増補 日本文學史 池田秋旻 氏著
一部加筆 山梨県歴史文学館 山口素堂資料室
第四章 連歌の格調
今『筑波集』其の他の諸書に出でたる、連歌の二三を掲げて、
當時の格調を示さん。
かゞみの山に月ぞさやげき
にほてるやにはほのさざなみうつり来て 家 隆
たえぬ烟とたちのぼるかな
春はまだ浅間たけのうす霞 為 家
思ふ程にはいまだうらみす
風かよふなつのゝまくすわかばにて 善 阿
空にも冬の月はすみける
やどるべき水は氷に閉られて 西 行
紹巴獨吟干句
年毎の花ならぬ世の恨かな 紹 巴
ふりにし跡も庭の春草 同
山の端の薄雪残る露みゑて 同
羽風を塞み雁わたる群 同
船とめし枕は秋のうら波に 同
月を旅寝の袖のかたしき 同
春の夢草
面影を月と花とに袖ぬれて 肖 柏
ものことになど戀はかなしき 同
花にたる況のゆうべわすれめや 同
身にまかすへき思ひともなし 同
さきかへす川に包れか落すらん 同
壁 草
われからに世のうきやのがるゝ 宗 長
誰たえて誰雲にのる身なるらん 同
いたこのたひはすみそめの袖 同
花ならでわけんもかなし吉野山 同
宗祗終焉記
消し夜の朝露分る山路かな 宗 長
名残すきうき宿の秋風 宗 碩
小荻原旅寝の月に散を見て 同
鹿のなくねも袖ぬらせとや 宗 長
物ごとあはれはくれを帰る野に 同
雲をかたみの春ぞあだなる 宗 碩
増補 日本文學史 池田秋旻 氏著
一部加筆 山梨県歴史文学館 山口素堂資料室
序文 伊東松宇
頃日書肆我が草廬を叩いて日、今回絶版同様に成て居た、日本俳諧更の版権を譲り受けましたので、之を改版して発行します、願くは先生の序文を頂きたいと云ふのであつた千日本書は既に故人角田竹冷、内藤鳴雪両氏の序文ありて十分なれば之れに予が序文などを添ふるは所謂蛇足の誹りを逃れずと、主人曰く両翁の序は仝全く版なので、今回私が発行せんとするものは、著者の増補あり、巻頭の詞ありて聊か初版のものとは面目を異にする所あり、仍りて予の序を需むるは茲に改版の一劃を立て紀るの證としたいと云ふのであつた。
従来の俳諧史にして其體を得たるもの殆ど絶無と云ふて大過はない、否な独り俳諧の歴史に止まらす他の歴史とか、正史とか云ふものにても後世に至りてより以上の新発見があれば、舊来のものは更に價値なきものになるのは當然の理である、況してや古俳人の散漫なる頭脳で揑ち上げたる怠惰や、系譜が正確であるべき筈がない。譬えば四百年来斯道の鼻祖と将して居る荒木田守武の獨吟千句は俳諧連歌の根源であると書き傳へ言ひ傳へ來つたものが、今日俳諧連歌の創始者は東山時代の相阿彌であると云ふ説が出て、斯壇に最も名高き松永貞徳や、芭蕉翁の生年月が不慥かであるなど其一例を以ても類推さるべきである、さればこそ輓近俳道に史的研究が流行し來つて、今や斯道の雑誌にして史的に関する記事を載せざるものは殆ど罕(ま)れである、此秋に於て俳人以外の人で學問識見ある著者が編し置かれたる、日本俳諧史の改版をなして以て斯道の参考に資するは、大に機宜に適したるの擧にして主人の用意至れると云ふべきである、予は本書の内容全部を悉ぐ承認する譯には行かないが、主人の懇望により聊か卑見を述べて爰に其の需に応じた次第である。
伊藤松宇識
第一篇 芭蕉以前の俳壇(前期)
第一章 連歌、俳諧時代
日本俳諧史は、延徳三年、俳諧の開拓者たる山崎宗鑑が、武門を去りて摂州尼ク崎に閉居し、風流韻事に身を委ぬるの時を以て、延徳元年、宗鑑尼ケ崎に閑居し、其の著『犬筑波集』は永正十一年代に公にさ
れ。更に二十五年を経て、守武の「獨吟千句」あり。然れども連歌と俳諧とを全く二物となせる、松永貞徳が、俳諧宗匠を免許せられ、花の本の称号を賜ひたるは、慶長三年秀吉薨去の年にして、其の後の俳壇は、全く徳川時代に属する事を知らざるべからす。
