おくのほそ道研究と鑑賞 佐々木 清者
桜楓社
まえがき
『おくのほそ道』に関する私の研究は、いまやっと緒についたばかりである。しかし、それに費やした歳月は決
して短くはない。ここ数年来、学会機関誌などに発表させていただいた論攷の外に、書きためてきたものを篋底か
ら引き出してみると、ややまとまった分量となっていることに気付き、ここで一書にまとめてみようかという誘惑
にかられた。
『おくのほそ道』の研究や注釈には、現在数多くの精緻な著作が多く、小生のような「浅智短才の筆に及ぶべ
く」もないことを承知しながら、あえて拙著を世に送ろうとすることには、内心忸怩(じくじ)たるものがある。ただ、このなかで提示した私なりの見解について、諸先学のご批判を仰ぐことができ、またそれが今後の研究の一つの捨て石にでもなればというささやかな念願から発したものである。
未熟な所業にすぎないかもしれないが、本書をまとめることができたことは、多くの諸先学から得た学恩による
ものであることはもちろんである。そして、とりわけ、小生が学窓にあった時代から現在に至るまで、何かと深切
なお世話にあずかった暉峻康隆先生、また終治乱の研究に枝折のご援助をくださった松尾靖秋先生のご教示と暖か
い寛仁度量によるところが多大であることを銘記しつつ、ここに深い敬意と深甚の謝意を捧げたい。また、あわせ
て、辺隅に住する小生に、深いご交誼をいただいた諸兄のご厚情に対して、心から御礼を申しあげる次第である。
最後に本書刊行の機縁をつくって頂いた桜楓社会長及川督二氏、編集を担任してくださった野上正子氏に対して
心から御礼を申しあげたい。
昭和五十八年六月 佐々木 清 識
第一章 『おくのほそ道』解釈の疑点
「深川」の章における典拠の問題をめぐって
「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。」の『おくのほそ道』冒頭の章句は、
李白の「春夜宴二桃李園一序」を典拠としたものであることは衆知のことである。
『おくのほそ道』の序章「深川」の章で、芭蕉は、世の実相を流転変化して止まないものとして把握した世界観を、提題の思想として表明したものであり、『おくのほそ道』に貫流する主題が結論的に集約されていると解釈することにも異論はない。してまた、万象の流転変化こそ世の実相として論説した芭蕉は、こうした造化自然の摂理に随順した自らの生き方を「旅即人生」と規定し、その旅のなかで風雅を追求していく。このような自覚的な実践形態としての漂泊の人生のありかたかう詩人の方法として選択したことを宣言したものだとする解釈も正しい。
ところで、この芭蕉の根底的な思想を表明した「深川」の章の解釈に、決定的な要因をなしている李白詩の典拠
の問題は、あまり鮮明には解明されていないのではないかという素朴な疑念を私は抱いている。
まず、これは具体的には、「月日は百代の過客」云々の冒頭の章句の通釈のありかたに顕著にあらわれている。
近来の諸注釈によれば、「月日」を「行かふ年」と対語関係としてとらえ、この両者を共に、「時闘上の単位を示す名称」として、「マンスとデーの意味としての月日」と「年」との対内関係として処理をした通釈が一般的な傾向になっている。この通釈のありかたに、私はトリビアルな疑問をまず持っている。
この解択については、既に早くから荻原井泉水氏の指摘で、「月日は百代の過客」の「月日」は、「ムーンとサンの月日の意とする天体的な意味」とされる見解が提唱されてはいるが、これが通説としては容認されていない状況にあることが起因していると考えたい。このことをめぐって、芭蕉の作品における典拠の問題を、「深川」の章において考察してみようとするのが、この小稿の目的である。
芭蕉の愛読書の一つとされている『古文貞宝後集諺解大成』(寛文三年序)には、「春夜宴桃李園序」の詩に次のような註付き本文と釈放がある。
