江戸の俳諧 太 祗 池上義雄 氏著
江戸の蓼太・白維、尾張の暁臺、伊勢の樗良、京の蕪村、播磨の青蘿、加賀の麥水・闌更、これら中興俳壇諸家の活動は時期的にみて少しのずれはあるが、最降盛期は矢張り明和・安永(1764~1771)の交ら十二年余りとするのが穏富であろう。これらの人々は夫々の立場に於いて諸国を遍歴行脚して、専ら勢力圏獲得に意を注いだ事は確かであり、かつ等しく「芭蕉に還る」というモットーを高く掲げたことも明らかである。この観点に立って太祗を眺める時、彼の足跡はこれらの諸家と比べて著しく違っていることが感ぜられる。
先づ第一に太祗は六十三歳で明和八年(1771)に歿しているのだから、他の諸家がそれぞれの地位を確保し了って、やがて相互に緊密な連絡交渉を結んで行く時期にはもう全くの晩年だった譚である。
而も彼の俳壇に封する態度には、社命的盛名とか物質的富裕とかを追及する気配が殆んど見えない。尤も四十歳頃迄の青年壮年期の俳諧活勁は、出生地江戸に於いて江戸座の 人々を師とし友として相當活溌に行われはれていたものゝ、これを直ちに中興俳壇の主流に投じていたものとは到底言えないだろう。
彼がやがて郷里を去って奥羽から九州にかけての大旅行をした揚句、宝暦の初年から京都に落ちついて中興俳壇の檜舞台にに立つ機会にめぐまれていながら、その頃法體して柴野大徳寺内の眞珠庵に納まり、
法名も道源と称して専ら佛の道にいそしんだ所を見ても、京都定住も、ひいてはその大行脚も特別に俳壇の野望をもってなされたとは考えら斯ず、むしろこの社命から暫く身を退いたとさえ思われる節がある。尤もこの入信は一、二年の短期間で終って、またもとの俳諧道に携わる事にはなっているが、この期間の長い短いは単に結果的に見て言えることで、左程重視する必要はなく、それよりも入信に志したという事實をこそ注親しなければなるまい。而も俳壇に復縁して不夜庵の門戸を構えた前後の事情についても、恐らく島原妓楼、桔梗屋の主人呑獅のすゝめによる所が多く、かつ物質的援助を多分に負っている様子が見られ、又そこに集る俳句を嗜む人々の多くは妓楼の主人や、抱えの遊女達である所を見れば、太祗の俳壇に対する態度も亦推して知ることが出来よう。
これらを一言にして言えば名利に恬淡温雅磊落(らいらく)な性格の太祗は、中興俳壇の諸家が等しく躍起となっ地盤穫得に憂身をやつし、社命的原名に汲々している社会から谷静かに離れて、只己が気のむくまゝに句作を楽しむ悠々自適の境地に安んじていたと言えるのである。彼が不在庵主となって遊廓街島原に居を占めて居った時も、京都俳壇の著名人、宋屋や几圭達と没交渉でも無かったし、また明和の初年頃から蕪村一派が定例的に開催していた句題にも出席を怠らなかったけれども、その心境は矢張り今述べた所とは大した相違はあるまいと考えられる。その一證左として、当時の俳壇に於いては殆んど常識となっていた所の、一門の存在や主張を明らかにし、他門との交流を広める意味をもつ「選集」の刊行については全く無間心であった一事をあげれば充分であろう。
こうした太祗の行動態度は一面その高潔性を揚揚さすと共に、他面中興俳壇壇の流れに身を挺してその成果に存分の力を致さなかった所に多分の物足りなさを感ぜざるを得ない。然しながち今日中興俳壇の随一と目されている蕪村が太祗を非常に高く評価している一事は、彼も亦當代の逸物であったことを證して餘りがあろう。蕪村がかつて薮入の一少女の切力たる心情を籍って、榔愁のやむにやまれぬ想ひを述べたかの有名な俳體詩「春風馬場曲」の結句に
「君見ずや故人太祗が句 藪入の寝るやひとりの親のそば」
と、自己の作品だけで十二分に意企する所を述べつくして居るにかかわらず、最後に亡友太祗の一句を挙げていることは、必ずやかつての心の友太祗に対する思慕の情の抑え難き登露だったに相違あるまい。太祗・蕪村両者の深い友情は単にこの一事のみを以って類推する譚ではなく、さきにも述べた明和年間の蕪村の句題に太祗が親しく一座していることや、或いは太祗の歿後遺弟知友達がその句集を刊行するにあたって、作品の拾捨選択に蕪村を煩わしているなどによって裏付けされよう。また蕪村の筆になった「馬提燈」なる両者の微笑しい挿話も幸い傳えられている。
