こんばんは、白黒茶々です。
前回、長時間の列車の旅で丹波篠山にやってきた私とたつぴは、最初の目的地となる篠山城を前にして、一旦日記を仕舞いました。 悪意はないのですけど、なんか「コトの真相はCMのあとで
」みたいになってしてしまいました。なので、今回はその続きからとなります。
私たちの目の前には、お堀と高い石垣、それに御殿の立派な屋根が聳えています。 こちらの篠山城は、関ヶ原の戦いの後に、豊臣氏の居城の大坂城の包囲と、豊臣ゆかりの西日本の諸大名を抑える拠点として、慶長14年(1609年)に徳川家康の命令によって築かれました。
縄張りは築城の名手・藤堂高虎が、普請の指揮は姫路城を築いた池田輝政がそれぞれ担当しました。
そして、西日本の緒大名が駆り出され、現場を分担する「天下普請」の突貫工事によって、わずか1年足らずで完成しました。
篠山城には、藤堂高虎が手掛けたお城の特徴が所々に表れています。 縄張りは直線的なのですけど、随所に折れをつけて、死角をなくすようにしてます。また、高い石垣の下に犬走りと呼ばれる通路のような段が廻っていて、さらにその外側にお堀があります。これは構造的にも丈夫で、石垣とお堀の工事が同時にできるという利点もあります。
本丸の南側の下の、三の丸から見た高い石垣は圧巻です。 ちなみに右側のひときわ高い部分は天守台で、高さは16mもあります。しかし、現在その下に埋まっているお堀と犬走りを本来の姿に戻す工事をしているところみたいですね。
このような立派なお城が、わずかな期間で出来上がったのですけど、徳川家康の意図によって天守台の上に天守は建てられませんでした。
それでもその天守台に上れば、南側の町並みやまわりの山々を臨むことができます。
そのついでに、二の丸の裏口となる埋門(うずみもん)も見ておきたいですね。 こちらの通路は、非常時には埋めて遮断できる構造となっています。
ここで一旦、お城の敷地の外に出てみます。 篠山城には入口が3ヵ所あって、そのうちの南と東の2ヶ所に馬出しと呼ばれる、まっすぐ入れないうえに城兵に狙われる構造のトラップが現存しています。
篠山城は歴史的に価値があり、保存状態が良いこともあって、昭和31年(1956年)に国の史跡に指定されました。
………と、お城をぐるっと廻ってきたのですけど、実はもう1ヵ所大きな見どころがあるのですよ 高い石垣の上に見えていた立派な屋根の建物がずっと気になっていたそこのアナタは、目の付け所がいいですね
明治になってから、篠山城の建物はことごとく取り壊されたのですけど、二の丸にあった大書院だけは残されました。 貴重な城郭御殿の建物だったのですけど、惜しくも昭和19年(1944年)に失火で焼失してしまいました。
それから56年後の平成12年(2000年)に、創建当時の姿に復元されました。 屋根は入母屋造りの、薄くスライスした木の板を重ねた柿(こけら)葺きで、延べ床面積は739,33㎡。棟高は12,88mもあります。
そのうち、玄関のある建物は展示スペースとなっていて、篠山城の復元模型や歴史資料、お城の歴史を紹介するシアターなどが見られます。 それらを見学したら、いよいよ大書院の建物へ
入ってすぐのところにある虎之間は36畳もあり、大書院で最も広い部屋なのですよ。 またこちらには、戦国武将の甲冑がずらりと並んでいますね。
部屋を囲んでいる通路(広縁)の雨戸は閉めきられているのですけど、この広さと薄暗さからは建物の重厚さと格式の高さが感じられます。
そしてこちらの上段の間は、大書院で最も格式の高い部屋であります 大床の松の絵や帳台構、付書院などを備え、帳台構の裏側にはお殿様の護衛が潜む、武者隠しのようなスペースが設けられています。私たちが入った時はたまたま空いていて、大書院を独占する贅沢な時間を過ごすことができました。
丹波篠山といえば、篠山城の他にはデカンショ祭りも有名ですよね その祭りはお城の三の丸をメイン会場にしておこなわれるみたいで、その準備はすでに整っていました。この翌日の15日からおこなわれることになっているのですけど、台風の影響がなければいいですね。
篠山城の散策はいたって順調で、予定していた時間より1時間ほど早く見終わってしまいました。
また、こちらは陽の出ている時間が長くてけっこう暑かったので、乗る予定のバスが来るまで、お城の近くにある旧篠山町役場こと丹波篠山大正ロマン館で涼んでいくことにしました。 さらに喉を潤すつもりだったのに、どうしてもホットコーヒーを注文してしまうのですよ。
そのあと、私たちは篠山口駅から再び列車に乗っていき、30分ほどのところにある………
柏原駅で下車しました。 丹波市の柏原は「かしわばら」でも「かしわら」でもなく、「かいばら」と読みます。
個性的なその駅舎をやり過ごし、町並みを歩いていったら………
レトロな洋館が見えてきました。 こちらは昭和10年(1935年)に建てられた、旧柏原町の役場だった建物であります。
現在は展示施設にでもなっているのかと思いきや、丹波市柏原支所として使われているなんて、驚きです