第二章 連歌の起源
日本文藝史の起源は、遠く上古に発し、其の書籍に現はれたるは、『古事記』、「日本紀」等の歌謡を初めとし、之に次で發達したるは、三十一文字の短歌なり。短歌に次で起りたる遊戯文字に、連歌と称するものあり、連歌はもと、二人にて、一首の歌を詠じたるに始まる。此事に就き、二條良基は『筑波問答』
に記して曰く。
問云……連歌はいづれの代よりはじま心にや云々、
答曰……古今仮名序に、貴之のかける、あまのうきはしのえびす歌といふは、則連歌也、先おほ紳の発句に、
あなうれしゑやうましをとめにあひぬ
とあるに女神のつけたまはく、
あなうれしゑやうましをとこにあひぬ
と付け給う也、歌を二人して云ふを連歌とは申すなり、二柱の神の発句、脇句にあらずや、此句三十一字にもあらず、みじかく侍るは、疑なき連歌と、翁心えて侍るなり、古の明匠達にも居申し侍りかば、まことにいはれ有りとぞ仰られし、また連歌とていひ置たるは、先に申し侍りつる揉に、日本紀に景行天皇の御代日本武尊の、
あづまの夷治めに向ひ給ひて、此翁か此比すみし、筑波を過て、甲要国酒打宮にとどまり給ひし時、日本武尊御句に、
珥比摩利、菟玖波塢須擬底、異玖用加禰菟流
(にいばり、つくばをすぎて、いくよかねつる)
すべて付申人のなかりしに、火をともすいはけなき童の、付て云、
伽賀奈倍底、用琲波虚々能用、比珥波菟塢伽塢
(かがなへて、よにはここのよ、ひにはとをかを)
と申侍ければ、尊ほめ給けるとなん、其後万葉集に入りたる大伴家持卿の、
さほ川の水せき入てうゑし田を
といふに、尼、
かるわさ稲はひとりになるべし
と付侍る。
かやうの事典、次第に多くなって、『拾遺集』『金葉和歌集』などよりは、
勅撰に入侍るなり、されど唯一句づゝ云い捨てたるばかりにて、五十句百句に及ぶ事はなかりき。
とあり、之れを遠く二神の世に起れりとする事の、牽強附合たるは云ふ迄もなく、また本武尊の御句の如きも、寧ろ片歌の問答にして、未だ歌詠の體を侭さざれば、之を称して連歌と云ふも、聊か常らざる所あり。殊に日本武尊の御句に附けたるは、火をともす童にあらずして、火焼の老人たる事は、『古事記』
に明らかに記載さるゝ等、良基の云ふ所も、悉く信を置くに足らずと雖も、家持の「さほ川」の歌は、正しく三十一文字の歌を二人して詠じたる初めのものにて、『八雲御抄』にも、之を以て「連歌の根源なり」とせる事、恐らく妥当の説なるべし。然らば「筑波」の二字を以て、後来連歌の集に冠するは何故ぞ、是
れ日本武尊の「にひばりつくば」の詠が、其の起源たる故に非らずやとの議論を為すものあり。此の説、一応尤もなるが如くに聞ゆれども、連歌集の名に、
「菟玖波」ての文字を、初めて用ゐたるは二隆良基にして、宗祗、宗鑑以下のものが、同じぐ之を使用したるは、皆良基に倣ひたるに過ぎず、畢意是ただ良基が、「にひばりつくば」の詠を以て、其の起源と為ししたりといふを証明する迄にて、若しも眞正連歌は、五七五七七の格にかなひたるものならざるべからやとせば、「さほ川」の歌こそ、最も適當せるものと云ふべけれ。
第三章 連歌の式目
連権の勅選に入りたるは、『後撰』に一首、『拾遺』に十六句、『続詞花』に十七句なり。
しかし當時は之を連歌と云はずして、繼歌と称え、『金葉集』に至りて、はじめて連歌の名を附することなれり。
もゝぞのゝ花を見て
桃園のもゝの花こそさきにけれ 頼経法師
うめ律の梅はちりやしねらむ 公資朝臣
しかの島を見て
つれなくたてるしかの島かな 為 助
弓張の月のいろにも驚かで 國 忠
