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*愛と創作主体 和泉式部*「うかれめ」の内と外 歌人篠塚純子(しのづか・すみこ)氏著  

2024年07月22日 19時32分44秒 | 文学さんぽ

*愛と創作主体 和泉式部*「うかれめ」の内と外

 

歌人篠塚純子(しのづか・すみこ)氏著

 

  一

 

 和泉式部に「うかれめ」の代名詞が与えられてきたとするならば、それは何に由来するのだろうか。

 『家集』の詞書に、道長が和泉式部の扇に「うかれめの扇」と書きつけたことが記されている。しかし、その道長の言動には和泉への非難も侮蔑も含まれてはいないと解すべきであろうし、また、この詞書から直ちに和泉が「うかれめ」と当時の人々に呼ばれていたなどと判断することもできないだろう。『大鏡』や『栄花物語』においても、為尊・敦道両親王を「軽々に」、また、とりわけ、為尊親王を

「色めかしうおはしまして、知る知らぬわかぬ御心」

と評するものの、和泉はその恋の相手の一人として名があげられているだけである。『紫式部日記』に「和泉はけしからぬかたこそあれ」とあるが、これも和泉を「うかれめ」と評していると解してよいかどうかは俄には断定しがたい。むしろ、「あだなりと名にこそ立てれ(注1)」と歌に詠み、「もとも心ふかからぬ」と『日記』に記しているのは和泉自身の方であるかのようだ。

先の道長に対しても、和泉は否定も肯定もせず、

「越えもせむ越さずもあらん逢坂の関守ならぬ人な咎めそ」(二二六)と詠み返している。

 

 とはいえ、橘道貞・藤原保昌との結婚、為尊・敦道両親王との恋の他にも多くの男性と交渉があったことは事実らしいから、そのような女の心や生を軽々しく、浮気なものと見るのなら、和泉は「うかれめ」と呼ぶにふさわしい。

しかし、その和泉が残した歌は、決して、あだあだしくも軽々しくもない。自らの内なる世界を鋭くまた深々とのぞきこみ、その官能や情念の激しささえもひたむきで純粋な愛の世界へと昇華されている。

 「うかれめの扇」と書きつけた道長は、あるいは、この男性遍歴を続ける和泉の生と彼女の歌の世界との間に横たわる不思議な隔差に興味を抱いていたのかもしれない。和泉の帥官挽歌の一首

 「すてはてんと思ふさへこそ悲しけれ君に馴れにし我が身と思へば」 (九五三)

を引き合いに出して、道長が「尼になりなむといひしはいかが」と和泉をからかったことをも思い合せて、ふと、私は想像する。

 

 二

 

 つれづれと空ぞみらるる思ふ人天降りこむものならなくに (八一)

 

清水文雄氏によれば、「つれづれ」とは、「個体の孤独な身心の状態をさす語であるが、それは、他からの隔絶をつよく意識した当初の緊張状態ではなく、身心の持続的な弛緩ないし放心の状態をあらわしている (注2)」という。

和泉式部の右の一首はまさにそのような状態にある、または、体験した、女の身心から生み出された歌である。女がひとりぼんやりと眺めている「空」は空虚感を象徴して、隔絶の意識のあとに訪れる「つれづれ」をますます捉えどころのないものにする。

 

  黒髪の乱れもしらず打ちふせばまづかきやりし人ぞ恋しき    (八六)

   人はゆぎ霧はまがきに立ち止まりさも中空に眺めつるかな   (一八二)

   ともかくもいはばなべてになりぬべしねに泣きてこそ見せまほしけれ(一六三)

 

 右の三首の歌にも隔絶感が底深く尾を引いている。「黒髪の乱れもしらず」打ちふす今、女の前に「恋しき」人はいない。その隔絶感・空虚感が「まづかきやりし人々恋しき」と歌わせるのである。立ち去る男との間をあたかも故意に隔てるかのように霧はまがきにたゆたう。一夜の恋のあとに訪れた放心状態に身をまかせつつ、その自らをみつめて和泉は詠む。自らの心を伝えるすべであるべき「ことば」さえ放棄したと詠む「ともかくも」の一首においては、時間的、空間的隔絶感をも越えて、心理的ともいうべき隔絶感が濃く漂う。

 かつて、私は「和泉式部の恋歌には、恋そのものを詠んだものよりも、恋の余情に身をまかせ、たゆたい、そこに漂う孤独感や寂寥感に浸る自己の姿を詠んだものが多い」、また「そのような歌においてこそ、和泉はいきいきと万人の女の『生』を表現している」(注3)と述べたことがある。清水氏が説かれる「つれづれ」の意味するもの……それは、少なくとも和泉式部の歌においては、私のいう「恋の余情」に重なり合うものではないだろうか。『家集』においても『日記』においても「つれづれ」をもて余し、「つれづれ」がなぐさむことを願う和泉に出会う。和泉は「はかなきこと」すなわち歌を詠むことによってその「つれづれ」がわずかになぐさめられたという。だが、先にあげたような和泉の歌をみれば、和泉の創作意欲が高まり、他に比類なき和泉の秀歌が詠み出されるのは、そのような時でこそあったと思われる。

