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誤伝山梨の歴史 山口素堂の真実(『連俳睦百韻』寺町百庵序文中)

2024年07月16日 15時22分16秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

 誤伝山梨の歴史 山口素堂の真実(『連俳睦百韻』寺町百庵序文中)

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摩珂十五夜 山口黒露 附合は追結ぬか佳也 山口素堂の事

2024年07月16日 15時12分16秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

摩珂十五夜 山口黒露 附合は追結ぬか佳也

附合は追結ぬが佳也、例えば人をも追つめぬれは縛るか、たゝくか切もせねばならず、さすれば夫   
  けりにて余情なし、然は跡も附よきやうに一句をいひ詰すして渡すべくや、

馬や鉄壁へのりかけては乗かへさんとするも不自在、こゝに前方に手綱を拍てゆるやかに乗れば、

至然と非行は乗すますらん、句や全くいひつめる故に余意もなく、次句の働きもならす、

皆是知れる所也、只追詰ぬといふか工夫也、発句はいとど云いつめず、

  理屈と十露盤か合過れは発句にあらず、肋証字の余光にて考ふへくや、

或る人の芳野の雪を花か雲かと見まかふような悪しき眼力も有まし、

花や雲やと追不詰ところこそ命なれ、露のまには花や咲らん、立のほる夕霧の中には、

鹿も鳴らん物をとおしはからる幽玄躰、さる一句の高尚洒落、

そんな古いことを誰かしらさらむ、仏法も古くさく、見識かましきははやらず、

一向あなたの御すくひまします、易行の御念仏、南無妙法蓮華宗論の狂言の小舞に、

今よりしてはふたりか名を妙阿彌陀にとそもうしける。

 

 一

廿とせ余りの頃、秋に伊勢の乙由老人を尋て十夜さ斗麦林舎に泊りし折から、

ある夜話に俗談平話といふとて、たゝ言にならさるやうこそよけれといはれし、

又一巻首尾の調ふといふも、面の四句めの句によれり、いかにも安らかに軽く有たし、

さて五句めより聯句して、四折は調ふとて四句めをいかう大事かられしか、

  ことし廿余年の古ことゝなれるぞ哀なる、凡正風体は黒小袖の様なる物也、

花やかにはやりかなるもやうとおもふ衣も、間もなくすたるかとすれは、

又是のあれのゝと物十年とはつつかぬを、黒は百とせも変らぬをや、

百年にして論定る共有物也、いかに又正風駄こゝてあちら表もこちら表もなと聞るは、

歌の上にはたゝことなるへくや、一句のすかた風雅ならすしては句とはいふべからず、

只の黒色の服ほころびけツ/\しからすもや彼松躰とやらん沙汰せさせ給ふころなるへくぞ、

時代/\の姿飼はかはる共、此躰位不易。

 

九十六文を百文として通用する事は、鎌倉の長尾意元入道の工夫也と石永寺物語に見えしを、

さも能勘弁と思ひ過せしに、近比冬籠の灯下に、

『続日本記』元明帝和同四年の文を見るに銭一文に米六升と有、省栢に五石七斗六升なれは、

尚古銭の尊き事際りなし、当世俗に目をぬくと云、比通宝古代より旧き事知ぬへし

   允百にあらす九十六文を省百といふとそ。

 

 一

雅言と俗語とのあはひ六?けれと、俳諧に取ては必競一致か、俗かとすれは忽雅に変す、

史書も小説也とさへ論を立、時うつり代変して唐も倭も学文の次第かくれるやうなれと、

古学に立もとりたるをは我ら如はしらすかし、さはむかしこそしたはしけれ、

さはされは差当ては当用の得の明才か急務也、

こちらの俳諧にて云は、一句の高尚なるも高過ぬれは寄つかれす、

 百尺の竿頭に至須叟に低に来て自由自在に遊はん、雅にして能俗にいふてあし、

俗の能雅のわるき、雅俗うち込て一致の所縦?無尽、

これこそ俳諧の広大無辺の満つなれ。

桐の本に鶴なくなる塀の内、比句切字なしとそはにいふ有、

啼也とすれはきれあなれとも句位鄙也、うつら鳴なる深草の里との雅言をそこなはす、

そっくりと居たるにそ一句の地位雲泥也、又、

道の辺の木槿は馬に喰れけり

の句は、後に「道ばた」のと直されけるとそ、誠に言葉剛く披俗にしてよしと云へる詞といひ、

俳意いよ/\つよし、これらそ雅俗一致の世界ならんか、

人とはゝ見すとやいはん玉津島霞入江の春の曙、と家隆卿の詠哥心こと葉の至大至剛照互すまし。

 

