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曽良(岩波庄右衛門) 久恋の地・壱岐での客死  

2024年07月13日 16時23分11秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

曽良(岩波庄右衛門) 久恋の地・壱岐での客死

 

 曾良は岩波庄右衛門という名に戻って、幕府の巡見使のひとりとして旅立った。

宝永七年(一七一〇)の心境を思えば、この年、彼は数え年六十二歳である。こんにちなら定年退職という年齢である。しかし、旅することが彼の生き甲斐であったのだ。

 それにしても、なぜ九州へ行ったのか。これは幕府の命令であったのか。当時の九州といえば長崎をふくめて、日本のフロンティア的な地域であったこと、キリシタンもいることを考えると、とくに信仰の調査の上で神社仏閣にくわしい人材を必要としたとすれば、曾良ならぬ岩波庄右衛門に、白羽の矢がたったことはうなずけないこともない。

 一方、岩波庄右衛門ならぬ曾良にしてみると、関祖衡がこの旅立ちに際してはなむけの一文の中で語ったように、ただひたすら古蹟名勝のことだけに専念してきた生涯である。しかし、それだけではなく、曾良の師であった芭蕉の久恋の地もまたこの地域であったことを考えると、師に代わってその宿願を果たしたい気持もあったはずである。

 九州巡見使の視察予定地は、筑前、筑後、肥前、肥後、大隅、薩摩、壱岐、対馬、五島という西海道七国で、一行の構成は次のようであった。

 

   大名目付役御使番 二千石小田切靭負直広

    給人近習六人、中小姓徒士七人

    足軽中間十五人等、計四十名

 

  小姓組番 千八百石 土屋数馬喬直

    給人近習六人、中小姓徒士七人

    足軽中間十五人等、計十名

 

   書院番 八百石 永井監物自弘

    給人近習六人、中小姓徒士七人

    足軽中間十五人等、計二十七名

 「御使番」「小姓組番」「書院番」の三役が人々の仕事の分担を決めるわけだが、曾良ならぬ岩波庄右衛門は武士に返り咲いたのだから、「近習」という形で、いわゆる。秘書役であったろうと後世の研究家はみている。

 

幕府のある江戸の地を出発した日を調べてみると、『徳川実紀』では三月一日となっている。九州全域の調査を終えて帰ってくるのは約半年後とされていた。

 『徳川実紀』をみると、この一行の行程がわかる。東海道を下って、大坂からは船で瀬戸内海を西へ、九州は小倉藩、名島藩を調査して、黒田藩下の福岡に入った。福岡城下を通ったのは四月二十七日と記録されている。

 ここから離島の調査に入る。壱岐、対馬である。岩波庄右衛門はこの離島の一つ、壱岐の港町で病床に臥したのである。そして、不幸にも、ここで客死したのである。旅に捧げた生涯は最期も旅中であったのだ。曾良と岩波庄右衛門の魂は合一して、この地に眠ったのである。

 その死に至る経過は残念ながら記録がないので、想像の域を出ない。しかし、すでに死後二百八十年をすぎたこんにちでも、この島の北端の港、勝本の町の人の一部が愛惜し、郷土の人以上に高く評価し、港を見おろす丘の上にある墓を守っている。

 その墓碑銘は「賢翁宗臣居士」と刻まれ、その右に「宝永七庚刀天」、左側に「五月二十二日」と書かれている。右側面には「江戸之住人岩波庄右衛門尉塔」とある。曾良ではなく、岩波庄右衛門としてこの地に眠ったのである。

 その臨終の地は、勝本町の一隅にある中藤家の一室であった。

 曾良は高齢であったから、旅中疲れて倒れたのである。その経過と臨終の様子も残された記録はないが、勝本の町で知ることのできる事実がある。

 巡見使の一行は九州の視察を北の方から始めているので、壱岐に入ったのは五月の初めである。当時の航路としては唐津を経由して、外港の呼子から渡船を利用したはずである。

 しかし、この海上は玄界灘である。凪の日もあるが、日によっては荒れる。季節が旧暦の五月初旬とすれば、現在の六月であろう。梅雨の空模様か。その状況は想像の域を出ないが、荒天であったかもしれない。

