第十二章 連俳重要書 解題
凡そ俳諧に関する著書は極めて多しといえども、此には特に重要な俳書に限り、各時代の終りに、その解題を掲げて研究の便に供すゐこととする。
▲犬筑波集(山﨑宗鑑編)
これ俳書のさきがけなり。この書何れの年に成りしかは、明かにはできないが、これを推側するに、永正年中に成れる書であることは論じない。『俳諧年暦略記」にも、「犬筑波集、永正十一年編」とある。これも宗祗の追善句をもって、推測し考えるべきとするもするが、この年あたりの編と推察される。また印本になったのは、寞永の頃と思われる。
▲守武千句(荒木田守武 独吟)
巻尾に天文九年 時雨降る頃、とあれば、其頃の成立。
俳諧の獨吟千句はこの州を以て初めとなす、この千句は、宗鑑の『犬筑波集』成り、約二十餘年の後に成立したもの、宗鑑は二句三句の言捨のみ詠み、守武に至りて始めて千句を連ねることが起これり。
▲『御傘』松永貞徳編
宗鑑・守武により創られた俳諧の法式を定めた書。今日より見れば、それほど價値あるものではないが、
貞徳の『御傘』と云えば、俳諧師必読の書の如くなれり。
▲『淀河』・『油糟』松永貞徳著
寛永二十年の板なり。淀河は山崎宗鑑が『犬筑波集』中の附句を批評したもので、貞徳の意見が窺える。『油糟』は宗鑑の前句をかりて、貞徳自ら附句を試み、以て彼の技量が理解できる。貞徳は此等の外に、紅梅千句、前車集。天水鈔、百韻自註、貞徳俳諧未来記等の俳書を出した。
▲ 『正章千句』安原貞室著
貞室は「これは/\とばかり花のよしの山」という句の作者で有名。この千句に慶安元年の板にて、師貞徳の判詞あり。貞室はこの他に玉海集、同追加集、氷室守。五條百句、片こと、附合大全らの編がある。任口の狗吟百韻は、俳諧絵合(延宝六年)に出版、発句は続連珠、落花集などに多く見える。
季吟の判詞またいといみしく、句合の模範となしている。此書は李吟自筆の稿本をもって校訂。
▲『花月千句』(雛屋立圃著)
立圃以下幸和、當知、仲昔、成次らの諸門人との間に成立、俳諧の千句なり。
立圃は貞徳の高弟にて。姓は野々口、雛屋庄右衛門(或は市兵衛といふ。曾て松江重頼と争論し、貞徳の気色か損なひ、それ夫より鳥丸亜相卿の門に入り、著書甚だ多い。
▲『立圃句集』(野々口立圃著)一名を『空つぶて』と称する。
▲『言水句集』(池西言水著)
通称八郎盛兵衛、名は則好、紫藤軒または風下堂と號した。南都の人。曾て「木枯の果はありけり海の音」より、「木枯の言水」と呼ばれた。晩年自ら「洛下童」と号した。
俳諧は松江維舟について學ぶ。享保四年(或は享保七年)九月二十四日没、行年七十三。
その句集は安永四年刻。俳諧五子稿・蘆陰舎大魯閲、朝陽館主人中に収められた。
▲『犬子集』(松江重頼編)寛永十年に成る。
犬子集とは宗鑑が犬筑波集を慕いての名となること序文中に見える。犬子集は全部五巻、発句一千五百首余り、附句千句余り、貞門請俳人。及び上古の俳諧に大方これを網羅した。貞徳を初めとして、繁頼・立圃(親重)・西武、ト養(慶友)・徳元・望一・玄札らの諸士の俳風を知るには此書の右に出る者は見えない。書中俳句者の名が欠けるは、読人不知と知るべし。
▲『俳諧破邪顕正』(中島隋流著)
西武の門人中島隋流が惣本寺高政の中庸姿を非難したもので、次いで破邪顕正返答、猿とりもち、二ツ盃・綾巻・俳諧頼政・俳諧熊坂等の批判がでた。髄流は松月庵と称し、寛永五年二月十一日歿、年八十。此のは延宝七年十二月の編とする。
▲『俳諧初學抄』(斎藤徳元編)
ある君の命により、俳諧の式目及び季寄せを記したもの。寛永十八年、江戸に於い梓行された。京都に於て俳書か刻ゼ!は、賞に此書を以て始とする。
▲『玉くしげ』(池田是誰著)
貞徳門の俳論を集めたもので、寛文二年の刊行。