京都の言水歳旦に、

初空やたは粉の輪より間の比叡、

  といふ句の拙か、初心のほと甚おもしろく思ひて素翁(素堂)へ申ければ、

しばらくして、間の富士とこそいふへけれとの給ふを尤の事とおもひ、

ある日僧専吟にかく有しと咄けれは専吟の曰く言水もさ思はめと京ゆへ也、

そこらが素堂の古き心よりの評也と云しも亦尤とおもひ、

その後又翁(素堂)へ専時評をいひけれは、

「夫々と皆趣向を借て道に深く人たらぬ故の論也、

予か句に、

地は遠し星に宿かれ夕雲雀とせし

句、地は遠しと濁りて吟する時は、一句すたるとおもひ終に披露せす捨たり、

其句も京故ならすは捨るがよし、秋風そ吹しら川の関との寄の咄しせしをは、

いかに心得たるとて示し給ふ、拙今按ずるに右の両子ともに、

句は上手にても有へく、心は下手也。

 

ふし山の文字ニツ三ツも有、是によれるにも有ましけれと、説苑巻七歌政理篇曰く、

文王問於呂望日、為天下若何対云王国富民覇国富士云々、

東都の御栄へ千秋万寿の南山よき富士のもしの拠とはみむ鏡村井氏玄理引出。

 

京の淡々とともなひ大坂へ下るとて、与渡を例の昼舟にてゆくに、

牡丹を真塗の黒たんすに入釣合に截切やらん結構なる覆ひかゝりかつかせ、

足軽仲間いかめしく通しを、いかなる方に行やとおもひけるを、舟頭のいふ、

九条様へ淀の御城守より遣せられける、毎年今さ比通侍ふとそ、

思はす淡々と見合て笑ふ、淀舟といふ前に牡丹箪笥とは付ぬ句なれと、

眼前かく有からに何にても附ぬ句はなき物とおもひしに、年へて思ひつづくるに、

いかにさあれはとて懸念もなき附合也、似つこらしくこそ有たけれ、

その頃、京や江戸ともに専ら附ぬ句をする市政しか一句立にてつかぬ句のみせて、

百韻とつゝけぬるも無益也、住句はかりせんと構えたるを、

喩は項羽も信玄も一戦/\に勝利得給ぬといふ事なく、

されと後度の治平の切は高祖と信長に有し也、

  一巻句々皆よき句して、前後をわきまへずして、首尾の調はさるは巻中の乱也、

他句を出来るやうに、自句はさのみ出来さず、相手を育て仕よきやうにすれば百韻は満尾す、

巻つら拍子よく我は出来さす、他句を出来させんとする心がけ、竝々の人情にては中々、

  十が十どうしてもてかし度なる所、作故に上手も稀々也、

木の道の工みなとも、のみ込のわるきは下大工なり、そのくせじやうも壊し、

じやうのこはきは不成就のもと。

 

宗祇は飯尾氏、南紀の産とそ、

其のむかし越の後州に行給ひて、久しく駿河の方へきませさりしを、

今川家より慕い給ふけれは、奈良法師を迎のためにかしこへとすゝめやり給ふ、

かへさ(帰り)の道のほと日をかさねつゝ、また越の地にやある日にひたるきに物せん、

いつこかさるへき方や有、求め給へとの給ふに、やがて長師そこと見巡りて、

立戻りくつきやう一のやとり見出しさふろ、この草堂に連歌の席有、酒肴もうけたると見ゆ、

食はん便よしと打悦ひて云、祇翁聞給ひ其句やきき給うかとの給うふに、

されて花の句をし侍ふに、古郷の使り嬉しき花の比、といふを祇ほゝゑみて是はよき句也、

これつらの句作するほとの連衆ならば、喰物よろしかるましと狂して笑ひ給ふと、

なら荼煮豆の貧交合、けに道に志て悪衣悪食をはちさるとの聖教もさること、

今連俳共に其目の料理美味結構とやいはん、奢とやせんとて有志法師の閑話。

 

尚古の遊女の名に江口に観音・中の君・小馬・白女・蟹島に宮城・如意

・香炉・神崎ハ阿蘇姫・孤蘇・宮子。などを祖宗とす、今は太夫と云う。

此所は娼家也、船を旅泊によせきて枕をかはす、こゝをふる程の人々家を忘るとそ、

貴賤群来るにそ、天下第一の楽ム所とす、

禅定大相国は小観音を寵し給い、また上東門院墨古天王寺へ御幸の時、

宇治の大相国は中の君を賞したまう、三善為康の題し給う遊女の記を茲に略す。

昔の遊女はかく貴族の寵も有し、家持卿の任に越へ下給ふ時も遊女を愛し、

互に和歌を詠し給ひ贈答の事も見えたり、されど旅泊の契りのみにして、後世の体とは甚違せり、

或る日美濃の支老か出せる物を見るに、治郎傾城と斗は恋に不用と有、

また異所に昔は清水むすぶとして季とす、今いふ結ふとせずとも、

清水の文字の清涼なるによれはしミつとはかりにて夏也、

結ぶの三字を外詞に作せは、一句の働きも勝らんと、さ程清き水と書るか浄く涼しくは、

城を傾けるほどとの女色冶なる郎といふ、

もしか恋に成ましかとはいかが、上に引家を忘れたり、貴人の寵し給ふ事跡も有をや、

当世都鄙の遊女やほつの類ひに揉まれ、男女の中々に自然と恋路の情はあるべし、

かれに料やりて買ふて慰む故に恋に不用といわる、

舟車馬駕は乗物也、富る人貴介の家には所持して乗はのり物にて、

賃銭やって乗類ひは乗物にせましや、随筆して書る物ゆへ鹿末も有へし、

されとさし当て不自由の方か。

 