 すなわち、創作主体である和泉にとって、自らの文学の創作のためには、「つれづれ」であることが必要なのであり、「身心の持続的な弛緩ないし放心の状態」をひきおこすための「他からのつよい隔絶感」を得ることが必要なのである。その隔絶感をもたらすもの、それは、いうまでもなく、男との恋であり、心と肉体における愛の世界の体験である。その恋が激しく苦しいものであればあるほど、心と肉体の隔絶感は強まる。さまざまな障害を含む「しのびの恋」こそ、「つれづれ」の世界を導くに最もふさわしいものであった。

 

 三

 

和泉式部の生と文学において、為尊親王との出会いがもたらしたものは大きいと私は思わざるを得ない。藤岡忠美氏が論証(注4)されたごとく、為尊親王と和泉との熱烈な恋を記録する資料はないといってよく、また、親王が和泉のもとに通い得たと推定される期間は短く、せいぜい一年半ぐらいでしかなかったろう。だが、それだけでは、二人の間に恋がなかったとはいえないし、また、その恋は、親王にとっては「あさましかりつる御夜歩き」所の一つでしかなかったかもしれないが、すでに受領の夫橘道貞の妻であった和泉にはどのような恋として在ったのかは証かされないであろう。

 迫真と和泉の結婚生活を具体的に知る資料はほとんどないといってよい。それでも、『家集』には、詞書の「をとこ」を夫道真と解してよさそうな歌もいくつかあり、それによれば、御岳精進をする夫と贈答したり(一二四六・一二四七)、夫の狩衣を縫ったり(一二四九・一二五〇)する妻の姿が浮かぶ。また、「あやめの日」をうっかり忘れていたり(一二四七・一二四八)、任国和泉から歌枕に関わる文を寄こしたり(一二五八)する夫の横顔も垣間みられる。

これらの歌がいつ詠まれたものであるかはわからないが、私が興味を覚えるのは、これらの歌が先にあげた「つれづれと空ぞみらるる」以下の歌とは全くその世界を異にしているだけではなく、帥宮邸入りした後に詠まれたらしい和泉の道真に関わる歌ともその歌柄が少し違っているように思われることである。同じ道真に関わる歌でありながら、何かの要因で、作者の内なる世界が変ったことをその両者の歌の相異が物語っているように思う。その要因とは何か。まず、夫婦の離婚という現実をあげねばならないが、その他に、というより、それ以上に、冷泉院第三皇子という高貴な身分の男性との出会いによって「しのびの恋」の洗礼を受けたことが大きく関わっていると私は思う。

親王の疫病によるあっけない死はかえって和泉の内に「しのびの恋」の凄艶さを刻みつけたのではなかろうか。

和泉が道真と離婚したのは、為尊親王との恋の最中とも、また、帥官邸入りのころともいわれている。ともかくも、その頃、赤染衛門との間に例の「葛の葉」の歌の贈答があった。その贈答についても以前に書いた(注5)ことがあるので、それはここに繰り返さないが、『和泉式部集全釈続集篇(注6)』に述べられている「和泉には父親から譲り受けるべき財産が少なかったのではないか」との推論は、新しい視点を与えてくれるように思う。父親の雅致にとっても、和泉自身にとっても、道貞との離婚は財政上からも打撃を受けねばならないことだったのではないか。和泉には小式部以下いく人かの子が残されることを思えば、なおのことであろう。

赤染の歌

「うつろはでしばし信田の森をみよかへりもぞする葛のうやら風」(三六五)

は、そのような問題をも含めての忠告であったかもしれないのである。これに対して、和泉の返歌

「秋風はすごく吹くとも葛の葉のうらみ顔には見えじとぞおもふ」(三六六)

は、愛の問題ひと筋に絞られて、きっぱりと調子高い。為尊親王によって、あるいは続いて帥宮によって、「しのびの恋」の洗礼を受けてしまった和泉には、こう詠み返すことにより、自らの生の方向を選び取る以外に道はなかった。

 だが、ここで一言付け加えるならば、和泉が文字通りの「うかれめ」であったなら、このような歌は詠まなかったであろう。また、それ以後の和泉があの荒涼とした孤独感にさいなまれる世界をもつことも、死と隣り合うまでの迷いを歌に詠むこともなかったのではないだろうか。親を、子を、そして、別れた夫の上まで、和泉は、一生、心にかけ通したと思われる。人間であることのわりきれなさを和泉ほどきまじめに生きた女はいない。

 

 四

 

『家集』(続集)の最後に目次詠歌群と呼ばれる連作(一四七八~一五四九)がある。この連作は、詠歌の時期も場所も相手もすべて不明としか言いようがなく、謎に充ちているが、ある貴人との「しのびの恋」に関わるものであることだけは確かである。