此の種の連歌は、延喜(醍醐)、天暦(村上)の頃より、嘉永(堀川)、天曆(鳥羽)の頃まで行はれたりしが、文治(崇徳)、康治(近衛)の頃よりは、鎖連歌と称へて、句に制限を定めず、鎖の如くいひ読くることを始め、後鳥羽上皇の時、定家、定隆の輩出で、五十韻、百韻の教を定むる事となり、内定の式目をも立てゝ、之を行へり。左れば、
後鳥別院建保の頃より、しろ、くろ、また色々のふし物のひとり連歌を、定家・家隆卿などにめされ侍しより百韻なども侍るにや。(筑波門答)
つらぬることのはも、萬に書き集めし末、世々に朽ちせず、其末、水無瀬川(後鳥羽院)より流れ出で、数を連ぬる事とぞなり侍る。(さゞめこと)
後鳥羽上皇、定家、家隆則などに仰合されて、数を百韻に定め法掟などを初めて記し置かれ云々。
(梵灯庵主返答書)
近くは後鳥羽院の御比よりもて出でて百韻、五十韻などになれり、千句は 為家卿嵯峨にて申玉へるより、世に其後満はへり。(ひとり言)
昔は五十韻、百韻とて、つづくる事はなし、唯上の句にても、下の句にて云ひかけつれは、いまなからを付る也、今の様にくさる事は、中頃よりの事なり。(八雲御折)とあり、また『筑波問答』に曰く
問云、連歌に百韻と申す事はいはれあるにや、聯句は韻字を置けばこそ百韻とも申せ、連歌は定まれ
る韻の文字なければ、唯百句などとこそ申さめと云人有るは、まことに侍るにや、
答曰、其の事に侍り、京極中納言入道殿も、連歌を百韻など申、然るべからず、
聯句をこそ、類の文字あればさようにも申せ、連歌は唯百句などにて有るべしと仰られし、
さらば脇句を入韻とこそ申し侍らめ、それはまただ脇句とこそ申せ、
去ながら近比申付たる事に侍れば、今更本説を正しても、詮なき事にてぞ侍るべき、
大かたはいはれなき事ぞと、うけ給をきし、
更に百韻の事に就いて、
百句とも、百詠百吟などと云べきを、いかに類とは申ぞ、不思議可申様なし、
知る人なし、俳諧の大是事也、此数詩を以て割たる数にて、雪月花の用所明かなり、
表八句、裏十四句なり、裏十六句と数を定むべき也、律詩絶句の姿の数也、
依て表趣、四句日迄起請轉合、五句目月の座起の場也、
裏の花月の座算候へば起か何の所へ極めて當る也、再熟再心不少、依.韻字建歌の済也。
(俳諧秘要書)
當時此の仲間の無學不文なる、記する所甚だ意味の明瞭を欠きたれども、是等を総合せば、百韻の事も、概略は解し得べきが、順徳、後嵯峨の両帝の如きは、殊に斯の道を好ませ給ひ、次で後字多院の建治二年には、鎌倉藤谷為相、連歌の舊式目を定め、伏見、花園、後醍醐の三帝に至りては、御製と聞こえけるものまた頗る多く、其他数多き雲上人中、斯道に堪能なるもの少なからざりき。
後ち北朝の後光厳帝文和の末、二條良基は、救濟に命じて『筑波集』二十巻を選ばしむ、是れ連歌集の初めなり。
連歌の宗匠として、當時有名なりし者を善阿法師と為す。善阿は花園帝の應長・正和の頃、最も名聲を博し、南北朝の中葉、時の関白にして歌道の宗家たる二條良基が、自ら師としたる救済、及び連歌師として名高かりし周阿の如きも、皆善阿の門より出づ。
後光厳院慶安五年、二優良基は、舊式目を改めて、新式目を作れり、慶安の新式といふは是なり。この式目こそ連歌に関する規定の基礎にして、後々の代に至る迄、一に此式目に準拠する事となり、此に始めて連歌の形式は定まれり。
其の新式の梗概は左の如し。
連歌に最も普延なる形式を百韻とす、そは長句即五七の句及び短句即七七の句を、
交互相連ぬ、長短句合して百向より或る者なり、
而して之を記載するに懐紙四枚を束ねたるものを以てし、
其第一面に八句を記し、これを表と称し、
其裏面に十四句を記して裏と称し、
第二枚目及第三枚目の表裏に各十四句を記して、
二ノ表、二ノ裏、三ノ表、三ノ裏と称し、