夫天地者、萬物之逆旅、天地加客舎 光陰者、百代之過客 月日加二渡行過客一也
△中略▽
〔天地〕
客舎も、旅宿也、云心は、天地は一年一年に、萬物を送り迎て人宿する程に、天地は、萬物の為には、旅屋也。
〔光陰〕
光陰は、日月のひかりかげ也
〔百代〕
は、天地開聞して、日月星辰出現するより、永劫千萬迄を指云
〔過客〕
は、旅人也
註〔日月〕云心は、日月流行して千萬歳の間、四季昼夜、ちゃつちゃつと替り過るは、
旅人の客舎に移り易る様也とぞ。
芭蕉が李半白詩を理解摂取するには、『諺解大成』に依拠したものと推定されるが、『おくのほそ道』の古注を著述した注釈もまた、この季白詩の典拠を解釈する場合、『諺解大成』の釈義を念頭に置いたと思われる形跡が、その釈義の其述性に明確にうかがわれる。労をいとわず、古注の釈義の内容を列記してみよう。
一 鴻他村径『奥の細道鈔』
唐文粋及續文章軌範事文類聚前集古文後集載之とかや」
或日光陰とは日月の異名と行かふ年もと註し添たるにや
二 蓑笠庵梨一『奥細道管菰抄』
天地の運旋、日月の行道を旅に喩ふ、逆旅は、はたこや、光陰は、日影のうつり行く事、
過客は旅人をいふなり
三 来雪庵後素堂『奥のほそ道解』
芭蕉翁、此文面を以て紀行の序文を書出し末には古人も生涯を旅に終るためしなんと
細かに書つらねたる発端也、扨此文意は天地は萬物の逆旅、
驛路として見る時は日月光陰の過行はとりもなほさす百代千載の過客に同しといふへく、
四時の行かよふも又旅人にひとしからんとなり、
「一」の村径の古注による「或曰光陰とは日月の異名と行かふ年もと註し添たるにや」の釈義は、芭蕉が李白詩の「光陰」を、「日月」と「行かふ年」との面談に翻案したのだとする把握として正当であるし、注目したい。
「二」の梨一の古注による「天地の運旋、日月の行道を旅に喩ふ」と、「光陰は、日影のうつり行く事」の釈義は、『諺解大成』の原注「日月如二流行過客一也」に照応する。
「三」の後素堂の古注は、最も的確にその翻案の意図をとらえているものと考えたい。
「日月光陰の過行はとりもなほさす百代千載の過客に同しといふへく、
四時の行かよふも又旅人にひとしがらんとなり」とする釈放は卓見であろう。
「日月光陰の過行」によって現象する「行かふ年」を設定し、それと同流の「四時の行かよふ」を誘導させた文
脈である。それは「又」という修辞に注意深く留意した卓抜した解釈といえる。その文脈は図式化するまでもなく、
「日月光陰の退行=過客」と、「四時の行かよふ=旅人」とする二文を連接する構文に、
「同しといふへく……又ひとしがらん」の形式を用いたところに、「又」の入念な使用がある。
後素堂の釈放の文脈によって明瞭に知ることができることは、芭蕉の李白詩の「光陰」における翻案は、一つは「日月」であり、もう一つは「行かふ年」とする両義的構造になっていることである。
既述のように、古注の釈義に共通する「光陰」の訳出のありかたから、注釈者も『諺解大成』によっていること
が証明できる。さらに、「光陰」の両義的な意味のいずれか一方が欠如しても、それは的確な釈義たりえないとす
る古注からの教示も得たことになる。
「光陰」から翻案した「日月」と「行かふ年」において、原義上の主副関係を問うとすれば、私は後素堂の釈義
を支持して、「日月」の意味が主位に立つとしたい。だから、「月日は百代の過客にして」の「月日」は、その場面においては「日月」の意味として訳出すべきことが当然であると考える。この「月日」を「時間の経過を示す単位」として、「マンスとデー」の意味に限定し、またそれに従属させて「行かふ年」と同義の対語表現として理解することは警戒しなければならない。「月日」と「行かふ年」の関係は、並列の反復表現ではないはずである。
