『おくのほそ道』発足に関する再考察
おくのほそ道研究と鑑賞 佐々木 清者
桜楓社
「旅立」の章における虚構の方法をめぐって
「弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として云々」と続く『おくのほそ道』「旅立」の本文からすれば、芭蕉の旅
の出発は元禄二年三月二十七日深川を出たと受けとられる。また、曽良『随行日記』の記述によれば、深川出船は三月二十日となっており、この発足の問題については、既に諸先学の考察・諸仮に諸種の見解が尽されているわけであるが、いま一度再考した私説を述べてみたい。
この出発日の疑問点をめぐる見解は、次の四つに分類される。『随行日記』の「廿日」は
1 「七」の脱落によるとする説
2 廿日深川出船、廿七日まで干住逗留とする説
3 「廿日」は出発予定日として記しておいたのを、
廿七日になったが、そのままにしておいたとする説
4 廿七日芭蕉深川出船、廿日曽良単独先行説
と、このように集約できると思う。
1の脱字説は、
『随行日記』の記録の詳述性、正確性からして、冒頭の記述の錯誤、誤記は考えられないし、
3の予定日記入説も『日記』書き出しの最初の文字を訂正しないで放置しておくことはありえないと思う。
4の曽良単独先行説については後述するが、私が支持する2の見解を成立させる資料的な周辺について、若干の解説をここで付しておきたい。
『随行日記』ならびにその抄録である『人見本』・『小山田本』では、「己三月廿日、深川出船」は共通しており、抄録の両本には、さらに「千佳上ル廿六日迄逗留」の記録が付加されている。また、『芭蕉桃青翁御正伝記』では、
「三月七日深川なる蝸牛の栖を出て、奥羽の行脚に首途し給。翁之年は四十六識。三月廿日より廿六日迄千佳宿滞在、此処所々の吟会に招かる」
との記述がある。これらの資料の解釈から、見解の岐路が生まれてくることはまた周知のことである。
足形仂氏は、『御正伝記』の「此処所々の吟会に招かる」の記述については、「かりに千佳辺にどんな無神経な門人がいたにしても、長途の行旅を控えた芭蕉の旅の第一歩を契して一週間も吟席の指導を乞うというようなこともあり得まいし、餞別の句会なら深川で十分尽くしていたであろう」と否定し、さらに『人見本』などの「廿六日迄逗留」の増加記事は「一、廿七日夜カスカベニ泊ル」の『日記』や『細道』の本文と辻棲を合わせた「伝写者のさかしら」の所為である(『おくのほそ道注解』)と結論しておられる。
これと対置する見解は上述2の項となる。麻生磯次氏の『奥の細道講読』や松尾靖秋氏の「『おくのほそ道』の発足に関する一考察」(『芭蕉論仮』所収)の論仮に詳細に検討考察されておられるので、その要約を記すことにする。
麻生氏は、『御正記』が『人見本』や『小山田本』と一致することを指摘しながら、「明ぼのゝ空朧々として、
月は在明に先おさまれる物から」の表現を重視され、「有明の月は大体十六、七日過ぎの月をいい、夜はあけなが
らなお先の空に残っているさまをいうのであって、ここの情景は糸のように月の細い二十七日の明け方の空模様と
は思えない。」とされ、表現をコンテクストとして天象状況との関連で検討されておられる。
さらに第二の根拠として、「二十七日に深川の草庵を出立し、巳ノ下殼(午前十一時頃)に千佳に上陸し、それから人々と別れを借しんで、その日の午後に粕壁まで行くのは、かなりの強行軍である」とし、「三月廿日に深川を出発したという『随行日記』の記事が正確であって、二十日から一週間程千佳に滞在して、人々と別れを惜しみ、句会に招かれていたのかも知れない」と推論されておられる。
松尾氏は、故松井驚十氏の門出説に加担され、旅立における民俗的な慣習として門出を重視した立場から、その
事例を『土佐日記』や『笈の小文』をはじめ『日本行脚文集』(大淀三千風)、『宰府紀行』(蝶夢)の近世紀行文において実証されておられる。
「まず第一に、芭蕉が芭蕉庵から採草庵に移ったのは三月七日ではなかったかということ、第二に、採茶庵から
の発足はやはり三月二十日であったであろうということ、第三に千住出発は同二十七日のことで、その間の数日は
知友門弟その他の懇ろな送別の宴があり、充実した日々であったであろうということ」の三点について結論されて
いる。さらに、「二十七日の発足には『土佐日記』のそれが念頭にあったのかもしれない」とし、「『七』の数字は古くから瑞祥を示すものとして考えられていたので、旅立ちの日として選ばれた」可能性を指摘されておられる。
こうした見解が、管見のおよぶ範囲での集約ではあるが、近年白石悌三氏は「二十七日出船が確定した。曾良日
記の二十日出船は、彼の先行と見るべきであろう。」と4の項にある新説を「編年体・評伝松尾芭蕉」(『国文学解釈と教材の研究』昭和五二年四月号収載)で提出されておられる。
しかし、「二十日出船は曾良の先行」とされる白石氏説の場合、『随行日記』の記述にある
「巳三月廿日 同出、深川出船。已ノ下剋 千佳ニ場ル」の「同出」の解明が必要になるのではないか。尾形氏は、「曾良日記の詰活字本に『三月廿日同出』と翻字してあるのは、『三月廿日日出』の誤読ではあるまいか」と推定されているが、その筆跡を照合した松尾氏は「日」を否定して「同」であるとしている。
ところで、『随行日記』で頻繁に使用されている「出」の用例の類型を調べてみると、「宿出」「マゝヲ出」「宿
