまだ行っていませんでした。



………ということを、そのイベントから引き上げていく最中に気付きました。 ちなみにこちらは、都田(みやこだ)総合公園内にある梅園なのですけど、花はまだ満開とまではいっていないようですね。



それでも、河津桜のほうはいい感じで咲いていました。 気が済むまでその花を眺めたら、そこから近くて手軽に利用できるドッグランに向かいますよ という流れで、都田総合公園から車に乗って15分ほどで………



新東名高速道路の浜松サービスエリア(上り)にたどり着きましたよ ぷらっとパークに車を止めれば、外部からでも気軽にその敷地内に入ることができるのですよ。



ヤマハ河合楽器といった楽器メーカーがあり、それらの発祥の地でもあることから、浜松は「楽器の街」を謳っています。 そういうこともあって、サービスエリア(以下SA)の施設はピアノなどの楽器をモチーフにしたデザインとなっております。 ちなみにこちらを訪れるのは、私・箔・波の1人と2頭にとっては約1年ぶりとなります。



さっそくそのドッグランに入ろうとしたら、閉鎖されていて「3月6日にリニューアルオープンする」というではありませんか この日は5日だったので、惜しいというか……… なんかもったいないことをしたような気分です。



新しいドッグランは、以前は小型犬と、中・大型犬のスペースだったところをぶち抜いて造られていました。 それだけではなく、全面人工芝に改められていて、解放感だけではなく清潔感もありますね。嗚呼、ここで野球をやってみたい。 ただし、私はボールをバットに当てたり、フライを捕球したりすることはできないのですけど。



そのドッグランの向かいには、これから小型犬スペースとなると思われるドッグランが新たに設けられていました。 こちらはすでに開放されているので、箔と波を連れて入ってみることにしましょう。



彼らは、ドッグランではいつものごとくお手紙の解読(地面のニオイをくんくん)などしていてなかなか走らなかったのですけど、納得するまでやったらようやく運動っぽいことをするようになりました。



そのような中で、箔が大きな子にご挨拶する場面も。 こちらのワンコは、スタンダードプードルでしょうか?



一方の波ちゃは、私のあとに付いてきてばかりいますね。というよりは、近付き過ぎです。



そうしているうちに、箔と波がほぼ並んで走っているという、奇跡的な光景を撮ることができました。 気が済むまでドッグランを堪能したら、帰ることにしましょう。



「北区 De まつり」から帰宅、いや、浜松SAから家にたどり着いたら、まだ柔らかいうちに先のイベントで拾ってきた餅をいただくことにしましょう。 そいつを前にして、なぜ箔と波の目はこんなにもキラキラしているのでしょうか?



袋から出したら、餅の匂いが漂ってきたのでしょうか?箔はたまらずに、ブンブンの動きをしまくっていました。



まるごとは危険なので、ノドに詰まらない程度の大きさにちぎっておきましたよ。もうそろそろいいでしょう、さあお食べなさい。



うわっ!おばけ。
………じゃなかった。彼らのあまりの勢いに、カメラの処理能力がついていけなかったみたいです。 とにかく、美味しく食べることができたみたいで、よかったです。

浜松SAは、地元民にとっては旅の途中で立ち寄るようなことはなかなかないのですけど、そこ自体が目的地になるほどの魅力は充分にあります。 次に行くときには、リニューアルされたドッグランに入る楽しみもありますし。といいつつも、今度は遠方からのワンコと触れ逢うことも期待しています。


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波3回目の誕生日

2017-03-15 01:11:33 | ワンコ
こんばんは、白黒茶々です。
今月の12日は、やよっちさんや私の甥っ子だけではなく、ゆめちゃんキッズのまなちゃんライムちゃん一歩ちゃんなつちゃん夢来君、それとの誕生日でした。 皆さん、おめでとうございます。 その日、彼女たちは3歳となりました。今から3年前の2月にけいママさんは、廃業したブリーダーが放棄し、殺処分寸前だったゆめちゃんを保護されました。



そのゆめちゃんの体にはすでに新しい命が宿っていて、翌月に生まれた6頭のうちの末っ子が、波だったのですよ。 彼女の誕生秘話や、白黒茶々家の一員になるまでのいきさつは、昨年の誕生日記念特集でやったので、今回は違う角度から切り込んでいきたいと思います。ということで、今回はこの1年の間に波のまわりで起こったことをダイジェストで振り返ってみます。



昨年の、波を含めたゆめちゃんキッズの誕生日の数日後には、浜名湖ガーデンパークなつみかんさん主催の第4回白ふわオフ会に参加しました。そちらでは、特大・大・中・小の白ふわ仲間に加えて、ゆめちゃん夢来君とも逢うことができました。