 呼子の港を出たのは五月六日とされている(曾良翁二八〇年忌記念誌「海鳴」所載、原田元右衛門氏)。

そして壱岐の上陸地点である郷ノ浦に着いたのは五月七日、この壱岐の島に巡見使一行は二十日間滞在したとされている(勝本町教育委員会、須藤資隆氏)。郷ノ浦はほぼ四角の形をした壱岐の島の南西にある港町で、こんにちでも九州本島からの航路の上陸地点である。ここから北へ約四里、島の北端というべき地点に勝本の町がある。巡見使一行は壱岐の調査を終えたら、この港町から対馬へ渡る予定であったと思われる。

 呼子から壱岐までは直線にして約十里、その航路はどんな天候であったろうか。壱岐の北には対馬があり、ここまでくると沖に韓国が見えるというフロンティアである。思うに海はかなり荒れたのだろう。関祖衛が評して言った「東西南北の人」である岩波庄右衛門にしてみれば、還暦という自分の歳を忘れたように、玄界灘に乗り出したとも思えるのである。

 しかし、このときの岩波庄右衛門は、曾良時代の旅のつかれも出たのだろう。齢は六十歳を超えている肉体はついに病床に臥すことになってしまった。思うに、旅中の食事も影響しているだろう。というのも、巡見使は強行軍を強いられただけでなく、食事は一汁一菜、体力が衰えても毎日予定の行程を終えねばならなかった。曾良終焉の地であるこの勝本の町の郷土史家であり、曾良の研究家であった原田元右衛門氏は次のように書いている。

 

   巡見使の宿舎は、三光寺、神皇寺、押役所の客殿と思われる。

一行は順風に恵まれれば、府中(対馬)に渡り、全島を巡見後、

五月十九日頃勝本に帰り、五月二十日頃、五島に向けて出発する予定であった。(中略)

 

   当時、勝本は風本(かざもと)と言い、壱岐島北部の良港で漁船の碇泊地でもあった。

 曾良は中藤家という勝本の町にある家を宿として疲れた身体を横たえたのである。中藤家は熊本藩主の加藤家の末裔であり、「重ね枡」という大きな鬼瓦のついた海産物問屋であった。巡見使一行の一人が倒れたとなれば、当然丁重に看護を受けた。岩波庄右衛門の心境はどうであったろうか。中藤家では二代目の五左衛門の時代だったので、彼の妹を看護につけるという配慮までしたのである。

 しかし、ついに不帰の人となった。時に宝永七年五月二十二日とされている。

 

壱岐という玄界灘の孤島で息をひきとった岩波庄右衛門の、最期の心境をあらためて考えてみたい。

 

六十歳を超えての調査旅行。おそらく、病床での想いは幼少時代から最近の玄界灘の荒れ模様まで走馬灯のように脳裏にあらわれては消え、消えてはあらわれたであろう。

 とくに芭蕉との出会い、そして共にした旅はあざやかによみがえったはずである。芭蕉翁はすでに十六年前に世を去っている。翁は五十二歳の生涯だった。「自分は十年長生きできた」と思ったであろう。それにしてもやはり、自分も旅先で客死するのか。芭蕉翁も大坂の宿で死を迎えた。自分は翁の死の床に行けなかったが、この勝本では中藤家の当主が彼の妹に、私の世話をみるように配慮してくれている。芭蕉翁のように、かけつけてくれる門人や弟子はいなくても、これは感謝すべき人生の最期かもしれない、と思ったであろう。

 この看護役となった中藤家の女性は、曾良の死後、いわゆる艶聞として研究家の間で取り沙汰されたが、曾良はそれ以前に二年余り中藤家に寄宿した、という伝えがあるというのである。当時いた中藤五左衛門の妹は女流画家であった。この女性は以前に京都に住んでいたことがあるといわれ、一生独身であった曾良はその女性の存在を意識していたという憶測が生まれたのである。

 

 「中藤家と曾良について」という一文がある。これは昭和四十六年十二月三日、中藤家の末裔である中藤恵子さんが当時在学中の壱岐商業高校郷土社会部発行の『島人』第六号にのせたものである。筆者は高校一年生である。

 中藤恵子さんの文章は原稿用紙で四、五枚だが、要約すると、中藤家は初代が一七六〇年(宝暦十四年七月二十七日)没で現在の父は十四代目、過去帳をみると、中藤家は熊本城主の加藤清正、その子二代城主の忠広から出ているが、忠広が徳川氏の悠りにふれたために、領地をことごとく没収され、一族離散した。その子が姓を中藤と改めて諸国を流浪したあと、この壱岐の勝本に移住した、と書いている。