ヲ出」などで、送りがなを省略した記述であり、「出」の同義語として「立」、「発足」を使用しており、宿・宿泊地から「出発する」の意味になっている。また「同」の用例では、
四目 天気 吉
元日 同、
六日 同、辰剋出船
等にあるように、「右に同じ」の意味で形容詞の用法となっている。だから、「同出」の「出」は動詞的機能での
「出発する」であり、「同」は「同じく」という意味の連用修飾語的機能をもったものになる。その参考に熟語としては、「同道」、「同道シテ」、「同道ニテ」の用例があるが、この場合、「芭蕉 曾良に他の人がつき添って従う」という意味になっている。曾良が『随行日記』に記述した「同出」は成語・熟語ではなくて、送りがなを省略した簡便な表記であり、その意味は「芭蕉と一緒に」「同時に」「出発する」ということになるのではないかと私は考えたい。以上述べてきたとおり、『随行日記』の表記の特殊性を認めて、三月廿日の深川出船を曾良単独先行としては考えない立揚をとりたい。たとえ、その場合千佳宿での六日問の滞在目的がなんであったのかという解明は残るにしても、日付の異なる深川出船と千住出発との二段階の出発という状況を設定してみたい。
このことは、『随行日記』の記述の形式において、「他の目付のように『一、巳三月廿日云々』とは言わず、かつその条を一、二字下げて特別に記してある」と松尾氏が指摘されたが、曾良にとって、深川出船と千佳出発の意味合いが違ったものとして意識されていたという一つの証拠になると推定したい。
それは、芭蕉が「旅立」の章段で、【深川】の地名は故意にふせて、【千住】を離別の地としてクローズアップした叙述の姿勢に意識的に投影されている。「旅を栖とす」る芭蕉の「旅即人生」の思想からすれば、旅の起点は定住者が考える「家」や「草庵」ではない。「羅辞旅辺土の行脚」に立向かった芭蕉は、「捨身無常の観念、道路にしな
ん、是大の命」の意識・を失明する。おくのほ七道の旅の日々は奥州街道の宿駅を渡り歩むことでしかない。芭蕉の
意識の原点には、旅の起点は、おくのほそ道に続く道路の一地点だ、奥州街道の第一の宿駅千住が、具体的にはそ
の起点になるのだという考えがあるのではないか。
草の戸も住替る代ぞひなの家
草庵への愛惜もそれとの訣別の悲しみもない。「流転こそ常住」の感慨を強調した諦観がこの句にはある。「旅を栖とす」る芭蕉にとっては、「草庵に暫く居ては打破」(『猿蓑』市中の巻)るべき存在でしかない。
『おくのほそ道』執筆の基本的手法として、複数の日数にわたる旅中の行動・事実を、その日付とは無関係に、日付の秩序に従わずに再構成して虚構化する叙述が、『随行日記』との対比において、数多くなされていることは明白である。「旅立」の章段においても例外ではない。
「旅立」の本文では、日付の異なった深川出船と千住出発における二段階の出発の状況を一日の旅程行動として
再構成したという立場から私はその本文の構文を吟味してみたいと思う。しかも、本文は、旅の事実状況からは離れた虚構化された叙述にはなってしまっても、そこには、虚構の秩序ないしは論理性は付与された形になっている
という計算はおいてかからねばならないのだが。
具体的には、本文では「其日漸早加と云宿にたどり着にけり」と旅の第一泊が、事実上の宿泊地であった粕壁が
早加宿となってしまっている。これは、本文が二段階の出発の状況を再構成して、深川-千佳-草加のコースを一日のものとして虚構した関連から深川を起点とした場合、一日の旅程として想定される適当な里数を隔てた地点と
して、草加が選ばれたのではないか。本文では、三月二十七日の出発の起点を深川とした立場から、その叙述の論
理性を保障するため、連鎖的に草加が宿泊地になってしまったとみたい。「旅立」の本文は、深川と千住を起点と
する二つの出発の場面が二つに包括した表現となり得たのであるが、前述したように、旅の離別は千住を舞台とし
たいという意識的な視点が芭蕉にあったのだとする私解の論拠を得るためにも、「旅立」の章段の構文を検討しな
ければならない。
この場合、「弥生も末の七日……」から「……舟に乗て送る」までが深川の場面であり、「千じゆと云所にて……」から 「……見送なるべし」の後半が千佳の場面だと短絡的に区分されるものではない。冒頭の「弥生も末の七日……」から「……幻のちまたに離別の泪をそゝく」までは、相互に連鎖する俳文独得な文脈で連結された一章構成的な表現となっており、その問に断絶のない文体である。有機的な連結性の強い文脈の展開のなかで、芭蕉の心情表現は、「心細し」から「おもひ胸にふさがりて」と強調され、「離別の訓をそそく」と漸層的にグレイドアップし、「行春や」の発句で高潮して完結しながらも、「行道なほすゝまず」で余韻を揺曳させるという連綿性の強い連鎖的なからみの強い構文構造となっている。
このように「旅立」の本文における叙述の連綿性、心情表現の漸層性こそ、場面を包括再構成した芭蕉の方法で
あるが、この巧妙な虚構化のかかにも、草加宿の設定や麻生氏の指摘した「在明の月」の天象的事実の矛盾が露呈
している。
また、叙述の連綿性の観点から、私は特に疑問視して検討したい表現は、「むつましきかぎりは宵よりつどひて、
舟に乗て送る」の箇所である。虚構化した本文の論理に従えば「宵よりつどひ」会った地点は深川になるのだが、
