芭蕉&之道 『江鮭子』 元禄三年
之道は大阪の町家で屋号を伏見屋と称した。『江鮭子』は之道の撰である。之道辺は柚木氏、蟻門亭と号したが、元禄三年の秋、近江の幻住庵に芭蕉をたづねて行く折から、伊丹の鬼實の行を羨んで、
橋よりも戻る心を瀬田の橋」
の句を餞け、膳所の珍碩は之道を案内して芭蕉と向對せしめた其の三吟の連句
白髪ぬく枕の下やきりぎりす 芭蕉
入日をすぐに西窻の月 之道
の脇句に「湖水の名月ゆかしみ」と思い立った旅の望みを叙し、題名の『江鮭子』は琵琶湖からとれる鮭に似た淡水魚の名で、「あめこ」又は「あめのうを」とよばれるが、大津八町の一膳飯屋でその焼き魚に箸をつけ、
「やきものは近江成りけり江魚」
と吟じたのを集の名に用いたのである。 之道は後に諷竹と称し、元禄七年、芭蕉を道修町の家に招いところ、はからずも発病して花屋裏で遷化したため、
「力なきお宿申せし時雨かな」
と師弟の果敢なき.宿縁を手向けて悲しんでいる。
鬼實のの賤別吟に
「中の秋十日あまり、之道、芭蕉翁をたずね行、後のなつかしき」
とある詞書で、疑問視さ鬼實と芭蕉の対面の事実なるべきを示唆する点があるので、木重重雅氏の質疑にに答へ、その際氏に京都大学に蔵する原本より筆写を煩はしたが、『蕉門俳諧前集』には右写本が見つからず止むなく採録を見合せて、その後河村連月氏の手を経て曲斎文庫本を借覧筆写して本編集に収めたのである。
芭蕉俳諧 『深川』 元禄六年板
「我は集作らんとて、翁をしたることなし」と落梧の申し出を固く拒んだ芭蕉が、その捌きに成る連句四巻の発表を許したのでも、酒堂の『深川』は七部集に劣らない内容である事がわかる。
酒堂は『ひさご』の撰者珍碩の別号で元禄五年近江から江戸へくだり、やがて新しい流行体となる『炭俵』の前景として、輕るく事を運んで平淡な附句の中に変化を求むる芭蕉の捌き方を体得し、深川の庵中に越年して、欲六年洛にのぼり、江戸の嵐竹亭で巻き掛けたまゝの十句に『ひさご』の旧同志及び『猿蓑』の作者を促してI歌仙となし、これをさし加えて開板したものである。
洒堂の俳諧的境地は『ひさご』から『深川』へ、さらに元禄七年の『市の庵』へと推移しているので、右の二集を収めながら「深川』一部を逸するのは甚が遺憾なので蕉門俳諧の主要な選集として、続集に加へる事としたのである。
『深川』の単行本は元禄六年の井筒屋本の外に元文元年江戸の西村養魚が
「右深川集は累年予が持来れるところの書にして、徒に書巣に朽ん事を梓にのこし侍るのみ」と奥書せるもの、又、採茶庵梅人が西村板の焼失を惜みて「杉風(杉山)自筆の書をもて校合し」
寛政二年新たに刻せるものと三本あり、『続七部集』にも入っていて、広く流布し註釈の書も行はれて居る。
芭蕉俳諧 『卯辰集』元禄四年板
加賀の鶴来は金澤をすこし南に隔てゝ、風雅に志ある人々が一聚落をなしていたが、その一人の楚常は折々金澤に出て北枝・句空の徒と交際し、見聞くところの俳諧を一集にせんとの企圖をいだいて空しく故人となつたので、北枝が這稿を補訂し、句空の住む卯辰山を集名に題したのである。
芭蕉の北越行脚から年も浅いので、『奥の細道』にある発句及びそれに洩れたもので異同のあるものを収めてある中に、多田の神社にての「むざんやなかぶとの下のきりぎりす」は「あなむざんやな」の七字冠になって居り、北枝に対する惜別の吟は
もの書て扇子へぎ分る別哉 芭蕉
とあって細道の「扇引さく餘波かな」は後に推敲したものである事などが考證される。これを『続七部集』に入れたのは蕉門の俳書としての価値を認めたからであるが、本大系に本書を逸せん事を惜み川西和露氏から採録の勧告もあり旁々今回同氏の蔵本により追加し、柱によって発向は上に、趨向は下に二巻となる事が明瞭なので、本文の巻第四の歌仙四巻を別に見出しを設けて区別したのであるが、元禄五年板の『誹諧書籍目録』にも二冊本として掲げてある。