堀川の御所へ土佐坊夜討に人ける、身内にはかく共おほさねと事急也けれは、

静御ぎせなか取て打かけ奉り、御はかせ参らせなとす、

そも何ものゝ夜打には入けると問給へは、静とく見て参り打笑、

宵の起請法師めにて侍ふとて、昼のほとに正俊を召され、

汝義経か討手に上らすとならは起請を書せよとの給ふに、土佐坊畏て認て出すを、

物かけより見たるため頓に狂名して急敷中にさし慟名つけたるそよき俳諧の働、

又論語ニ、子之武誠、聞ク絃歌之声ヲ、夫子莞爾トシテ笑いて曰く、

割ニ鶏焉用牛刀とは、孔子の俳諧なりと素堂翁の閑話。

 

むかし芭蕉庵と素堂の隠密は遠くへだてぬ中垣から、常に問つ尋つせられし、

或時蕉翁のもとより、

…衰虫の音を聞にこよ艸の庵…

かくいひ贈られけれは、やをら行て素堂、

…みの虫や思ひしほとの板間より…、

 

比贈答のころにや衰むしの賦をつづり給ふ(風俗文選に出)

かゝるおもむきなとかがなべ見るに、老屋の蕉もおもひやらるを、

その後にや庵室の取つくろひ有しを、素堂建立の旨を述て

人々を寄進せし草稿とおほしき物取もとめ與に写す、

しかしながら旧かをおもひしたふ事の寸志か

 

芭蕉庵裂れて芭蕉庵を求む。力を二三生にたのまんや。

めぐみを数十生に待たんや。広く求むるは却って其おもひ安からんと也。

甲をこのまず、乙を恥づる事なかれ。各志の有る所に任すとしかいふ。

これを清貧とせんや。はた狂貧とせんや。翁みづからいふ、ただ貧也と。

貧のまたひん、許子の貧。それすら一瓢一軒のもとめあり。

雨をささへ、風をふせぐ備へなくば、鳥にだも及ばず、誰かしのびざるの心なからん。

是草堂建立のより出づる所也。

 天和三年秋九月 竊汲願主之旨     濺筆於敗荷之下     

 

去りし宝暦たつの年六月、上野の館株にまかりて松倉九皐子に相見し、

はからずも右の小序ならびに名誌をうつし得侍る、

皐子ハ往昔風聞と聞えし松倉又五郎の姪孫とそ、蘭子武勇の士なりとて、

素翁の常談無二の交り契り深き物から比等の草も伝来して、

其真跡皐子の許に有しを、虫はみし処々のまゝにしき寫す、

けふ亜父の恩報セんに、はし立て及ふべからす、

山高く海潔し、千峰と柳色、直下と見おろす其の写し奉る事は、

暫く置て、世に言傅ふ恩を仇にて報ニハ、今一個の身の上に、せめ来れり、

詩名を穢す事、あまた度なれど、生涯露ほども、腹たち給ふ機をたに不見、

我が舅ながら、実に温柔和客の翁也し、学は林春斎先生の高弟、

和歌は持明院殿の御門人なと、和温の方に富とやいはん、

折にふれて、花のもと、月の前に扇とって、一さしをかなてつ、

舞曲は宝生良将監秘蔵せし弟子、入木道の趣、

茶子の気味は、葛天氏の代のすき者也と、拝し給ひし、

あるは又、算術にあく迄長し給ひけるも、隠者にはおかし、

閉なる秋の夕には琵琶を弾し、平家なと懇におもむかれたるは、寂しかりし、

一生飯たくすへをしらす、老後至て貧に、

又極て簾、如月大の頃のほう鱈を堅手の蛸と自称して賞味せられし、

あるは古硯を愛し、蓮池を慰す、折にふれたる遊び、

あまた有へけれと、何ひとつ是をと甚し色事はせさる人也、

ある高貴の御家より、高禄をもて、召れけれども不出して、処子の操をとして終りぬ、

いひつづくるほど、事々をかさり立たるやうに成り行や、

ゆき/\て五十過る秋迄に、生てけふにあへるをは、

苔の下にもさそ浅ましういふかゐなくおほすらん、

住所さへ定め得す、水無月のなかれて、行年の有明もありとたに、

人にしられぬ身のほどよ、今月今日比夕部、古塚の苔をあらひて、

かく新たに尺にさえたらはぬ石を積て、しるしを建て、

野花一江の細き心さしをいとなむまなひをす、

誰かいふ無名は天地の始めとや、被夫無何有の郷にいまそかりけるもしらすかし、

今やただこの谷中の感応寺の片かけにとばかり、

知る人もなく、名さかもたゝぬ葛飾の、其まゝの素堂のおきつき所か。

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一 童毛 蒙毛 フクダムと訓す

2024年07月16日 07時55分17秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

一 童毛 蒙毛 フクダムと訓す

 