二段階の出発の状況を設定した場合、それは深川に限定されなくなる。深川の採茶庵でも可能であるし、千佳宿で
あっても不思議ではなくなってくる。むしろそれは、深川・千住の出発の前夜の意味での「宵」である状況は考え
られる。包括的な叙述だとしてもよい。そして、「旅立」の章段は千住での離別をテーマとして構成された芭蕉の
意図が明白になっている叙述であることからしても、この箇所か二つのコンテクストとして再度検討してみること
にしたい。
宮本三郎氏は、芭蕉の助詞「て」の用法を四つに分類(『蕉風俳諧論考』所収)されたが、この場合は、「『て』の下に、何らかの叙述語を補って解すべきもの」とするのが妥当であり、語注釈もそうなっている。本文の叙述の論理に従った解釈の他に、この箇所は出発の疑点を解明するコンテクストとして使用して、次のように解釈してもよい。
「宵よりつどひて」と「舟に乗て送る」のに二文節に共通する主語は「むつましきかぎり」であり、そこに補足
する意味としては、「宵よりつどひて送る」であり、「むつましきかぎりは舟に乗て送る」ということになることは確実である。この二文節相互の文脈の連接を私はこのようにとりたい。
「つどひて送る」は、芭蕉の旅立の送別会で集まることであり、「むつましきかぎりは舟に乗て送る」は、「つどい集ったしたしきかぎりは、ここ干住まで深川から舟に乗って送別の会に馳せ参じてくれるのである」という意味として把握することも可能である。
この根拠は、「旅立」の章段で芭蕉が使用した語彙として、「送る」と「見送る」の明確な使いわけをしていることに注目することでも生まれてくる。
「送る」は「守りながら行く人につき従う」(『日本国語大辞典』小学館刊)であり、「見送る」は、「去って行く人の姿を後方から見守る」の語義である。「送る」の場合は「……から……まで」という地点を移動する動的な行動があり、「見送る」は、「……で」というように地点が固定化された静的な行為である。この語族を本文において検討するならば、「深川から干住まで」と「干住で」の二段階の送別の状況があったことは必然である。
「人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送」った「人々」は、「むつましきかぎり」と同義語である。
だから、送別の会と見送りの離別が最終的になされたのは、千住あったことは否定できない。
そこでその傍証ともなる資料を提出しなければならない。その一つは、後素堂『奥のほそ道解』に、「宵よりつ
どへて睦ム字也、杉風 其角 嵐雪か類也」として、参集者の名前を推定している。それを裏づけるように、杉風がこの送別者の筆頭格として参加し、その日付が三月二十六日であったという事実が、最近発見された杉風宛芭蕉書簡(尾形仂「新資料・芭蕉『ほそ道』からの書簡」昭和五二年一月号『俳句』所収)によって知られる。
卯月廿六目 桃青
杉風様
(中略)
先月〇〇の〇けふは〇〇〇(筆者傍点)
貴様御出紋、たれゟ候などと
いふ事のみに位きいだし候
深川衆へ御心得可レ被レ成候
(下略)
ここに古書簡一部分を掲出したが、深川出船三月二十日説を支持する払の立場からすれば、「先月のけふ」即ち三月二十六日は、尾形氏のいわれる「目付の一日勘違い」ではなくて、明らかに千佳逗留中の三月二十六日の「宵」
であり、それは二十七日千住出発の前夜であると限定したい。
「貴様御出候、たれゟ悉候」にこめられた感謝の気持は、また「御出候」の語感も、送別の最終地点である千住まで、杉風の自宅から出向いて見送ってくれた厚情に対する感激であったに違いない。また、「深川衆へ御心得可被成候」の表現も「舟に乗て送」った「したしきかぎり」への伝言鳳声を依頼したことを推定すれば、杉風を筆頭格とした深川在住の門弟が、送別の会に参加したことも事実である。
芭蕉と曾良が、宿駅千住でなぜ六日間の滞在をしたのかという疑問には、松尾氏の前掲論攷が答えている根拠に
教示される。「宵よりつどひ」て催された送別の会、翌朝の出発を見るためには、宿泊可能な旅宿が確保されなけ
ればならない。また、江戸の各地に往往する芭蕉の知己・門弟が参集する場所として、千住宿は「江戸日本橋より
千佳へ二里八町」の距離であり、深川衆にとっては、水路も利用でき、比較的参集に便利な里程の地点だったこと
と、宿駅としてわかりやすい地域にあったためであろう。
また、千住任宿滞在の七日間の行動は推定するよりしかたがないが、二十日の千住到着、二十六日の送別会、二十七日住佳での離別を除外すれば、五目間の空白の日時がある。この空白をどのように滞在目的と結びつけるかが解明されなければならない。「松島」の章段に
「旧宅をわかるゝ時、素堂松嶋の詩あり。原安適梅がうらしまの和哥を贈らる袋を解てこよひの友とす。
且杉風・濁子が発句あり。」とあり、銭別の句座があったことは事実であり、
おくのほそ道出立にかかわる銭別吟がどこで贈られたかは不明であるにしても、「武隈」の章段に「武隈の梅みせ
申せ遅桜」と挙白の銭別吟を記し、また、『いつを昔』所収の「月花を両の袂の色香哉」という露沾の銭別句も存
在している。