私はこれまでに、「光陰」の釈放についてトリビアルに拘泥してきたのであるが、このことは、この冒頭の章段
に触れた主題の把握のしかたとも密接に関連してくることを、私説の展開として述べなければならない。
ここで、この点の諸氏の見解を解説してみよう。
尾形仂氏の『おくのほそ道注解』における「原注に、『日月如流行過客也』とあるような、宇宙相の本質を生々流転してとどまるところを知らぬ旅だとする世界観の表明として用い」たとする解釈と、また次に引用した久保忠夫氏の見所を、まず私は肯定したい。
『古文貞宝後集諺所大成』(寛文三年序)の「光陰」の注に「光陰は、日月のひかりかげ也」とある、そういった註所のなかだちによって、「日月」とおきかえる契機をえ、さらにリズムの上から、(中略)倒置して「月日」 とすれば「つきひ」という柔軟にしてしまりのあることばをえられると、「月日」にしたのではないか。
また、荻原井泉水氏説を支持する浅背信氏も次のように解釈されている。
わたくしもその伝統的意味(語感)から、そモの天体的意味(意識)という点において、はやくから賛したところで あり、又これによってこそ「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」の「月日」と「行かふ年」の、単純重復性もさけ得るものと考えたところであった(『俳諧の語彙と文法』)。
ここに提示した三氏の見解を私は支持するのであるが、近来の語注釈書では、井泉水氏のように明確な形で、「月
日」を「ムーンとサンの月日の意とする天体的な意味」として訳出はしていない。
ここで私説にもとづく口語訳を次のように提示したい。
天空を日夜絶えまなく運行する月と太陽は、この天地の間間から永遠にとどまることなく悠久にわたって旅し続 ける旅人であり、そして、この月日の運行によって四時を刻みつつ去来する年月もまた同様に旅人である。
ここに至れば、私は私説の根拠をもう一度確認しながら総合的に述べなければならない。
ここで私は五つの論拠を裏づけたい。
第一に、おそらく芭蕉は李白詩の章句の理解を『諺解大成』に依拠しただろうということと、その釈義の存在である。原注「日月加工流行過客・也」の文言と、「光陰は、日月のひかりかげ也」の釈義によって、李白詩の世界を摂取し、その原義を踏襲した典拠を踏んだ手法を用いたということである。
宇宙の相の動的な流転変化を強調しようとすれば、天空を運旋する月日の流動は、芭蕉がここで訴えようとする ものの比喩として、まさに最適な自然の具象的存在であったといえる。こうした天体的な現象に対する芭蕉の視角
は、「羽黒山・三山順礼」の章にも、「雲霧山気の中に氷雪を踏みて登ること八里、さらに日月行道の雲間に入るかと怪しまれて、息絶え身凍えて、頂上に至れば日没して月顕はる。」と再出する。
第二に、「深川」の章における芭蕉の視角を問題にしたい。その視角は「天」から「地」へと俯瞰され、「舟の上に生涯を浮かべ、馬の目とらえて老をむかふる物」と具象的に旅人を規定する。梨一の『菅菰抄』にある「天地の運旋、日月の行道を旅に喩ふ」という評釈が、この「天」と「地」の対比的叙述によって肯定されるのである。だから、「百代の過客」は天空を運行する「月と太陽」でなければならない。それが抽象的な概念としての「マンスとデー」であっては、「百代」の宇宙の流動の相を想起させる効果的な表現にはなりえない。
そればかりではない。芭蕉は「日月」から「行かふ年」を敷行させ、「いづれの年」「去年の秋」「やゝ年も暮れ」「春立る」と四時の転変を具象化する表現の連綿性を意識している。この四時の転変は、『おくのほそ道』の主人公の、「日々旅にして、旅を栖とす」る人事的な旅の境涯とも密接な関連をもったものになっている。これは、芭蕉が、まず宇宙自然の動態を説き起し、人事の動態を呼応させ、その共通頂として、「旅人性」を帰結させる序章の意図は明白である。
