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臼井喜之介 著 京都文学散歩 展望社刊

2024年07月19日 15時11分30秒 | 文学さんぽ

臼井喜之介 著 京都文学散歩 展望社刊

 

昭和42年 完

敢て序す 吉井勇 氏

 

 この臼井喜之助君の「京都文学散歩」は、詩人である彼の感情的躍動の波が、一脈全体の文章京を貫いてゐて、ひとつの美しい長篇叙事詩を作り上げてゐる。どの頁を開いでも文学散歩にふさはしい足のリズムが感じられ、読者の眼はひとりでに洛中洛外の絵巻の上を辿ってゆく。

 私が臼井君を知るやうになったのは、昭和十三年の秋、土佐から京都へ移って来てから間もなくのことで、それから今日までおよそ二十年間、淡々とした交りをつづけてゐる。その頃同君は、詩を作る傍ら出版を業としてゐたので、私は「短歌歳時記」その他二三の著書を上梓してもらったりしたが、さういう場合も彼と私との問には、単に著者と書肆といふ関係ばかりでなく、更に深い芸術的な心の交流があったやうである。

 さういった間柄であるから、今度臼井君の「京都文学散歩」が出版されることは、他人ごととは思へないほどの喜びだ。京都に住んで廿年になるが、まだ私の知らないところが多くあるから、私もこの一本を携へて、あらためて楽しい文学散歩を試みたいと思ふ。

 昭和三十四年十二月  洛北紅声窟にて 吉井勇

 

はじめに

 京都は日本のふるさとだという。

 文学をやる人は勿論、国文学や歴史などの研究をする人にも、なつかしい思いをそそる土地柄である。

 私自身、京都に生れ、京都に育っただけに、なお一そう愛情の念のはげしいものがある。一ケ月に一週間は仕事の都合で東京で暮すが京都へ帰ってくるとホッとするのが常だ。

 詩友や、ジャーナリストの、数多くの人を京都のあちこちに案内しながら、いつも戸惑うのは私自身たいへん物おぼえが悪く、「たしかここは徒然草に出ていました。ここには何とかいう芭蕉の句がありました」と説明しつつも言葉につまることで、誰でも知っているようなことでも、さて正確に引用しようとすると、一々原典にあたらねばならない。うろ覚えだと、本を探す手間も大へんなので、比較的ポピュラーなものだけを、閑々にメモしておいたのが、大体この本の生れる動機だと思って旧いていい。

 

竹村俊則氏の「新撰京耶名所図会」全七冊がこの程ようやく七年ぶりに完成の目を迎えた。それまでに全京部としてまとまったこの仲のものは、江戸時代の秋里籬島の「都名所図会」しかない。いま本書を書くにあたって、昔と今を対照するに便なるよう、努めてこの昔の「都名所図会」を引用した。

 見学散歩とは言いながら、自分の好きな所だけでなく、京都の上なところは殆んど入れた。この本を片手に、京都の案内にもなれば、と考えたからである。

 初めは執筆の方便として、昔やっていたカメラを七、八年まえからまた始め出した。週刊誌や文化史大系の京都の部教科書の仕事など受持たされることも多く、だんだん忙しくなり、作品もずいぶんたまったが、頁の都合で本書にはほんの僅かしか入らなかった。いずれこの方は改めて「京都カメラ散歩」といった形で出してみたいと思っている。

    昭和四十二年  著者

 

嵯峨野散策

風俗の里・嵯峨野 野々宮の小柴垣 去来の落柿舎 小倉山と二尊院 高山樗牛と滝口寺

王朝の悲心・祇王寺 釈迦堂と宝篋院 厭離庵とあだし野 南北朝と大覚寺 大沢池と名古曽の滝趾

広沢池の名月 嵐峡の雪月花 保津川下り 嵐山と三船祭 名剣天竜寺と関管長

 

桂離宮から下嵯峨へ

 

典雅の美・桂離宮 苔の西芳寺 太秦(うずまさ)と怪奇な牛祭 帷子ケ辻と蚕の社・車析神社

 

北野から愛宕山へ

 

北野と豊公大茶会 衣笠と志賀直哉 花園と妙臣心寺など 金閣寺と映画「炎上」

竜安寺と石庭 双ケ岡から仁和寺ヘ 鳴沢と大根焚 高根と明恵上人 清滝の紅葉 西の名山・愛宕

 

西陣から上賀茂へ

 