字書に―-には散毛貌と云々、獣などのふるひちらすをふくたむとはいふへし、

紅葉賀に。しとけなくうちふくたみ給へるひんくきと。茎鬂まほろしの巻に。

打ふくたみかけのかゝり。と有フクダミは俗にふくらむなといふ形なるへし、

茶人のふくたミ茶巾と云も、畳ミてうきくとふくらかに、

彼ふくためたる形と成をふくため茶巾、

あるはふくためて置なといふも、童毛 蒙毛の文字なるへくや 

 

 一 

芭蕉翁の梅か香やうに堀岡の日の匂ひという句の解しかたくて、

年比思惟し侍りしに、南都の墨商ふ人の来て、其ことゝなく燕語せし折から、

墨製する咄をすとて、油煙かきて調するは、常に侍る伊賀の山にウニといふ物有

極て黒色にて朽木のやうなるか、深く地下にあるを掘り求て和して製に、

ます譬へん物もなるへくや匂ひ也といふを聞て、思はす復誦してうれしかりしか、

けふ伊賀は翁のふる里なれは、杖曳き給ふ事年有、

  伊賀の山中にてとの詞書も故有かな 朝日かけ匂へる

       山のさくら花とのよせもめてたし

 

 一 

ある日、雪中庵へ門生の人の来て閑語するとて、発句にふれるとふれぬと申は、

いかやうに会得申さんやと問けるに、

雪中庵の答に、西行の詠を引て、

梅には人のなつかしく、桜は人のいとはしき、

是さくらと梅のふれさる所時鳥と鶯も准して工案し給へと也、

問ふ人中々合点せぬ顔つきにて黙せし時、氷花居合られ出て云、

先刻より次にて聞侍るに、ふれる句ふれぬ句の境を御尋有、

師をさし置さし過たる御物語に侍へれ共、

差当我ら極て文盲故取捨をは御心に任ス故事の証奇のと申はしらすかし、

雷電の斯を見るに、管家雷と成給ふて法性房の許に来り給ひ、

しかじかの事有てしかじかの事に及び侍る、

其折に帝より召有とも参り給ふなと頼み給ふ、僧正の日深き御契りから参申まし、

されど勅使三度に及なは参らては叶ふましとの給はり給ふ御顔はせにて、

御前に在ける柘榴を取てかみ砕き、妻戸に活と吹かけ給へは猛火と成て燃え上るを、

  御房蔾潮水の印とやらん結て投し給へはめう火忽鎮りしとや、

此時の菓子真桑瓜や饅頭にては火にならす、

柘榴の色相形容思ひやりては必至と柘榴哉と極め候といひしに、

問う人も合点せしうへ、嵐雪もうなづかれし、戯語にて扨笑語ならす、

近く咄をとるを何の道 也と孟子の語、誠に氷花はいちはやき発明なるべし

 

ある年、駿河より甲斐の山中へ入ルに、道の程柏木峠・西行坂なといふ所を行、

二月の中頃にて麦艸の青み立たる山畑の畦に、

何やらむ獣の皮を焼て四五寸に切て串にさし、畦ことにいくつも立たり、

いかにやと尋けれは、畑打男のやいかゞし也といふ、

猪の毛を焼て麦あらすしゝにかゝせ、追驚かすかゞしと云といふに、

  清濁の違ひたるよと、おもふにかゞしとは嗅ぎ匂ひを猪の類にかゝする事也と、

珍らしけに今迄のひが覚えを改め侍る、

其後御傘を見るに、かゞしと急度にごり付て有を見て、ひとり誤てひとり赤面す。

 

有渡日記といふ小冊の集綴りける中に、久野のくゝ立さかなにて道行人をしゐてとどめん、

との万葉の古ことなし思ひ合すと記せしに、

近き年のほと万葉集見侍りしに〔万葉集十四巻二十首の内に曰く〕

可美都気野友野乃九久多知乎里波夜志。安礼波磨多牟恵。許登之許受登母。云々

この歌九久たちとはよまれたれとも、下の句違へり、扶木集に源仲正卿の歌に、

しのはらやさのゝくゝたちさかなにて旅行人をしゐてとゞめむ、

とあり、かゝる二首をやたら覚にせしを、しり顔に書せし浅見浅学の罪の甚しと、

いとど又独り恥入る。

 