『日記』とちがって、この貴人の恋人は、連作のはじまる九月の初旬に訪れて以来、連作の終るまでの約二ケ月間、姿をみせていない。二人のいる所はかなり遠く離れており、文のやりとりも困難な状況にあるらしい。しかも、夫らしい男もいるらしく、いつもは、恋人の文も「心やすくみる」ことはできない有様らしい。したがって、この連作の歌の多くは「しのびの恋」に身をおく和泉の独詠歌である。逢いがたい恋人を、また、その文をひたすら待つ、その「つれづれ」に次々と歌が詠まれてゆく過程が見られて興味深い。そのなかには、

「いとどしく朝寝の髪は乱るれどつげのをぐしはささま憂きかな」(一四八四)

や、

「ささがにやうはの空にはかきやらでおもふ心のうちを見せばや」(一四八九)

など、先にあげた和泉の代表歌の片鱗をうかがわせる歌があることからも、この歌群は、詞書も含めて和泉の詠歌の秘密を解く鍵の一つをかくしもっているように思われる。

 

 自作か他作かは別問題としても、『和泉式部日記』が師宮と和泉との「しのびの恋」を描いていることは明白である。それゆえ、この『日記』にも、和泉の愛と詠歌にかかわる多くの秘密がひそんでいることはいうまでもない。しかし、あたかもその秘密の前に立ちはだかるごとく、さまざまの、多くの問題がこの『日記』に存在していることも否定できない。この『日記』が帥宮との「しのびの恋」の期間のみ描いていること、宮と女の贈答歌しかないこと、執筆時期が師宮の死後であること、その宮の死後にはまた数多くの帥宮挽歌が詠まれていることなど……これらすべての問題を総合的に考慮しない限りは、この『日記』から和泉の詠歌の秘密を正しく探り出すことは不可能だと思われる。これについては、また、機会をゆずって考えてみたいと思う。

 

 五

 

和泉式部の歌の生み出される土壌と要因が「つれづれ」の環境であり、「しのびの恋」に収斂される愛の体験であることは確かであろう。しかし、まだ、一つ気になることがある。「しのびの恋」の「つれづれ」に詠出された、先の連作の歌にしても『日記』の歌にしても、先にあげた和泉の代表歌ともいうべき秀歌に比べるとき、その基調は似ているけれども、そこには何かまだ隔てるものがある。それが何なのか、また、何故、そのような差が生れるのかを、いま、明確に指摘する自信はないが、どうやら、それは歌のことばそのものに秘密かあるらしく思われる。和泉の秀歌には技巧が少なく、措辞も自然なものが多い。(汪7)

しかし、その背後に、私は和泉の歌のことばに対する執念と切りこみの鋭さを思わずにはいられない。あるがままに、自在に詠んでいるように見えながら、まことは、技巧を切り落とし、情緒の余剰をそぎ落とし、エッセンスとなることばのみをぎりぎり探し求めた果てに詠出されたものではなかったか。しかも、それは単なる技法上の手続として行われたのではなく、和泉の辿った「生」そのものから必然的に生み出された創作態度、方法ではなかったろうか。

 道長が、和泉の歌をどのように評価していたのかはわからない。しかし、和泉に対すると同じ種類の好奇心を道長が抱いたらしい紫式部は、あるいは、和泉の「ことば」への切りこみの鋭さを感知していたのかもしれないと思う。それが和泉の愛の体験からくること、それゆえ、一生、恋の彷徨を続けようとするかのごとき和泉を不気味な存在と感じていたのかもしれない。

『紫式部日記』の和泉式部評が、ふと、そのような想像を抱かせる。

 ともかくも、和泉が詠み残した数々の歌を読み探るとき、愛欲にとりつかれたかのごとく、男性遍歴の生を辿った女と、孤独で純粋な愛の世界を歌に残した女とは、和泉式部という一人の人間のうちに豊かに重なり合うのではないだろうか。

 

 注1 岩波文庫本『和泉式部歌集』一四五二番の歌。以下( )内の数字は同書の歌番号を示す。

 注2 清水文雄氏著『衣通姫の流』

 注3・5・7 拙書『和泉式部-いのちの歌』

 注4 藤岡恵美氏「和泉式部伝の修正」(「文学」S51・11)

 注6 佐伯梅友・村上冶・小松登美の三氏編著。

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・愛と創作主体 伊尹*「とよかげ」との間 益田勝実(ますだ・かつみ)氏著

2024年07月22日 16時44分54秒 | 文学さんぽ

・愛と創作主体 伊尹*「とよかげ」との間

益田勝実(ますだ・かつみ)氏著

  やつし

 十世紀の二つの家集、『海人手子良(あまのとこら)集』と『とよかげ』とは、貴人が<下衆(げす)の集>をよそおってわが集を編んだ、という志向性を共有している。後撰から拾遺の間の和歌史のできごととして、わたしには見過ごしにくいものがある。