西陣と千家茶道 紫野の大徳寺 光悦村と鷹ケ峯 東山三十六峯 賀茂の礼の森 賀茂の神社と迷信

 

白川から比叡山へ

 

白川の里と銀閣寺 金福寺と芭蕉庵 一乗寺・林丘寺・山端 詩仙堂の清風 修学院のほとり

  貴船・雲ケ畑 鞍馬寺と火祭 八瀬と赦免地踊 大原の寂光院・三千院 “浄域″比叡山

 

東山の散策

 

疏水べりと桜 鹿ケ谷、決然院の自注 吉田から神楽岡へ 真如堂と黒谷 熊野と聖護院

永観堂党と若王子 岡崎と蓮月見 粟田口の青蓮院 南禅寺 知恩院と尼衆学校

  丸山の夜桜 祇園さん 五条大橋と八坂の塔 五条大橋と牛若丸 東福寺の通天のもみじ

 

洛中そぞろ歩き

 

高瀬川と角倉了以 傾斜の町・先斗町 堀川と二条城 二条陣屋について 三条大橋と加茂川

新京極と寺町 錦の市場 四条は京都の顔 珍皇寺の六道詣り 島原と吉野太夫

 

洛南佳景

嵯峨野散策

山科史蹟めぐり 醍醐の花見 稲荷について 伏見と京のお酒 黄檗と宇治橋 平等院と扇の芝

 

 

風雅の里・嵯峨野

 

 凡そ日本の国文学に少しでも親しんだものにとって、嵯峨野ほど優にやさしく、艶にものさびて感じられる所はない。「平家物語」「徒然草」に出ていることは、誰でも知るところで、その他、名もなき日記のたぐいや、詩歌、俳句などの中にも限りなく拾い出すことが出来る。

 私も、物心ついてこの方、幾度この辺りを逍遥したことだろう。或ときは傷心の痛手に堪えかねてそぞろ歩き、或ときは賑やかな旅の一行の先達として、或ときはカメラの人々に同行してこの地を踏んだ。

 …京都でいちばん好きな所…というテーマで放送の時間が与えられた時も、私はためらうことなくこの地を選んだ。それは東では曾宮一念氏が武蔵野のことを語り、西では私かこの嵯峨野のことを語ったのである。その放送の時から十年近い日を閲し、嵯峨野一帯もずいぶん変ったけれど、京都でいちばん好きな所といわれれば、私はいまてもここを推すことに躊躇しない。

 こんど[京都文学敗歩]を草するに当って、やはり私は一番好きなここから始めることにした。

 

斎宮の野宮におはしますありさまこそ、やさしくおもしきことのかぎりとおぼえしか。経仏なんど忌みて、中子染紙などいふもるもをかし。

すべて神の社こそ、捨てがたくなまめかしきものなれや。ものふりたる森の景色もただならぬに、玉垣しわたして、榊(さかき)に木綿かけたるなどいみじからぬかは。

殊にをかしきに、伊勢、賀茂、春日、平野、住吉、三輪、貴船、吉田、大原野、松の尾、梅の宮。

とあり、野営がここだけでなく、あちこちにあったことが察しられる。前述のように、いま加茂の葵まつりに斎宮列があるが、いまもこれに扮する少女は、未婚の美しい女性が選ばれ、行列の中でもなかなか人気がある。

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略人傳 巻の一 中江藤樹 附 蕃山氏

2024年07月19日 08時26分37秒 | 歴史さんぽ

略人傳 巻の一 中江藤樹 附 蕃山氏

 

藤樹中江氏、諱原、宇惟命、通名与右衛門、西近江高島郡小川村人なり。藤樹下に産まれ、後藤樹下に学を講じるをもて、門人此号を称す。又夢中人ありて、光嘿軒(こうもくけん)の号を授くるとみて、光の宇を謙遜し、省て嘿行と称す。僻地(かたいなか)に生るといへども、児として野鄙(やひ)のならひに染(そま)ず。九歳の時、祖父吉長嗣(よしながし)とせんと請て、その在所伯耆に伴ふ。祖父、手毎に拙(つなたき)を悔て、つとめて此子に学ばしむるに、其書人おどろくばかりなりき。十歳の時、伯耆の大守加藤侯、伊予大洲に転封せらるゝゆゑに、彼所にうつりぬ。十三歳の時、祖父賊をうつことあるに、少も恐るゝ気色なく、祖父の命をうけて賊をとらへんとす。志気幼して既にかくのごとし。