源四郎は村上氏故しを、佐太郎さぶと云弦者の秘蔵せし山彦といふ

能三弦を求め取て後苗字を改む、

近く宝曆始めの比迄在命して、三弦一流の祖世の知る所なり、

笠倉何がしか橋場の亭に貴客の入り給ひ、優曲の者多く来て饗す事故しに、

源四郎三味線の上駒落けるに、懐より鍚の小箱を出し続飯もて附て、其興をさまさす、

  彼の菊亭のおとゝの昔も思ひ合さるべく、何となく神妙なる様子、

けに一芸に名たゝる人その所作をふかく執しける故感応浅からすも、

その魚季公も柱の落たるを探り付給ふて、御懐のそくゐにて付、首尾よく勤すまし給ふも、

琵琶に御志の深い故によれり、まのあたり山彦か上駒を探し、飯つぶよとひしめきしに、

台所の遠ければ貴奴も懐より取出したるたしなみの深き感じても余り有、

雑音淫声とてそかはれ志は至れり、万の事もかくこそ執し侍るへけれ、

三弦は晋元みな世に不遇つれづれの日を送るとて、始て作り出せし器なるを、

近世またく雑戯瓦(キョウケンシハイ)の備へと成、

妾童(ヤオウ)妓女の翫とせしより拙き調へのやうに成て、

淫にそむ申立の事になりもて来るこそ是非けれとそ。

 

勝すまふ淀鳥羽まてもみゑたりやとは、宗因老人の活句骨稽の意地也けり、

すまふの字防校人と『三代実録』に出たり、関守と有、相撲とり也、

古ハ角力に長せる者を関守とす、この故に今もすまひに長したる者を関と称す。

 

甲斐の府の有り一向宗の御寺に、また婆とはいはれぬ程のおみな有、

御本寺参りし度願ひ多年なれと、海道百里の旅及かたくておもひやみ、

殊さら一人の子の法師成しも、修学勤行のためとて京に登せ、

御堂の辺りに学寮してゐけるにも、二とせもあはて一かたならず恋しきに、

折こそあれ、同行の御本寺詣でせんと云男女老若と登るに、

幸とかの五十とせの人は打悦、とみにうちつれて旅する率にて日を経、やがて都に着く、

先々東の御堂に参り、やをら彼子の修寮を尋て、この年つぎのもたらしを慰し、

互のまめやかなるを悦ぶ、そこを打見るに、御所化の衣を始め着服の物、

ことごとく垢付てうるさぎほどを、はやも見るに忍びかたく、

明の日はとく起て濯ぎ洗ひ張つ縫つづりして、日ごとこの事にかゝり、

三日四日五日と過ぎ行に、連れのみかか達は祇園北野黒谷と拝み巡り、

日数はやく十日ばかりに成ぬ、はや下り帰るとて、彼の婆ならぬ人の旅屋へ来たり、

かくと誘うにそ一所だに見えず有しか、故郷の人に別れ独旅せん事も物うく、

せめて鼻の先の六角堂さえに詣でつ、さしも花の都といへと只其のかたにのみ引れて、

小さき寮に針わさして十日の日を暮し、同行衆にそゝり立られ帰路に趣くぞ哀なる、

単比の願ひもいとまなみそこらあらはに、

其の洗ひ張の秋ならぬにつづれさせてふ日暮の文はるけき東路に向れける心の中、

  あはれ高きも低きも親子の道はかはらぬおもひ也けり、

  その事跡の深切に愛情の哀れさに実洗濯せしこそは都みたるなれ、

知りつゝも其名はもらす

 

曽根崎心中の道行の中に、何くとして何々に死に行 身の道の霜、

一足つゝに消て行とやら云所迄作りしか、言菜は尽きて心たらず、

いかに如何にと案しほけたるその比、伊勢の凉莬摂に来り合けるを悦ひ、

いかがして取続けんや御助言し給へと投かけたり、

凉莬問なから外の咄して洞のみ物喰うて笑ひ遊ぶ、

門左衛門ひたすらにせめて頼めるにそ、叟何やかや雑談し、

なからはて夢のゆめこそはかなけれ、と成ともやり給へと云しに、

近松大いに悦び、やがて作入しこと也、まことに詞情の尽たらんに、

いと住い転じたる文体すらすらとして、ちり行跡のいかやうにも取つけやすき、

彼決前生後の文法凉莬ハ奇異の作者。

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** 『日本随筆』 俳諧関係記載記事 **

2024年07月16日 04時17分34秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

** 『日本随筆』 俳諧関係記載記事 **

 

□ 誹諧の誹の字  【田宮仲宣 東□子】

 

  誹諧の誹の字、人篇の俳の字を書事、甚可然(しかるべ)からずと。夫誹諧の字は、随書の侯白伝に見へたり。今おしなべて明板の史漢を伝へ読んで、なまこざかしき者、俳の字に改めたり。盖歴史は皆明朝にて改めしに、随書ばかりは改ざりしと也。既にぞ随唐の頃、遣唐使または遊学の往来有て、稍字法(ややじほう)も彼の国の例を用らるる事多し。