第四枚目の表目に十四句を記して、名残ノ表と称し、
其裏面には八句を記して。之を名残ノ裏といふ、
而して各懐紙の一面に記したる部分を面と云ひ、
裏と二ノ表と、二ノ裏と、三ノ表と、三ノ裏と、名残の表と、
各二面を合して見渡しと称し、一二三名残等の各表裏二面を合して、
同懐紙或は折と称す、
其初表の第一句を発句と称し、次の短句を脇或は入韻と称し、
次の長句を第三と云ひ、最終の句を挙句と云ふ。
是れ慶安新式以来、連俳時代に至るまで、百韻連歌に一定したる形式及び名称なり。
其の百韻を二分したるものを五十韻と云ひ、百韻十個を集めて千句とす、
五十韻と千句とは、當時百韻に次で殼も多く行はれる。
また新浙式に規定せし主要なる部分に、後世の所謂指合去嫌なるものあり、
庵一句の物、即ち一巻の連歌中唯一度より川ふべからざるもの(若葉・郭公等)、
二句の物(野辺、待戀等)四句の物、五句の物、或は可嫌打込物、
即二句以上ち隔つべきもの(居所に村、日に月次の月等)可嫌同懐紙物、
可隔三句物、可隔五句物等を規定し、
或は春秋、戀の句は三句以上五句に至るべし、
夏、冬、山類、水邊は三句以上に渉るべからずと定め、
其他輪廻、遠翰廻、本歌取等の法則あるの外は、唯僅かに賦物の取方等を記するのみ。〕
宗祗が『吾妻問答』にも、
此の再興は、故二條摂政殿好みすかせ給て、好士を摺ひ給ひしに、其の頃の達者善阿、順覚、救濟、
信照、周阿、良阿など侍るや、當時も千句など云ふ事侍れども、式目を定め法度を正しくせられて、
末代に其旨を守るは、彼御時よりの事なれば、此折節をさして、上古とは可申や、
句の様も長高く有心にして、歌に其心等しく、殊勝の事多く侍り、
然はあれど、歌の継句などの様に云ひかけて、一句に其理なきも侍りけるにや、云々。
また曰く
連歌に、或は歌の上の句、又下の句とて、あしきよしを申は如何。
答云、至て昔はさやうの戒なし、侍公、周阿等の時までも、さやうに有りしなり、
秋はてぬいまに山田のいねよとや
是は侍公の句也……此句に、今川了俊付侍しなり、
鹿おふ聲そ里にきこゆる
……かやうの匂付は厭の上の句下の句と可申候哉云々。
尚ほ一般の歌に就て、基俊が『悦目抄』には、左の如く云へり。
其の頃の歌人の心得の如何を知るに足らん。
歌をよまんには、歌を先ずる事為るべからす、先題につきて縁の字を求めよ、
三あらは三所に置くべし、
二あらば、めいくたいぐもじはかたと腰とに置くべし、
一あらば一ふし題によむべし、緑の字なくば、緑の字を尋ねて置ぐべし、
緑を求めずして歌を先立つる事は、材木なくして家を造らんが如しと云へり、云々。
古き歌の第一二句を取りて、今の歌の第三四に置き、
また古き第三四の句を、今の第一二に置く事、先達の教え久しうなれり、
かくて上下をちがふる事も、また度重なれば、例の事かと見る、
また花の歌を本として、紅葉の歌に改め、
雪の歌を取て霞の歌によみなどしたるを見れば、
題目はあらねども、心詞總て本にかはる所なし。
只花の歌を花に、月の歌を月に歌をはたらかずして、しかも其心をかへて、
其心をめづらしくよまんと思ふべし、
また古き五文字を七文字になし、例へば五言詩を七言に作るが如し、
七字をも五字につゞめ、若くは七字をも二句にかけてもよみつべからん詞を、
必古歌には一句にこそあれと云ふ事なり、乱りてもよみ侍るべきにや、
かゝらでは、いかにとして異ふ所有る。へしとも見えず。
剽竊で焼き直しを巧みにするものを以て、歌の能手なりと心得たるは、如何にも幼稚なる事にして、彼等が徒らに古格に拘泥し、毫も辞意を出さんとするの念なかりし事を想ふべし。