その翌月の4月には、沼津でおこなわれたDOG!フェスタで、今度はスピ仲間やライムちゃんとご対面。また、そのイベント内の「待て!」ゲームでは、波は奇跡の準優勝となりました。



5月下旬に諏訪湖畔でおこなわれた歴史散歩オフには、たくさんのお仲間が集まりました。その中には、ゆめちゃんキッズのなつちゃんもいました。



その1週間後には、浜松市のハマ&ワンさんにゆめちゃんファミリーが大集合 こちらでは、たくさんのお仲間たちにも囲まれて、楽しい時間を過ごすことができました。



6月中旬には、愛知県のリトルワールドで、波にとっては初めてジョージ君とご対面。そのあと、彼の家にもお邪魔させていただきました。



夏の暑い時季はお仲間と逢う機会は減るのですけど、その間にできたばかりの新東名高速道路の長篠設楽原パーキングエリア(下り)に行ったりしました。



秋になったら、ワンコイベントも増えてきました。 そのような中で9月下旬に浜松でおこなわれたDOG!フェスタでは、波は「待て!」ゲームの予備段階であっさりと敗退。 (私が)再修行を誓いました。



その3日後には、私たちは浜松市の遠州灘海浜公園で開催された、わんわん秋祭りの中にいました。こちらでは、DOG!フェスタでご一緒した地元スピだけではなく、スピッツによく似たアメリカンエスキモードッグと初めてご対面。



その一方で、歴史散歩もしっかりとやっていました。10月中旬には、「おんな城主 直虎」の放送開始に先行して、ドラマの舞台となった井伊谷地区を訪れました。 そのうちの井伊谷城跡に続く山道で撮影したこの写真は、年賀状にも使いました。



昨年は、12月にも岐阜県可児市のほうでオフ会がありました。そちらでは、ゆめちゃんや夢来君らの他にも、関東や四国など遠方のお仲間とも交流することができました。



年が改まったばかりの元旦には、白黒茶々家の家族全員で初日の出を拝み………



翌月の2月には、今度は新野左馬助ゆかりの御前崎市や、田沼意次の牧之原市を訪問。 さらに今月に入ってからは、毎年恒例の北区 De まつりを堪能してから、12日を迎えました。



その記念すべき日に備えて、ワンコ用のかぼちゃと豆乳のショートケーキを用意しておきましたよ。



まずはそのケーキを前にして、一連の儀式をやっておきます。波ちゃがケーキをガン見していますけど、彼女は待たせておいて、お祝いの歌を歌いますよ。 さあ、パソコンやスマホの前の皆さんもご一緒に
 はっぴば~すでぃ、つぅ~ゆ~………



「よし」の合図とともに、波はケーキに勢いよく喰らい付き、あっという間に平らげてしまいました。 波ちゃ、じっくりと味わうことはできたでしょうか?



犬の3歳は、人間の28歳に相当するそうです。ついこの間まで仔犬だと思っていたのに、早いものです。 ワンコは人間以上に早く歳を取っていく生き物なのですけど、そのぶん密度の濃い時間を過ごすことはできたでしょうか?少なくとも私と箔は、波のおかげで充実した生活を送っています。改めて、波、誕生日おめでとう。これからも、白黒茶々家に若さと元気と癒しを与えてくださいませ。


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北区 De まつりで今年初スピッツなるか?

2017-03-11 00:57:23 | お出かけ
こんばんは、白黒茶々です。
今月に入ってからより寒さが和らぎ、春の訪れを感じるようになりました。それとともに、イベントのほうも増えつつあります。 そのような状況の中で、浜松市北区にある都田(みやこだ)総合公園で今年も北区 De まつりがおこなわれることになりました。



北区 De まつりは毎年、3月の第1日曜日に開催されているということもあって、春の訪れを告げるイベントでもあります。 いなさ牛のミルク入り甘酒やポン菓子の無料配布、イベントの締めの餅まきは、子供だけではなく大人もつい引き込まれてしまいますね。 さらに、三遠南信と呼ばれる愛知県東部、静岡県西部、長野県南部の地域どうしが終結し、それらの地域の出展だけではなく、ご当地キャラもやって来るというのですよ 浜松市北区といえば、今年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」の舞台となっている井伊谷地区も含まれていて、出世大名家康くんはもちろんのこと、井伊直虎をモチーフにしたゆるキャラの出世法師直虎ちゃんも、こちらのイベントには初登場となります。それだけではありません。ドラマの放送に関連して、井伊家にまつわる静岡市の今川さん、甲府市の武田菱丸に加えて、なんと彦根市のひこにゃんも来るというではありませんか ワンコを連れて気軽に行けることもあって、私は白ふわ仲間も誘って、その日に備えました。