  古今集の誹諧と云に、言篇を書れしこと斯くのごとし。唐朝には正字、俗字、通字の三を混じ用ひらたり。干祿字書を見るべし。言偏の誹の字は出所正し。私に人篇の俳諧と云字、用ふる事有まじきこと也。後世鳴呼の者有て、古今集の誹の字をも人篇に書き改まじきにもあらず。是唐以前の書を見よ。と或る人の仰せたれき。

 

□ 誹諧の発句  【田宮仲宣 東□子】

 

  誹諧の発句をする徒、歳旦、歳暮の句を披露せんと、標題に両節吟、或いは除元吟などと、吟の字を書するは、忌まわしき字例なり。楽府明辨云、吁嗟慨歌悲憂深思以伸其欝曰吟(ああがいかひいうしんしそのうつをのぶるをもってぎんいふ)。又屈氏が漁父の辞に澤畔吟とあれば、歳首には遣ふまじき字例なるべし。

□ 俳言  【鳴呼矣草】

 

  今時俳諧者流、俳言とて新規流行言葉、不当に手爾波(てには)を用ゆること、奇を好み却ってふしくれだち、和歌連歌などの歌謡の訳に遠ざかるは拙く、道に差(たがふ)といわんか。兎角昔よりあり来たることよろし。されば和歌連歌に、流行といふことなきを見つべし。語呂のふしくれだつとは、東花坊が十論にも、畠山左衛門佐(すけ)は歴々の諸侯なれど、一転して山畠の助佐衛門といへば、小作水呑み百姓なりと云しがごとし。言葉手爾波を正しく遣ひたし。なるほど小兒の習ふ商売往来を転じて往来商売といはば、三度飛脚か雲助かとおもはるべし。奇異の言葉は遣わぬこそ。

 

□ 俳諧の体  【鳴呼矣草】蕉門の事

 

  俳諧の蕉門の徒に、付合の体を備えたは、野波、越人の両人を巧者とす。この両人の体を学がよしとかや。

  故ばせを一世の間、両吟の付合は、野波か越人なたでなかりしとなり。 

兎角この両人の風体よろしと、ばせをもいはれしとかや。今の蕉門の俳徒これおいはず、己が勝手にあしきにや。

 

□ 寂しみ  【鳴呼矣草】

 

  俳諧者流寂しみと云処を旨とし諭す。いかなる故にや。市中交易の域にくらす腸(はらわた)無理に寂しさを絞り出(いで)さししむ。それ定家の卿哀れにさびしくは云う出でよし、兎角にぎはしくはなやかに目出度和哥こそあらまほしとて詠み給ふ。

 花見んとよそほひ車さくらにむれあそふ諸人

  となん被仰けるとかや。光廣の卿も面白がらす素人芸なりと被仰しとなり。

 

□ 選  【鳴呼矣草】

 

選は作より難しとかや。また閲は机上ん塵を拂ふと、古よりいえり。いかなれば、順評とて、初心の人の句を批判するや、于鱗(うりん)が唐詩の選に於けるや、作よりも難しと、人々これを称すれば、他の句の点評憚るべきことなり。

 

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○享保年開 洛俳諧の噂『翁草』

2024年07月16日 03時59分05秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

○享保年開 洛俳諧の噂『翁草』

 

また問、享保年間、浴の俳諧は奈何、あやにくに何とか答へんと我胸を探るに、そこはかとなく、ふりにし事の心に浮みぬるまゝ、つきなくも答へ侍る、

享保四年、亡兄ト志の許にて俳言の會有り、宗匠は吟花堂暁山(貞徳翁附謁の門弟、宮川より柿同松堅の弟子なり)なり、琴思、金石その外は忘れし、四五輩連席す、其頃余は十歳の童にて、席の端に遊びて、人々の句を開居たりしに、宗匠余を招て句を勤む、余面ほてり恥にりひながら句作りは忘れ侍りし、何とか申出たりしを、晩山之を美し、其句意をもて「皇と知らで慮外な握飯」と添削して執筆へ渡す、晩山余が名を問ふ其頃ト志許に肉因の客僧(俳名尺水)有て是につけて貰ひし官名有貞と云るを、其儘に答へければ、則懐紙に有貞と記す、ト志を始め連座これを興ず、而してより、始めて此の道を浅からず思ひよりて、常に来れる琴思を師として、をたまき、はなひ艸の類をひろげて、是を問ひ、句を作りては、琴思に添削を頼み、琴思両吟の巻を綴りては、晩山に評を乞ふ