 そして、二代目が五左衛門(享保三戌二月十九日寂)、その妹が法名「秋天妙花信女」(享保四亥八月四日没)で首良を看護した。そして、過去帳をみると、その次の行に、

   首良 賢翁宗臣居士

        宝永六年五月二十二日没

という記録を引用したあと、中藤恵子さんは若い女性らしく次のように綴っている。

 

   口伝によりますと、首良はそれ以前に来遊し二年余り中藤家に寄宿していたそうです。

二代目中藤五左衛門の妹(女流画家といわれています)がいたので、

再遊したのではないかと伝えられています。

    (中略)

中藤家は明治になるまでは家業も盛んでしたが、九代目五左衛門が一八六六年死亡、

   妻も一八五四年に死亡し、若い十代目(一八四三~一九一五)が弟妹の生活の面倒をみていましたが、

使用人があるとき、中藤家の家財を持ち出し、小舟で逃亡し、

その時にも曽良の遺品などが持ち出されたのではないかといわれています。

 

曾良の墓と近接して、この女流画家の墓があったとされているが、それは生前の岩波庄右衛門の知る由もないことだろう。明治になってからの首良の研究家の一人、諏訪の小平宮人(本名探一)の記録がこのことにふれ、

 

 勝本浦は二度の大火で中藤家の町内はほとんど一物も残さずに焼けてしまったから首長関係の史料は何ひとつ残っていないが、当時六十歳位の老母から、家に伝わっている口伝えというものを聞くことができた。

 

 京都の女流画歌人がいて看護した上、曽良の没後はその人によって追善供養が営まれ、曽良の御墓は中藤家の墓地よりは一段高い所にまつられたが、その歌人も間もなく没したので、曽良の御墓の付近に埋葬されたという。法名智峰妙恵信女(享保元年二月十五日没)と知らされた。

 これは曾良の没後二百年祭のときの見聞で、『諏訪史料叢書』にのっているが、このとき小平雪人が会った老母について、戦後壱岐在住の原田元右衛門氏は次のように書いている。

 

   小平雪人が諏訪から中藤家を訪ねた時は十一代の当主の中藤吉太郎氏は朝鮮の慶州に居住していたので、

留守宅にいたのは十代芳三郎(当時六十六歳)と舎弟の彦三郎(当時六十四歳)

   と同人妻の菊女(当時五十九歳)の三人であった。曾良の事を雪人に語ったのは、この菊女と思われる。

 

このあと、原田氏は岩波庄右衛門の墓のある能満寺を訪ねて過去帳をみている。

 

去る日、私は能満寺に坂口住職を尋ね、寺にある旧三光寺時代の過去帳を見せていたゞいたが、

徳川後期が一冊あるだけで、明治初年に三光寺から能満寺に移転した際、

徳川前期の過去帳は紛失したものか、能満寺にはないことがわかった。

 

曽良の生涯を調べてゆくと、ミステリアスな面は芭蕉以上で、しかも生涯独身であったことを考えると、この艶聞が後世の人には無視できないのであろう。原田元右衛門氏も、墓のある寺での解明ができなかったので、中藤家側の当時の供養の実状を聞いている。この晩年だけでなく、長島在住の若いころさえ、不明である。

 

 そこで中藤家の系図により、中藤家の墓地を引き合い調査したところ、曾良の御墓の近くに、観音像型の御墓があり、この御墓が菊女から盲人が聞いたという女流歌人、智峰妙信信女の御墓ではないかと思ったが、法名がないので、確認することが出来なかった。しかし、この女性の法名も命日も、以上の三説が一致していないので、信じがたいところがある。

このあと、原田氏は、「一説には曾良は諸国東導の役をしていたから、あるいは、壱岐対馬にはすでに五山の僧の御供をして来たことがあるのではないか」という説を出している。

 つまり、岩波庄右衛門にとっては、壱岐も対馬も、はじめての旅先ではなかったということである。

 

 

 ここで辞世の句ともいうべき。

 

   ことし我乞食やめてもつくし哉

 

と、うたった心境を推察してみる。この句には「筑紫」という特定の旅先、地域へのあこがれがつよく出ていることを改めて感じることができる。なぜ、「筑紫」という地名をあえて出したのか、その気持がわかってくる。

 筑紫というイメージの中には、壱岐や対馬が想定されていて、九州本島の方ではなかったとも考えられる。もし筑紫を狭義の地域名称して受けとるなら、筑前、筑後であり、現在の福岡県下にかぎられ、広義では九州全体を指していたが、「筑紫」といえば、当時は太宰府が代表的な地名である。そして、この地名を考えるとき、曾良にとっては、若き日の曾遊の地だったのである。曾良はその当時

