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大伴家持(やかもち) 『分芸春秋』デラックス創刊号 昭和49年5月号

2024年07月02日 16時36分54秒 | 文学さんぽ

大伴家持(やかもち)

『分芸春秋』デラックス創刊号

昭和49年5月号

万葉から石川啄木まで

歌人の生と死 *その悲壮なるもの

青木和夫(お茶の水女子大学教授)

 

日本の代に大件氏ほどあざやかな没落の軌跡を残した貴族はほかにないであろう。

 一族の過去は華やかであった。天孫降臨や神武東征に大伴・久米の兵をひきいて先駆したという伝承以来、天皇の親衛軍、朝廷随一の武門との誇りを持つ。歴史的にみれば五世紀後半、雄略朝に室屋が大連(おおむらじ)に任ぜられ、国政を掌握したころが最盛期だった。孫の金村もまた大連として総体天皇を擁立し、欽明朝にかけて筆頭の重臣となったが、外交問題の処理を誤って失脚、以後七世紀前半にかけての一族は、朝廷で大臣・大連につぐ地位の大夫(まえみつぎ)を出す程度の勢力となった。

不運の名族に生れて

 

 七世紀後半、大化改新以後、一族は一時右大臣馬飼を出し、壬申(じんしん)の乱(六七二年)にはその子・御行と安麿が叔父の馬木田(まくた)や吹負(ふけい)と共に大海皇子と(天武天皇)の側に投じ、機内の山野を馳駆した。乱後の天武・持統朝で兄弟は官界を累進し、八世紀の最初の年に御行は大納言で歿したが、文武天皇はただちに右大臣の肩書を贈った。しかし中納言の安麿は、その二カ月後、大宝令の

施行と同時に同僚の藤原不比等ら三人が大納言に昇格したにもかかわらず、ひとり選から洩れ、四年の後にようやく昇進する。その後の経歴も大伴一族の当主としては不遇というのに近かった。

 当時としては自然の成行きでそうなったことで、本人さえ格別の不満は持たなかった経過でも、ふりかえってみると合点のゆかぬ場合が、ままある。安麿の境遇もそれであって、彼の創立した佐保大納言家には最初からある種の陰影が落ちていたという感じである。いうまでもなく安麿は家持の祖父。『万葉』には相聞(そうもん)を二首、自然詠を一首残している。兄・御行のような天皇讃歌ではない。

 佐保大納言家の陰影は、嫡子・旅人の時代には特に濃くなるということがなかった。『続日本紀』のしるす旅人の武門としての官歴は、むしろ晴れやかである。元旦の朝賀には左将軍として騎兵をひきい威儀をととのえる。隼人叛すれば時節大将軍に任ぜられるのは彼を措いて他にない。炎熱の南九州での野戦は労苦であったろうが、右大臣不比等が死ぬとただちによび戻され、勅命を奉じて喪儀に出席する。

 しかし五十四歳で中納言、五十七歳で三位という昇進は、父・安麿より遅れていたはずであり、旅人と前後して同じ地位にのぼった不比等の息子たちは、十五、六歳も年下であった。晩年の大宰府での彼の想いは周知のごとくである。永年の妻を老いて仮寓に失う悲しみは深い。

  世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり

 この歌を諸註釈書がことばどおりに受けとって、世の中は空しいと知るとますます悲しくなる、などと訳しているのが私には納得できぬ。唯仏足真、世間虚仮と、さかしらに慰めてくれる弔問客に対して、彼は駄々をこねているのだ。

このおれの悲しみがわかってたまるものか。歌にはけくちを求める、いわば「悽惆(せいちょう)、歌にあらずは撥ひ難し」とする手すさびは、息子の家持にひきつがれた。しかし親子の問には世代の差というか、それぞれの生きた時代の違いがあり、生れたときや幼いころの状況の違いもあった。天皇の資質という、とらえようのない条件を別とすれば、それらは旅人と家持との歌風の相違となって現われてくる。

 

 山本健吉氏は名著『大伴家持』で、家持の歌の基調低音を……存在の不安に目覚めた意識……とされ、かれの詩的体験の原型を、父に従って大宰府から上京する船旅での、謙従(従者)たちの歌への感動に求められた。家持に論賛を書くとすれば、ほとんど氏のように書くほかはないと思われるほどであって、謙従の歌への彼の愛着は、謙従の一人の、

大海の奥処も知らず行くわれを何時来まさかと問ひし児らはも

の類歌を、後年また防人の歌の中に、

闇の夜の行く先知らず行くわれを何時来まさむと問ひし児らはも

 と、採録していることからも明らかである。

 

 かような生の不安、ないし生きることの……いぶせき……意識が、なぜ人一倍、彼を強くとらえて終生離さなかったかを説明しようとくわだてるのは、野暮な歴史家の所業というものだが、一般化して考えるだけは考えておきたいと思うのは、私の勝手であろうか。

 

 まず幼いころの長途の旅。大宰府からの帰路は謙従たちの歌を覚えるほどに育っていたが、往路の旅は言葉にならず魂の底に沈んでいる。山本氏も指摘されているが、古代の旅は今日では想像もつかぬほどの困苦と不安に包まれていた。

 また大宰府での義母の死と父の悲嘆。帰京後まもなくの父の死。父を失う心の痛手はともあれ、当主が大納言・従二位ともなると、遺族の生活の変化は大きい。貴人(雑役夫)は大納言という官職に対して百人、二位という位階に対して八十人給わっているのが、当主の死とともに散る。

また職封(しきふ)八百戸、位封三百戸からの租税収入はなくなり、職田(しきでん)二十町、位田五十四町も朝廷に返納せねばならない。もとより祖父以来の家産は少なくなかったが、身辺は火の消えたように淋しくなる。時に家持は十四歳。