「耳を洗ふた流れ御茶の水」

杯いふ句にて勝たる巻も有り、嬉しさ云んかたなし、翌子年歳旦

「萬歳の素抱姿や京男」

皆々琴思が直したる所の句なり、其年余、十一歳にて今の家に亘れしより道の友もなき儘に流石意気の移り易く、同十年の春迄是を廃せり、其春、柳谷と云る詞友にかたらひて、再び此の道に遊ぶ、今よりして六十餘年のむかしなり、そもそも俳諧の事、元禄の始頃までは、古来の法をもつてつらね行、宗匠の點を乞て、優劣を争うのみたりしに、いつとなく前へ匂付といふ事起りて、世上一統に翫之、朝猿しき勝負業になれる事、大宰春臺が獨語に書置る如し、竟に武事上に聞えて、享保の始めに、京師の點者を廳へ召れ、三笠附の類の賭博を堅く禁ぜられ、其時の點者三十一人を、名簿に記され、爾来新たに點者たらん者へは、當時の點者共より、制禁の品を能く示し教えへし、公免なきもの、妄に點を引べからすと厳重の規矩を立らる、

所謂三十一人は、

晩山(吟花堂姓爪木)

石山(應々翁姓瀧)

辯石(而笑堂福田)

其諺(四時堂圓山正阿彌)

暮四(石壽堂石井)

知石(寸拾堂鈴鹿)

信安(棹歌斎植村)

雲鼓(迎光庵堀内)

雲堂(吹松庵川勝)

霊峰(都塵舎君初)

仙鶴(化笛斎堀内)

白鵲(芦隠軒大矢)

淡々(半時瀧庵松木)

大奎(錦復堂児嶋)

百合(團扇堂浅田)

市貢(巨璞堂次山)

貞佐(短頭叟中川)

謌流(花陽堂石黒)

方設(言水堂後改金芳澤)

文竹(霽月堂田中)

常英(眠柳亭服部)

安山(雀毛翁阿野)

暢好(平岡)

徑定(山本)

愚堂(花耳軒人見)

松洗(池流庵後改松泉坂上)

友扇(桂花庵佐藤)

松貞(加藤)

懐重(珍松會安田)

流石(鬼角堂三輪)

攀高(山縣)

厳命によりて是を守り慎むと雖も、卑俗の尤も好む所なれば、動もすれば品を替えて、此勝負を総す事を計る、中にも雪笠鼓並び弟子雲峯、また浪花にては龍田、犬立など、常の俳諧よりも、前句笠付の點に高名也、諧州挙げて是に群がる、其他の點者も世に連て、この點を為さざるは稀なり、  

仙鶴(江戸沾徳弟子)淡々(其角弟子と称す)大奎(淡淡弟子)等は前句笠附を殆野しみ悪みて、聊も點をせす、去ればその後、三笠付は止みて、前句付笠附等に少々の賞を出す事は制外故、享保の末頃迄は、所々奉納の絵馬に、この類が多く見えしが、いつしか時花止て今に於ては絶たり、なべて世の風俗、権令をもて制止ある事は、實に心服せすをおのづから廃する事は再びせざるの理なり、今は発句寄をして絵馬に上れども、博奕の類にはあらず。

 

○また漢和の俳諧は、近世にてはこ眞珠庵敔如泉を世に賞せり、如泉歿して後は、四時堂其諺を賞す、晩山知石など次之、其外點者に寄ては、漢和の點断云も多し、

 

○淡々事は、十の巻に大略を挙るといへども、なお委く述べし、淡々洛に来るの始、倩洛の俳諧を見聞するに、前句笠附頷に行ぱれ、誠の俳諧は茫が埓に崇屈られ、其道火に衰へたるを見て、潜に思惟して、新に点格を立て、七点より百点迄の花押を製して、朱青の両肉をもて、印章を彩り、一巻を潤色す、是は今の俳点の風俗の権與なり、それまでは和歌連歌の法に倣って、諸点者の点を加ふる所(平と云一点)○(朱丸二点)長三点、また珍重の二字、花鳥の加印等を、五点七点として、点者に寄て点数少々は不同なりしかども、青肉などけ聯も無りし、さるを淡々が風流なる点格を始め、且俳風の他に異なるに耳おどろかし、人皆奇なりとして、是へむれ集まる好士多く、兎角する内に、前句笠附も一旦より廃れ、花浴凡そ淡々が風に廃く、その砌り戀雑の獨吟百韻を綴り、にはかなぶりと題して梓行す、これを閲に、おもてに戀の言葉なくして、而も一句の情驚き戀多し、それ迄は古来定りし戀の詞無くては不可能様に世人覚え居たりしに、この作意を見て、大に感心し、今に至りて諸流ともに此の風を捨てずに用る様に成りたり、これにならって、四時の句にも、表に

