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 荒本田守武

2024年07月07日 17時44分05秒 | 日本俳諧史 池田秋旻 氏著

第九章 荒本田守武

 

荒木田守武は、伊勢内宮の祠官にして、正四位上主中川太平夫と称し、荒木田守秀の九男にして、母は藤浪氏經の女なり、朝庭奉祈のいとまに、和漢の文を明らめ、風雅の道を翫びて、逍遥院實隆の人となりを慕ひ、宗祗、宗長、宗牧、周桂等らと交を結びたり。

守武は初め連歌に入り、後、連歌の束縛を脱して、俳諧の吟詠に力む、彼れの此の世に出でしは、宗鑑に稍や後れたれば、宗鑑の『犬筑波』が、永正十一年に成りて後ち二十六年、即ち天文九年の秋、彼れの『獨吟千句』は成れり、彼れの俳壇に於ける事業は、素より宗鑑の先美導ありしに因るべけれども、俳諧連歌の純正なるものとして、彼れの斯道に貢献せる偉功は、宗鑑の糟粕以外に、之れを認めざるべからず、『獨吟千句』の跋に曰く、

  其の折柄にやありけん、周桂かたへこの道の式目いまだ見ず、みやこには如何と、

大方のむね尋ねしかば、かゝる式目は予こそ定むべけれ、定めてそれを用ゆべき、

のざれたる返事くだりあはせ、さらばこのたびばかり、

心にまかせん、所にいひならはせる俗言、わたくしきれたる心言葉、

一向はらほつうつゝなき事のみなれど、あまたの中なれば、薄く濃く打ませけり。

 

是に観るも、彼れが従来の連歌の法式に拘はらずして、別に一個の法式を立てゝ其所謂俳諧に力を蓋したるを知るべし。然れども守武は徒らに滑稽詼謔のみを以て、人の願を解かんとはせざりしなり。同千句の跋、更に語を続けて曰く、

 

  さて俳諧とて、みだりにし、笑はせんとばかりはいかん。

花實を具へ、風流にしてしかも一句正しく、さておかしくあらんやうに、

世々の好士の教えなり。

この千句はそれをもとちめす、とくみたしたき初一念ばかりに、

春秋二 句結びたる所もあるべし。

されども正風雅人の茸にも入りじきに、聊かもきこえんはからざる幸ならん哉。

その上二つ三つ妙句なきにしもあらず、また差合も時によるべきにや、

しひて直さんもしうしんいかがなり。云々。

 

守武の俳諧に対する見識は、宗鑑よりも慥かに進みたり。その花實を具へ、風流にして、しかも一句ただしく、さてをかしからんを要すといへるは、彼れが俳諧に對する最奥の理想にして、更に之れを煎じ詰むれば、彼はをかしからん事を要する為に俳諧を作らんとしたるなり。譃

然も彼の所副をかしみとは、果して如何なるものを指すか、宗鑑もまた嘗(かつ)てをかしみを以て其の骨髄たらしめんと力めたれども、宗鑑のをかしみは、道に流れて、卑猥醜悪の域に入れり、若しも文學上の賜光を以て其の作品を批評する時は、守武の詼謔(かいきゃく)なれども卑猥醜悪に陥らざるに比して、宗鑑之れに一歩を譲らざるを得ず。即ち守武は宗鑑より其の上品なる事に於て一段上にありし也。

守武曾て大永の比、世に所謂『伊勢論語』即ち『世の中百首』を詠じて伊勢人に修身道徳の事を誨(おし)へたるを以て見るも、其の品性の高尚にして、徳を重んじたる人なりしを知るべし。守武の滑稽が甚しき點にまで陷(おちい)らざりしは、必竟其の人物の然らしむる所なるべし。

今『守武千句』の中より、其の連句を左に抄録せん。

 

    猫何 第二

青柳の眉かぐ錐子のひたひかな

こほりうちとけよするたしなに

水島のけさせちことにうかひきて

耳にもいらぬうくむすの聲

大なる春のからかいいかがせん

こかたなぞとてあさくおもふな

いかなりし日もうちおかすつかはれて

引出ものもやほのかならまし

むこいりの道のほとりの花すゝき

とくりをもたせ秋風そふく

月影はたかこものめをくるらん

名乗りをしてもかとななたてそ

(以下略)