 海人の磯良ならぬ手子良を自称したのは、桃園大納言師氏。大蔵の史生倉橋の豊蔭と名乗るは、一条摂政伊尹(これまさ)。九条敲師輔の弟と長子。叔姪の間柄になる。春(十首)・夏(十首)・秋(九首)

・冬(十首)、逢わぬ恋(十首) ・逢ひての恋(九首)、わかれ(七首) ・無常(九首) ・いのり(九首)、年・月・日など物の名を詠みこんだ五首と、「春の花に鶯むつる」「夏ほたる汀に火をともす」など屏風絵の歌らしい仕立ての六首。九十四首の即興自撰の小歌集と見られるものを、師氏が海人の詠草と見たてた理由を、永らく測りかねていた。だが、内容的には海人とかかおる

ことのないこの歌集が、師氏の宇治川のほとりの別荘滞在中に編まれたのではないか、と思い至るにおよんで、彼の風流の「やつし」の仕組みがややわかってきたような気がする。

 

 師氏の別荘は、『蜻蛉日記』の作者の夫兼家の宇治の院と、河を隔て相対するところにあり、日記上巻の終りに近いところに、師氏と道綱の母らとの宇治での交渉が物語られている。

安和二(九六九)年、道綱の母が、初瀬詣での帰途、思いがけなくそこまで出迎えにきてくれた兼家と対面する。そのころ、権大納言師氏は氷魚(ひお)の網代漁にきていて、そのことを聞き伝え、兼家の宇  治の院へ雉子と氷魚を届けてくれた。兼家は伊尹の弟で、やはり師氏には甥にあたる。その年、中納言に進んでいた。日記中巻に、翌々天禄二年、ふたたび初瀬を志す道綱の母は、師氏の宇治の別荘に立ち寄った、とある。師氏がなくなって一周忌近いころだった。

       うたかた   みちのく      なこモ

    逢坂の泡詠(うたかた)人は陸奥(みちのく)のさらに勿来(なこそ)をなづくるかもし

    君しいなばいな /\社(こそ)は信濃なる浅間が山と成や果なむ

 

 宇治の河漁師にみずからを擬して編んだ『海人手子良集』の歌は、懸詞のレトリックによりかかっての抒情のうたが多い。虚構仮託の題名をもちながら、集中の歌にはそれが影響するようすはない。作者の風流のやつしは、そのあたり止りになっている。

 以前から『大鏡』の記事で存在が知られていた伊尹の『とよかげ』は、近代になってようやく再発見されたが、それは、『一条摂政御集』のなかに包摂された形だった。後人が伊尹のうたを蒐め、『とよかけ』の後に加えている。三上琢弥・清水好子ら平安文学輪読会の人たちの手になる『一条摂政徴集注釈』 (一九六七)の解題は、集全体の成立を正暦三(九九二)年を少し下るころ、集中の『とよかげ』の方を、天禄保元(九七〇)年ごろから伊尹のなくなる同三年まで、もし、それが伊尹の自撰でない場合、「九七〇年頃~九九〇年頃までの間」とする、用心深い見方だが、自撰を疑う必要はないように思う。

    おほくらのしさうくらはしのとよかげ、わかかりけるとき、

女のもとにいひやりけることどもをかきあつめたるなり。

    おほやけごとさわがしうて、をかしとおもひけることどもありけれど、

わすれなどしてのちにみれば、ことにもあらずありける。

    いひかはしけるほどの人は、とよかげにことならぬ女なりけれど、

としつきをへて、かへりごとをせざりければ、まけじとおもひていひける

   あはれともいふべき人はおもほえでみのいたづらになりぬべきかな

    女からうじてこたみぞ

   なにごともおもひしらずはあるべきをまたはあはれとたれかいふべき

    はやうの人はかうやうにぞありける。いまやうのわかい人は、

さしもあらで上ずめきてやみなんかし。

 

『とよかげ』が『海人手子良集』とちがうのは、歌物語の手法を貫こうとしている点である。物語の叙述法は明らかに『伊勢物語』に倣い、その情熱的な恋への没頭を襲おうとするところもそうである。だが、その伊勢的な傾斜が、ことさらに下衆の男女の愛の物語としての虚構をとって保障されうるとする点において、かえって伊勢とちがう。

伊尹自撰集『とよかげ』は、大蔵の史生倉橋豊蔭の歌物語としての風流のやつしをしているが、内容において自作歌集成を踏み外さず、想像の物語、想像のうたの贈答を交えない。そのため、歌物語の伝承的要素を再生しえないで、私家集にとどまっている。やつしの営みを、うたとうたをめぐる物語の創造へはみ出させなかった。

 

ふたつのエロチシズム

 

伊尹は、奔騰する愛の思いに身をゆだねる主人公豊蔭を、「上ずめきて」やむ、上品ぶった中途半端な愛への献身にとどまる、集中の女たちに対置する。しかし、大蔵の史生の物語であるから、后がねの深窓の女性に求愛し、その愛をかちとりながらも、大きな力に仲をひき裂かれていく、『伊勢物語』の<冒>し、社会的制約との愛の戦いがない。やつしの自己束縛である。