『笈の小文』では、その門出の状況を、「其角亭におゐて関送りせんともてなす」にはじまって、「あるは小舟にうかべ、別墅(べっしょ)にまうけし、草庵に酒看携来りて行衛を祝し、名残をおしみなどする」送別の宴、ならびに句座が、期日、場所、主催者を異にした複数にわたる送別状況を叙述している。推定の域をでないが、「素堂松嶋の詩あり」と葛飾派の代表格詞友素堂の名前があがっていることは特に注目したい。葛飾は千住と近い距離にある、多分千住に逗留期間中に、素堂は自宅へ招待したか、来訪したかして銭別吟を贈ったものであろう。「深川衆」のほかに「葛飾衆」もそれぞれの地域的な連帯で、芭蕉の送別を主催したかもしれない。
挙白の餞別吟のあることも、江戸俳士五人のなかに数えられる蕉門の重鎮であり、名高い江戸の宗匠であれば当
然のことであろう。「且杉風・濁子が発句あり」と「松嶋」の章段に濁子(大垣藩士二百石)の名前がでてくるが、 深い交友関係にあった人で、『笈の小文』の旅立の際にも、濁子・芭蕉・嵐雪・其角の四吟半歌仙で、「江戸桜心かよはんいくしぐれ」の発句を濁子が詠んでいる。『おくのほそ道』の出立に際して露沾も銭別吟を贈ったことは上述したが、『笈の小文』の旅立ちの前の銭別吟「時は秋古野をこめし旅のつと」は、露沾宅興行であり、露沾邸に芭蕉が招待された席上の句銭洲であった。
このように、旅立ちを記念した餞別の句座、ないしは送別の宴が催されるということは、俳諧者仲間の一つの慣 例的な送別の行事であったことは明らかである。
千佳滞在の空白五日間の芭蕉らの動静を推定するならば、このような俳諧世界の慣例的行事が複数にわたったのではないかとするより解明はできないのだろう。
『笈の小文』では、「ゆへある人の首途するにも似たり」と叙述された送別の状況を、『おくのは七道』では意識的に省略したけれども、その実態は、『笈の小文』の旅行の場合と大差がなかったのではないかというように、前述の根拠から推定される。
『おくのほそ道』では、送別の状況はつぶさには叙述せず、『笈の小文』に対比して差控えた態度を保持した芭 蕉は、元禄二年春猿雖宛書簡で、
「一鉢境界乞食の身こそ貴けれと謠ひに佗びし貴僧の跡もなつかしく、
猶ことしの旅はやつしやつて薦かぶるべき心がけにて御坐候」とその心境を吐露している。
「ゆへある人の首途するにも似た」送別の状況を意識的に省略した態度は、芭蕉の「ことしの旅」に立向かう自らの精神構造のありかたと深い関連があるのであろう。
む す び
私はこれまでに、「旅立」の章段における虚構の問題を複数の送別の場面を包括再構成したためにおこる叙述の矛盾として検討してきたし、旅立の疑点を、出発における二段階の送別状況の集約という角度から解明してきた。
また蛇足になると思うが、旅立つ者を「送る」「見送る」という二段階の離別のしかたも、当時の民俗的な慣習であることを指摘した。
『随行日記』の請々にみられる送別の記録にも、たとえば「六日同。辰剋出船。木因、馳走。越人、船場迄送ル。如行、今一人、三り送ル。餞別有。……」などの記述がそれを証明している。
深川出船の際、船場まで見送った者もいるし、千住で出発の前夜能された送別の会に、日を改めて「船に乗て」
参集した「むつましきかぎり」が、翌朝の旅立ちを見送ったことも事実である。旅立ちの吉日となる二十七日は深
川出船の際すでに確定していたのであろう。旅の計画に積極的に献身した曾良であってみれば、千住滞在の行動日
程も周到綿密に計算されていた予定通りの行動だったのではないかと私は推論しておきたい。
『近世文芸 研究と評論』第十五号に収載。
参考資料 河合曽良 奥の細道 随行日記(1)
三月廿日 同出、深川出船。巳ノ下刻(尅)、千住ニ揚ル。
廿七日夜 カスカヘ(ベ)ニ泊ル。江戸ヨリ九里餘(余)。
廿八日 マゝタニ泊ル。カスカへヨリ九里。前夜ヨリ雨降ル。
辰上刻止ニ依テ宿出。間モナク降ル。
午ノ下刻止。此日栗橋ノ関所通ル。手形モ断モ不入 。
廿九日 辰ノ上尅マゝダヲ出。小山ヘ一リ半、小山ノヤシキ、右ノ方ニ有。
小山(田)ヨリ飯塚ヘ一里半。木澤ト云所ヨリ左ヘ切ル。 此間姿川越ル。
飯塚ヨリ壬生ヘ一リ半。飯塚ノ宿ハツレヨリ左ヘキレ、小クラ川
川原ヲ通リ、川ヲ越、ソウシヤカシト云船ツキノ上ヘカゝリ、
乾ノ方五町バカリ 室ノ八島へ行 スグニ壬生ヘ出ル 毛武ト云村アリ。
此間三リトイヘトモ、弐里少余。
壬生ヨリ楡木へ二リ。ミフヨリ半道ハカリ行テ、吉次カ塚、
右ノ方廿間ハカリ畠中ニ有。
ニレ木ヨリ鹿沼ヘ一リ半。昼過ヨリ曇。
同晩、鹿沼ヨリ火バサミヘ弐リ八丁ニ泊ル。
火バサミゟ板橋ヘ廿八丁、板橋ヨリ今市ヘ弐リ、今市ゟ鉢石へ弐リ。
*** 素堂と芭蕉の動向 ***◇延宝 八年(1680)☆素堂39才 芭蕉、37才
小石川の神田上水工事水役を辞め、この冬の初め頃に深川の草庵へ隠棲し、のち泊船堂と号す。(荘子・杜甫よりとる)
四月、『桃青門弟二十歌仙』を刊行し、桃青門の存在を世に問。
八月に其角の「田舎句合」
九月に杉風の「常盤屋句合」の判詞を書き、『俳諧合』と題して刊行。
栩々斎・華桃園と署名し、『荘子』への傾倒ぶりを示す。
冬、江戸市申より深川に居を移し、泊船堂と号する。
深川大工町臨川庵滞在中の仏頂禅師との交渉が始まったのも、この頃。
**この年代の素堂と芭蕉 総括**
この時代俳諧世界は大きな展開に際会していた。微温的な貞門俳諸の退屈なマンネリズムは、徳川の安定期の時代背景の中で育った新しい作家達の関心を繋ぎとめることはできなくなった。もっと無遠慮な、荒唐無稽な非合理の中に放笑を求めるような新風がおこり、それが非常な勢で俳壇を風扉した。