應永の頃、斯道の達人に、勝部師編入道梵阿といふ連歌師あり、一条兼良も塾の門に入りで、深く連歌に心を寄せたり、其の他、心敬、専順、智温、宗侶、能阿、行助等、何れも有名にして、就中行助の門よりは、高山民部時主大道宗砌、並びに斯道中興の祖と仰がるゝ種玉庵宗祗の如き諸名家を輩出せり。
宗祗の傳詳かならす、彼れ壮年の比より、刻苦して社歌か學び、腫玉庵まち自然齊といふ。ある年中秋三五の夜、一大雲に蔽われて月を見る能はず、宗祗即ち、
ひとゝせの月か曇らす今夜かな
と詠み、また述懐懐して、
世にふるは更に時雨の宿かな
と吟ず。
芭蕉が「世の中は更に宗祗の宿りかな」と慕ひたるも此の事なり、文亀二年七月二十八日相州湯本の客舎に歿す、行年八十二、辞世
はかなしや鶴の林の煙にも
立おくれぬゐ身こそ恨む
慶安の新式目成るの後八十年、後花園院の享徳元年、一條兼良は宗砌と倶に、新式目に、追加改訂を行へり、世に之を、「新式追加」と称ふ、次で明應四年、宗祗に内勅ありて、『新筑波集』を選せしむ、連歌の達人。爾来、彬々として輩出し、室町時代の文藝に燦爛たる光彩を發せしめ、連歌は此に至て全盛を極めたり。
左れば連歌の見るべき者は、皆この足利の時代に出で、作者としては、推さるゝ所の、兼栽、専碩、宗長、肖柏、宗牧、月桂、周桂、宗養、紹巴、慶友、昌叱、昌琢の輩相次いで現はる、
新式追加制定の後四十九年、後柏原院の文亀元年、牡丹花肖柏勅を請て、逍遥院實隆と倶に、新式追加を更に増補したり、世に之を新式今案と云へり、連歌の式は此に至て稍や大成を告ぐ、左れど物盛んなれば衰ふるの喩に漏れず、初め連歌の變體として起りたる狂連歌は、宗鑑、宗武の機智滑稽に因り、巧みに俗語を使用して、大に其の狂想を発揮し、形を俳諧と變じて、雄を詞壇に争ひ、連歌は何時しか俳諧の勢力に厭倒せられて、復た大に気焔を吐く能はす、加ふるに連歌界には、宗鑑、守武と相対峙するに足るべき非凡の鋭才なく、沈滞に沈滞を重ねて、漸く前に衰順の状を呈せんとするに至れり。
増補 日本文學史 池田秋旻 氏著 序文 伊東松宇
一部加筆 山梨県歴史文学館 山口素堂資料室
序文 伊東松宇
頃日書肆我が草廬を叩いて日、今回絶版同様に成て居た、日本俳諧更の版権を譲り受けましたので、之を改版して発行します、願くは先生の序文を頂きたいと云ふのであつた千日本書は既に故人角田竹冷、内藤鳴雪両氏の序文ありて十分なれば之れに予が序文などを添ふるは所謂蛇足の誹りを逃れずと、主人曰く両翁の序は仝全く版なので、今回私が発行せんとするものは、著者の増補あり、巻頭の詞ありて聊か初版のものとは面目を異にする所あり、仍りて予の序を需むるは茲に改版の一劃を立て紀るの證としたいと云ふのであつた。
従来の俳諧史にして其體を得たるもの殆ど絶無と云ふて大過はない、否な独り俳諧の歴史に止まらす他の歴史とか、正史とか云ふものにても後世に至りてより以上の新発見があれば、舊来のものは更に價値なきものになるのは當然の理である、況してや古俳人の散漫なる頭脳で揑ち上げたる怠惰や、系譜が正確であるべき筈がない。譬えば四百年来斯道の鼻祖と将して居る荒木田守武の獨吟千句は俳諧連歌の根源であると書き傳へ言ひ傳へ來つたものが、今日俳諧連歌の創始者は東山時代の相阿彌であると云ふ説が出て、斯壇に最も名高き松永貞徳や、芭蕉翁の生年月が不慥かであるなど其一例を以ても類推さるべきである、さればこそ輓近俳道に史的研究が流行し來つて、今や斯道の雑誌にして史的に関する記事を載せざるものは殆ど罕(ま)れである、此秋に於て俳人以外の人で學問識見ある著者が編し置かれたる、日本俳諧史の改版をなして以て斯道の参考に資するは、大に機宜に適したるの擧にして主人の用意至れると云ふべきである、予は本書の内容仝部を悉ぐ承認する譯には行かないが、主人の懇望により聊か卑見を述べて爰に其の需に応じた次第である。