万物斜旅説から帰納された「旅即人生」の思想を、この序章での提題とするのであれば、この主題を説得強調さ
せる効果的な修辞のありかたを、前述の解釈で考察したい。
第三に、「月日」と「行かふ年」は同義語の並列的な反復ではない。両者の関係は「日月」の運行によって現象
する「四時」の変転の相としての「行かふ年」と理解することによって、縁語的な修辞の深みがでてくる。
「月日は百代の過言にして」と、その迎接に断切的な休符を置いた修辞と、「又旅人也」の「又」を効果的に使った修辞の意図を考えたい。「又」は両者の旅人性を前提とするのだから、ここでも「月日」の両義性は保証されなければならない。
第四に、この序章に語られる「漂泊の思ひ」について考察したい。
「そぞろ神の物につきて」と物狂いにも似た「漂泊の思ひ」、芭蕉の旅心を刺激するものは、「風」であり、「霞」であり、「空」であり、「月」であった。
「片雲の風」「春立る霞の空」「松嶋の月」と点在的に叙述するものは自然の風光である。それは造化自然の働きかけが「漂泊の思ひ」を触発させる媒体になっている。ここにも天象的なものへの視座があるように思われる。
第五に、この序章の主題とかかおる点で、再び後素堂の『奥のほそ道解』の評釈の考察にもどってみたい。
夢想国師の詠歌に「いつちよりいつ地にかよふ人なれば此世を假の宿と定めんといふにも下心かよひ侍らん。
この部分は前引の釈義に続く文言であるが、万物羇旅観を前提とした芭蕉の「旅即人生」の思想、転変流動する世界に対応する人間のありかたを「此世を仮の宿と定めん」として、作品の全体形象を統一する主題の中枢部をみごとに洞察した解釈と評価してよい。
このような無常に対処する芭蕉の基本的なありかたは、ただ単に、典拠とした李白詩や仏典からの形式的な借用
の思想ではなくて、その旅の境涯から実践的に帰結された無常の心証であり、また、無常の諦観であったことは論
をまたない。
また、これはよく指摘されていることだが、李白詩の「夫レ天地ハ万物之逆旅」の章句は割愛されたとしている
が、私は、割愛ではなくて、『おくのほそ道』の序章に有機的に生きた修辞として機能していると考えている。「天」
を逆旅とするものが「月日」であるとすれば、「舟の上に生涯を浮かべ」る船頭、「馬の口をとらえて老を迎ふ」る馬子に象徴される人間の営為は、「地」を逆旅とするという発想に生きていることになる。
「古人も多く旅に死せるあり。」と風雅の伝統の系譜に自らを位置づけ、「子も」と付加的に書き改めた芭蕉の
意図は何だろうか。『笈の小文』の、「無依の道者の跡を慕ひ、風情の人の実をうかがふ」ことを願う風雅追求の旅の実践の立場をここで再確認したものであろう。後素堂党の解釈は、芭蕉における無常の諦観と人生のありかたの関連を正しく把握しながら、また作品『おくのほそ道』の主題の解明に接近している。
以上の五つの論拠を付して、私説を説得する材料にしたい。
しかし、これだけでは充分ではない。作品『おくのほそ道』は、多くの章段において俳文における発句の機能を
確認しなければならない。本文と発句の関連、句文の照応のありようを考察することが、私に残された最後の解明
すべき課題となるであろう。
草の戸も住替る代ぞひなの宗
それでは、この発句の解釈の方向を古注や諸氏の見解に探ってみよう。
『菅菰抄』では
勿論雛の家箱ハあるはニツの人形か一箱になし或ハ大小の箱を取かへなど年々其収歳の定なきものなれば年々歳
花相似蔵歳年年人不レ同乙凹の心ばえにて人生の常なきを観想の唫なるべし
とし、「雛の家」の釈義に特異な見解を示しながらも、「人生の常なき」を表象する「観想の唫」として解釈している。