新風は文壇の長老、大阪天満宮の連歌宗匠西山宗因を担ぎ上げて大阪で起こった。芭蕉が『貝おほひ』を奉納した次の年、寛文十三年には、井原西鶴が『生玉万句』を興行刊行して、新風の峰火をあげ、その異風の故に「阿彌陀流」とよばれた。
翌延宝二年には宗因の『蚊柱百韻』をめぐって旧態派からの攻撃があり、宗因流の方からは、翌三年に論客岡西惟中が登場してこれを反撃、さらに惟中の俳譜蒙求』が出て、新風はあらたな論的根拠を得ることになる。
すなわち、俳諧の本質を寓言にありとし、
「かいてまはるほどの偽をいひつづけるのが俳諧」
だといい、
「無心所着」
の非合理、無意味の中に俳譜があるという奔放な詩論が生れる。
そしてこの年宗因の東下によって江戸俳壇にも宗因流が導入されることになるのであるが、この五月深川大徳院で興行された宗囚を迎えての百韻には、「宗房」を「桃青」と改めた芭蕉も、幽山・信章(素堂)似春などとともに、一座している。
延宝四年春山口信章(素堂)と二人で興行した「天満宮奉納二百韻」では
○梅の風俳諧国にさかむなり 信章
○こちとうづれも此時の春 桃青
と唱和して、この新しい宗因流(「梅の風」)の自由な放笑性に全く傾倒しているのである。
当時ひとしく宗因の東下を機にして生れた江戸の新風にも、二つのグループがあった。一方は談林軒松意を中心とする江戸在来の俳人グルーブ。他は桃青の属した上方下りかあるいは上方俳壇に何らかのつながりをもつ作家達。才能ある作家を擁していたのは芭蕉や素堂などの後者であり、俳諧大名内藤風虎の文学サロンに出入したのも、この作家達である。
芭蕉(桃青)はこの後者の中でも出色の能才で、延宝五年風虎の催した『六百番誹諧発句合』には二十句も出句しており、折から東下中の京都の伊藤信徳を交えて、山□信章とともに巻いた『江戸三吟』(五年冬から六年春にかけて)を見ても、桃青の縦横の才気は、二人の先輩に劣らぬばかりか、むしろこれを圧しているのである。芭蕉が江戸神田上水の工事に関係していたというのは、この頃から延宝八年までの四年間と思われ、一方では既に俳諧の宗匠となっていたらしく、その披露の万句興行もし、延宝六年正月には、宗匠として「歳且帳」も出したらしい。
延宝八年に刊行された『桃青門弟独吟二十歌仙』は彼の宗匠としての確固たる地位を示すものといえる。杉風・ト尺・螺舎(其角)・嵐亭(嵐雪)・.嵐蘭以下二十名の作品集で、それぞれに今までの風調と違った新しい格調をそなえた作品集である。驚くべきことに、僅か数年の間に、彼を中心として、これだけの俊秀が集まり、俳壇の最先端に位置していたのである。また其角・杉風の句に彼が判詞を加えた『田舎句合」・『常盤屋句合』もこの年の出版である。
ここにうかがわれる芭蕉の考えも、まさにさきの『二十歌仙』に僅かに見え新しい傾向、漢詩文への指向を示して、次の新風体の前ぶれとなる。この年の冬、芭蕉は市中の雑沓を避けて、深川の草庵に入った。杉風の生簀屋敷だったといわれ、場所は小名木川が隅田川に注ぐ川口に近く、現在の常盤町一丁目十六番地にあたる。洋々たる水をたたえる隅田川三ツ股の淀を西に、小名木川の流れを南にして、附近は大名の下屋敷などが多く、芦生い茂る消閑の地である。草庵を名づけて、杜甫の句「門ニハ泊ス東呉万里ノ船」をもじって泊船堂としゃれこんだ。草庵の貯えは菜刀(庖丁)一枚、米五升入りの瓢一つ、客来にそなえて茶碗十という簡素な生活である。(この瓢には素堂の四山の銘がある)すべてを放下して俳諧に遊ぼうというのである。門人李下の贈った芭蕉の株がよくついて、大きな葉を風にそよがせるようになる。この草庵の近くの禅寺に鹿島根本寺(臨済宗)の住職河南仏頂が滞在していた。芭蕉はこの仏頂について参禅することになる。そして得た禅的観照が、彼の俳諧に新しい深みを加えることになるのである。
この頃から貞享までの数年問は、貞享元禄の正風を得るまでの模索期であり、まさに疾風と怒濤の時代である。俳壇はめまぐるしいテンポで移りかわる。その展開の軸をなすものは当時の江戸俳壇であり、もっと端的には芭蕉及びそのグループであるともいえる。
延宝八年(一六八〇)になると俳壇全体に目立ってくるのは極端な「字余り」の異体である。そして漠詩文調が、この字余りに一種のリズムを与えるのである。かくして取り入れられた漢詩調は、やがて単に表面だけの問題ではなくなって、漢詩の悲壮感、高雅な格調をねらうためのものとなる。荘重桔屈な漢詩調でうたいあげられた日常的事物、そこに高踏と卑俗の重なりあった世界がある。『ほのぼの立』に「当風」の例句とされた。
私はこのころの俳諧をリードしたのは、山口素堂であると確信している。それはこの後展開される江戸俳諧への各種の提言や投げかけのほとんどが素堂のリードであることが、残された資料から読み取れる。(別記)画題「寒鴉枯木」を句にした「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」(これには素堂の付け句のある短冊がある)や、自己の貧しい草庵生活を漢詩的に処理して。
高踏隠逸を衒(てら)う 雪の朝独リ干鮭を噛得タリ
などの発句には新しさをねらう気負いや、多分に衒(てら)った姿勢はあるにしても、漢詩のもつ緊迫した悲愴感、高雅な格調によってささえられたポェジー(詩美)がある。自己の生活を杜甫.蘇東波・寒山詩の世界と観ずる一種の気取りから生み出された生活詩
○ 芭蕉野分して盥(たらい)盟に雨を聞夜哉
○ 佗テすめ月佗齎がなら茶寄
○ 櫓の声波うって腸氷ル夜やなみだ