當季を隠して興ずる事にやりぬ。

また其角十七回の気を撰びて、俳文を巧にし、花月六百韻を編纂しては、句情を解す、さて諸國にその名汎く、四隅の邊、國迄夥くその徒集まり、乞点の巻、机邊に推し、ここに花押を加ふるに、門生代わる代わる机邊にありて、これを助け、宛も時花医者の薬を調剤するに似ている、道の繁栄淡一人に帰す。更に書抜と云事を始めて、巻中粋なる物を、巻末へ書き出して高判を旋して褒賞する、その頃迄洛には紫藤軒言水を賞す、享保四年、言水歿して後は、晩山、方山、鞭石、其諺、等老匠たり、晩山は柿園附属の弟子宮川松堅門弟にて、貞徳翁より三世たり、和漢の事にも疎からず、道の事をも得意しぬれども言水ほどに入賞せず、方山は事知にて暁山集を福禄して、雅人の助けとなせども、俳諧が下手なり、鞭石は才学疎し、常に暮四傍に在りて之を授けぬ、故に時の人、鞭石を高組様といふ、言はぼしがなければならぬと云事なり、その諺は少しく才学有て、漢和の俳諧はよくせり、常の俳諧は下手なり、滑稽雑談と称する歳時の注釈書を撰ぶ、最も重宝たるものなり、暮四は作意巧なる事他に超えて、俳諧の座持ちなり、点取に勝る事なく、たとへば「伯父百てら看坊たてら惚くさる」などと云う句をして、一座を笑わしむ、下手に非ず、小文才もありき、仙鶴は、茶、俳諧を業とし、書画もまめやかに徴しく名有り、享保十二年壬正月歳旦の句

「をだまきの正月様や若菜の下」

その頃壬歳旦を各述べける中の純一なりけらし、同十四年、象が渡りし時

「今や曳く富士の裾野のかたつふり」

此句は仙院叡感有し事前巻に記せり、大奎は書も拙からす、よろずの事を心得て、俳諧最も善し  

「田の人は生きて帰るか涸れ清水」

杯炎熱を能くいへり、その他の執筆に大奎ほどなるはなし、吟聲鮮に高く去嫌ひをよく辨へ、文臺さばき、他の及ぶ事なし、其の他、泛々の輩は、論に及ばず、右の類の宗匠、口には淡々を外道の様に毀れども、淡が風俗世にひろまりて、その風を以て世人を靡けん事難ければ、我も我もと高点を拵書役として淡々を薦似ひ、高判千点迄を拵へて人を呼べ共、畢竟点数の事にはあらず、淡が撰の抜群なる故にこそ人は群れ、其他はいか様に点格を替てもなべて信ぜす、され共一旦衰へたる

道を、淡々が巧により、再び行われ、他の宗匠も、それぞれの社を結び、賑ひけるほどに、いずれの宗匠にも月並の会、臨時会、千句会杯の催しも絶せず、その道興りたる様なれど、洛の俳諧はその頃より邪路に入りたり、その代迄も都は流石祖翁のふるき跡なれば、俳風温直にして、檀林などの如き、他邦の異體に靡く人無く道は衰へながら、適志有る輩は、祖流を汲のみなりしに、いつしか前句笠付に人心を蕩され、ややそれも廃れ行く頃には、また仙鶴 淡々等が風體都に交りて俳諧は俳諧ながら、都の風に齟齬しける儘に系統を信ずる人もなく妄なる事云ん方なし、仙鶴は一世に終り(茶道の継ぎは堀内宗真とて存す)

淡々は、弟子の竿秋之を嗣ぐといへども、師の勢には似るべくもなし、この衰衰に乗じて、後年に至り、美濃俳諧、加賀俳諧、洛に入り込て、専ら蕉門の風行われる、是は正風を宗として、すらりと唯事を述る風俗なり、是も過るは邪路なり、彼徒は己が党を結びで、他と交ることなく、貞徳は下手なりなどと罵り、世の俳諧を雑俳と嘲る、その心狼戻にして甚陋削し、守武、宗鑑、貞徳等は此の道を開きし祖なれば、上手下手の諭なし、なべて道を開し人は、重く賞すれば聖なり、茲ぞ可非の諭に渉らんや、啻に連歌、俳諧の差別を立んとて、けやけき言葉を用ゐられし許なり、物の濫觴は萬物皆斯くなり、然るに其道流れながれて絶せず、世の移りゆくに隨ひて、風體もやさばみ、始めのけやけき云かけを時風に引直して、やすらかに云とゝのへ、中にも芭蕉杯云ふ先賢出て、變風を直し行まゝ々に、近世に起りし道ながら、詩歌に對して、をさをさ恥じず、而も法令ゆるがせなる故に、詩歌に述べ難き事をも自由に云のべ、雅情の汎き事、俳諧に如くはなし、恨むらくは、其祖とする人、苟(いやしく)も貞徳にて、暦数わづか三百年に満すれば、道の信薄し、この道絶せず、千載に及ばゝ和国の珠と輝くべし、唐土にも、滑稽をもって、国事を援けたるためし多し、猶も述べたき事山々ながら盡しなければ停筆、

 

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