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我が町を知る 浅草寺の事実 燕石雑志

2024年07月24日 19時21分22秒 | 文学さんぽ

我が町を知る 浅草寺の事実 燕石雑志

 

飯田町の東南の処より、小川町のかたへ架かる橋を、俎板(まな)橋といふよし、「江戸砂子」に記せし誤りをうけて、こゝにあるものさへしかえて唱ふる事になりつ。

まことの板橋といふは、九段坂の下なる十字街頭(よつつじ)を町の方へ行く大淀のわたせし石橋をいうなり。

【割注】

本所松井町にも同名の橋あり。今俎板橋と唱えるは、本名「新橋(あたらしばし)」にて、昔よりこれを俎板橋と唱えることは絶えてなし。「真菰が淵」といふは、彼の「新橋」の南の岸をこのように云えど、今はこのわたりの人すら唱へ忘れて、その名を知るもの稀なり。また町の南北の盡処堀留(はてほりとめ)といふ處より、小川町のかたへかけられたる石橋を、「蛼橋(こおろぎばし)といふめれど、その名をしらざる者はなかり。今「もちの木坂」と唱ふるは、舊名「萬年坂」なるよし古老いへり。寛永中の抱地図を按ずるに、町家は今九段坂と唱ふる処にありけり。こゝらの町屋を後に築地へ移されて、元飯田町、築地飯田町とわかれる。九段の坂上は寛永のころ「飯田口」と唱へたり。この飯田口のほとりなる町家なれば、やがて飯田町といふなり。

慶長の年間飯田何某ここを開発せしと、土俗の口碑に傳える。真実か否かしらず。まことによしある事なるべければ、分けてこゝにて活業(なりわい)する程の徒(ともがら)は、露ばかりも仇に思い奉るべからす。よろづに慎みて舞馬(ぶけ)の災などあらせじと、朝々夜々(あさあさよなよな)に念すべき事なるべし、かく僅に方四五町の処なのに、土俗の誤伝は多い。偶々古老をしらんと思ふものも、「奇書・珍籍」の得がた書に因みて、大かたは鹿漏(そろう)にして、やゝ十に二三を知るに足れり。当時の印行の地図なども、明暦前後のもの極めて得がたし。延宝四年の印本、「江戸總鹿子」に載りたる菓子所載せたる菓子処の部に、飯田町に虎屋、柳沼、壷屋あり。このうち柳屋と唱ふる菓子店は今はなし。生薬舗には柳家といふもあれど、その跡はあらず。

彼の壷屋の暖簾は、延宝の年間駒吉祥寺にて、副司を勤めたりける高甫和尚の筆するところなり。

平仮名にて横につぼやと書けり。件の高甫和尚は、飯田町中坂なる松屋権右衛門といふ染物屋の先祖。今の権左衛門より五代前なる権左衛門の叔父なりけり。この所緣によりて、同町にてしかも近隣なれば、壺屋の暖簾は松屋より頼み聞こえて、高甫和尚に書したるが、今にその形もって染めるよし、彼の松権の老店なる白養隠居言えり。また高甫和尚に書かしたるが、今にその形を以て染めるよし、彼の松権の老補なる白養院居は云えり、また高甫和尚の「八百屋お七」の主席の師匠なりという謬傳を受けて、このような説を為すにこそ。予の事を白養老人に問ひしに、さるよしは聞も及ばすと答えたりき。

 

 囚にいふ、服部子遷嘗て唐山(もろこし)の飯顆山を飯田町にあてたり。詩作の上にはしかるべし。雅文たりとも地名を私に改めん事は古實に適わず。童家心得るべし。

李白が誌に、飯顆山前逢杜甫云々の七絶あり。人のしる所なれば載せず。

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三崎の四角竹の子千年の土龍(もぐら)畠に勘彌大入り 浅草寺の事実 燕石雑志

2024年07月24日 15時38分32秒 | 文学さんぽ

三崎の四角竹の子千年の土龍(もぐら)畠に勘彌大入り

浅草寺の事実 燕石雑志

 