○ 氷苦く偃鼠が咽をうるほせり
などの句は、緊迫したリズムのもつ悲愴感と、現実を脱俗高逸の高踏的世界に昇華せしめて眺めることによって生ずる一種の余裕との奇妙な混合が醸し出す高雅な詩趣をただよわせる。
京都での信徳らの新傾向の作晶『七百五十韻』をうけて、其角・才麿等と興行した『俳諸次韻』も、同様に新しい傾向をはっきりと示す作品である。天和三年に出た其角の『虚栗』によせた抜文には「李・杜が心酒を信じて寒山が法粥を綴る…-佗と風雅のその生にあらぬは西行の山家をたづねて人の拾はぬ皆栗也」とあるのは、李白・杜甫.寒山のもつ漢詩的・禅的風韻と、中世の自然歌人西行にならわんとする当時の彼の俳諸観をうかがうことができ、この『虚栗』の作品はいわゆる天和調の代表的作品ということができる。
天和二年十二月二十八日、駒込大円寺から出た火は江戸の大半をなめ、芭蕉庵も類焼の厄にあった。芭蕉は、「潮にひたり菰をかついて、煙のうちに生のびた」、体験が、彼に、「猶如火宅の変を悟り、応無所住の心を」しみじみと感じさせたという。
災後一時甲斐の谷村に流寓していたが、翌天和三年五月江戸に帰り、同冬、素堂が中心なり、友人知己の喜捨によって再建された芭蕉庵に入って春を迎えることになる。
**芭蕉発句
於春々大なる哉春と云々 「向之岡」
花にやどり瓢箪斎と自らいへり 「向之岡」
かなしまむや墨子芹焼(たく)を見ても猶 「向之岡」
五月の雨岩ひばの緑いつ迄ぞ 「向之岡」
蜘何と音をなにと鳴く秋の風 「向之岡」
餅を夢に折結ぶしだの草枕 「東日記」
夏の月御油より出でて赤坂や 「〃」(再録)
愚案ずるに冥途もかくや秋の暮 「〃」
小野炭や手習ふ人の灰ぜせり 「〃」
いづく霽傘(しぐれかさ)手にさげて帰る僧 「東日記」
枯枝に鳥とまりたりや秋の暮 「ほのぼの立」
花むくげはだか童のかざし哉 「東日記」
よるべをいつ一葉に虫の旅ねして 「東日記」
夜ル竊(ひそか)ニ虫は月下の栗を穿ツ 「東日記」
しばの戸にちやをこの葉かくあらし哉 「続深川」泊船堂
草の戸に茶を木の葉かくあらし哉 「〃」
消炭に薪割る音か小野の奥 「〃」
櫓声波を打って腸氷る夜や涙 「〃」
石枯れて水しぼめるや冬もなし 「東日記」
雪の朝独り干鮭を噛(かみ)得たり 「〃」
延宝 八年(一六八〇)『俳文学大辞典』角川書店
四月、『桃青門弟独吟二十歌仙』に芭蕉門が結集。
五月、西鶴、独吟四〇〇〇句(『西鶴大矢数』)興行。
五月、友琴『白根草』刊、北陸俳書の嚆矢。
五月、桂葉『八束穂集』刊、秋田俳書の嚆矢。
冬、芭蕉、江戸深川に退隠。
このころ、宗因、当流俳諧に倦み、連歌に回帰。
書『綾巻』『田舎句合』『江戸弁慶』『江戸官笥』『是天道』
『遠舟千句附』『大坂八百韻』『阿蘭陀丸二番船』
『花洛六百句』『雲喰ひ』『拾穂軒都懐帒』『続無名抄』
『それぞれ草』『太夫桜』『点滴集』『通し馬』
『常盤屋之句合』『投盃』『名取川』『軒端の独活』
『俳諧行事板』『誹諧猿錦』『俳諧太平記』『俳諧向之岡』
『誹諧頼政』『誹道恵能録』『誹枕』『破邪顕正返答』
『破邪顕正返答之評判』『備前海月』『評判之返答』
『福原鬌鏡』『二つ盃』『名所花』『各盞』『山の端千句』
『洛陽集』『轆轤首』没重頼七十九才。
参六月、後水尾天皇八十五才没。綱吉、将軍宣下。
**延宝八年(1680)(この項『俳文学大辞典』角川書店)
**芭蕉(三十七才)『田舎句合』『常盤屋句合』に判。冬、深川に居を定めた。
**素堂(三十九才)素堂と号す。五月十六日難波本覚寺で興行の西鶴「大矢数」第四十二に信章の付句が見える。
**嵐雪(二十七才)『桃青門弟独吟二十歌仙』(初夏奥)に「嵐亭治助」として入集。このころ石町の市店に住み湯女を迎え一子を儲けたが母子共に没したという(風の上)。『田舎句合』に序す。
**許六(二十五才)真澄に従い京に赴く(由緒帳)。
**其角(二十才)八月、芭蕉の判、嵐雪の序『田舎句合』上梓。
**杉風『常盤屋句合』刊。
九月二日、一雪没(六十)。『俳諧太平記』、
宗円『阿蘭陀丸二番船』、
言水『江戸弁慶』刊》
*** 素堂と芭蕉の動向 ***◇延宝 八年(1680)☆素堂39才 芭蕉、37才
小石川の神田上水工事水役を辞め、この冬の初め頃に深川の草庵へ隠棲し、のち泊船堂と号す。(荘子・杜甫よりとる)
四月、『桃青門弟二十歌仙』を刊行し、桃青門の存在を世に問。
八月に其角の「田舎句合」
九月に杉風の「常盤屋句合」の判詞を書き、『俳諧合』と題して刊行。
栩々斎・華桃園と署名し、『荘子』への傾倒ぶりを示す。
冬、江戸市申より深川に居を移し、泊船堂と号する。
深川大工町臨川庵滞在中の仏頂禅師との交渉が始まったのも、この頃。
**この年代の素堂と芭蕉 総括**
この時代俳諧世界は大きな展開に際会していた。微温的な貞門俳諸の退屈なマンネリズムは、徳川の安定期の時代背景の中で育った新しい作家達の関心を繋ぎとめることはできなくなった。もっと無遠慮な、荒唐無稽な非合理の中に放笑を求めるような新風がおこり、それが非常な勢で俳壇を風扉した。
新風は文壇の長老、大阪天満宮の連歌宗匠西山宗因を担ぎ上げて大阪で起こった。芭蕉が『貝おほひ』を奉納した次の年、寛文十三年には、井原西鶴が『生玉万句』を興行刊行して、新風の峰火をあげ、その異風の故に「阿彌陀流」とよばれた。
翌延宝二年には宗因の『蚊柱百韻』をめぐって旧態派からの攻撃があり、宗因流の方からは、翌三年に論客岡西惟中が登場してこれを反撃、さらに惟中の俳譜蒙求』が出て、新風はあらたな論的根拠を得ることになる。