はまだ岩波庄右衛門であったはずだ。太宰府への旅を書いた一文がある。

 「筑紫太宰府記」と題されたこの紀行文は千字足らずの短いものだが、まさに「筑紫」を表題にしている。この地域への関心という点で検討してみると、すでに数え年十五歳のときに、太宰府へ行っているだけでなく、人一倍の旅情を味わっている。現代語訳してみると。

 

  寛文三年の夏、筑紫へ行った。以前から行ってみたいと思っていた豊前の国の城下に来て、

さらにさきの太宰府の安楽寺に詣でてみたいと思い、やってきた。

時はちょうど八月十日だったので、空は大体晴れて、野山の色も風情があり、

道中には箱崎博多の港や、生の松原などもあったので一見し、刈萱の関を越えて太宰府についた。

  来てみると、聞きしにまさる神さびた心特になる霊地である。

一方は山がせまり、ふところが深い感じである。並木の桜や松が林をなし、道も滑らかである。

堂塔がいらかを並べて宮人が軒をつらねている。

楼門高くそびえて、朱の玉垣が神々しい御前に行って拝んだ。

  配所の昔をしのぶ気持になり、まのあたり菅原道真の姿を思った。

そこで幣もとりあえず、

 

    仰ぎ見ん空かくれせし松の月

    いにしへのよろづは夢の俤もなほ神垣に有明の月

 

  宮人の興行などがあったので、五、六日滞在して、十五夜の月を御他のほとりで鑑賞した。

 

    神の石もくははる月の処哉

 

  この辺を巡見してみると、都府楼にはわずかに萱の軒からもれる月を眺めて心をいたましめた。

  観音寺には松風がただ鳴っていて昔をしのんだ。

引染川の流れもかわらず七百年の歳月の春秋を経たという感じがあったが、

和光の影はいや照りまして、天下の崇敬はあらたになっているように思われた。

ことさら当国の太守は代々信心がふかいので、多くの庄園がよせられ朝暮の礼も

社家の勤行もおこたらずおこなわれている。

自分も信心が深まって、百韻奉納の気持はありながら、

もう帰りたくなったのは申しわけないと思い一首つくった。

 

    神盧かく社はみめ空の月

 

 つたない表現ながら、この道をまもりたもう御心に対して御宝前にささげる一句である。

 

これでわかるように、十五歳の岩波庄右衛門はすでに九州の太宰府へ来て、神仏に深い敬意を表している。「筑紫」のイメージにはこの一文があることを忘れてはなるまい。

 この紀行は、『諏訪史料叢書』第九巻(国会図書館蔵)にあり、この一冊は曾良の研究に欠かせない文献である。なぜなら、その内容は曾良紀行文集といってよい内容だからで、その冒頭には曾良の肖像が載っている(五十回忌集巻頭のものとある)。この曾良の姿は剃髪の頭で墨染の衣を着た坐像である。

次のページには曾良の筆蹟が二つ載っている。一つは小平首人蔵の「岩波六兵衛宛書状」であり、一つは「ことし我乞食……」で始まる巡見使拝命後の心境を書いたもの、次のページには「道の記」という紀行文と、巡見使拝命ののち拝受した支度金を前にしての感慨、「一年を高で……」「千貫目寝させて……」の二句と「除夜」の心境を和歌にした「正字」の署名のある一首が写真にとられている。

 「道の記」は写真版を載せていて、この筆蹟をみるかぎり、曾良のものと考えていい。つまり、曾良には若いころの岩波庄右衛門時代に、さっき紹介した「筑紫太宰府記」のほかに、この「道の記」とい一文がある。この二つのほか、「松島記」という一文もあり、計三点の紀行が残されていることを知るが、この三点のうち、「筑紫太宰府記」と「松島記」の二つについては、「曾良の作と伝えられるけれど確証なく、書体文章共に疑い多しと専門家は称し居れり」という解題が書かれている。

 この三点の所蔵者は諏訪在住の河西五郎氏で、この家系は曾良の母方の生家である。これが公開された動機は昭和二年秋に諏訪郡教育会で開催した諏訪俳諧史料展覧会に出陳したからだということがわかる。「筑紫太宰府記」という紀行文については、さきに紹介したように、寛文三年には十五歳なので「事実上首肯しがたき点あり」という注釈がついていて、筆蹟の公表は遠慮している。