 

   姉何 第四

 

うくひすの娘かなかぬほとゝぎす

    むめうの花にぞたち来にけり

山里のさのみはいかて匂ふらん

    みやこいてゝやにあはざるべき

旅衣妻にせんかた十二三

    あひ性文のことづてもがな

おんやうにすてられぬるも人にして

    うつりかはれはさるとこそなれ

花の春もみぢの秋のもゝのさね

    よまれもよらすうたてかりけり

玉づさをなどなが/\とつづくらん

    まゐらせ候やまゐらせ候や    (以下略)

 

守武の句は、単に宗鑑のよりも上品のみならすず宗鑑の作句には、三句以上の連句を見る事殆んど絶無なるに反し、守武には百韻の連句十君もあり。されば俳諧は宗鑑に依りて開かれたるも、純正俳諧の連歌は、守武を以て初めとなすと云ふも不可ならす。其の発句に於いても、守武の作は、面目をようやく異にせるものあるを覚ゆる。

元朝や神代の事も思はるゝ       守  武

飛梅や軽々しぐも神の春

落花枝にかへると見れは胡蝶蔵哉

青柳の眉かくきし額哉

花よりも鼻にありける匂ひ哉

撫子や夏野のはらの落し種

繪合は十二の骨のあふきかな

鶯の娘か啼かぬほとゝぎす

夏の夜は明くれど開かぬまぶち哉   

かさきやけふ久方の天の川

こほらねど水ひきとつる懐紙かな

 

彼れは発句に於ても、同じくをかしみを主としたり、彼れの作品中にも、寓々清迥のものなきに非ずと雖も、是れ其の本色にはあらす、また守武の発句が、宗鑑の句と異なる所は、掛語を用ゐたるものゝ少なき事にて、是亦た俳句の発展に、好傾向を示したるよと謂わざるを得ず、守武、或る連歌の席に臨みたるに、来会者は悉く法體の人のみなれば、

  御座敷を見れば何れもかみな月    守  武

とせしに、宗鑑傍にありて、

  ひとりしぐれのふり烏帽子着て    宗  祇

と附けたるは頗る興あることにて、久しく俳壇の佳話として傅はれり、

天文十八年八月八日、行年七十七にして、此の世を浪る、辞世、

神路山我こしかたも行く末も

    峯の松風/\          守  武

朝貌にけふは見ゆらん我世かな       同

 

以上は俳諧創始の時代に属し、その主要人物たる宗鑑と守武との俳風の一班なり。吾人今日の俳眼を以て、彼等の事跡を見んか、具に區々たる事の如くなれど、連歌が久しく固定して動かざる格式の中に立寵りて、更に一歩の進境をも見る能はざるに當り、其の覊絆を脱出して、兎にも角にも俳諧の自由なる天地

に翺翔し、将来俳勢勃興の地歩を作りたるの功は、決して埋没すべからず、彼等二人に次で起る所の松永貞徳が、益々其の範囲拡張して.俳諧中興の偉葉を立つるに至りたるも、要するに彼等二人に依て基礎を定られたるものあるが為に外ならざるなり。


狂連歌と俳諧 発句と俳句 山崎宗鑑 増補 日本文學史 池田秋旻 氏著

2024年07月07日 09時21分16秒 | 俳諧 山口素堂 松尾芭蕉

増補 日本文學史 池田秋旻 氏著

 

一部加筆 山梨県歴史文学館 山口素堂資料室

 

第五章 狂連歌と俳諧

 

俳諧の基礎として起れる狂連歌は、連歌の形式に依りて、滑稽機智を弄したるものにて、後鳥羽院の五十韻百韻を定められし當時、既にこれあり、左れば此の二者を分つ為めに、普通の連歌にたつさはるものをば、