しかし、その時季は雨になることが多く、私がそちらに行くようになって昨年までの5年間のうち、スッキリ晴れたのはわずか1回のみ。打率2割は、あまりに祟られています。 悪天候でもステージイベントや餅の配布はあるので、私は犬ヌキでも行くつもりなのですけど、できることなら箔波ちゃを連れて今年初スピッツか初サモエドとご対面したいです。なので、頼むからその日は晴れにしてくれ~

そんな私の願いが通じたのでょうか?その当日は、文句ナシの晴天となりました。 それから珍しく部活が休みとなったこともあって、たつぴも一緒に行けるようになりました。 私たちはお昼前には会場に接近していたのですけど、その近くの企業の敷地を借りた臨時駐車場はすでに満車で、その前の道路も混雑していました。
それでも、心配には及びません。 私たちは最初から、ちょっと歩くのですけど公園の西はずれにある西駐車場を狙っていたので。ところが、私たちがそちらに入ろうとしたときに、その入口に立っていた整理係のおいちゃんが手でバツ印をしてきたではありませんか ま、まあ、こうなることも多少は想定していたので、大丈夫です。 そうしたら、さらに公園のはずれにある、北駐車場を目指すことにしましょう。



そちらのほうでは、なんとか駐車することができました。 そうしたら、北区 De まつりの中心部を目指して、歩いていくことにしましょう。



公園の最も開けている中央広場には、直虎ちゃんのふわふわ風船や、消防の高所作業車などがポツンとあるだけで………



中央ステージも含めた、会場のメインは坂の上の芝生広場のほうにありました。



さらに三遠南信の各ブースや露店は、南駐車場に設けられていました。 好天に珍しいご当地キャラの効果もあったからなのか、この日の会場は例年以上にたくさんの人で賑わっていました。



その一角には、今回も消防署や警察署、それに自衛隊で使われている車両などが展示されていました。 さらにその中には、顔出しの書き割りもありましたよ。これはぜひ、顔を突っ込んでおかなければ



そのようにして、「消防士箔ちゃ」の絵が完成しました。 もちろん、波ちゃにも同じことをやってもらいましたよ。



そうしたら、まずは昨年は間に合わなかった甘酒を確保&いただくことにしましょう。 ミルク入りは初めてなのですけど、甘酒の味がよりマイルドになっていました。



ミルク甘酒で一息ついたら、今度はポイントラリーに挑みますよ 会場内のどこか4ヶ所にキーワードが隠されていて、それらを集めて抽選所に持っていけば、豪華景品(?)が当たるクジを引くことができるというのです。 とはいっても、キーワードの位置は会場の地図の中で「このあたりにあるかも?」と、ほぼバラしていますし、それに設問を読んだだけで、答えはわかるのですけど。「『おんな城主 直虎』で、井伊家が治めていた地域の別の呼び名は〇〇〇〇である」というのですよね?簡単簡単、答えはズバリ「なおとら」であります。
※こんなところでボケを入れないでください。画像にも写っている通り、正解は「いのくに(井の国)」です。(編集部注)



そいつを持って抽選所のガラガラを回したら、特賞が出ましたよ ちなみにその景品は、井伊のプリントせんべいと、井伊谷地区の銘菓のどれか1品でした。



そのあたりを見回してみたら、直虎ちゃんがいたので、一緒に写真に入ってもらいました。 彼女とは、たつぴは今回が初めてで、箔と波は2回目。私はなんと、4回逢ったことになります。



そうしたら、浜松市の福市長でもある家康くんも、ハズせませんよ でもよく見てみたら、家康くんはやけにキレイになっているような………
※褒め言葉のようですけど、決してそれを口にしてはいけませんよ!遠回しに「浜松城などで活動している元祖家康くんとは別に、イベント用にもう1体新調したのでは?」と言っているようなものなので。(編集部注)



ひこにゃんもいたのですけど、相変わらず大人気ですね。 こちらは外を歩いているだけですぐに多くのギャラリーに囲まれてしまうこともあって、独占して一緒に写真に写ることはできませんでした。



このあたりでステージのほうを見てみたら、地域戦隊カッセイカマンのショーがおこなわれていました。今回は新ネタで、悪の首領のフキョーダの手下のグリーンが、コスモスピンクをブラックに改造。それによって、ダイコンレッドとオオグテブルーは大ピンチに。 どうする、どうなる?カッセイカマン。
「たまにはフキョーダを勝たせてやったらいいのに」とはいっても、そのような結末にしたら、それを観ていた子供たちにどのような影響が出るかわかりません。



その舞台を終えたばかりのカッセイカマンが武田菱丸と一緒にポーズを決めていたので、その様子を撮っておきました。 ちなみに武田菱丸は、ご当地の戦国武将こと武田信玄と、甲斐犬をモチーフにしたキャラクターであります。先ほどは密かにフキョーダを応援していたのですけど、そこにはカッセイカマンたちと握手する私もいました。