すなわち、俳諧の本質を寓言にありとし、
「かいてまはるほどの偽をいひつづけるのが俳諧」
だといい、
「無心所着」
の非合理、無意味の中に俳譜があるという奔放な詩論が生れる。
そしてこの年宗因の東下によって江戸俳壇にも宗因流が導入されることになるのであるが、この五月深川大徳院で興行された宗囚を迎えての百韻には、「宗房」を「桃青」と改めた芭蕉も、幽山・信章(素堂)似春などとともに、一座している。
延宝四年春山口信章(素堂)と二人で興行した「天満宮奉納二百韻」では
○梅の風俳諧国にさかむなり 信草
○こちとうづれも此時の春 桃青
と唱和して、この新しい宗因流(「梅の風」)の自由な放笑性に全く傾倒しているのである。
当時ひとしく宗因の東下を機にして生れた江戸の新風にも、二つのグループがあった。一方は談林軒松意を中心とする江戸在来の俳人グルーブ。他は桃青の属した上方下りかあるいは上方俳壇に何らかのつながりをもつ作家達。才能ある作家を擁していたのは芭蕉や素堂などの後者であり、俳諧大名内藤風虎の文学サロンに出入したのも、この作家達である。
芭蕉(桃青)はこの後者の中でも出色の能才で、延宝五年風虎の催した『六百番誹諧発句合』には二十句も出句しており、折から東下中の京都の伊藤信徳を交えて、山□信章とともに巻いた『江戸三吟』(五年冬から六年春にかけて)を見ても、桃青の縦横の才気は、二人の先輩に劣らぬばかりか、むしろこれを圧しているのである。芭蕉が江戸神田上水の工事に関係していたというのは、この頃から延宝八年までの四年間と思われ、一方では既に俳諧の宗匠となっていたらしく、その披露の万句興行もし、延宝六年正月には、宗匠として「歳且帳」も出したらしい。
延宝八年に刊行された『桃青門弟独吟二十歌仙』は彼の宗匠としての確固たる地位を示すものといえる。杉風・ト尺・螺舎(其角)・嵐亭(嵐雪)・.嵐蘭以下二十名の作品集で、それぞれに今までの風調と違った新しい格調をそなえた作品集である。驚くべきことに、僅か数年の間に、彼を中心として、これだけの俊秀が集まり、俳壇の最先端に位置していたのである。また其角・杉風の句に彼が判詞を加えた『田舎句合」・『常盤屋句合』もこの年の出版である。
ここにうかがわれる芭蕉の考えも、まさにさきの『二十歌仙』に僅かに見え新しい傾向、漢詩文への指向を示して、次の新風体の前ぶれとなる。この年の冬、芭蕉は市中の雑沓を避けて、深川の草庵に入った。杉風の生簀屋敷だったといわれ、場所は小名木川が隅田川に注ぐ川口に近く、現在の常盤町一丁目十六番地にあたる。洋々たる水をたたえる隅田川三ツ股の淀を西に、小名木川の流れを南にして、附近は大名の下屋敷などが多く、芦生い茂る消閑の地である。草庵を名づけて、杜甫の句「門ニハ泊ス東呉万里ノ船」をもじって泊船堂としゃれこんだ。草庵の貯えは菜刀(庖丁)一枚、米五升入りの瓢一つ、客来にそなえて茶碗十という簡素な生活である。(この瓢には素堂の四山の銘がある)すべてを放下して俳諧に遊ぼうというのである。門人李下の贈った芭蕉の株がよくついて、大きな葉を風にそよがせるようになる。この草庵の近くの禅寺に鹿島根本寺(臨済宗)の住職河南仏頂が滞在していた。芭蕉はこの仏頂について参禅することになる。そして得た禅的観照が、彼の俳諧に新しい深みを加えることになるのである。
この頃から貞享までの数年問は、貞享元禄の正風を得るまでの模索期であり、まさに疾風と怒濤の時代である。俳壇はめまぐるしいテンポで移りかわる。その展開の軸をなすものは当時の江戸俳壇であり、もっと端的には芭蕉及びそのグループであるともいえる。
延宝八年(一六八〇)になると俳壇全体に目立ってくるのは極端な「字余り」の異体である。そして漠詩文調が、この字余りに一種のリズムを与えるのである。かくして取り入れられた漢詩調は、やがて単に表面だけの問題ではなくなって、漢詩の悲壮感、高雅な格調をねらうためのものとなる。荘重桔屈な漢詩調でうたいあげられた日常的事物、そこに高踏と卑俗の重なりあった世界がある。『ほのぼの立』に「当風」の例句とされた。
私はこのころの俳諧をリードしたのは、山口素堂であると確信している。それはこの後展開される江戸俳諧への各種の提言や投げかけのほとんどが素堂のリードであることが、残された資料から読み取れる。(別記)画題「寒鴉枯木」を句にした「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」(これには素堂の付け句のある短冊がある)や、自己の貧しい草庵生活を漢詩的に処理して。
高踏隠逸を衒(てら)う 雪の朝独リ干鮭を噛得タリ
などの発句には新しさをねらう気負いや、多分に衒(てら)った姿勢はあるにしても、漢詩のもつ緊迫した悲愴感、高雅な格調によってささえられたポェジー(詩美)がある。自己の生活を杜甫.蘇東波・寒山詩の世界と観ずる一種の気取りから生み出された生活詩
○ 芭蕉野分して盥(たらい)盟に雨を聞夜哉
○ 佗テすめ月佗齎がなら茶寄
○ 櫓の声波うって腸氷ル夜やなみだ
○ 氷苦く偃鼠が咽をうるほせり
などの句は、緊迫したリズムのもつ悲愴感と、現実を脱俗高逸の高踏的世界に昇華せしめて眺めることによって生ずる一種の余裕との奇妙な混合が醸し出す高雅な詩趣をただよわせる。