それによると師走の二十日頃蕪村と太祗とが知人のもとで句合に連って夜更けに帰途についた時、雨風が物凄く激しく小とぼしの火がハタと誼えてしまった。
「夜いとどくらく雨しきりにおどろ/\しく、いかがはすべきなどまどいて、蕪付言、かゝる時には馬てうちんと言ものこそよけれ。かねて心得有べき事也。太祇言う、何馬鹿な事言な。世の中のことは馬てうちんが能やら何がよいやら二つもしれない。」
蕪村の一面には当時の俳壇を白眼視した、ひが者的態度があり、容易には人と相許さない惚癖さが多分にあったのだが、この一挿話に於いては蕪村の太祇に対する心境には一歩屈した感じさえある。
以上の様な太紙の無欲恬淡。磊落圓満な人格は当然彼の作句態度や作風に著しい反映を見せてくる。蕪村の門人で太祇にも亦親しく接した几董は自著「所雑談集」の中で、太祇は机邊に常に大きな草紙を用意して、句作の度毎に丹念に書きとどめていた事、また一つの素材を扱うに際しても思い浮ぶ限りの観点から種々徐々に作句していた事を述べて「句を練て腸(はらわた)うごく霜夜かな 太祇」の句を挙げているが、かくて累積した作品の量はぼう大なものに達したらしい。太祇の遺句集の選択を需められた蕪村が「太祇の句稿は等身に達する位の分量だ。これに一々目を過していたのでは果てしがない。いっそのこと四季それぞれの初めの五、六枚を扱き出して一応まとめる外、手はあるまい。」との助言を与えたことは有名な話である。この言葉は、かくして成った「太祇句選」の序文の中で言われているのだから、故人を称揚する意味が過分に合まれている筈で、隨ってかなりの程度の文飾がほどこされていることは否めない。然しそれにしても、その間の事情を知リつくしている知友門人達に直接手交する文章であり、かつ出版されて廣く世人の目に触れるものである以上、根毛葉もないことを無責任に筆にのぼすことはあるまい。矢張り相当近い事實があったのだと考えるのが至當だろう。もっとも今日太祇の作品は「太祗句選」・「太祇句選後篇」・追悼集「石の月」所収のもの、及び請家の選集中に散見する約二百句たらず位で、蕪村の言葉を裏書する程の量には到底達していないけれども、これは句稿を全部譲り受けた呑獅が島原の火災に際して焼失したものか、そうでなくても公刊されないままに散逸してしまうという古文献に有りがちな運命を辿ったに過ぎないであろう。この様に量的に言って莫大な数にのぼり、それが一々書きとゞめて保存されていたという事實の中に、先に述べた俳壇的野望の僅少という事情とあわせ考えて、太祗の句作態度の熱心純真、作品に對する愛著等々の眞の俳人として敬服に價する大切な要素を見出すことが出来よう。几董の「新雑談集」には古人、先輩、知友のエピソードが多徐に採り上げられているのだが、それらは恐らく几董が体験し傳聞した事柄の中から最も感銘深かったものを精選したに相違あるまいが、作句における執心振りに関しては特に太祗ただ一人を選び出している一事は軽々しく看過してはなるまい。
最後に太祗の作風について紙面の都合上、要點だけを一言する。
一句も疎かにしないという態度から生まれてくる確かさ。一つの素材をあらゆる観点から眺めつくす所から生まれてくる趣向の面白さ、その人物内容を反映した高雅さ、理屈のさ。これらが太祗の作品全般を眺め渡し感ぜられる所である。この作風が太祇の各種の作品の中において、特に、ともすれば平俗卑賎に陥副(おちいり)がちの人事句に於いて成功しているのだといえよう。蕪村が
「方百里雨雲よせぬ牡丹かな」
「鶯や比叡をうしろに高音かな」
「時鳥平安城を筋かひに」
等の句に於いて、卓抜な着想、巧緻な趣向、適確な表現に依って牡丹なり、鶯なり時鳥なりの本然性に触れているのと同様のことが太祇においては人事句に示されている。
目を明て聞いて居るなり四方の春
はねつくや世心知らぬ大またげ
な折りそと折ってくれけり園の梅
寝よといふ宸覚めの夫や小夜砧
たゞ太祇には事物の内面に沈潜してその中に徹するといふ様な鋭さは見出せない。彼が多く観察したのも事物の外面的な種々相に外ならなかった。それにあくまで廣くということであって、深くということではなかった。然しこの點は中興俳壇の殆んど全般的な風潮であって、ひとり太祇のみを責めるのは酷であろう。(西京高校放論)