今度は、さくまる、今川さん、直虎ちゃん、家康くんの合わせ技ですね。 こちらでも、しっかりちゃっかりと撮らせていただきました。



………と、一見楽しんでいるようですけど、まつりが終盤に差し掛かった14時になっても、白ふわのお仲間の姿が見当たりませんでした。 箔だけならともかく、波まで地面に落ちているポン菓子を拾い喰いしまくっていますし。少しぐらいならいいのですけど、そいつは甘く味付けされているので、食べ過ぎてはいけませんよ。
ステージでは、直虎音頭愛好会の皆さんによるパフォーマンスのあとは、ゆるキャラステージが控えていました。 それに備えて、今のうちに私がトイレに行こうとしたら………

明らかにスピッツの姿かたちをした犬を連れた夫婦が、やって来たではありませんか これはぜひ箔波ちゃを引き連れて、突撃インタビューをしなければ。



こちらの子の名前はさくらちゃんで、8歳の女の子です。 また、彼女のご一家はこちらの会場の近くに住んでいるそうです。彼女の飼い主さんはとても気さくな方で、初対面の私たちにも親しく接してくださって、都田地区にはさらなるスピッツがいるという情報も教えていただきました。 ということで、私たちにとっての今年初スピッツは、さくらちゃんになりました。
彼女の飼い主さんはスピ仲間を集っているみたいなので、またお逢いできるといいですね。その日が来るまで、さようなら〜

………と、見送った直後に、今度はやよっちさんレオン君くまちゃんを連れてやって来ましたよ もう私は、盆と正月が同時にやって来たほどの大騒ぎでした。 これは、さくらちゃんたちを引き留めて、やよっちさん一行とご対面させねば



その結果、会場のスピ口密度が一気に増えました。 なんかわやわやとしてしまいましたけど、その時の様子を端的に表しています。



そのような中で、昨年の末にやよっちさん家の新たな家族となったくまちゃんとも、初めて逢うことができました。 生後4ヶ月で、波もそのくらいの頃に地元のお仲間にお披露目しましたね。ただし、くまちゃんのほうが社交的で活発でしたよ。



そのくまちゃんは子供たちにも人気で、ゆるキャラに代わって癒しを与えていました。



ちょうどその頃、ステージには各地のご当地キャラやご当地ヒーローが集まっていました。あまりに多くて、ステージの上に乗り切れないほどでしたよ。



そんな彼らを見つめる客席のほうも、たくさんの人であふれていました。 その頃の私は、大盛りのおかわりが続いたこともあって、トイレのことはすっかり忘れていました。



最大の魅せ場を終えたゆるキャラたちは、ステージから降りてグリーティングに。 レオン君とくまちゃんが、直虎ちゃんといい感じで撮影に挑んでいたので………



箔と波も同じようにやってみました。



調子に乗った私は、今度は武田菱丸君にもお願いして、犬同士の写真を撮りました。 それにしても、こちらのワンコもやけにキレイなような………
※わ~~~、それ以上は言っちゃダメ!山梨県なので、信玄公の隠し湯にでも入ってきたということにしておいてください。(編集部注)



楽しい「北区 De まつり」も、早いもので締めの餅まきを残すだけとなってしまいました。 昨年と同じように、今回も拾う人と同じレベルの高さから投げるみたいですね。やはり、餅拾いはポジショニングでほぼ決まるのですけど、それは運や勘に頼るしかなく………



その結果、私もたつぴも19コの餅を持ち帰ることができました。 合わせて40コ近くは、大収穫ですよ。ただし、一緒に拾ったお菓子のほうはたつぴのほうが多かったので、今回は彼の勝ちとなります。

「北区 De まつり」は、それ自体に楽しめる要素がたくさん詰まっているのですけど、ワンコを連れて気軽に行くこともできるので、毎年ハズせません。それに、今回は終盤になって大いに盛り上がりましたし。なので、来年の開催を今から楽しみにしています。


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「猫の日」にすること

2017-03-08 01:15:48 | ニャンコ
こんばんは、白黒茶々です。
すでに過ぎてしまいましたけど、2月22日は語呂合わせで「猫の日」でした。 白黒茶々家はみんなして猫好きで、4匹の猫と暮らしていることもあって、その猫の日のことは意識していました。 しかし、その日は何をしたらいいのか何も思い付かないまま見過ごしてしまいました。



猫の日にすることは………
◎目の前にいる猫を撫でたり抱っこしたりして愛でる……… は、毎日のようにやっていることですし。
◎猫が喜ぶようなおやつをあげる……… これも、いつも箔母さんがやっていますし。
◎猫と一緒におでかけ……… 猫は犬とは違って、家から出されるのを嫌う場合が多いのですよ。特に銀ちゃは、車に乗せただけで大泣きし、あげくの果てにはゲロを吐くということが、以前にありました。