京都での信徳らの新傾向の作晶『七百五十韻』をうけて、其角・才麿等と興行した『俳諸次韻』も、同様に新しい傾向をはっきりと示す作品である。天和三年に出た其角の『虚栗』によせた抜文には「李・杜が心酒を信じて寒山が法粥を綴る…-佗と風雅のその生にあらぬは西行の山家をたづねて人の拾はぬ皆栗也」とあるのは、李白・杜甫.寒山のもつ漢詩的・禅的風韻と、中世の自然歌人西行にならわんとする当時の彼の俳諸観をうかがうことができ、この『虚栗』の作品はいわゆる天和調の代表的作品ということができる。
天和二年十二月二十八日、駒込大円寺から出た火は江戸の大半をなめ、芭蕉庵も類焼の厄にあった。芭蕉は、「潮にひたり菰をかついて、煙のうちに生のびた」、体験が、彼に、「猶如火宅の変を悟り、応無所住の心を」しみじみと感じさせたという。
災後一時甲斐の谷村に流寓していたが、翌天和三年五月江戸に帰り、同冬、素堂が中心なり、友人知己の喜捨によって再建された芭蕉庵に入って春を迎えることになる。
**芭蕉発句
於春々大なる哉春と云々 「向之岡」
花にやどり瓢箪斎と自らいへり 「向之岡」
かなしまむや墨子芹焼(たく)を見ても猶 「向之岡」
五月の雨岩ひばの緑いつ迄ぞ 「向之岡」
蜘何と音をなにと鳴く秋の風 「向之岡」
餅を夢に折結ぶしだの草枕 「東日記」
夏の月御油より出でて赤坂や 「〃」(再録)
愚案ずるに冥途もかくや秋の暮 「〃」
小野炭や手習ふ人の灰ぜせり 「〃」
いづく霽傘(しぐれかさ)手にさげて帰る僧 「東日記」
枯枝に鳥とまりたりや秋の暮 「ほのぼの立」
花むくげはだか童のかざし哉 「東日記」
よるべをいつ一葉に虫の旅ねして 「東日記」
夜ル竊(ひそか)ニ虫は月下の栗を穿ツ 「東日記」
しばの戸にちやをこの葉かくあらし哉 「続深川」泊船堂
草の戸に茶を木の葉かくあらし哉 「〃」
消炭に薪割る音か小野の奥 「〃」
櫓声波を打って腸氷る夜や涙 「〃」
石枯れて水しぼめるや冬もなし 「東日記」
雪の朝独り干鮭を噛(かみ)得たり 「〃」
延宝 八年(一六八〇)『俳文学大辞典』角川書店
四月、『桃青門弟独吟二十歌仙』に芭蕉門が結集。
五月、西鶴、独吟四〇〇〇句(『西鶴大矢数』)興行。
五月、友琴『白根草』刊、北陸俳書の嚆矢。
五月、桂葉『八束穂集』刊、秋田俳書の嚆矢。
冬、芭蕉、江戸深川に退隠。
このころ、宗因、当流俳諧に倦み、連歌に回帰。
書『綾巻』『田舎句合』『江戸弁慶』『江戸官笥』『是天道』
『遠舟千句附』『大坂八百韻』『阿蘭陀丸二番船』
『花洛六百句』『雲喰ひ』『拾穂軒都懐帒』『続無名抄』
『それぐ草』『太夫桜』『点滴集』『通し馬』
『常盤屋之句合』『投盃』『名取川』『軒端の独活』
『俳諧行事板』『誹諧猿錦』『俳諧太平記』『俳諧向之岡』
『誹諧頼政』『誹道恵能録』『誹枕』『破邪顕正返答』
『破邪顕正返答之評判』『備前海月』『評判之返答』
『福原鬌鏡』『二つ盃』『名所花』『各盞』『山の端千句』
『洛陽集』『轆轤首』没重頼七十九才。
参六月、後水尾天皇八十五才没。綱吉、将軍宣下。
**延宝八年(1680)(この項『俳文学大辞典』角川書店)
**芭蕉(三十七才)『田舎句合』『常盤屋句合』に判。冬、深川に居を定めた。
**素堂(三十九才)素堂と号す。五月十六日難波本覚寺で興行の西鶴「大矢数」第四十二に信章の付句が見える。
**嵐雪(二十七才)『桃青門弟独吟二十歌仙』(初夏奥)に「嵐亭治助」として入集。このころ石町の市店に住み湯女を迎え一子を儲けたが母子共に没したという(風の上)。『田舎句合』に序す。
**許六(二十五才)真澄に従い京に赴く(由緒帳)。
**其角(二十才)八月、芭蕉の判、嵐雪の序『田舎句合』上梓。
**杉風『常盤屋句合』刊。
九月二日、一雪没(六十)。『俳諧太平記』、
宗円『阿蘭陀丸二番船』、
言水『江戸弁慶』刊》
素堂、幽山 両吟(巻末)
水無月いつか来にけん裸島 幽山
団扇うすべり床の山陰 素堂
うつり行鏡の里に髭そりて 仝
ゆるぎの森に風けゆづれば 山
大上戸有明の雪に鴻の池 仝
鬼は丹波に冬籠る空 堂
鉄の窓やうごかぬ千とせ山 仝 鉄=クロガ子
代は塩□の音なしの川 山
からくりにさゝやきの橋取はなし 堂
扇の芝を小便にゆく 山
遠慮なくさらしの裾をかいあげて 堂
寝覚の里や聲蚊屋に入 山
紙燭召て手枕の小野御覧ぜよ 堂
かくれの山にはき物の露 山
夕月夜馬よりおりて雲づ川 堂
梢の色の首おちの瀧 山
薩摩の守花は嵐の音にきく 堂
つけのゝ雪間分るとき櫛 山
難波女が手織引はへ糸あそぶ 山
もり口積にくゆるせんじちや 堂
戀わたる籠の渡りよ休ましやれ 山
まだ日高川ふかき思ひを 堂
焼食や誰岩代にむすびけん 山
反古につゝむ山本の雲 堂
伊吹颪作り蛇腹の顕れて 山
えいとうく不破の木戸番 堂
すかぬやつ人見の松をそれと見よ 山
狐が崎も都ならねば 堂
出頭せし鎌倉山も月細し 山
又上もなき松平の 堂
草くの花園つゞく藥苑に 山
志賀のから橋唐島の聲 仝
ふえ法師何とぞとへば何ぞこたふ 堂
是非におよばぬ白川の院 仝
花の本持に定むべしわかの松 山
那智石みだす碁笥の春風 堂
参考 『俳枕』掲載の甲斐関係の発句
餞別に
わするなよ白根かすまば江戸の花 小野沢幽風
かみあらひといふ、所の名物と聞て
名也けり芹の白根のかみあらひ 幽山
蝸牛角やさしでの磯栄螺 神野忠知
庭訓にのりけり甲斐の駒迎 宣休
湊や江戸の築地と差出の磯 藤井松陰
白根こそ甲斐の源氏のはたれ雲 松村正阿