伊藤松宇識
古今和歌集巻第一 春歌上
ふる年に春立ちける日よめる 在原元方
1 年の内に春はきに鳧一年うを去年とやいはむ今年とやいはむ
春立ちける日によめる 紀 貫之
2 袖ひぢて結び水の氷れるを春たつけふの風やとくらむ
題しらず 読人知らず
3 春霞たてるやいづこみ吉野の吉野のやまに雪はふるつゝ
二條の后の春の始の御歌
4 雪のうちに春はきにけり鶯の凛れろなみだ今やとくらむ
題しらず 読人知らず
5 梅が枝にきゐる鶯春かけてなけどもいまだ雪はふりつゝ
雪の木に降りかゝれるをよめる 素性法師
6 春たてば花とや見らむしらゆきのかゝれる枝に鶯の鳴く
題しらず 読人知らず
7 志深くそめてしをりければ消えあへぬ雲の花とみゆらむ
ある人の曰くさきのおほきおほいまうち君の歌也
二條の后の東宮のみやすん所と聞えける時正月三日
お前に召して仰せごとある間に日は照りながら
雪のかしらに降りかゝりけるをよませ給ひける 文屋康秀
8 春の日の光にあたるわれなれど頭の雪となるぞわびしき
雪の降りけるをよめる 紀 貫之
9 霞たちこのめも春の雲ふれば花なき里もはなぞちりける
春の始めによめる 藤原康秀10 春やとき花や遅きとき私わかむ鶯だにもなかずもあゐ哉
春のはじめの歌 壬生忠岑
11 春きねと人はいへども鶯の鳴かね限ばあらじとぞおもふ
寛平の御時きさいの宮の歌合の歌 源 當純
12 谷風にとくる氷のひまごとにうち出づる垣や春のはつ花
紀 友則
13 花の香を風のたよりにたぐへてぞ鶯誘ふしるべにはやる
大江千里
14 鶯のの谷よりいづる聲なくば春来ることを誰かしらまし
在原棟梁
15 春たてど花もにほはぬ山里はものうかるねに鶯ぞ鳴く
題しらず 讀人しらず
16 野べちかく家ゐしをれば鶯のなくなる聲は朝な朝なきく
17 春日野はけふはな焼きそ若草の妻もこもれり我も籠れり
18 春日野の飛火の野守出でて見よ今幾日ありて若菜つみてむ
19 み山には松の雲だにきえなくに都は野べの若菜つみけり
20 梓弓おして春雨けふ降りぬ明日さへふらば若菜つみてむ
仁和の帝御子におはしましける時人に若菜たまひける御歌
21 君が為春の野に出でゝ若菜つむわが衣でに雲は降りつゝ
22 春日野の若菜つみにや白妙の袖ふりはへて人のゆくらむ
題しらず 在原行平朝臣
23 春のきる霞の衣ねきうすみ山風にこそみだるべらなれ
寛平御時后の宮の歌合に詠める 源宗于朝臣
24 常盤なる松のみどりも春くれば今一しほの色まさりけり
歌奉れと仰せられし時詠みて奉れる 紀 貫之
25 わがせこが衣春雨ぐるごとに野辺の緑ぞ色まさりける
26 青柳の糸よりかくる春しもぞ乱れて花のほころびにける
西大寺のほとりの柳をよめる 僧正遍昭
27 あさみどりいとよりかけて白露を玉にもぬける春の柳か
題しらず 読人しらず
28 もも千鳥囀(さえず)る春はもの毎にあらたむまれども我ぞふりゆく
29 遠近のたづきもしらぬ山中におぼつかなくも呼子島かな
かりのこゑか聞きて越へまかりける人か思ひてよめる 凡河内躬恒
30 春くれば雁帰るなり白雪の道ゆきぶりにことやつてまし
帰雁をよめる 伊 勢
31 春霞たつを見捨てゝゆく雁は花なき里にすみやならへる
題しらず 読人しらず
32 をりつれば袖こそにほへ梅の花ありとやこゝに鶯のなく
33 色よりも香こそ哀れと思ほゆれたが袖ふれし宿の梅ぞも
34 宿近く栂の花うゑじあぢきなく待つ人の香に誤またれ鳧
35 梅の花立よる計ありしより人の咎むる香にぞしみける
梅の花を折りてよめる 東三條の左のおほいまうち君
36 鶯のかさにぬふてふ梅の花をりてかざさむ老かくろやと
題しらず 素性法師