「柿のもとの衆」といひ、滑稽機智を弄するものをば、「栗のもとの衆」など称へたり。

「六條内府被語」に曰く。

 後鳥羽防御時、柿本栗本とてをかる、柿本はよの常の歌、是を有心と名く、栗本は狂歌、これを無心と云ふ、有心には後京極殿慈鎭和尚以下、典侍秀逸の歌人なり、無心は光親卿宗行卿泰覚法眼等也、水無瀬殿和歌所庭を隔てゝ無心庵あり、庭に大なる松やり風吹て殊におもしろき日有心の方より慈鎭和尚、心あると心なきとが中に又いかにきけとや庭の松風、と云ふ歌詠じて無心の方へ燈らる、宗行卿、心なしと人のたまへと耳しゐれはきゝさふらふそ庶出松風と返歌を詠じけり、云々。

次に狂連歌の一例を示さん。

    弓につくるははしとこそ見れ       素  阿

  前後竹ある里にもすなきて

    あしもてかへる難波津の波

  みだれもはすまひ草にぞ似たりけり      読み人しらず

     法勝寺に花見侍けるに人々酒たうべて

  山櫻ちれば酒こそのまれけれ

     花に強てや風はふぐらん        頴  照

      櫻の枝を瓶花に立てられ恕るを、為氏卿折て取られけるを、

御覧ぜられて為氏が花を盗むに、連歌一つしかけよと、仰られければ、

  しら波の立よりてをる櫻ばな         辨 内侍

  ちらしかけてぞにぐべかりける        為  氏

 

連歌と云ふものが、もと/\一種の遊戯文字にして、真面目なら韻文にあらざるが上に、狂連歌即ち俳諧は、更に之れに滑稽の分子を多量に加味したれば、純文字の性質を距ること。益々遠くなれるの観なきにあらざれども、獨り狂連歌に取るべき所は、式目に拘泥せずして、自在に其の言わんと欲する所を言ひ

たるにあり、是れ将来に向つて、變化と発展との運命を有せる所以にして、俳諧史研究者の、宜しく記憶ずべき所なり。

 

第六章 発句と俳句との名称

 

発句とは、もと連歌の巻頭にある句を指したるものにて、或者は『菟玖波集』に出でたる堀川院の、

  黒男黒月のかたに昔すなり

を以て其の第一とし、此句は黒男と云ふ笛吹の黒月に參りて笛を吹きたるを詠じたまひしにて、院の此の詠を遊ばされたる時に、大納言経信、俊頼など御前に侍りたれども、脇句をつけざりしかば、終に半體の歌となりで存せしなりと云ふ。

或は然らん。されど全く連歌を離れて、発句のみを詠ずるはいよ/\何れの頃より流行せしか明かならず、思ふに後鳥羽院の時、定家、定降等が詩壇に横行せし比よりなるべきか。兎に角鎌倉時代以前より其の形をなしたる事は疑ふべからず。また発句の法式らしきものも、余程古くよりあり足りと見え、『梵灯庵主答書』に曰く、

 

  當時、発句の切れたる切れざると申す不審あり、是もやすかるべき事にはあらず、

さは/\と云ひ切りたるは、誰か耳にも間て仔細なし、侍公の発句に

    五月雨は峰の松風谷の水

    あな尊と春日のみかく玉つしま

  摂政殿(良基)の御発句にも、常に此面影有しやらん、

……此條如何候べきと尋ね申したりしに、

(良基に問ひし也)一二度にては猶分明ならす、四度も五度も吟すれば、

必ず吟聲の中に切れたるは聞ゆる也、ただ水を含みて味を知れ心如し。

 

とあり。左に古代の発句を掲げて、其の例を示さん。

   散る花を追ひかけて行く嵐かな     定  家

   小田原やおもひのまゝに苅あふせ    羽柴秀吉

   亂れ藻は角力草にそ似たりけり     義  家

   頼朝かけふの軍ぞ名取川        源 頼朝

   夏山やおもひしけみのこかるゝは    重  忠

   月の秋花の春たつあしたかな      宗  祇

   藤咲は折られぬ波の花もなし      行  助

   露もひね槇の葉涼し朝ぐもり      心  敬

   涼しさやけふから衣たつた姫      宵  柏

   遠山は雪ふる雲の絶え間かな      専  順

   谷さむみ雪をならふる甍かな      宗  碩

 