例の人の癖なるべし。彼の角(けた)なる竹の子は、はじめ土を出るときに、細き樋を打ち伏せて被せて、かくこしらえたりとなん。いぬる丙寅(ひのえとら)のとし、漂鳥郡小豆澤(あしざわ)なる農夫何某が畠に生たりという、八ツ岐(また)の孟宗(もうそう)竹も、この類にやと大-ぼし。かくて清涼寺o抑迦如来は、天明五年の夏、また享和元年の夏、すべて回向院にておがまれ給ひ、善光寺の阿彌陀如来は、享和三年の夏、浅草寺にて拝まれ給ひしが、いづれも何れもはじめのたびにはおとり給えり。この餘かぞへかてたゝ書にしるさんも、「年代記」といふものめきたればさてやみつ。俄かに思ひ出せし如くみな参りけるは、明和の年間(ころ)、葛西金町(かなまち)剛なる椿田(はんだ)の稲荷、谷中なる笠森の船荷なりとぞ。予が物おぼえて天明の年間には、比門谷なる執金剛神

〔割註〕世俗はこれを二王といふ。」なるべし。

これらはなお、物の数ならず。甲子の年浅草なる太郎稲荷へ、参らぬ人もなかりき。いとめづらかに思ひしは、寛政十年の五月、品川の海へ鯨の流れよりたるなり。「海鰌録」(かいしゅうろく)というものも、この時に出る、大方は鯨志に似たり。鯨の形画きたる団扇など人々競いて弄びした。因みにこゝに又云うべし、大よそ高山を浅間と唱えるよしは、浅間は朝隅の義にて、「あさくま」の「く」を省くなり。伊勢なる朝熊山(あさまやま)も「熊」は仮字にて「隈」なり、また筑前国「木綿間(ゆふま)」山あり。これも「夕隈(ゆうくま)」の義なるべし。

説文に土山日阜。曲阜曰阿といへり。曲も阿も和訓「久末(くま)なり、また、「爾雅」に、凡そ山遠望則翠なり。近ければ之則漸微(ちよやくびなり)。故に翠微(すいび)と云えり。

これ山色(さんしょく)をもって、遠近を分ける證とすべし。されば明日に隈の愛でたきを浅間と名づけたるなり。この山の各々高山故に「隈」という。

小山には隅あることなし。これは未だ「雨談(うだん)」見ざらん人の為に云うのみ。

また安永のころ、げ主などは髪の中を剃りひろげて、髭を鼠の尾のようにし、眉さえ剃り細めて、額いかめしくぬきあげたりしも、しばしが程にて、今は髪の中を多くも剃らず、額など抜くも稀なるぞ目出度き。今こそあれ、後々に至れば必ず奇なりとすべし。人の嗜欲も、十五歳より初老に至るまで、十年ごとに一変する。故に聖人三度その戒めを異にして給うまるべし。まして常の産なきときは常の心なし。と孟子もいえり。一挙して教えなきものは、その誤りを改めるによしなし。侠客客などのあるひは佇む或はそびらへ、花繍(いれぼくろ)といふことをするも、老體てその子のその孫に手を引かれるときの事を思はば、さるまさなごと老いたる方をばいたくおとしめ、血気にまかして過ちを重ねもあるべし。また老いたる方をばいたくおとしめ、血気にまかして過ちをかさぬるもあるべし。また老いたるものもしかなり、若き方の程の事は知る人稀なれば、生まれながらsかしげなるおももちちし、わかきかたのよしあし数えへたてゝ、かしがましう責めののしるもあり。片腹痛たき業なりかし。只善きも悪しきもわがうへに有けりと思ひとりて教えんに、誰かはうけばりかしこまざらん。今の老人は昔、檜葉荼、柳荼、親和染などいう花手なる衣を着て、被緞子の帯を幅五寸ばかりなるをしたるもあるべし。されば今の若人は昔の若者よりまめなり。まことに五十年の程は、一睡の夢の如し。限り有る浮世の旅なれど、今に生れあえるものは、乗物にかかれ馬に乗せられて、老いの坂に登る心地せる。いと有り難き采配ならずや。三千世界の国ゝ、住むとしたならば、愛でたからぬはあらざらめど、大よそ天の蔽う限りこの大汀戸にますかたはあらじと申すさんも、猶かしこかるべし。

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