37 よそにのみ哀とぞ見し梅の花あかね色香はをりて也けり
梅の花を折りて人におくりける 友 則
38 君ならで誰にか見せむ梅の花色かも香かをしる人ぞしる
くらぶ山にてよめる 貫 之
39 梅の花匂ふ春べは倉部山暗にこゆれどしるくぞ有りける
月夜に梅の花折りてと人のいひければ折るとて 躬 恒
40 月夜にはそれ共見え見えず梅の花香を尋ねてぞしるべかりける
春の夜梅の花をよめる
41 春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るゝ
初瀕に詣づる毎に宿りける人の家に久しくやどらで
ほどへて後に至れりければかの家のあるじ、
かくさだかになむやどりはあるといひ出して侍りければ、
そこにたてりける梅の花を折りてよめる 貫 之
42 人にいさこゝろもしらず故郷は花ぞ昔の香に匂ひける
水のほとりに梅の花の咲けりけるを詠める 伊 勢
43 春ごとに流るゝ川を花と見てWられぬ水に袖やねれなむ
44 年をへて花の鏡となる水はちりかゝるや曇ゐといふ覽
家に有りける梅の花のちけるをよめる 貫 之
45 くるとあくとめがれぬ物を梅の花いつの人まに移ひね覽
寛平の御時きさいの宮の歌合の歌 素性法師
46 梅が香を袖に移して留めてば春はすぐとも形見ならまし
47 ちるとみてあるべき物を梅の花うたて匂の袖にとまれる
題しらず 読人しらず
48 ちりぬとも香をだに残せ梅の花戀しき時の思ひ出にせむ
人の家に植えたりける櫻の花咲き始めたりけるにを見て詠める 貫之 今年より春しりそむる桜花ちるといふ事は習はざらなむ
題しらず 読人しらず
50 山高み人もすずさめね櫻花いたくなわびそわれ見はやさむ
又は里とほみ人もすさめぬ山櫻
51 山ざくらわがみにくれば春霞嶺にもをにもたち隠しつゝ
染殿の后のお前に花瓶に櫻の花をさゝせ給へるを見てよめる
前のおほきおほいまうち君
52 年ふれば齢は老いね然はれど花をし見れば物思もなし
渚の院にて桜を見てよめる 在原業平朝臣
53 世の中にたえて櫻のなかりせば春の心はのどけからまし
題しらず 読人しらず
54 いし走る瀧なくもがな櫻花たをりてもこむ見ぬ人のため
山の櫻をみてよめる 素性法師
55 見てのみや人に語らむ櫻花手毎に折りていへづとにせむ
花ざかりに京を見やりてよめる
56 見渡せば柳さくらをこきまぜて都ぞ春のにしきなりける
櫻の花のもとにて、年の老いねぬことか嘆きて 紀 貫之
57 色も香も同じ昔にさくらめど年ふる人ぞあらたまりける
折れる櫻をよめる 貫之
58 たれしかもとめてをりつる春霞立ちかくすらむ山の櫻を
歌奉れと仰せられし時によみて奉れる
59 櫻花さきにけらしもあしびきの山のかひよりみゆる白雲
寛平の御時きさいの宮の歌合の歌 友則
60 み吉野の山べにさける櫻花雪かとのみぞあやまむれける
やよひに閏月の有りける年よみける 伊勢
61 櫻花春くはゝれるとしだにもひとの心にあかれやはせぬ
櫻の花の盛りに久しくとはざりける人来たりける時によみける
読人しらず
62 あだなりと名にこそたてれ櫻花年に稀なる人も待ちけり
かへし 業平朝臣
63 今日こそは明日は雪とぞ降りなまし消えぞはあり共花と見ましや
題しらず 讀人しらず
64 散りぬればこふれど験なき物をけふ社櫻をらば折りてめ
65 折取らば惜げにもあるか櫻花いざ宿かりて散る迄はみむ
紀ありとも
66 さくら色に衣に深くそめてきむ花のちりなむ後の形見に
桜の花のさけりけるを見に詣できたりける人によみておくりける
躬 恒
67 我宿の花見がてらにくる人はちりなむ後ぞ戀しかるべき
亭子院の歌合の時よめる 伊 勢
69 見る人もなき山里の櫻花ほかのちりなむ後ぞさかまし