即ち連歌の詩句は短歌の上十七文字が、切字の為にまとまりて、一首の形をなしたるに過ぎず、想に於ては、短歌と別に異りたる所あるにあらず、斯くて俳諧の発句が、連歌の発句を擬して、多少の變化を加へ記るは云ふまでもなく、其の「名取川」、「衣たった姫」の句の如き掛け言葉を用ふる事も、連歌には決して珍らしからず、これやがて俳諧に於る掛言葉の基を為し、後来もっとも盛んに掛言葉を用ひたる真価の流儀は、全く宗鑑に胚胎し、宗錨の掛言葉は、遠く連歌に負ふ所ありしなり。

発句を、俳句と称する事に就ては、種々の議論あり、角田竹冷の如きは、俳句の文字既に明和の頃より見えたり、或は元禄の頃既に此の名ありしやを知らずとて、明和辛卯秋の発刊に係れる、「撈海一得」にも出で居れば、其の用法は百四十餘年の久しきに亙り居れりと称すれども、日本派の人々は、之れを以て明治の俳壇に、新証勃興以来の事とし、正岡子規が、既に一句狗立して一篇の文學たるものを、発句と云ふは當らず、須らく俳句と称すべし」との説に基き、最初は日本派の人々のみ斯く称えたるが、此の称、次第に廣まりて、今は舊式の月並宗匠を除く外は、大抵「俳句」の精を用ひ居れり、然れども、「最早立派に文學を為せるものに、俳い字を冠するもまた穏かならず、何とか別の称号を附すべし」との、内藤鳴雪等の議論もありたる程なりと唱へ居れり、余未だ此の名称に就て、古書を考証するの暇を有せず、殊に俳句の文字も、鳴雪の議論の如く、人に誇るべき程の事にも非ざれば、暫らく両説を存して、後の識者を待つ事とせん。

 

第七章 連歌の衰頽と俳諧の獨立

 

以上述べたる所にて、連歌変遷を明らかにし、また俳諧が連歌より起りたる事の概ましをも知心を得べし、斯く一時は全盛を極めたる連歌が、何故に次第に衰運に向ひ、竟には勢力を失して文壇の一の遺物視るせらるゝに至りしかに就いては、素より種々の原因あるべしと雖も、連歌が主として権門高貴の間に弄

ばれて、一般国民との交渉甚だ薄く、多数の平民を對手にせずして、狭隘なる臺閣のものたるに止まりしことは、慥かに其の主要なる原因にたらずんばあらざるべし。殊に窮窟なる其の法式は、徒らに之が発達を妨ぐるに過ぎずして、想も詞も、千篇一律に流れて、乾燥無味のものたるに至りしに因らずんばあらす、

之に反して想に豊かに、詞に富み、更に窮窟なる格式上の覇絆なく、曩に所謂純正連歌の仲間より、狂連歌として、又「栗のもと衆」として擯斥せられたる滑稽連歌が、一躍して繊弱萎徴なる純正連歌の覇絆を脱出し、新たに俳諧の旗幟を翻し、従来の臺閣文藝に対して、平民文學濫觴の一異彩を放ちたるは毫も怪

むに足らず、而して之が第一先鋒たりしは、山崎宗鑑にして、次ぐに荒木田守武を以てせり。『輪池叢書』に曰く、

  此頃宗謐守武の二人は、志を同うして其翫弄のものを我が本尊として其道を開きたれば、

俳諧の事は何時となく此二人に帰する様になりて、

秀逸と思ふ句は、連歌師其他の好士連も、便にて彼の二人か許に送りたる様に成行きたる者と思はる。  

〔翰池叢書〕

 

宗鑑と守武とは、實に俳諧史上の最初の二星たり。吾人は今更ら俳諧が連歌に起りたる其の源を喋々するを娶せす、後来俳句として重きを置く所の平民文學の端緒を開きたる俳諧は、全く此二人者に依て世に出づるの基をなしたることを記憶すれば足れり。

 

第八章 山崎宗鑑

 