はた一物の遺愛も甚謹て羞悪(はずる)のこゝろ深く、一食を喫しても君父の恩を思惟す。十七歳のとき、京より禅僧来て論語を講ず。その地の士風、武を専にし、文学の某を弱とし、敢てきくものなし。唯先生一人往て聴受す。論語上篇を終て僧京にかへりし後、又師とすべき人のなきを憂て、四書大全を購(買い)得て熟読す。然れども他の俳論をはばかり、昼は終目語士と応接(まじわり)し、毎夜深更に及び二十枚を見るを業とす。已後も師なくして、困学年を経、ひとへに聖学をもて己が任とす。然るに其母氏老て故郷に独りあるをかなしび、再回暇を乞て帰省し、ただちに是を伴いて伊予に帰らんとせしに、はるけき波濤をしのぎ他国にうつることを欲せず。故に致仕して帰らんと乞い、且つ二君に仕へ出身の意あるにあらざることを天に誓ひけれども、其の才徳を惜しみて許されず。二十七歳の冬十月終に逃さる。その時、今年の禄米ことごとく倉に積み置き、さきに友人に仮貸し米穀あるをば器物を売て是を償ふ。江陽に至るとき銀わずか三百銭行有るとの過半なるを痛み、敢て請(うく)る志なく、只従て艱難を共にせんといへども、先生強て与えてかへせり。此後かの誓のごとく終身出仕へず、其志を高尚にす。はじめ僕に与し残の銀百銭をもて酒を買い、また農家へ売てその息をもて母氏を養う。後又刀をうりて銀十枚を得て、是をもて米を買、農家に借す。息をとること世人より其故ずる故にや、其價をせめずして皆是をかへす。三十にて初めて娶る、格法に泥(なづ)む故とて、その女容貌括醜ければ、母氏憂て出さんと欲(ほり)すれども、先生固く辞す。此婦容貌醜しといへども、性質甚窓明にして、心を用ること直し。つねに諸門入会して、夜半或は五更に及べども、終に先生に光達ていねず。居常(つねに)小事ルといへども、命をうけざればおこなはず。先生従朱子学を尊信し、門人に示すに小学の法をもてす。故に門入格套(かくとう)に落在し、拘攣(かゝはること)口々に長じ、気象潮暫く迫りて、圭角(けいかく)を持す。先生三十餘、王陽明書を見しより、その非をさとりて、門人に示て曰く、格套を受用するの志は、名利を求るの志と日を同じうして語るべからずといへども、真性活発(いきいき)の体を失ふことは均し。只吾人拘孌の心を放去し、自の本心を信じて、其跡に泥むことなかれと。門人大に触発興起す。又語て曰く、予嘗て山田氏に贈るに、三綱領の解をもてす。其至言の解曰く、事善にして心善ならざるものは至善にあらず、この時にして事善ならざるものもまた至善にあらずと。この時、子いまだ支離(はなればなれ)の病を免れず。故に誤りて如此解すと。門人問ていはく、この解、甚親切明当なるをおぼゆ、如く何ぞ支離とす。先生云、心事元是一也。故に事善にして心不善なるものいまだあらず、心善にして事不善ものもまた未之有、門人曰く、狂者のごときは其心高大なれども、其事破綻あることを免れず。郷原(きょうげん)のごときは、事は君子ににて、其心汚(かがれ)る。見分明に心と事と二つなるにあらずや。先生曰く、狂者未入る精微中庸、(狂者未ダ精微中庸ニ入りラズ、)故にかくのごとし。郷原は世に媚許容(こびいれらるゝこと)を求るの穢賜(けがれしこころ)より顕るゝ事為なれば、もとより善とすべからず。跡の似たるをもて言とするは功利の意也、然るに或は曰く、大哉この道、盗人も亦元を得ざれば功をなすことあたはず。入ることを先とするは勇なり、出る時後るゝは義也、分つこと均しきは仁也。この三つを得ざれば大盗を成こと不に能などいふ説は、笑ふべし、悲むべきものなり、といへり。又近年専を孝経を説明し、つねに愛敬の二字を掲出し、心体を体忍せしむ。曰く、心の本体原本愛敬的、なお水の湿(うるおい)に従ひ、火の燥(かわく)に付るがごとし。只吾人種々の回心習気に凝滞書を見しより、その非をさとりて、門人に示て曰く、格套を受用するの志は、名利を求るの志と日を同じうして語るべからずといへども、真性活発(いきいき)の体を失ふことは均し。只吾人拘攣(こうれん)の心を故去し、自の本心を信じて、武跡に泥むことなかれと。門人大に触発願起す。また語て曰く、予嘗て山田氏に贈るに、三綱領の解をもてす。その至善の解曰く、事善にして心善ならざるものは至善にあらず、心善にして事善ならざるものもまた至善にあらずと。此時、予いまだ支離(はなればなれ)の病を免れず。故に誤て顛覧に解すと。門人間ていはく、此所、甚親切明当なるをおぼゆ、如何ぞ支離とす。先生云、心事元見一也。故に事善にして心不善なるものいまだあらず、心善にして事不善ものもまた未之有。門人曰く、狂者のごときはその心高大なれども、その事破綻あることを免れず。郷原(きょうげん)のごときは、事は君子ににて、武心汚る。見分明に心と事と二つなるにあらずや。先生曰く、狂者未入精微中庸(狂者未ダ精微中庸ニ入ラズ、)故にかくのごとし。郷原は世に媚許容を求るの穢腸(けがれこころ)より顕るゝ事為(しわざ)なれば、もとより善とすべからず。跡の似たるをもて善とするは功利の意也、然るに或は曰く、大なる故この道、盗人も亦是を得ざれば功をなすことあたはず。入ることを先とするは勇なり、出る時後るゝは義也、分つこと均しきは仁也。此三つを得ざれば大盗を成すこと不能などいふ説は、笑ふべし、悲かべきものなり、といへり。又近年専ら孝経を説明し、つねに愛敬の二字を掲(かゝげ)出し、心体を体忍せしむ。曰く、心の本体原本愛敬的、猶水の湿(うるおい)に従ひ、火の燥(くぁく)に付るがごとし。只吾人種々の皆心習気に凝滞