 冒頭の段で、以前からの間柄を復活しようとした豊蔭は、もろくも相手にうたで突きはなされている。「あはれともいふべき人はおもほえで」の歌いかけの秀逸さにもかかわらず、うたの功徳というべき、うたの力は相手を動かさない。恋の負け犬のかたちの物語の出発である。伊勢の初冠の段のうたを女へ贈りそめる、という歌による元服の上昇性がなく、不成就の求愛歌で出発するかたちは同じでも、内実がちがうのである。第二段では、

   みやづかへする人にやありけん、とよかげ、ものいはむとて、

しもにこよひはあれと、いひおきてくらすほどに、

あめいみじうふりければ、そのことしりたりける人の、

うへになめりと、いひければ、とよかげ

   をやみせぬなみだのあめにあまぐもののぼらばいとどわびしかるべし

    なさけなしとやおもひけん。

 

と豊蔭は、女のつらいしうちを甘受しなければならない。もろもろの制約とたたかい、愛する女性を情熟とうたの力とで屈服させ、現実に肉体の愛をひとつひとつ成就していく、歌物語伊勢のエロチシズム、疾風怒濤を衡いて猛進し、愛の抱擁に歓喜し、裂かれて号泣する強烈さが欠けている。

この段の「みやづかへする人」は、第三段では、結局、豊蔭の求愛に応じるのが、それはこう語られる。

     おなじ女に、いかなるをりにかありけむ

   からごろもそでに人めはつつめどもこぼるるものはなみだなりけり

     女かへし

   つつむべきそでだにきみはありけるをわれはなみだにながれはてにき

としをへて、上ずめきける人のかういへりけるに、

いかばかりあはれとおもひけん。

これこそ女はくちをしうも、らうたくもありけれ。

     をんなのおやききて、いとかしこういふとききて、

とよかげ、まだしきさまのふみをかきてやる

    ひとしれぬみはいそげどもとしをへてなどこえがたきあふさかのせき

     これを、おやに、このことしれる人のみせければ、

おもひなほりてかへりごとかかせけり。

はは、女にはらへをさへなむせさせける

 あづまぢにゆきかふ人にあらぬみのいつかはこえんあふさかのせき

   心やましなにとしもへたまへ、とかかす。女、かたはらいたかりけんかし。

人のおやのあはれなることよ

 

 豊蔭は、ついに手にした、女の愛を受けいれてくれるという返歌を、無上にいとおしく思い、「これこそ女はくちをしうも、らうたくもありけれ」と感無量のことばを吐く。だが、ふたりが寝たこと、遂に逢ったふたりの愛のかたちについては語ろうとしない。

 伊尹は、自分の分身豊蔭の贈歌と女の返歌のからみあいのおもしろさ、そのあとの事件での自分たちの小狭智の謳歌に心を奪われている。豊蔭のまだ逢わぬ恋をよそおっての求愛の歌に、娘が心をゆさぶられることを怖れて、親は恋の虫封じの祓いをうけさせ、思うままの拒絶の返歌を書かせる。わたくしがあなたと逢う逢坂の関をこえる日なんてありますまい、何年でも坂の手まえの山科で滞留していなさったら、などと小気味よい書き方。

 ジョルジュ・バタイユは、肉体のエロチシズム・心のエロチシズム・神聖なエロチシズムと、エロチシズムの三形態を指摘している(『エロチシズム』室淳介訳)。もう遥かすぎる昔、「豊蔭の作者」(『日本文学史研究』二〇号、一九五三年五月)を書いた頃のわたしは、そういう三分類など思いおよばなかったが、<好き者>と<色好み>の区別に熱中していた。「肉体的交渉を持たない男女交際が『すき』であり」(吉沢義則『源語釈泉』)というような、平安朝の<好き>の中世的把握に抵抗したがって、性愛ぬぎの<すき>はないという一方で、<好き>と<色好み>の峻別を声高にしやべっていた。バタイユの肉体のエロチシズムにあたるものが<いろごのみ>で、うたによる風流を精力的に注入して、<色好み>が<好色者>に昇華される。心のエロチシズムになりうる。そういう考え方に固執する傾向は、いまも変らない。

 わたしは、『伊勢物語』の文学的達成を<好色者>憧憬の結晶、心のエロチシズムの高い到達とし、歌物語の主人公としての昔男…平仲…豊蔭を、<好色者>の下降の系譜としてみてきた。

 『とよかげ』を歌物語の末裔としながら、歌の風流に重点をおき、<すき>のなかの<いろごのみ>の要素が稀薄化したものと慨嘆する点で、いまも同じような見方に低迷している。