とりあえず「猫の日」を意識して猫に働きかけをするようなことは置いておいて、日常の白黒茶々家のニャンズの様子を観察してみることにします。ひょっとしたら、その中にヒントが隠されているかも知れませんね。



まずは、朝8時の各々のポジションからです。 最年長の6歳の銀ちゃは、こたつの上にいますね。



そのこたつの中には、次にお姉さんの5歳の京ちゃがもぐって、丸まっていました。



さらに、私の頭上の冷蔵庫の上では、もうじき2歳になる晃ちゃが威厳を放っているように見えます。あと、彼と同年代の緑ちゃは………



いました、ご飯を食べているところでした。
そうしたら、「猫の日」にちなんだ行為で、彼らが喜びそうなことは、う~~~む………

助けを求めるように、猫と犬が共存しているヴィヴィアル家のその日の日記をのぞいてみたら、みんなして猫のかぶりものをしていました。 こ、これだ



そういえば、かなり前に箔母さんがガチャガチャ(ガチャのほうが一般的でしょうか?いわゆるカプセルトイのことです)で猫専用のかぶりものを見つけ、思わず手を出していました。 そのあと、ウチの全ニャンが犠牲、いや、可愛らしさを演出してもらったことは言うまでもありません。



まず白い羊さんを引き当てた箔母さんは調子に乗り、もう1種類増やしたくて再びガチャガチャに手をかけたところ……… またしても白い羊さんとなってしまいました。
その際には写真などの記録を残していなかったので、この機会に再びニャンズにかぶってもらうことにしましょう



まずは、銀ちゃからです。製品の注意書には「猫が嫌がるようでしたら、使用しないでください」とありますけど、大丈夫でしょう。たぶん、きっと。



次は、京ちゃにかぶってもらいましたけど、なんとなく表情が曇っているような……… とにかく京ちゃ、よく似合っていますよ。



3番手は、晃ちゃです。実は黒猫のモデルがかぶっているのを見て、「これは、ウチの黒猫でもやらなければ!」という衝動に駆られたのが、今回の最大の動機だったのです。



最後は、緑ちゃにやってもらいました。お腹のたぽたぽ感がいいですね……… って、褒めるのは羊の頭巾ではなくて、そっちですかい



猫は犬ほど感情を表さない生き物なのですけど、今回の実験(?)では思いっきり個性が出ているような気がします。 それに、人間のほうは満足できましたし。
メインモデルの晃ちゃはグッと堪えていたのですけど、模範例の黒猫は舌を出すほど余裕の表情でしたね。なので今回の日記は、晃ちゃが舌をしまい忘れたときのショットで締めさせていただきます。


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田沼意次の夢のあと

2017-03-04 01:15:04 | 人物伝
こんばんは、白黒茶々です。
春の訪れとともにワンコイベントやオフ会など、お仲間と逢う機会が増えていくのですけど、それまでの白黒茶々家の行動は、単独で歴史散歩のようなものをするのがメインとなっていました。 そういうこともあって、もう少し歴史ネタにお付き合いくださいませ。 そのような路線で、今回題材に挙げたのは………



日記のタイトルにも出ている通り、田沼意次(おきつぐ)公(以下敬称略)であります。皆様も彼の名前は、教科書で見られたことがあると思います。 意次は江戸時代中期に幕府の要職の老中に就き、諸々の改革を推し進めていきました。しかし、賄賂(ワイロ)好きな政治家という悪評が憑いたうえに失脚するという、悪いイメージを引きずっているのではないでしょうか?
そこで、またしても箔波茶々の歴史探険隊の出番です 今回は田沼意次にゆかりのある場所を訪れつつ、彼の人物像を探ってみようと思います。



ということで、私・の白黒茶々家の1人と2頭は、静岡県牧之原市相良というところにやって来ましたよ ところで、地名となっている「相良」って、皆様は読めるでしょうか?正解は「さがら」であります。ちなみに私たちの目の前にある立派な建物は、かつては相良町役場だった牧之原市役所の相良庁舎にございます。



その向かいには、「相良城本丸跡」という石碑が立っています。 実はこのあたりには、田沼意次の居城だった相良城があったのですよ。すでに日が傾いて逆光で見えにくいので………



こちらの石碑で、いかがでしょうか?「相良城址」と刻まれているみたいですけど、難しい書体ですね。 その相良城の本丸跡には現在………



このような城郭風の立派な建物がそびえ立っています。 ただし、この地域の歴史や田沼意次にまつわる資料を展示している牧之原市史料館はこちらの1階部分だけで、その上はホールとなっています。