 この『諏訪史料叢書』の巻頭写真には、このほか、開祖衡が岩波氏最後の旅立ちにさいして贈ったはなむけの一文もある。まだある。曾良が巡見使になってから背負っていたと思われる笈と首にかけていた頭陀袋、そして硯箱と印章が写真に撮られて載っている。最後のページには上諏訪の正願寺にある曾良の墓と壱岐の能満寺の墓の写真がある。

 この墓の写真の解説は、刻宇として。

     宝永七庚寅天五月廿二日

   為賢翁宗臣居士

     江戸住人岩波庄右衛門塔

となっている。その後、風雪のためか、冒頭の一宇が判読できないが、この資料によって「為」という一宇であることがわかる。この『諏訪史料叢書』からわかる曾良の若いころからの気持の変化、これをふまえて、壱岐に身を横たえた最期の心境を推察してみよう。

 

 曾良は巡見使を命じられたとき、行くなら筑紫がいい、この地域ならば、という気持があったのではないか。巡見使は九州だけに派遣されたのではないことを考えると、みちのくでもよかったろうし、幕府側としては、芭蕉と一緒に旅したみちのくへ行ってもらいたかったかもしれない。『おくのほそ道』の旅は幕府の隠密的調査が課せられていたという見方が後世いわれたが、幕府としても、本人が筑紫を望んだとすれば、予期に反したとも思える。しかし、芭蕉を慕っていた曾良にしてみれば、九州は筑紫にかぎらず、師の行きたかった旅路でもあったのだ。

 曾良が筑紫と表現した地域の中には沖にうかぶ島も含まれていたのである。対馬も調査した結果、曾良の墓らしきものがあったとするのは、壱岐在住の研究家の一人、須藤資隆氏である。氏は昭和五十五年に対馬で古文書を読んでいるうちに、この事実を知った。

 氏によると、対馬藩(宗氏)の藩士の一人、中川延良の書いた『楽郊紀聞』という記録がある。これは安政五年(一八五八)から万延元年(一八六〇)のことが書かれている全十三巻の記録で、その第七巻目に、

「俳諧師曾良が墓所、開山塔の傍らに、以町庵従者の墓所ある処あり、

といひ伝へあれ共、文字もなくて、いずれとも知れがたし、ただ古く聞き伝へたり」

という一節があるというのである。

「以酎庵」とは何か。須藤氏はこれが曾良の死後二十二年経った享保十七年(一七三二)まで対馬の厳原(いずはら)町日吉にあったとしている。この以町庵で曾良は俳諧の友と句会をひらいていたとも考えられる。

壱岐と対馬は近いので、須藤氏は、死後俳友が供養の場をもうけたとも推察している。曾良の故郷、諏訪在住の研究室、原博一氏も「旅びと・曾良」の臨終を語る部分で、そうだとすれば、「いかにも一所不住の旅びと曾良らしい」と表現している。

 曾良の臨終の地、壱岐の北端の勝本へ行ったときの私の第一印象は、曾良はじつにいい展望の地に墓所を得たということであった。墓のある丘の上に立つと、風が身に沁みた。私が訪れたのが九月であったせいもあろうか。脆風が去ったあとで、波は静かで、曾良の墓の傍らに立って見おろすこの漁港の船の数々は陽光に輝き、その沖には立体的な島が左右に浮かんでいて、想像していたのとはちがう複雑な入江であった。

 この風景は見飽きない。そう思うと、曾良は永遠の旅人だと私は思った。この漁港の絵画的な風景をすでに知っていて、ここを死に場所と決めたのではないか、とさえ思えたからである。

 墓は港を見おろしていた。山国諏訪生まれの岩波庄右衛門は終焉の地に、海の環境を望んだのか。そうとも思えた。旅に徹した生涯を思うと、それは素直にもとれた。隣には中藤梅之助の墓が建っていた。

 曾良が俳人として最後に作った句を、後世の人々は、

   春にわれ乞食やめてもつくし哉

としているが、この冒頭の表現は、岩波庄右衛門の気持としては、あくまで、自ら言っているように「ことし我」としてほしいはずである。後世、曾良を俳人として評価したいあまりに「春にわれ」とした感がある。

 壱岐における心境としては、岩波庄右衛門も曾良と同じ人間、若き日の旅も、その後の旅も、六十年にわたる旅はすべて合一して、ひとりの旅人として生涯を終えたはずである。久恋の地はもっとあったかもしれない。しかし、壱岐の北端は曾良と岩波庄右衛門のいずれにとっても他地にまさる奥津城の地であったということができる。

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