らざものは、その勉(つとめ)の験(しるし)知べしと。小医南針、神方奇術等は、山田、森村雨医生のために著す処とぞ。その書伝るや否、未に知。先生四十一歳にして、慶安元年戊子八月廿五日病て卒す。

その旧居の講堂、今尚残れども、その学をつぐものなく、荒廃につくといふ。をしむべし。先生三子有、備前侯に仕ふ。熊沢氏の故を以てなり。長は宣伯、通名太右衛門、よく父の徳を嗣て、明敏豪傑、しかも温厚也。病によりて仕を返し、家にて卒す。惜しまざるものなしとぞ。仲は藤之丞、又致仕、京師に病死す。洛東黒谷に葬る。季、弥三郎、先生歿するとしに生る。是はた、侯時めかしたまひしかども、病をもて辞て江西にかへる。後又京師に寓居し、改名江西文内(えにしぶんない)といふ。病て死す。故郷にかへし葬る。常省(じょうせい)先生と諡(おくりな)す。

 

○藤樹先生の門人、備前に召るゝ者五六輩に及ぶ。熊沢翁は共魁也。翁は平安の人、本氏は野尻、通名次郎八といひしかども、外祖父公子として熊沢助衛門と名のらしむ。諱は伯継、致仕の後、了芥(りょうかい)と称し、息遊(そくゆう)と号す。氏も亦後に蕃山(しげやま)と称せしは、備前にして、その領地寺内といひし所を蕃山と号(なづけ)て、暫こゝに隠居す。

   筑波山葉やましげ山しげけれどおもひいるにはさはらざりけり、

といふ古歌のこゝろによれるとぞ。その後京に帰り、故ありて播磨の明石侯のもとにあり。侯封をうつさるゝに従ひ、下総古河に至り、そこにて終る。時に歳七十三。元禄四年八月十七日也。その学は、藤樹に出るといへども、見所また一家をなして、ことに経済に長ず。時処位の三つをしるをもて要とし、琴柱に膠(にかは)する書生の説に異なり。其の著書、『集義和書』、『同外書』に見えたり。世に伝ふる所、この人備前にして仏寺を破壊すといへり。予其の事実をよく聞正せるに、然らず。此挙は翁致仕の後にして、しかも侯に上書してこれを諌むとなん。されどもその著す書に、仏教を謗ること大過せれば、その漸をなすとはいふべし。京にしては神縉家(しんしんけ)、関東にしては諸侯の間、名ある諸君に門人多かりしとなん。

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