相良小学校の外側には、お城の二の丸の土塁と、その上には松が残っています。
田沼意次は、紀州藩主徳川吉宗が8代将軍となって江戸に上がったときに、300石(のちに600石に加増)の旗本として彼のお供をしていた意行(もとゆき)の子として、享保4年(1719年)に江戸で生まれました。ちなみに、幼名は龍助。その後、彼は吉宗に才能を見いだされ、吉宗の子の家重の小姓として取り立てられました。 のちに9代将軍となった家重は、意次のことを「またうどのもの(正直者・律儀者)」と高く評価していて、「正直者・律儀者なので、よく信任して用いなさい」と言い遺しました。



校庭の内側にあるこちらの松も、相良城の遺構のようですね。
そして10代将軍家治のときに、意次は側用人から老中職に大抜擢されたのです それにともなって、石高のほうも劇的に加増されていき、最終的には5万7千石の大名となりました。



宝暦8年(1758年)に相良藩主となった意次は、その10年後の明和5年(1768年)に相良御殿があった地に相良城を築城。12年もかけて、安永9年(1780年)に完成させました。 その規模は東西500m、南北450mで総面積の約22万5�は、東京ドーム約5コぶんの広さ。総石垣づくりで3重のお堀に囲まれ、その上には3層天守を含めた白壁の城郭がそびえ立っていました。遠くの海上からも眺められたそのお城は、竜宮城のような素晴らしいものだったそうです。



近くにあった看板のワンコの顔が、アート過ぎて強烈です
家治のもとで老中となった意次は、幕府の中心にいながら財政を立て直すために画期的な政策を次々と打ち出していきました。 そのいくつかを挙げていくと………

経済面では、今までになかった「予算」という概念を初めて打ち立てて、計画管理財政を実施。また、東日本と西日本で別々に出回っていた通貨を統一し、流通しやすくしました。 さらに、海外貿易では金銀の流出を抑え、海産加工品を輸出したりして外貨の獲得に努めました。 それから、農民からの年貢はそのままにして、商人には流通税を課したのですけど、その代わりに流通の独占権を与える「株仲間」という税制改革もおこないました。

社会面では、印旛沼の干拓工事や、蝦夷地の開発計画を打ち立てました。



相良庁舎の東側の小路に沿った水路には………



相良城の数少ない遺構として、仙台河岸(せんだいがし)の石垣が残っています。江戸時代初期頃から発展した、切り石を隙間なく積んだ「切り込みハギ」という工法で築かれた石垣が美しいですね。
意次は領国の相良では、道路を4間にし、城下町を整備するなかで屋根の瓦葺きを推進させ、貧しい人にはお金を与えました。
飢饉対策にもぬかりはなく、天明の飢饉の際には、領民に50日ぶんの食料費を与え、願書を出せば返さなくてもいいようにしました。



さらに、こちらを起点として榛原、吉田、大井川を経て藤枝宿に至る田沼街道だけではなく相良港も整備し、陸路と航路の流通をより便利にしました。

しかし、そのような意次の改革を快く思わない人もいたのです。小さな旗本から成り上がったのが、気に入らなかったのかも知れませんね。 それに加えて、その頃には江戸の大火災や浅間山の噴火、江戸の大洪水といった災害に飢饉も起こって、その不安や不満は幕府や意次に向けられました。さらに最大の理解者だった徳川家治が亡くなったこともあって、天明7年(1787年)に彼は老中を失脚させられてしまいました。

意次は、その翌年の天明8年(1788年)に亡くなりました。享年70歳。同じ年に相良城は徹底的に破却され「竜宮城のようだ」と言われた名城は、わずか8年で姿を消してしまいました。



意次の代わりに老中になったのは、8代将軍吉宗の孫にあたる奥州白河藩主・松平定信であります。彼が寛政の改革を執行したことは、皆様も教科書のほうですでにご存知かと思います。
しかしその改革の中身は、財政再建を歳出削減によっておこない、通貨制度を旧来のものに戻し、米作重視のために農民を農村に縛り付け、外国との貿易を規制し、印旛沼や蝦夷地の開発を中止し、朱子学以外の学問を禁止し、………といった、田沼政治を否定するものばかりでした。 それに加えて倹約の強制や、出版・思想の統制など締め付けが強く、時代に逆行する政策だったこともあって、6年で終了。結果的に、幕府の権威をより弱めてしまいました。



牧之原市の南の外れ、御前崎市との境となる地頭方地区には、桃林堂さんという和菓子屋があります。 今回の田沼意次レポートは、そのお店の名物を買ってきて締めることにします。 そのような流れで、私が手にしたお土産は………



ワイロ最中なるものにございます。 意次の賄賂政治家という悪評を、逆手にとった商品ですね。それにしても、この商品のどのあたりがワイロなのか、さっそく検証&試食してみることにしましょう