 『とよかげ』に関して、わたしにそういう見方をさせるのは、『とよかげ』の豊蔭よりも、伊尹その人の<いろごのみ>の姿が印象深いからでもある。

   仰云、世尊寺ハー条摂政政家也九条殿。件人、見目イミジク吉御坐(よくおはしま)シケリ。

細殿局ニ夜行シテ朝ボラケニ出給トテ、冠押入テ出給ケル、

実(まこと)ニ吉御坐(よきおはしま)シケリ。

随身切音(きりごえ)ニサキヲハセテ令帰給、メデタカリケリ。

……(『富家語』)

 

 語り手は、保元の乱後幽閉中の富家関白忠実。伊尹の弟、関白兼家の五代の孫。この談話をのちの『続古事談』は弘徴殿の細殿の局として書きかえているが、宮廷のどこかの細殿の局の女房のもとへ忍び、あさぼらけ忍び出るとする原語の方が味があろう。

「冠押入テ出結ケル」容姿にはエロチシズムが漂っている。その人がたちまちかたちを整え、随身にキリリとした声で先を追わせ、堂々と退出していく。その姿をかいまみて、くっきりと眼底に焼きつけていたのは、どこぞの女房か。宿直に名をかる他の蕩児か。それにしても、それは北家の氏の長者たる人が語り伝えるような伝承になっていた.

 

   多武峯の入道高光少将は、

兄の一条の摂政の事にふれつつあやまり多くおはしけるを見給ひて、

「世にあるは恥がましき事にこそ」とて、是より心を発し給ひけるとなむ。

      (『発心集』第五)

 

 弟高光の出家を、『多武峯少将物語』は、前年父師輔が世を去り、かねての出家入道の素志をさえぎるものがなくなったためとし、『栄華物語』は、姉安子中宮の死に触発されてとする。後者は時間的錯誤をはらむ説である。「あやまり多くおはしける」の内容は遊蕩とばかりにしぼりにくいかもしれないが、それを含まないはずはあるまい。

 伝承の伊尹像は、<いろごのみ>……肉体のエロチシズム本位で、伊尹の『とよかげ』に滑りこませたようなうたの風流をほとんど無視している。伊尹自身の「やつし」の自画像豊蔭は、うたの風流に偏りすぎた<好色者>になっていて、肉体のエロチシズムの稀薄化しすぎた心のエロチシズムということになろうか。

歌物語の后がねさえ奪いとる上流貴族社会の主人公は去り、下衆の下級官僚の<すき>を空想する伊尹の企ては後継者がえられず、雨夜の品定めに啓発された若い一世の源氏の君が、宮廷や上層貴族社会に背を向け、中層の家に隠れた理想の女性たちに好奇の眼を向けるような物語作者の想像が、育まれていく。

        ……法政大学教授……

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愛と創作主体 小町*「心の花」の発見 山口 博 著

2024年07月22日 12時06分13秒 | 文学さんぽ

愛と創作主体 小町*「心の花」の発見

山口 博 著

  一

 古今序以前の唯一の歌論書である『歌経標式』の歌論の方法は、和歌の本質論・様式論等である。

嘉祥二年仁明天皇四十宝算賀の興福寺大法師の長歌についての『続日本後記』の編者の論評も、ほぼ同質である。

それらに比して、古今序の著しい特色は、歌人の優劣を論じている事と、歌人相互の影響関係を跡づけようとする源流論のみられる事である。前者が六歌仙の論であり、後者は「小野小町之歌、古衣通姫之流也」「大友黒主歌、古猿丸大夫之次也」である。

 古今序以前にはみられないこの作品・歌人の優劣論、源流論を、古今撰者は何に学んだのか。想起されるのは、中国梁朝の鐘嶸の『詩品』である。鐘嶸は、魏文帝葺石の「典論論文」以下晋の陸機の「文賦」を経て宋の顔延之の「論文」に至る先行の多くの文学評論が、文学の様式論・本質論のみを論じ、詩人の優劣を論じなかった事への批判として『詩品』を著した。そこにおいて鐘嶸のとった方法が、この優劣論と源流説である。

 『詩品』の序は、五言詩の創始を漢の李陵に求め、その後百年間、詩は衰え辞賦のみ隆盛し、詩人は李陵と班婕妤だけ、という。詩の百年間の衰退と傑出する閨秀詩人一人。古今序にいう平城朝より百年間の和歌の衰亡とその間の唯一の女流歌人小野小町、両序の発想の類似は偶然ではあるまい。

 

その班婕妤は、「楚臣去境。漢妾辞宮」(詩品序)、「羈臣寡婦之所歎」 (欧陽修「梅聖兪詩集序」)などが一例であるように、楚臣屈原と並ぶ重要な詩人的位置が与えられている。班詩は、欧陽修のいう寡婦之歎で、典型的な閨怨詩であった。

 このように古今序と海彼の文学を読み比べるなら、和歌退潮の百年間において艶然と開花した小町の歌が、班詩に比擬されている事は認められるのではないか。

 班婕奸が「怨歌」という閨怨詩の作者であり、閨怨詩のヒロインであったように、古今撰者にとって小町は閨詩的な歌の人であったのである。

 