錦江の『奥細道通解』でも笈日記にむかし此叟(の)深川を出るとて此草庵を俗なる人にゆづりてとあり、翁の旅立てるにより人の入り替るを雛の箱にたとへたる時節の感情なるべし
とし、『菅菰抄』の「雛の箱」説を継承するが、「時節の感情」を表出する句としている。
後素堂の『奥のほそ道解』では、「弥生なれば聊の雛祭したるをつらく見て」と、嘱目説をとっている。
草の戸も住替る代ぞいつか雛祭りする家に成たるよといふ事を雛の家とはいふなるべし、古今生雑の部、伊勢か
家を売りて詠る「飛島川淵にもあらぬ我宿は顔に替り行く物にそありける、此歌を下心に持書く也。
ここでは、「雛の箱」説を修正し、「飛島川淵にもあらぬ」の和歌を典拠として指摘し、「草の戸」から「家」への変貌に「住替る代」即ちこの世の流転説を確認する。
前引の古注で、「観想の唫」、「時節の感情」の句として把握され、さらに後素堂はその解釈を深化して、その流転性、無常を心証するものとして解釈する。古注にこのように共通するものは、この句の「観想吟的性格」としての把握であろう。
また、近来の諸注釈においては、「草の戸」の句解をめぐって、これを嘱目の景とする説と想像の景とする二説
に対立していることは衆知のことである。
私は、この句が芭蕉庵出庵の直前の詠であると考え、想像の景とする説に加担したいし、「雛の宗」を句眼としない方向で、松尾靖秋氏の「雛の家は季題として当季の語を入れる必要から、ここに用いたもの」とする解釈を支持したい。
加藤楸邨氏が、この句の観想性を注視されて、「草の戸も住替る代ぞ というのは、こうした流転の世を自ら言
う自分自身としての確認の性格を持ったもの」(「芭蕉の山河」所引)とする最近の見解に従いたい。しかし、同氏の『芭蕉全句』における「雛が季感とともに住み替わる代を感じさせる軸のはたらきをしている」とする部分や、
「雛祭りの人間の関係のあたたかさを出すことで、自分の居た時の草庵との対比を強調している」という意味で、
「対比する感慨が句の発想契機である」とする解釈とは、また異なる解釈を私は付したいのである。
この句の眼目は、「草の戸」と「雛の家」との対比をねらったものではない。また、よく諸注釈のなかで指摘される、「草の戸」と「雛の家」のイメージに表象される「わびしさ」と「はなやかさ」の対照に焦点を置いたものでもない。句眼は上五、中七の提題的な意味にあるのだとしたい。「草の戸もすみかはるよや雛の家」から、『おくのほそ道』に掲出の句形「草の戸も住替る代ぞひなの宗」への改案はこのことと密接なかわりがあると考える。それは「そ」の修辞にこめられた指定的な強調性である。
「草の戸」から「家」への変貌のなかに、人事の転変、世の流軟性を断言的に強調しようとする作為がみられる。観想吟としての内容の武骨な抽象性を、当季の「雛」という季語を生かして、「宗」を修飾する「ひなの」という辿体格節句に蘇生させ、その季語のもつ艶美なイメージを拡散させることで、その主題の生硬な観念性をも払拭させようとした芭蕉の発想があったことを私は指摘したい。
この句は、芭蕉自らが詩人の方法として選択した漂泊の境涯の、草庵を打破る日常卑近な状況なかで、流転の世
を確認し、無常を諦観した観想吟である。また、ややもすれば落込みやすい主題の生硬さを、季語のもつ艶美華麗
なイメージの拡散で消却したばかりでなく、景気の句としても成立させ、嘱目の景をも想像させうる句の奥行きを
もたせている。そして、それは観想のアプグローセなおもくれを超克していると言ってよい。
結論を急ごう。序章に提題した「旅即人生」の思想と主題が荘重な響きでかなでられたあとで配置された「草の
戸」の句は、その観想性においてその内容と緊密不可分な照応を図りつつ相槌の関係を構成しながらも、その両者
の資質は硬軟のバランスを保っている。
この小稿は昭和五十四年日本近世文学会春季全国大会で口頭発表した要旨に補筆したものである。