なんか、箱の側面にはこのようなただし書きがありましたよ。 正しい論理感と遊び心?もちろんありますよ 私の場合は、それらの他にも好奇心も併せ持っているのですけど。



箱を開けたら、饅頭……… の写真に加えて、このようなセリフも。これは、二重底になっていることを表現しているみたいですね。 あやしいニオイがする、その饅頭の下には………



小判……… の形をした最中が6コ詰められていました。 それだけではなく、金のパッケージに入ったティーパックの相良茶2袋と、「したこゝろ」と記された、のし袋も。



そうしたら小判、いや、ワイロ最中をいっただきま~す 今回、私は粒あん入りにしたのですけど、お店では抹茶あんも選ぶことができます。ちなみにこのワイロセットは、税込1000円にございます。
このワイロ最中は、田沼意次の悪評に一役買っているようにも見えるのですけど、その蓋の裏側には、彼の功績が丁寧にまとめられています。

意次に取って代わって老中に登板した松平定信とその政権は、自分の政策を正当化させるためにも、意次の政治をことごとく否定しました。また、田沼政治がうまく機能する前に終了させられたこともあって、悪評が広まってしまいました。 しかし、賄賂汚職・悪徳政治家といった悪評はのちにつくられたもので、全く根拠のないものでした。
意次の政策は革新的で先進的、画期的でもあり、さらには庶民思いでした。しかし、当時の日本を藩という枠でしか物事を考えられなかった人々には、なかなか理解されませんでした。そんな彼が、最近になって見直されてきているみたいですね。皆様も先入観を取っ払って、社会の変化を的確にとらえ、新時代を見据えた天才的な政治家・田沼意次に思いを馳せてみてくださいませ。


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新野左馬助の里を訪ねて

2017-03-01 01:07:12 | 人物伝
こんばんは、白黒茶々です。
大河ドラマ「おんな城主 直虎」には、ドラマ化されるまでは一般的にほとんど知られていなかった人物がたくさん出てくるのですけど、刈谷俊介さん演じる新野左馬助(にいのさまのすけ)もそのうちの1人でした。 彼は今川家の一族ということもあって、井伊家の目付役として井伊谷に赴任し、さらにドラマでは千賀(財前直見)という名の妹も、井伊家の当主の直盛(杉本哲太)に嫁いでいきました。その2人の間に生まれたのが、のちに直虎となる次郎法師(柴咲コウ)なのですよ。 ということは、左馬助は次郎法師の母方の叔父に当たります。
その左馬助の出身地は、今の静岡県御前崎市の北部、菊川市との境に近い新野地区であります。 そのあたりは現在、彼を慕い誇りに思っている地元の方たちによって見どころが整備されています。ということで、今回は左馬助にまつわる名所旧跡を廻りつつ、彼の人物像を探ってみようと思います。それからその案内役として、またしても箔と波を任命させていただきます。



そのような流れで、やって来ましたよ 御前崎市の新野地区に。 ちなみに私の目の前にあるのは、地域の小さなスーパーにできた観光案内所「よってかまい」にございます。 こちらは、左馬助関連のスポットの案内はもちろんのこと………



案内地図が大々的に掲げられていて、パンフレットや関連グッズも取り揃えられていました。 あと、外部にトイレが新設されているのも、ありがたいですね。では、その案内に従って出発することにしましょう



御前崎市内の至るところには、このような「新野左馬助公の里」というのぼりが立っていました。 左馬助のフルネームは、新野左馬助親矩(ちかのり)。今川氏の一族として、代々新野村3000石を治める国人領主でした。



「よってかまい」から程近いところには、新野左馬助公展示館がありました。 せっかくなので、その内部を見学させてもらいましょう。
※話の流れでは2箇所目となっているのですけど、展示館の内部は箔と波を車の中に入れてから、最後に見学しました。(白黒茶々注



こちらは何かの古い施設のようだと思われたそこのアナタは、鋭いです 左馬助の展示館は、昭和8年(1933年)に建てられた鈴木医院という町の診療所だったところを利用して、今年の1月に開館しました。 そういうこともあって………



医院だった頃の診察室も、そのまま保存されているのですよ。 その医師だった鈴木東洋氏は地域の医療に携わる一方で、左馬助を祀る左馬武(さまたけ)神社が荒廃していることを憂い、新野左馬助公遺跡保存会を設立。保存会は神社を改築したあとに献茶祭事業も始め、新野左馬助公顕彰会となって、今に至ります。



こちらの部屋には、左馬助の居城だったと伝わる、舟ヶ谷の城山の模型を中心とした展示がなされています。 東洋氏は古城研究にも熱心で、静岡古城研究会を設立。御前崎市内の古城の発見や研究、保存に尽力しました。
平成25年(2013年)に88歳で亡くなるまで、彼は積極的に活動されていました。



さらに、展示館内には左馬助の姿絵もありました。 彼の肖像画は残っていないというので、これはイメージ画みたいなものでしょうか?