またそのすぐ近くには、けやきの巨木の根っこが橋(の欄干)のように川を跨いでいる木の根橋がありました。ちなみにこれは、県の文化財に指定されています。
さらに石田大蔵神社の境内には、柏原陣屋の太鼓櫓があります。正徳4年(1714年)の陣屋の創建時に建てられ、明治初期に現在の場所に移築されました。 ここからさらに東の方向へ7分ほど歩いていくと………
柏原陣屋の表御門となる長屋門の前に行き着きます。 さきほどから出ている陣屋とは、小藩の大名の藩庁が置かれた屋敷のことで、石垣やお堀といった防御施設は簡略化されているのですけど、城郭に分類されます。
慶長3年(1598年)に織田信長の弟の信包(のぶかね)が3万6千石でこの地に移封されて柏原藩が成立したのですけど、3代目の信勝の代で廃絶してしまいました。 それから45年後の元禄8年(1695年)に、今度は信長の次男の信雄の玄孫(いわゆる孫の孫)に当たる信休(のぶやす)が2万石に縮小されつつも、柏原藩の領地を与えられました。
それから20年ほど経ってから陣屋の造営をおこない、表御門はその当時のまま現存しています。このまま陣屋に突入したいところなのですけど………
その入場券は、向かいにあるこちらの柏原歴史民俗資料館でお買い求めくださいませ。 ちなみに共通の入館料は大人200円にございます。
こちらの資料館には、柏原陣屋の復元模型や柏原藩の歴史に関する資料の他に、この地方が生んだ女性俳人の田 ステ女にまつわる展示もされています。 それらを見終わったら、いよいよ陣屋の表御殿へ
ちなみにこの写真は、16年前に私が初めて訪れた際に撮ったものです。 建物の両脇には手入れの行き届いた立派な木が植わっているのですけど、失礼を承知で申し上げるとジャマですね。
しかし、その年月の間にそれらの木は他の場所に移植され、さらに表御殿やその周辺も整備工事がおこなわれて………
現在ではこんなにもスッキリさっぱりしています。 こちらの表御殿は文政3年(1820年)に建てられ、藩主が藩士や来客と対面するなど、公式の場として使われました。
玄関の屋根は桧の樹皮を重ね合わせた桧皮葺きで、千鳥破風と唐破風を組み合わせています。また、建物の外観は桃山時代風の書院造で………
入ってすぐのところにある玄関の間は、威厳と開放感がありますね。
畳敷きの廊下(入側)は、篠山城の大書院と同じように雨戸が閉めきられているのですけど、センサーで照明が点くようになっているので、どうかご心配なく。
書院次の間の向こうには、花頭窓のような出入り口が見えますね。嗚呼、そこを出入りしてみたい
そしてさらにその最深部には、書院上の間があります。 こちらは藩主が藩士や来客と対面した場所と思われます。
現存しているのは玄関と書院の一部だけなのですけど、御殿建築が残っている陣屋は数少ないので、とても貴重です。そのようなことから、昭和46年(1971年)には国の史跡に指定されました。
こちらの陣屋の見学もさらっと終わってしまって……… というよりは、またしても私たちの貸し切り状態で、順路を2周しても時間が余ったので、予定より30分ほど早くこの地をあとにしました。 柏原から列車に乗ること30分ほどで………
福知山駅に到着しました。私がこちら方面に来たのは、16年ぶりでしょうか?その間に線路は高架化され、駅舎もモダンな姿に建て替えられていました。 あとは舞鶴線に乗り換えて、宿泊地となる舞鶴市に向かうだけですけど、その前に福知山で晩御飯を食べていくことにしましょう。
とはいっても、ご当地食が食べられるお店などは探したりしないで、駅に隣接している無難な全国チェーン店に入ることにしました。 それでも、私にとって餃子の王将はかなり久しぶりなのですよ
炒飯と何かのセットにしようか迷ったのですけど、結局2人とも餃子やスープなどが付いてお得感満載な焼肉セットにしました。 ま、まあ、炒飯は明日のお昼か晩にでも食べるということで。
さらに私たちは舞鶴線で丹後方面に向かい………
ワンマン列車+ローカル線+単線の線路を走ること40分ほどで、西舞鶴駅に行き着きました。こちらは全面ガラス張りで、おしゃれな駅舎ですね とはいっても、前回私が訪れた時と変わっていませんけど。
そこから程近いところに………
この旅行の宿となる、プラザホテル舞鶴はあります。 西舞鶴駅もそうだったのですけど、私たちが着いたのは日没後で、皆さまに全体像が分かりづらい状態ではナンなので、翌朝に撮ったものを載せさせていただきました。
部屋は割安のエコノミーツインということもあって少々狭いのですけど、きれいですし私たちにとっては差し障りのない広さでした。 翌日の天気は何回見ても台風接近で厳重注意となっていたのですけど、それに反して窓の外にはきれいなお月様が浮かんでいました。
果たして天気予報は覆って、私たちは目的のお城を踏破できるのでしょうか?いや、事態が急変して、台風に巻き込まれたりしないでしょうか?
その結果は、次回の日記に綴らせていただきます。