小町の歌の多くが、不毛の愛の嘆である事は指摘されている。

このモチーフが閨怨詩的であるだけではなく、その表現方法に閨怨詩の影響を受けている事を、私はに拙著で述べた事がある。詳細はそれに譲るが、例えば、

 

 花の邑は移りにけりないたづらに 我身世に経るながめせしまに

が、落花を見て花顔の衰えを嘆く閔怨詩の典型的な手法、

   わびぬれば身を浮草の根を絶えて誘ふ水あらは往なむとぞ思ふ

が、男に頼っての生き方をせざるをえぬはかない女の象徴を、浮草にみる閨怨詩の伝統の上に作られているという事などである。手っとり早い例を挙げるなら、次のような詩がある。

   玉顔盛有時。秀包随年衰。(中略) 浮萍無根本。非水将何依一  。     

(『玉台新詠』巻二・傳玄「明月編一)

 「人の心」という表現にも中国詩の影響があると思う。

   色みえで移ろふものは世中の人の心の花にぞありける

 『古今集』には「人の心」という語句は一三首ある。その意味では当時の類同的発想に依拠しているといえるのだが、『後撰集』には二二首(内「人心」四首)、『拾遺集』には二一首(「人心」一首)とみてくると、小町の「人の心」は古今で類同的であるだけではなく、三代集の中に全く埋没する。

 ところが『万葉集』には、平安朝的センスを早くも内蔵している大伴家持に一首、巻一一に一首あるだけである。万葉歌人にとって恋愛歌は、対象との合体を希求する声であり、欲望の実現を計る心の響きである。「吾が心」・「妹が心」という類の、個別的な対象を明確化した表現をとるのもその現れである。古今恋歌はそうではない。「世中の人の心」と、恋の心の状況を客観的に観察し普遍化、人生論にまで高めている。  

「人の心」という表現の万葉と古今以後の落差をこう考えるのであるが、万葉歌人のほとんど知らないこの表現も、中国六朝詩には既にみられるものであった。『玉台新詠』には「人心」として六例あるが、その一つ、

  街悲攬俤別心知。桃花季色任風吹。本知人心不樹。何意人別似花離

        (巻九・蕭子顕「春別」)

は、人心が桃花季飽の移り変り易きに等しき事を詠う。作者は、一度は「人心は樹に似ざる」と思っていたが、今は似ていると認識したという。似ていないが実は似ている、この発想が小町の歌では、「色みえで」という点では花と人心は似ていないが、移ろうという点では実は似ている、となる。

 人心は花に似たりとするこの蕭子顕の詩は、『芸文類聚』閨情部に採録されている。菅原道真が「落花」と題する詩で、

  花心不人心。 一落応再尋。 (『菅家文草』巻五)

 

とするのも、彼の主張する断章取義的方法による蕭子顕の詩の依

拠であろう。人心は花に似るのモチーフは平安人の心に確実に根付いているのである。小町の「人の心」もこの系譜の上にある

と考えられるではないか。

 嵯峨・淳和朝という漢風の時代を通る事により、和歌は著しく漢風に傾く。小町個人をとっても、文人である阿倍清行や文屋康秀との交友があり、彼らは漢風の歌を作っている。小町の歌に閨怨詩的傾向があり、それを古今撰者が認めていた事は、当然ではないか。

 

  三

 このような閨詩的歌を作る小町は、どのような人であったのか。

彼女の周囲の男はいずれも五位・六位程度であるから、小町も高い身分とは考えられず、後宮において職事官であれば古今作者名の表記にそれが表われるのであろうのに、それがなく、「小野」の姓を伴って表記されている事、などから、散事宮の氏女説をかつて立てた。彼女が後宮の一員であれば必ずどのような身分かに想定せねばならず、これ以外の合理的公約数は考えられないからである。

 氏女と想定すると、小町には次のような条件を課さなければならない。端正な女で、三十歳以上四十歳以下、夫なき事とする大同元年の太政官符の規定である。この条件を小町及び彼女の歌に照射すると、彼女の美女伝説も老残説話も、歌が年寄りじみている事も、不毛の愛を託っている事も、従来小町及び小町の歌についていわれてきた事がそのまま説明できるのである。

 

 氏女説の難点は、氏女の実態が十分把握できない事である。資料から推測できる実態は拙著に譲るが、恋歌と関係を持つと思われる、夫なき事という条件だけは再説しておく。配偶者を持つと氏女は解任される、したがって公然の情交関係は避けたであろうが、秘やかな関係はあり得ただろうと考えるのが、当時の風俗からみて自然だろうと思う。人目を忍ばねばならない微妙な愛のあり方が、彼女の歌の枠取りになっていると考えるのである。

 男の愛の得がたき悲哀や焦燥、それは愛を失って悲嘆する閑怨の女の嘆とほとんど同質である。氏女であることの実体験が、ほぼストレートに閔怨詩的な歌という彼女の作品に繋がってくるのである。表現の単なる模倣ではなかったのである。