ちなみに、刈谷俊介さんが演じる左馬助は、このような姿となっております。 独特のシブさがあるので、今後他のドラマで第2第3の左馬助が出てくることになったとしたら、苦労しそうです。



さらに、その刈谷俊介さんの直筆サインも飾ってありましたよ 彼は撮影するにあたってこの地を訪れ、左馬武神社も参拝していったそうです。そうしたら、私たちも次はそちらに向かうことにしましょう。



その途中に、新野小学校跡がありました。 その小学校は昭和52年(1977年)に朝比奈小学校と統合し、浜岡北小学校となって閉校したのですけど、その跡地が新野柏木広場となった現在でも、校名の刻まれた門柱が残されているのですよ。



さらにその先に進んでいったら、私たちを歓迎するような「新野左馬助公の里」という大々的な看板が見えてきました。 左馬武神社は、左に入っていくのですね。いや、ちょっと待ってください。



そのウェルカム看板(?)の後ろには、無人販売がありましたよ しかも、新鮮で形が整っているレタスが2コも入って100円というではありませんか 昨今は、不作で野菜が高騰しているだけに、とてもありがたいです。そうしたら、帰りに買っていくことにしましょう。



左馬助からちょっと脱線してしまいましたけど、ようやく左馬武神社のある小山が見えてきましたよ ここから先の話には「おんな城主 直虎」のネタバレも含まれているので、ご注意くださいませ。



左馬助は今川家の家臣だったのですけど、今川家との同盟のために妹の千賀が井伊家に嫁いだため、目付役として井伊谷に屋敷を構えて移り住みました。 監視する役割だったのですけど、井伊家によく馴染み、井伊家の立場で物事を考えるようになりました。
………と言いながら、坂道を上っていきますよ。



そうしたら、ようやく左馬武神社にたどり着きました。
永禄5年(1562年)、井伊直親(三浦春馬)は小野正次(高橋一生)の讒言によって、今川氏真(尾上松也)に謀反を疑われました。 直親はその弁明のために、今川館のある駿府に向かったのですけど、その途中の掛川で今川の配下の朝比奈氏によって惨殺されてしまいました。
事態はそれだけでは収まらず、氏真は直親の遺児となったわずか2歳の虎松まで殺害するように命じました。井伊家で生き残っている男子は最長老の直平(前田吟)以外は虎松しかいないので、殺されたら井伊家は滅亡してしまいますよ。



左馬武神社から見た、舟ヶ谷の城山方面はこのような風景となっております。
そこで立ち上がったのが、左馬助であります。彼は虎松の助命を嘆願したのです。今川方の家臣なので、そのことによって彼までも殺される恐れがあったのですけど、危険を省みないで説得し続けました。そのカイあって、なんとか虎松を守り抜き、彼の屋敷にかくまうことに。



神社の屋根の下にある墓塔が、左馬助のお墓であります。虎松の助命嘆願の翌年の永禄6年(1563年)には、天方攻めに向かう途中で、直平が急死。その前に立ち寄った引馬城で、飯尾連竜の妻のお田鶴の方によって、彼は毒を盛られたとも云われています。

そのまた翌年の永禄7年(1564年)、左馬助は氏真に背いた連竜のいる引馬城を攻めたのですけど、その戦いで中野直由(筧利夫)とともに討ち死にしてしまいました。

虎松はやがて徳川家康のもとで頭角を表し、井伊直政と名乗って近江彦根藩の礎を築きました。 ここでもう1つ、ネタばらししてもいいでしょうか? 「おんな城主 直虎」では、直政役は管田将暉君が演じるのですけど、その幼少期の虎松は、寺田心君に決まりました。 TOTOネオレストのCMでリトルベンを演じている、あの心君ですよ これは、育て親の直虎だけではなく、視聴者の母性本能もくすぐること間違いナシでしょう。



通りかかったオバちゃんたちの手を借りて、なんとか左馬助と直虎の二冠は達成したのですけど、虎松が空白に………
虎松の命は、直虎の力だけでは救えなかったと思います。なので、井伊家が存続できたのも、左馬助が命をかけたおかげだと言ってもいいでしょう。彼は「義と情けの武将」として、地元の方に慕われているのにも、納得がいきました。 左馬助のその生きざまだけではなく、彼に対する地元の方たちの想いにも、私は感動しました。
ドラマの中での左馬助の最大の魅せ場と、刈谷俊介さんのクランクアウトまであと少し。皆さんもぜひ、お見逃しのないように


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