 

家持の誕生の年については、正史『続日本紀』にも歿時の年齢が記載されていないため、青年時代に内舎人に任官した当時の年齢をめぐってさまざまな考証があり、誕生も霊亀二年(七一六年)とする説から養老四年(七二〇年)とする説まで分れている。だが、実際の任官年齢は勅旨とか本人の病気とか偶発的な事情で前後するものであって、規則どおりではない。『公卿補任 くぎょうぶにん』や『伴氏系図』の所伝によって、養老二年としておいてよいであろう。とすれば家持は旅人が五十四歳の時の子となる。生母は正妻でなかった。つづいて弟の書持(ふみもち)、妹の留女(るめ)が生れたが、みなやがて父の邸、佐保大納言家に引きとられたようである。

 年老いた親をもっと甘やかされもするが、内気にもなりやすい。それに家持は少年時代にかけて、長途の旅や生活環境の激変を経験しなければならなかった。個人的な事情を調べるだけでも、後年の彼の性情の胚胎(はいたい)をみる思いがするが、もともと奈良時代の貴族の子弟には、のちの平安中期の貴族の子弟などとは違って、将来に対する不安が制度的に強いられていたのである。それは地位・財力の世襲を原則として認めず、本人の人徳・才能・努力の尊重をたてまえとする律令官僚制度である。五位以上ならば子まで、三位以上ならば孫まで、それぞれ子孫の任官に際してある程度の位階を最初から授ける蔭位の制度はあったものの、当主の早逝とか近親の疑獄連座とか、偶発的な諸事件はたえずかれらをおびやかした。それだけに奈良時代の貴族は一般に、平安時代のそれよりもずっと行動が活溌であった。

 

『万葉集』は大伴一族の鎮魂歌集

 

かような律令官僚制度が前世紀末の天武・持統朝以来急速に形成されてくると、かつてのような氏や族の団結は頼むに足りなくなる。せいぜい氏の祭りに同族あい集って交歓するか、膝にわが子を抱いて昔日の氏の栄光を物語るくらいのものである。家持の「族(やから)に喩(さと)す歌」がどこかひ弱いのは、そのすぐつぎに「病に臥して無常を悲しみ修道を欲して作る歌」といううらはらな内容の作品を従えているばかりでなく、もう家持も……族……を信じきれなくなっていたためだと思う。従兄や再(また)従兄が疑獄に巻きこまれて獄死しようと、かまってはいられない時勢になっていたのである。

 藤原一家だけは早くから律令官僚制度に対応し足・不比等父子は中臣氏から離れて藤原家を創立していたし、制度のたてまえはたてまえとしておきながら、象徴である天皇を後宮から掌握しようとしていた。

すなわち不比等は娘の宮子を文武天皇のただ一人の夫人としておくために、石川氏や紀氏の納(い)れた娘から天皇の妻という資格を奪ったし、不比等の四人の息子たちも妹の光明子を聖裁天皇の夫人から皇后へ昇格させるために、皇后は女帝ともなりうるから皇族出でなくてはならぬと主張する左大臣長屋王(ながやのおおきみ)を葬った。後宮をにぎってから天皇を通じて朝廷の人事に発言し、子弟をそろって参議(かっての大夫)以上にし、閣議決定の名をかりて政治を思うように動かす方法である。これが大件一族

はできなかった。正面から天皇に向きあって、……陰さはぬ赤き心……で仕えるのを誇りとする育ちだったのである。

 からくりが家持にわからぬはずはなかった。しかし祖父の時代にすでに宮子が天皇の夫人であり、父の時代に大伴一族を代表してただ一人父が閣議に出るようになったとき、藤原一家は不比等とその子・武智麿・房前(ふささき)と計三人も閣議に出ていたばかりでなく、その裏をかく方法をとった。そして彼自身の時代には、聖武天皇よりもむしろ男性的な、雄渾な筆蹟を残している光明子が皇后、そしてやがて皇太后となる。彼の資質と状況認識とは、ついに武器を取って蹶起(けっき)することをためらわせた。

 皇太子を奉じて藤原家出身の権臣を除く計画ならば彼にも参加できるかもしれない。しかし延暦四年(七八五年)秋八月二十八日、中納言・従三位兼春宮(とうぐう)大夫・陸奥按察使・鎮守府将軍・大件家

持は病死した。以後二旬余、大伴一族は多治比・佐伯ら一族とともに、権臣藤原種継を暗殺したかどで、桓武天皇の激怒をかつて関係者一同ことごとく処分された。さきの橘奈良麿の変(七五七年)に続く大きな打撃である。

 のちにもう一度、応天門の変(八六六年)があって、大伴氏の没落は完了する。いずれも史書にくわしい。

 敗者の資料は残らぬ。これは歴史の鉄則である。大伴一族の没落の軌跡も、藤原種継という勝者の側から見られている。だから家持は年齢さえも明らかでないし、いわゆる大伴系図はほとんどのちの世の人の擬作である。

 ただ家持が「悽惆の意撥ひ難」く手録した『万葉集』だけは残った。おそらく種継暗殺の首謀者と目され、すべての家産を没収されたとき、他の書物と一緒に天皇室へ納められたのであろう。

 詩人はふしぎに未来を予感する。『万葉集』は家持の、自分をふくめての大伴一族に対する鎮魂歌集でもあった。

  新しき年の始の初春の今日降る雪のいや重(し)け吉事

この万葉最後の一首は、山陰の冬の雪に降りこめられ、大伴一族の宿命から心遠ざかった家持の、のちの世の人々に対する予祝である。