山崎宗鑑はもと近江の人にて、佐々木氏の族、姓を支那と云ふ。前軍足利義尚に仕へ、六角高頼を征して、屡々功を立て、事未だ平定せざる中に、俄かに義尚の陣中に薨するに遇ひ悲嘆禁せず、痛く人世の無常を感じ、延徳元年、髪を切り、名を宗鑑と改めて摂津尼ケ崎に移り、同時に一休和尚に参禅す。かれは戦乱の血腥(なまぐさ)く、且つ世事の煩累を厭ひ、此の時よりして竟に風流韻事に身を委ねんと決したり。然るに當時、連歌の趨勢頗る盛んにして、請先達の名聲既に藉甚たるあり、連歌は到底彼れの名を成すべき余地を與ふるものにあらざるを察して忽ち一転して、滑稽の別天地を発見し、諧譃を以て自己の生命となし、俗談平話の俳諧に風雅の吟懐を漏すこと創めたり。

然も彼は単に俳諧に於て、其の諧謔の気を漏らすのみならず、彼自身を挙げて諧謔の人となれり、彼は油筒売って糊口の資となし、旦暮十文を以て旅宿の費用に充て、室にあるものは只一個の薬罐のみなりしと云ふ。彼の悟道に入りしは一休和尚の啓発に因るもの、甚だ多かりしと云へば、その滑稽の素養も亦

た、一休より受けたるもの少なからざるべし。後、庵を讃州豊田郡坂本村なる興昌寺の傍に假居して、一夜庵といふ、天文二十二年、八十九歳にして癪を病んで斃れる。彼に『犬筑波集』の著あり、是れ俳書の嚆矢(こうし)なり、今、同集より、其の連句の二三を左に摘録せん。

 

      ○  宗 鑑

     碁盤のうへに春は来にけり

   うくひすの巣ごもりといふ作り物』

     あなうれしやな餅いはふ頃

   梅が香のまつ鼻へ入春たちて』

     霞のころも裾はぬれけり

 

〇  正月六日.

 

なへて世にたゝくは翌日の水雞〔喰菜〕哉   宗  鑑

つまれてはまたたたかるゝ若菜かな         

苦々しいつまで嵐吹のとう             

花よりも團子と誰かいはつゝじ

笠松はさつきのためのごようかな

摺小木に知らすなあたりそ雪佛

出雲への留守もれ宿の福の神

摺小木に知らすな蓼の花ざかり

竹の子のふときも親のめぐみかな

寒くとも火になあたりそ雪佛

出雲への留主もれ宿の福の神

風寒し破れ障子の神無月

すゝれ猶鼻をかまんも神無月

かくふるにいづくへとてか雪佛

 

之れを古の連歌の発句に比するに、用語既に異なれり、平言俗語を巧みに用ゐで発句を作りしは宗鑑の手柄なり。連歌の発句は優美なる短歌の語を以て、十七文字を綴りしが、宗鑑に至ては、その以外に、俗語を用ゐることを始めたるなり。想うに於ても単に滑稽と云ふに止らず、風刺の意を含むあり、また稍や静寂なるもあり、殊に命令的若しくは理想的に傾けるの感あるは、彼れの特色ともいふべし、但し掛言葉の使用方は、全く連歌より来りしものにて、宗鑑が始めし一體には心らざるなり。宗鑑また狂歌をよくし、『古今夷曲集』、『後撰夷曲集』等に其の吟を載せ、また自選のものに、『竹馬狂吟集』あり、宗鑑、戒心時、島田宗長と共に、逍遥院實隆のもとに至るとて、常に愛する杜若を折りて、持ち行きたるに、

實隆、

  手に持てる姿を見れば餓鬼つばた

と興じ、

のまんとすれば夏の澤水          宗  長

  蛇に追れて可地かへるらん         宗  鑑

と附け、また或る人の、

  尻毛を傳ふ雫とく/\

として、附句を望みたるに、

  水鳥の足羽の氷けき解けて         宗  鑑

また

  切りたくもあり切たくもなし

と云へる、三句を所望せられて、

  盗をとらへて見れば我子なり        宗  鑑

 

と附けたる等、何れも彼れの才藻を窺ふべきのみならず、其の洒脱の概を察するに足るべし、而も彼れの世を去るや、有名なる左の辞世の句を遺せり。

  宗鑑は何処へと人の問ならば        宗  鑑

   ちと川ありてあの世へといへ