臼井喜之介 著 京都文学散歩 展望社刊
昭和42年 完
敢て序す 吉井勇 氏
この臼井喜之助君の「京都文学散歩」は、詩人である彼の感情的躍動の波が、一脈全体の文章京を貫いてゐて、ひとつの美しい長篇叙事詩を作り上げてゐる。どの頁を開いでも文学散歩にふさはしい足のリズムが感じられ、読者の眼はひとりでに洛中洛外の絵巻の上を辿ってゆく。
私が臼井君を知るやうになったのは、昭和十三年の秋、土佐から京都へ移って来てから間もなくのことで、それから今日までおよそ二十年間、淡々とした交りをつづけてゐる。その頃同君は、詩を作る傍ら出版を業としてゐたので、私は「短歌歳時記」その他二三の著書を上梓してもらったりしたが、さういう場合も彼と私との問には、単に著者と書肆といふ関係ばかりでなく、更に深い芸術的な心の交流があったやうである。
さういった間柄であるから、今度臼井君の「京都文学散歩」が出版されることは、他人ごととは思へないほどの喜びだ。京都に住んで廿年になるが、まだ私の知らないところが多くあるから、私もこの一本を携へて、あらためて楽しい文学散歩を試みたいと思ふ。
昭和三十四年十二月 洛北紅声窟にて 吉井勇
はじめに
京都は日本のふるさとだという。
文学をやる人は勿論、国文学や歴史などの研究をする人にも、なつかしい思いをそそる土地柄である。
私自身、京都に生れ、京都に育っただけに、なお一そう愛情の念のはげしいものがある。一ケ月に一週間は仕事の都合で東京で暮すが京都へ帰ってくるとホッとするのが常だ。
詩友や、ジャーナリストの、数多くの人を京都のあちこちに案内しながら、いつも戸惑うのは私自身たいへん物おぼえが悪く、「たしかここは徒然草に出ていました。ここには何とかいう芭蕉の句がありました」と説明しつつも言葉につまることで、誰でも知っているようなことでも、さて正確に引用しようとすると、一々原典にあたらねばならない。うろ覚えだと、本を探す手間も大へんなので、比較的ポピュラーなものだけを、閑々にメモしておいたのが、大体この本の生れる動機だと思って旧いていい。
竹村俊則氏の「新撰京耶名所図会」全七冊がこの程ようやく七年ぶりに完成の目を迎えた。それまでに全京部としてまとまったこの仲のものは、江戸時代の秋里籬島の「都名所図会」しかない。いま本書を書くにあたって、昔と今を対照するに便なるよう、努めてこの昔の「都名所図会」を引用した。
見学散歩とは言いながら、自分の好きな所だけでなく、京都の上なところは殆んど入れた。この本を片手に、京都の案内にもなれば、と考えたからである。
初めは執筆の方便として、昔やっていたカメラを七、八年まえからまた始め出した。週刊誌や文化史大系の京都の部教科書の仕事など受持たされることも多く、だんだん忙しくなり、作品もずいぶんたまったが、頁の都合で本書にはほんの僅かしか入らなかった。いずれこの方は改めて「京都カメラ散歩」といった形で出してみたいと思っている。
昭和四十二年 著者
嵯峨野散策
風俗の里・嵯峨野 野々宮の小柴垣 去来の落柿舎 小倉山と二尊院 高山樗牛と滝口寺
王朝の悲心・祇王寺 釈迦堂と宝篋院 厭離庵とあだし野 南北朝と大覚寺 大沢池と名古曽の滝趾
広沢池の名月 嵐峡の雪月花 保津川下り 嵐山と三船祭 名剣天竜寺と関管長
桂離宮から下嵯峨へ
典雅の美・桂離宮 苔の西芳寺 太秦(うずまさ)と怪奇な牛祭 帷子ケ辻と蚕の社・車析神社
北野から愛宕山へ
北野と豊公大茶会 衣笠と志賀直哉 花園と妙臣心寺など 金閣寺と映画「炎上」
竜安寺と石庭 双ケ岡から仁和寺ヘ 鳴沢と大根焚 高根と明恵上人 清滝の紅葉 西の名山・愛宕
西陣から上賀茂へ
西陣と千家茶道 紫野の大徳寺 光悦村と鷹ケ峯 東山三十六峯 賀茂の礼の森 賀茂の神社と迷信
白川から比叡山へ
白川の里と銀閣寺 金福寺と芭蕉庵 一乗寺・林丘寺・山端 詩仙堂の清風 修学院のほとり
貴船・雲ケ畑 鞍馬寺と火祭 八瀬と赦免地踊 大原の寂光院・三千院 “浄域″比叡山
東山の散策
疏水べりと桜 鹿ケ谷、決然院の自注 吉田から神楽岡へ 真如堂と黒谷 熊野と聖護院
永観堂党と若王子 岡崎と蓮月見 粟田口の青蓮院 南禅寺 知恩院と尼衆学校
丸山の夜桜 祇園さん 五条大橋と八坂の塔 五条大橋と牛若丸 東福寺の通天のもみじ
洛中そぞろ歩き
高瀬川と角倉了以 傾斜の町・先斗町 堀川と二条城 二条陣屋について 三条大橋と加茂川
新京極と寺町 錦の市場 四条は京都の顔 珍皇寺の六道詣り 島原と吉野太夫
洛南佳景
嵯峨野散策
山科史蹟めぐり 醍醐の花見 稲荷について 伏見と京のお酒 黄檗と宇治橋 平等院と扇の芝
風雅の里・嵯峨野
凡そ日本の国文学に少しでも親しんだものにとって、嵯峨野ほど優にやさしく、艶にものさびて感じられる所はない。「平家物語」「徒然草」に出ていることは、誰でも知るところで、その他、名もなき日記のたぐいや、詩歌、俳句などの中にも限りなく拾い出すことが出来る。
私も、物心ついてこの方、幾度この辺りを逍遥したことだろう。或ときは傷心の痛手に堪えかねてそぞろ歩き、或ときは賑やかな旅の一行の先達として、或ときはカメラの人々に同行してこの地を踏んだ。
…京都でいちばん好きな所…というテーマで放送の時間が与えられた時も、私はためらうことなくこの地を選んだ。それは東では曾宮一念氏が武蔵野のことを語り、西では私かこの嵯峨野のことを語ったのである。その放送の時から十年近い日を閲し、嵯峨野一帯もずいぶん変ったけれど、京都でいちばん好きな所といわれれば、私はいまてもここを推すことに躊躇しない。
こんど[京都文学敗歩]を草するに当って、やはり私は一番好きなここから始めることにした。
斎宮の野宮におはしますありさまこそ、やさしくおもしきことのかぎりとおぼえしか。経仏なんど忌みて、中子染紙などいふもるもをかし。
すべて神の社こそ、捨てがたくなまめかしきものなれや。ものふりたる森の景色もただならぬに、玉垣しわたして、榊(さかき)に木綿かけたるなどいみじからぬかは。
殊にをかしきに、伊勢、賀茂、春日、平野、住吉、三輪、貴船、吉田、大原野、松の尾、梅の宮。
とあり、野営がここだけでなく、あちこちにあったことが察しられる。前述のように、いま加茂の葵まつりに斎宮列があるが、いまもこれに扮する少女は、未婚の美しい女性が選ばれ、行列の中でもなかなか人気がある。