 

   四

 

 従来の小町論の多くは、古今の小町の歌を分析する事により小町の実像を求める方法をとる。結果として、表現と創作主体が直接結び付くのは当然の事である。歌から像にアプローチするのもかなり困難で、「やむごとなき人の忍び結ふに」・「四の皇子の失せ給へる」(小町集)の局辺を揺曳するぐらいである。逆に、歌以外の資料から小町像を求めた論もあるが、それらは、彼女の歌の著しい特性との回路をほとんど考慮しないで終る。

 私は、和歌から小町へという方法を避けたのであるが、それを取ったのが田中喜美春氏である。歌を分析し再構築した結果は、小町は小野貞樹を愛していたが、嘉祥二、三年(八四九~五〇)頃失恋し、康秀に言い寄られたが心痛癒されなかった、という事である。俗っぽくいうなら、思う人には思われず、思わぬ人に思われるという構図である。

 古今歌のみを対象とするなら、小町の局辺の男は貞樹・康秀・清行だけで役者は限定されているのであるから、結論は当然そうなる。私たちが知りたいのは、三人の男に囲まれた小町が何であったか、それが歌とどのような回路を持つかである。例えば後宮との関係についても、田中氏は更衣説から始めて氏女説まで否定する。資料なしとして投げだすのであるが、否定するからには仮説を提示するのが研究ではないか。田中説もまた、小町について何も語っていないのである。

 

 田中説の構図は成り立つであろうか。真樹との破局の嘉祥三年(八五〇)に三河様康秀を登場させる。任三何様の実例を求める

と、外従五位下か正六位上である。康秀は元慶三年(八七九)に任縫殿助であるが、縫殿助も従五位下か正六位上が実例である。

三河掾も縫殿助も、六位で任ぜられても叙爵への距離は近いのである。康秀は叙爵されていないから、田中説によると嘉祥三年から元慶三年まで、少なく見積っても三〇年間六位にあった事になる。こんな事があり得るだろうか。諸国の掾に任ぜられた者は、任官後一五年程の後には叙爵している。藤原元真の二五年後の叙爵が飛びぬけて長いのである。嘉祥三年三河掾であるなら、貞観年中に叙爵しているはずである。康秀がいつ三河掾であったかわからない。『古今集目録』が貞観年中にそれを置くのも、私が元慶初年に置くのも、以上のような事を考慮したのである。

元慶初年三河掾から縫殿助になり、叙爵を目前にして没したと考えられるであろう。

 元慶初年 康秀と交友のあった小町が、その時若年であるなら、嘉祥三年ごろ真樹との恋は年齢的にあり得ない。嘉祥三年ごろ貞樹と恋をする小町であるなら、元慶初年の康秀との話は、成り立たないか、成り立っても、真実の恋ではないだろう。田中説の構図は無理であろう。

 貞樹こそ小町の愛人とする田中説は「題しらず」の六三五・八二二の小町の歌をも、それこそ何の確証もないのに、真樹との愛の枠中に収める。真樹との間を語るのは僅か一首で、それも詠歌事情を全く伝えていない。康秀よりも流行よりも、貞樹の影は茫昧としているのではないか。

 

 五

 私は歌を避けて小町を考え、その小町から歌を眺めてみた。氏女小町と閨怨詩的歌は実に対応し、彼女の実人生がそのまま作品に照射されている事を知った。

 ただ私が逡巡しているのは、彼女の歌のすべてがそうなのか、虚構の、想念の歌がないのか、という事である。愛の許されない氏女であれば、かえって愛欲に対しては鋭敏な異常な神経と豊かな空想力を持つようになり、それが古今の歌を生んだとも考えられるのである。「人の心の花」という透徹した観念などもそれであるかもしれない。

 しかし、それが想念の歌であっても、そのような想念の歌を作らせた情念が、氏女であることにより育まれたのであるなら、その意味で、彼女の体験と歌とは密接な回路で結ばれている事になるのである。

 

【注】 

拙著『閑怨の詩人小野小町』 (昭和五四年・三省堂)を参 照くだされば幸いである。

田中氏の論は「小町時雨」(『岐阜大学国語国文学』一四号・昭和五五年二月)。

閑怨詩と小町の歌との影響関係を論じた論文に、後藤祥子氏「小野小町試論」

(『日本女子大学紀要』文学部二七号・昭和五三年)がある。…富山大学教授…

小野小町は、古の衣通姫のながれなり、哀れなるやうにて強からぬ女の歌なればなるべし。

  思ひつゝぬればや人のみえつらむ夢と知りせば醒めざらましを。

  いりみえでうつろふものはよの中の人の心の花にそありける。

  侘びぬれば身を浮草のねを絶えて誘ふ水あらばいなむとぞおもふ。

そとはり姫の歌。

  わがせこがくびきよひなりささがにのくものふるまひかねてしるしも。

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