こんばんは、白黒茶々です。
年の瀬が迫った12月15日に、私は波と狛を伴って掛川市を訪れました。 掛川城と掛川古城を散策してからも、まだ時間と体力に余裕があった……… というよりは、もともとそれだけで終わるつもりはなかったので、さらなる目的地に向かいました。
そのような勢いで、私たちが向かったところは………
掛川市東部の旧日坂宿の近くにある、事任(ことのまま)八幡宮さんでした こちらは由緒ある神社なのですけど、ワンコにも優しくて、一緒に参拝することができます。
事任八幡宮は、成務天皇の御代(西暦190年頃)に創建され、平安時代の大同2年(807年)に現在の場所に移されたとされています。 「枕草子」にも名前が記され、“願い事がことのままに叶う神社”として信仰されています。
ちなみに、主祭神は己等乃麻知媛命(ことのまちひめのみこと)であります。
願い事を口に出して言うとより叶うというので、私は「癌の手術で体が弱った母が、元気になって長生きできますように」と、お願いしました。
神社の境内にはいくつかの巨木があって、厳かな雰囲気がより漂っています。 拝殿の右奥には、「八幡宮の大杉様」と呼ばれる御神木の大杉があります。
根回り11.2m。 高さが35.6mもあるそうです
祈願ロウソクを立てて祈願すると、願い事が天に届くと云われていて、パワースポットでもあるみたいです。
事任八幡宮でのお詣りを終えたら、この日の最終目的地となる粟ヶ岳に向かいますよ その山は車で上れないこともないのですけど………
山頂に続く道は、幅が車1台がなんとか通れるぐらいしかないうえに、かなり曲がりくねっています。 ヘアピンカーブもありますし、頼むから対向車来ないで〜
………なんて言っていたら、来てしまいましたっ
それでも、退避スペースの近くだったので、なんとかやり過ごすことができました。
その後も、もう2台程すれ違いました。
そんな険しい道が4km程、続くのですよ。
そうしているうちに………
ようやく山頂の駐車場まで行き着くことができました 粟ヶ岳は標高が532mもあるので、「高い」を通り越して天界に来たような気分になりました。
こちらは標高の高い山ということもあって………
テレビ局やラジオ局などの電波塔が林立しています。 さらにその奥には………
阿波々神社……… あなみなみじんじゃ? いや、アババ神社? 読み方はわからないのですけど、立派な神社がありました
このような山岳にこれほどの規模の社殿を造るなんて、スゴいことです
※阿波々神社は「あわわじんじゃ」と読みます。(編集部調べ)
せっかくなので、標高500m以上もある天空で「狛(犬)と狛」をやっておきましょう 注文したワケではないのに、狛は吽形の狛犬に合わせて口を閉じてくれました。
話は変わって、阿波々神社は天平8年(736年)に創建されたと云われる、歴史のある神社です。 掛川(古)城主だった朝比奈氏に代々崇拝され、近代に山頂まで自動車道が開通したのに伴って、社殿や社務所も整備されました。
また、その神社の裏側には………
粟ヶ岳の頂上があるのですよ しかし、そのまわりは木が茂っているので、見晴らしは良くありません。
それはさておき、粟ヶ岳には「無限の鐘」の伝説があります。
第45代聖武天皇の天平年中(西暦729~748年)のことである。小夜の中山の東の坂を下ると、菊川の里という所があり、その里(菊水の滝)に仙人が住んでいた。その仙人が常に信仰している不動明王の誓願によって、鐘を供えることを考え、小さな釣り鐘を作り、粟ヶ岳の頂上の古い松の枝に掛けた。 この鐘を一度突くと災難を免れ、二度突くと病難を除き、三度突くと家が栄え、四度突くと運が開けて出世をし、五度突くと子孫までも栄え、六度突くと武運長久となり、七度突く者は末永く長者になれるという噂が広まった。 この噂を聞いて、鐘を突こうとして登山する者が多くなった。しかし、当時は道も小さく、しっかりできていないので、足を滑らして谷底に落ち、怪我をしたり、死ぬ者が多く出た。そのため、誰れ言うとなく「地獄へ落ちる鐘」と恐れられた。 小鮒川の畔に、一人の長者がいた。この人は強悪無道な人なので、人々は、荒石長者と呼んでいた。この長者も、世の常の人のように、人に勧められ、末長く長者になれると信じ、欲に誘われて鐘を突きに出かけた。どうやら粟ヶ岳の頂上に登り、松の枝に釣ってある鐘を張り合い込んで突いた。ところがどうしたところであろう、鐘を突くと同時にそのまま地獄の底に落ちていった。
三度の食事は、みんな蛭となってしまって、食べることができず、大変な苦しみにあって、憐れな最期を遂げたということである。
それから「女房の朝寝と無間の鐘は、朝のご飯が蛭(昼)になる」という歌が歌われ、今も伝わっている。 このように、罪多い人たちが鐘を突いたので不幸を招いたのであるが、この鐘があるために世人を惑わし、更に罪を作り出しているということは発願者の意図に反することである。そこで、天禄二年(西暦972年)住僧は、この鐘を外して頂上の井戸(約百米)の底に埋めてしまった。この井戸を無間の井戸という。(「史跡と伝説」掛川市商工観光課)より)
阿波々神社の境内にはその「無間の井戸」の跡があるのですけど、私は気付かずにスルーしてきてしまいました。
………が、私が無間の井戸の存在を知ったのは、今回の散策から帰った後のこと。 なので、この時点では何の澱みもなく、粟ヶ岳世界農業遺産茶草場テラスからの見晴らしを堪能していました。
そこに広がる風景は天界から見下ろしているかのようで、大井川の流れや島田市街を手に取るように眺めることができました。
そうしている中で、「後ろ姿のお坊さんみたいな像は何?」という声が聞こえてきたみたいなので、お答えします。
こちらは栄西禅師という、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧です。 彼は、中国から茶種を持ち帰り、喫茶の法を普及させた「茶祖」でもあります。
今は粟ヶ岳から、お茶の生産が盛んなこの地域を見守っています。
あとその近くには、今年の干支となる巳も造られていました。 年賀状の写真に使いたくなるのですけど、今年は出すことはできませんでした。
なので、この巨大なヘビでもって、今回の日記を締めさせていただきます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます